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嵯峨野ぐらし17 マネキン人形は京都出身

 名古屋では待ち合わせポイントとしてばかりではなく、ファッションリーダー広告塔として抜群の知名度を誇るナナちゃん。全国的にはあまり知られていないかもしれませんが、名鉄百貨店の前に立つ巨大マネキン人形です。生まれも育ちも関西の私も、単身赴任で愛知県に住むまでナナちゃんの存在を知りませんでしたが・・・

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こんな広告になったり・・・

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こんな身体をはった芸をみせたりと大活躍。大変身をするたびに名古屋ローカルのテレビで紹介されるので、私もすっかりファンになりました。

 そんなナナちゃんが先日、下写真のような書置きと留守番の妹分ミナちゃんを残してどこかへ行ってしまいました。

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 実はナナちゃんは全身のエステ?(メンテナンス)のため下写真のように分解されて不在にしており、写真のとおり12月1日には帰ってくるようです。報道によると行先は紅葉シーズン真っ盛りの京都!

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 そういえば、私が前に勤めていた会社の近所に、昔マネキン屋さんのけっこう大きな会社や倉庫があり(その後引っ越しされたはず)通勤のバスでいっしょになるマネキン屋さんのおねえさんたちがオシャレでまぶしかったなあと若い頃の記憶がよみがえり、今も京都にマネキン屋さんがあるの? と調べてみて驚きました!

 日本で最初にマネキン人形を作ったのは島津製作所!!
島津製作所といえば、京都の仏具職人 島津源蔵が明治維新&東京遷都による京都の衰退、廃仏毀釈による仏具売り上げ激減に「これはヤバい!」と焦り、「これからは科学で生きるのじゃ!」と読むことができないフランス語で書かれた専門書の挿絵を見て科学を学び、仏具を作っていた技術を活かして理科機器を作り始めたのが始まりの会社で、社員の田中耕一さんノーベル賞を受賞したことでも知られています。特に源蔵が発明した「国産第一号の自動車用バッテリー」島津源蔵のイニシャルをとって「GSバッテリー」と名付けられ、現在も「ジーエス・ユアサバッテリー」という会社名にその名を残すほどの偉業でした。
昭和初期、洋服の需要が急増し、日本にも海外からマネキン人形が入ってくるようになり、なんとか国産でマネキンが作れないかという動きが出てきます。そこで白羽の矢が立ったのが、当時「人体模型」を作っていた島津製作所でした。源蔵の孫の島津良蔵東京美術学校(今の東京藝大)に学んだ芸術家でもあり、人体模型で培った精巧さと良蔵が取り入れた芸術性の高さから「島津のマネキン」は大ヒット。1937年には国内シェア85%を占める一大マネキンメーカーにまで成長したのでした。

 しかし、第二次世界大戦でマネキンは贅沢品として製造中止になるとともに、島津製作所も軍需製品の生産に注力することとなり、マネキン部門はあえなく解散することになってしまいます。
 島津のマネキン部門は戦後に再開されることはなく、戦前に島津でマネキンの生産に関わっていた人たちがつぎつぎと新たにマネキン製造会社を立ち上げます。このようにして、京都には島津製作所にルーツを持つマネキン屋さんがいくつもあり、現在もマネキン屋さんの多くが京都にあるのです。

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 たぶん明日ぐらいには、京都のどこかからナナちゃんがトラックに乗って名古屋へ帰ると思われます。
名古屋の皆さん! エステに行ってお肌がツルツルになったナナちゃんが帰って来るのを迎えてあげてください。ではまた。

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