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【50代の大学生日記 第46話】1964年プロ野球「御堂筋シリーズ」を語る

 ちまたではプロ野球の日本シリーズ、阪神vsオリックスの「なんば線シリーズ」が盛り上がってますね。59年ぶりの「関西ダービー」。59年前の阪神vs南海は、大阪の中心部を南北に貫く御堂筋の北の端にある阪神百貨店&阪神梅田駅と、南の端にある南海難波駅にちなんで「御堂筋シリーズ」と呼ばれたそうです。このことは関西人が歴史を語るときによく出る話題なのですが、59年前の1964年(昭和39年)といえば、前回の東京オリンピックがあった年で、1965年1月生まれの私がまだ母のお腹にいたときなので、どんなシリーズだったのか、結局どっちが勝ったのなど詳細は知りません。阪神ファンの間では、というか私ぐらいの世代の関西人の間では、「1964年に阪神がリーグ優勝した」事実は常識のように語られますが、日本シリーズの結果がどうだったのかほとんど語られることはありません。どんな日本シリーズだったのでしょう? 振り返ってみましょう。

 当時の阪神の監督は藤本定義。日本でプロ野球が創設されたときに、巨人軍の初代監督として迎えられた人であり、プロ野球選手の経験はありませんが、5球団で通算29年も監督を務め、1768勝を挙げた彼は、まさに監督界のレジェンドとも呼べるお方です。また、「プロ野球史上唯一の巨人と阪神の監督を両方務めた人物」や、「岡田監督以前で最後に阪神で複数回優勝した監督」として知られています。あの名将野村克也監督でさえ通算24年で1565勝、原辰徳監督は通算17年で1291勝であることを考えると、すごいお方ですね。
 一方の南海の監督は鶴岡一人。30歳で南海の選手兼任監督に就任すると、その年にいきなり優勝(史上最年少優勝監督記録は今も破られていません)、その後南海ホークス一筋に23年間も監督を続け、リーグ優勝10回、通算1773勝という偉大な記録を打ち立てられました。藤本監督との差はわずか5勝ですが、鶴岡監督の通算勝ち星は未だ破られていない前人未踏の記録です。
 当時の阪神のピッチャーは村山、バッキー。村山はシーズン22勝、バッキーはシーズン29勝をあげ、この二人で80勝のうち51勝を稼いでいます。野手では吉田義男が活躍していました。南海はシーズン26勝のスタンカとホームラン41本の4番打者野村克也のバッテリーがフル回転していました。村山、吉田はのちに阪神の監督に、野村はのちに南海ばかりか阪神の監督としても活躍しています。

 このようなレジェンド監督同士の戦いで始まった「御堂筋シリーズ」でしたが、いろいろな面で異例ずくしのシリーズだったようです。
 まず忘れてはならないのが、この年は「東京オリンピック」という戦後日本の最大級のイベントを控えていたということです。10月10日に予定されていたオリンピックの開会式までに全日程を終えてしなわないと、国民の関心はすべてオリンピックに持っていかれ、この年にプロ野球が開催されていたことさえ忘れら去られてしまいそうです。ということで、この年は日程を前倒しして開幕し、日本シリーズは9月29日開幕、第7戦までもつれても10月7日には終わる予定でした。ところが、パ・リーグは9月20日に南海が優勝を決め、9月27日までに消化試合もすべて終えたのに対し、セ・リーグはもつれにもつれ・・・・・・
大洋ホエールズが9月26日のシリーズ最終試合、対阪神ダブルヘッダー(いまや死語? 1日に2試合やること。私が子供の頃はドーム球場なんてなかったので雨天中止が多かったし、パ・リーグは前期後期があったし、プロでもけっこうダブルヘッダーがありましたよ)で1勝すれば優勝というところまで行きながら連敗、残り3試合で2勝すれば逆転優勝という条件をクリアした阪神が9月30日にようやくリーグ優勝を決めます。
 この時点で日本シリーズは開幕予定からすでに2日遅れ、10月10日までに終えるには翌10月1日にはシリーズを開幕しなければなりません。結局阪神はリーグ優勝決定の翌日に開幕という前代未聞の日本シリーズに突入します。
 10月1日の第1戦は南海のエース、スタンカが、お疲れ気味の阪神打線を完封して2-0で勝利。2日の第2戦は阪神のバッキーが5-2で完投勝利。移動日をはさんで4日に開催された第3戦はスタンカを攻略した阪神が、継投でリードを守り、最後はバッキーを投入して5-4で逃げ切り。5日の第4戦は3-3で迎えた9回ウラ、南海のハドリが阪神村山からサヨナラホームランを放ち、4-3で勝利。ここまで2勝2敗とがっぷり四つの戦いとなります。迎えた6日の第5戦、阪神は大方の予想を裏切り、シーズン5勝8敗の「ダメ外人」バーンサイドが先発。彼の粘投からバッキーへの継投で6-3と勝利、阪神が日本一に王手をかけます。
 10月7日の移動日をはさみ8日に予定されていた第6戦は雨天で中止順延。この時点で、第7戦までもつれてしまうとオリンピック開会式のウラで試合をやらなければならないことが確定します。でも第6戦で阪神が勝てば、そこで日本一が確定し、オリンピックのウラ開催は回避できます。もう負けられないと意気込んで、本拠地甲子園に帰ってきた阪神でしたが、第6戦は中4日で休養十分のスタンカが阪神打線に2塁を踏ませない快投で、わずか99球で2安打完封。ついに追いついた南海、3勝3敗で第7戦に突入します。
 10月10日、全国民が東京オリンピック開会式に釘付けになり、その余韻に浸っている夜7時、観客公称値15,000人(当時は観客数をかなり多めに発表する傾向があり、実際はガラガラであったとみられる)の甲子園で第7戦が始まります。阪神の先発はエース村山、南海は第6戦につづきスタンカの先発です。南海は村山を攻め、小刻みに3点を奪いますが、阪神打線は今日もスタンカを攻略できず。リリーフのバッキーと石川が南海打線に追加点を与えずに粘りますが、結局阪神はスタンカの前に5安打完封。3-0で南海が逆転の日本一に輝きます。終わってみれば、スタンカひとりに3試合も完封を許してしまった阪神でした。こりゃシリーズの経過が後世まで語り継がれないわけだ。
 この年に日本一を逃したのがショックだったのか、阪神タイガースはこのあと長いトンネルに入り、吉田義男監督のもと、真弓・掛布・バース・岡田の活躍で日本一に輝く1985年までリーグ優勝から遠ざかってしまいます。つまり、1964年の日本シリーズの3カ月後に生まれた私が20歳になるまで、阪神の暗黒時代が続くわけです。
 さあ、今年の日本シリーズ「なんば線シリーズ」はどんなドラマを見せてくれるでしょうか。明日からの展開が楽しみですね。ではまた。
                            (敬称略)

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