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嵯峨野ぐらし27 小野小町は謎だらけ

 小野小町といえば、クレオパトラ楊貴妃と並び世界三大美女のひとりに数えられることで知られていますが、どれぐらい美人だったのかは知る由もなく、情熱的な恋愛感情を表現した和歌の作風からきっと美人だったに違いないと想像されている感もあります。残されている肖像画も後世に描かれたものばかりだし、そもそもいつどこで生まれ何歳まで生きたのかさえわかっていません。今回はそんな小野小町の話題です。

鈴木春信作 小野小町 江戸時代中期に描かれたもの

 小野小町は西暦825年頃に生まれたとされ、小野妹子小野道風を輩出した名門小野家に伝わる家系図によると、平安時代に官僚を務め、百人一首にも名を残す歌人 小野篁(おののたかむら)の孫だとされています。小野篁は京都の「お盆」を語るときに避けては通れない人物で、嵯峨野ぐらしシリーズの「松原通を歩く(仮)」でじっくり語ろうと思ってましたが、松原通を取材中(散歩中)に雨に降られて取材が途中までになっているので、ぜひお盆までに続きを歩いて、まとめたいと思ってます。乞うご期待。ところで、小野篁は西暦802年生まれだという説が有力であり、だとすれば、篁が23歳のときに孫の小町が生まれたことになり??? 小町は篁の娘ではないのか説や、小町の生まれた年が間違ってるんとちゃうか説など、いきなり謎に包まれています。
 小町が生まれた場所も、今の秋田県湯沢市小野という説が有力ですが、確たる証拠は残っておらず、当時小野一族の支配下にあったとされる現在の京都市山科区小野説や、福島県小野町説、滋賀県彦根市小野町説、福井県越前市説、熊本市北区小野説、神奈川県厚木市小野説など、全国に小町伝説が残っています。小町が亡くなったとされる地は京都市山科区小野が有力だとされていますが、小町の墓は全国に点在しているようです。いやそもそも、当時は風葬だったので墓があることのほうがおかしいやろ!という意見もあり、後世に描かれたものとはいえ京都には小町の「九相図(くそうず)」(風葬の時代に、打ち捨てられた死体が腐敗し白骨になるまでの過程を九段階の絵で細部まで克明に描写した仏教絵画、どんなに美しい人でも死んだら骨になるという諸行無常を表現してする教え)なんてものが伝わっているお寺もあるぐらいだからますます謎が深まるばかりです。
 そんな京都市山科区小野ですが、現在は地下鉄東西線「小野」という駅があります。駅の近くには小野家ゆかりの随心院というお寺があり、小町にゆかりのある遺跡が残っています。とはいえ、このお寺が創建されたのは小町の死後で、小町の遺跡と言われてもどないやねん?と言いたくなる面もあり、それゆえ小町の生涯が謎に包まれています。余談ですが、隋心院の開祖 仁海は平安京の「雨乞の殿堂」神泉苑で雨乞の祈祷を9回行い、9回とも雨を降らせるという超人ぶりを見せつけ、そのご褒美に一条天皇から小野家の隣の土地を与えられ隋心院を建立したとされています。恐るべし。

隋心院にある小野小町の歌碑


 話が脱線してばっかりですが、小野小町に関する伝承でもっとも有名な「百夜通い(ももよがよい)」の舞台は間違いなく、山科区の小野です。とはいえ、この話自体も後世に世阿弥が能で演じるために創作した話であり、実話ではないという説があります。「百夜通い」とは、小町に熱心に求愛するストーカーの深草少将(ふかくさのしょうしょう)をうっとうしく思った小町が、自分のことを諦めさせようと、深草少将に「私のもとへ百夜連続で通ったら、あなたの意のままになりましょう」と告げたところ、それを真に受けた深草くんがそれから毎夜小町の家へ通うようになり、ついに百夜達成!という夜に大雪に遭い凍死したという悲話です。男目線で見ると悲話ですが、小町は「やった~」とガッツポーズをしていたかもしれません。深草くんは毎夜どんなところを通ったんや?と思っていたら、実はこのルートは現在の名神高速(京都東IC~京都南IC)になっていました。京都の市街地の東側には「東山三十六峰」と呼ばれる険しい山があり、山の向こう側にある山科へ行くには山を越さなければならず、現在も旧東海道(三条通)は山越えの道だし、国道1号線(五条通)はトンネルになっています。しかし深草くんの本拠地である伏見区深草山科区小野の間あたりは少し山が低くなっており、大岩街道と呼ばれる京都の市街地を迂回してに大阪方面へ向かうことができる抜け道のような街道が走っており、深草くんはこの道を毎夜通ったのでしょう。もし二人の家の間に険しい山があったら、深草くんは百夜ももたず、五日目ぐらいで遭難していたことでしょう。明治時代に鉄道を通す際、当時の技術では東山にトンネルを掘ることができず、東海道本線はこの大岩街道のルートを通って開業しています。山科駅は小野にあり、深草から伏見稲荷を通る現在のJR奈良線を経由してようやく京都駅に至っています。東山トンネルが開通して、大岩街道の東海道本線は廃線になりましたが、その跡地が現在の名神高速に転用されています。すでに鉄道用地として開発されており、工事に着手しやすかったこともあり、この区間は日本で最初に高速道路の工事が起工され、小野にはその記念碑が建っています。

名神起工の地の石碑
名神起工地&旧山科駅跡

 それはさておき、解せないのは、深草少将は九十九夜も続けて小町に会いに出かけて、小町の家で何をしていたのでしょうか? 玄関に置いてあるスタンプを押して帰ったわけでもないと思うのですが、通い婚全盛の時代に何もしないで帰っていたのでしょうか? 九十九夜もやることをやってたら小町にとって深草くんはただのストーカーではなく、少しは情がわいたと思うし、今夜も来たのねと一緒にお茶でも飲んでたら、少しは深草くんの真剣さがわかったと思うのですが・・・ やっぱり謎だらけの小野小町
 そんな小町には「死ぬまで処女だった伝説」があります。私はサラリーマン時代に京都の工場でエンジンの部品の機械加工に携わっていたのですが、ドリルの先っぽが折れたり、穴が曲がったりして、本来貫通しているべき穴が貫通していない不具合のことを隠語で「小野小町」と呼んでいました。(たぶん今は死語) 大工さんの世界でも同じような隠語を使うようです。これって京都だけ?
 小野小町に関するウワサをこれだけ集めただけでも、謎が深まるばかりですね。ほんまに美人やったんやろか? 深草少将のご冥福を祈るばかりです。(えっ?そこ?) 最後に小町の代表作を鑑賞しましょう。

花の色は 移りにけりないたづらに 我が身世にふる ながめせし間に
(長雨が降っていた間に桜ははかなく散ってしまいました 私の容姿も衰えてしまったものです もの思いにふけっている間に)

ではまた。


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