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【50代の大学生日記 第57話】堺で火縄銃を作っていた話

 大阪のに住む娘に野暮用があり、ちょこっと出掛けてきました。堺市は関空や和歌山へ行くときに何度も通っていますが、これまで駅で降りたことはほとんどありません。
 せっかくなので、娘宅の近くに観光できるところはないかと調べてみたら…

3月3日オープンしたばかり

 ありました! 鉄炮鍛冶屋敷! 今月オープンしたばかり! 日本で唯一現存する鉄炮鍛冶屋さん跡のようです。
 先月、韮山反射炉で、電気がない時代に大砲の砲身をどのように作ったかを知り、驚嘆したばかりですが、鉄炮は大砲以上に精度よく作らなくては命中率が悪く、商売になりません。どうやって作っているのでしょう? 父親が言うには先祖が鍛冶屋だったらしい私の血が騒ぎます。これは行かねば! ということで見学してきました。
 日本における火縄銃の生産は、1543年 ポルトガル人から火縄銃を手に入れた種子島の殿様が、刀鍛冶の八板金兵衛に「これを真似して作ってみれ」と命じたのが最初とされています。一説には、金兵衛は製造法を学ぶために娘をポルトガル人に嫁がせたと言われています。今なら非難の嵐ですね。ネジ加工など、当時の日本では未知の技術も一部使われていましたが、日本古来の刀鍛冶の技術をもってすればけっこう簡単に作れたため、製法が全国に広がり、中でも近江の国友(現在の滋賀県長浜市)、紀州の根来(現在の和歌山県岩出市)、そして大阪のが鉄炮の代表的な産地となったそうです。特に国友や堺は、徳川幕府に長らく協力的であったことから、幕府に毎年一定数の鉄炮を納入する御用業者として発展したそうです。
 時代の流れで堺の鉄炮鍛冶はすたれてしまいましたが、その技術は今も堺の「打刃物」「自転車工業」に引き継がれています。

阪堺電車


高須神社駅

 最寄駅は、阪堺電車上町線高須神社駅。写真のような広告ラッピングの路面電車に乗って行きます。駅名の読み方は写真のように「たかすじんしゃ」であって、「じんじゃ」ではありません。地元の人がこの神社を「じんしゃ」と呼んでいるわけでもなく、大阪府神社庁のHPにも「たかすじんじゃ」と仮名が振ってあります。なぜ阪堺電車の駅だけが「じんしゃ」なのか、理由は定かではないようです。
 かつて商人による自治都市として栄えた堺の中心部は戦災でほとんど丸焼けになってしまったのですが、この駅の周辺は奇跡的に焼け残ったそうで、狭い道の両側に古民家が立ち並ぶ、奈良のような町並みが広がっています。

老舗の線香屋さん

 鉄炮鍛冶屋敷は火縄銃の製造販売を手広く扱う「井上関右衛門」の自宅兼工場兼店舗だったところです。当主は代々「関右衛門」を名乗っていたので、「関右衛門」が店のブランド名になっていました。「関右衛門」は顧客(諸大名)のニーズに応じて、鉄炮をカスタマイズするのを得意としており、顧客別に整理された図面が残っています。また、精度がよく、命中率が高かったらしく、鉄炮業界では後発だったものの、高級ブランドだったそうです。
 現存する屋敷は間口17間半(約35m)、面積950㎡と広いですが、もともとは間口6間からスタートし、商売の成長とともにどんどん拡大していったようです。通り沿いは店、奥が鍛冶場などの工房になっており、木製の台座は木工職人さんが、装飾やパーツは錺(かざり)職人さんが作るなど分業制でしたが、鉄炮の命とも言える砲身は自社生産だったようです。

鉄炮鍛冶屋敷

 ここからはやや専門的な話になりますが、お許しください。
 韮山反射炉で作っていた大砲の砲身は反射炉で溶かした鉄を型に流しこんで固めた無垢の鋳造素材を、水車の動力を使って回転させ、旋削・ボーリング加工する工法でしたが、鉄炮の砲身は型鍛造手作業による仕上げ加工で生産していました。いずれにしても、今から思えば気を失ってしまいそうなぐらいに手間隙をかけて作っていたわけです。
  鉄炮の砲身は、軟鉄の板材を加熱し、丸棒の芯金を当てて、それを中心に鍛造することで、筒状に変形させ、継ぎ目を鍛接しパイプを作るところから始まります。次に、その外周に短冊状の軟鉄の薄板を鍛造により螺旋状に巻き付けて鍛接する「葛巻(かずらまき)」と呼ばれる工法で強度を持たせます。その後、砲身を固定して、内径を「もみしの」と呼ばれる、たけひごの先に砥石を付けた猫じゃらしみたいな工具を使い、和紙を挟んで径を調整しながら手作業で研削し鏡面になるまで仕上げたようです。(レプリカが展示されてましたが、どういう機構だったのかよくわかりませんでした) 現代でもライフル銃の砲身のような、小径で深い穴の加工で真円度真直度の精度を出すのは難しく、ガンドリルと呼ばれる高価な特殊工具(鉄砲専用みたいな名前ですが自動車部品の加工にも広く使われています)を使っているぐらいなので、どのように加工したのか、とても興味があるのですが、ネット検索しても「もみしの」に関する情報はほとんどなく、謎が深いです。
 次の工程で、弾が発射されるほうと反対の側にフタをします。この穴は弾を撃ったあとに火薬の燃えカスを掃除をするのに開ける必要がある一方で、爆発力に負けてフタが飛ばないようにしなければならないわけで、ポルトガル製の火縄銃にはネジ式のフタが使われていました。当時、欧州には「ネジ切りタップ」の原形のような工具があったと考えられていますが、日本には伝わっていなかった(日本人に教えたらろくなことに使わないからと、ポルトガル人がわざと教えなかったのか?)ため、初期はヤスリ雄ネジを作り、砲身の穴に雄ネジを挿入した状態で熱間鍛造 して、雌ネジを造形したと考えられているようです。めっちゃ手間がかかる。江戸時代になってようやく欧州からタップ工法が伝わり、以降はタップによるネジ切りが行われていたようです。
 次に、外周にヤスリをかけて、砲身を八角形に仕上げ、台座に取り付けたり、火薬を投入する皿などの部品や装飾などを取り付ければ完成です。

パンフレット

 鉄炮鍛冶屋敷は、阪堺電車上町線高須神社駅のほか、南海電車本線七道駅からも300mほど、徒歩でもすぐです。鉄炮の街だけに、近くには「イオンモール堺鉄砲町」とか「阪神高速大和川線鉄砲出口」なんかもありますよ。入館料は500円ですが、近辺の「山口家住宅」(国内で現存する数少ない江戸時代初期の町屋、重要文化財)や、「清学院」(修験道の道場、明治初期に境内に設けられていた寺子屋で学んだ河口慧海は、仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った人として知られる。現在、ここでは寺子屋関連や河口慧海関連の資料が展示されている)にも入れるお得な共通券も発売されています。
 「おもしろそう!」と思われたあなた、是非行ってみましょう。ではまた。

高須神社駅近辺の地図

※現代では「てっぽう」を「鉄砲」と表記しますが、火縄銃は本文記載のように火を起こして鍛造して製造していたため、古文書では「鉄炮」と表記されています。それにならって、「鉄炮鍛冶屋敷」は「炮」の字を使っており、ここでもそれにならった表記としています。

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