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意地をはって、よかった。

卒業間際の4年秋学期に留学行く人なんています?いません。
しかも大学生活2回目の。


消えてくれなかった心残り

2020年の3月末。抗うには重すぎた状況への悔しさと、それ以上に何も為せなかった自分への情けなさを握りしめて中断したドイツ留学。

この惨めさを見ない振りして、帰ってきてよかったのだと納得したくて、バイトにゼミに就活に、47都道府県写真撮って回るなんて決め打ちの遊びに躍起になって、気がついたら3年生の冬でした。
ままならない思いは何度もしたけれど、充実した大学生活を送ったと胸を張って言おう。それでも、あの頃ドイツでよく聴いていた乃木坂46のTender Daysは未だにイントロで飛ばしてしまう。
昇華も消化もされない未練が、2年経っても燻っていた。

揃ってしまった条件と、

運良く、就活が早めに終わった。
ちゃんと、バイトを辞めようと覚悟を決めた。

数少ない面倒を見ていた後輩が、想定より3か月くらい早く昇進した、ここまでは責任を持つと勝手に決めていたプロジェクトの終了が見えてきた。
イベントの終了とともに辞める腹が決まって、大学生活の大半を捧げたバイトがなくなる後のことを考えた時。
開いたのは、海外旅行のサイトでも、友達とのトーク画面でもなくて、一応星をつけておいた、留学の募集要項が発表されたことを通知するメールでした。

「就活終わってバイトも辞めたらもう一回留学行こうかな」なんて、「宝くじ当たったら船買う」くらいの適当さに見せかけた口上だったのに。

揃ってしまった、条件だけが。


ゼミのこととか、内定式とか、お金とか、そもそも行ってどうすんだとか、考えた方がいいはずのことはたくさんあったけど、考えたら止まっちゃう気がして、全力で目を逸らして。
4年で予定通り卒業できるかだけ事務所に確認、意地と勢いだけで再挑戦の応募書類を提出して、ちゃっかり緊張しながら面接。
そして翌日、『派遣推薦することになりました』と受信。

ゼミの先生には、事後報告でした。

受からなくてもいいとさえ思っていた。どうしても「出さない」を選べなかっただけだったから。
諦める理由を貰えたら、そのまま享受したかもしれない。

ただ、行く理由を探すより前に、行かない言い訳ができなかった。


知らない弱さに出会う

2度目の留学、何か得た実感が欲しいという焦りはずっとあった。TOEICでハイスコア出せる英語力、ザ・留学生みたいなSNS、一生仲良くしたい友達なんかできたら最高だ。いっそ人生観が変わってくれちゃってもいいなんて、「留学に行って人生変わるなんてないって自分で確かめる」などと捻くれた動機を携えた1度目の留学を考えたら、滑稽なほど必死だった。


「2度目の留学」に自分が1番プレッシャーを感じていたのは、間違いなかった。


この留学で1番良かったのは「自分にとって何が大切か」を考えたことだと思います。そして、それは同時に、「だめな自分」も「自分」として受け入れた経験でした。


4年の後期になってまで。全く合理的じゃないリベンジ留学。

病んでた比率で言うと、敵(外国人当局でのビザ申請に泣いていた)が明確だったドイツ留学より、よっぽど高かったと思います。

異国の地で日々を過ごすことに一定満足できていた前回と違って、反省点を引っ提げての今回は言い訳が許されない。なんの成果も得られなかったと、それこそが成果だと言うしかなかったあの情けなさを繰り返したくない。
そんな焦りがずっとあって、でも解消の仕方もわからなくて、できていない自覚だけがフラストレーションとして溜まっていく毎日。

「今日は上手くいかなかったな」「何をやってもだめな日だ」と、思うようにいかない状況をイレギュラー/脱するべき悪い時点として処理していたことを、はじめて意識しました。

”だめだったから、切り替える”

そう当然のように考えていた私は、「だめじゃない自分」が本当の自分だ、と思いたかっただけなのかもしれない。


でも、本当に手も足も出ない日がいっぱいあって。

スペイン語が話せないどころか、英語が留学していいレベルじゃなく出来ない上に、人間関係を急いで構築するのが得意でない。最大の苦手を常に突きつけられる。ほとんど毎日。

ありえないくらい時間がかかる予習復習。
迷惑をかけている自覚のあるプレゼン準備。
誰とも約束できず一人部屋に帰り、まだ明るいキッチンで、虚しさを鶏もも肉にぶつけて、800g分をまとめて調理する放課後。加速する自己嫌悪。

その日1日をやり過ごしたって、前に進むことも改善することもなくて。

だめな日だって続けばそれが日常で、明日たまたま上手くいったって今日が無かったことになりはしないから。

そんな当たり前のことを、寂しさと虚しさを誤魔化せない地続きの毎日をちゃんと生きて、22歳にしてようやく染みる日々でした。



だからこそ、「頑張る」しかなかった。

目に見える、実感できる成果が出ないんだから、「生きてて偉い」か「今日も頑張っててえらい!」以外に自分を肯定できない。

誰に対してかも分からない罪悪感のようなものに苛まれながら眠りにつくのは、結構辛い日々でした。

私にとって努力とは、結果を出すための手段でしかなくて。成果が出ればそれで良し、でも努力なくして成果は出ない、だから努力していて。
そんな構造と理論で生きてきたから、「頑張ることを頑張る」ことに、なんの意味もなかったはずなのに。

それでも、頑張るしかなかった。

結果が出ないもんは出ない。結構頑張っても、他より成果が出づらい分野もある。私にとって英語はその最たるもので。

「過程が大事」を甘えだなどと傲慢にいられたのは、運がよかっただけだと痛感する。うまく逃げて躱してきたことも多かっただろうと。
頑張れば頑張るほど、自分の無能さが際立つことに絶望して。
留学における「当たり前」のスキルであるが故に、他でカバーすることもできない。コミュ力も、自信がないのは同じでした。


でも、どれだけ億劫でも、怖くても、やるしかなかった。

だって、ここで逃げたら、私は私のことを嫌いになる。


はじめて、結果を出すための努力じゃなくて、自分が自分であるために頑張りました。「頑張る」を意識的に。
そして、その「頑張った」で、一日をきちんと終えられる実感が持てたのも大きくて。

自分を責めずに眠りにつける夜が、泣きたくなるくらい嬉しかった。




自分で下す、自分へのジャッジ

「いかに自分が自分の価値を結果や数字に見出していたのか痛感しました。」
そう書いたのは、前の留学を切り上げて帰国した後すぐのことでした。

あれから2年半、結局新たな評価軸なんて見つからず。
数値的・視覚的な結果が出ないのはやっぱりストレスだし、「私じゃなくてもいいなら私でもよくない?」で自分を奮い立たせる卑屈さも変わらない。

もちろん、結果が出ないと示せない。
「結果でしか判断されない」は、今も変わらず私の中にある一つの軸です。

ただ、「自分を自分でジャッジする」感覚も、分からないなりに何度か体験しました。

自分だけは、自分の過程を知ってるから。自分の過程で判断してもいい。自分の範囲で。
自分の基準、自分の評価。その基準も評価も、一分の妥協で揺らいでしまうくらい脆いものだから、まだ使いこなせはしないだろうけど。

でも、自分のために頑張ったら、それで笑える日もあるのだと、それを知れたことがきっと大きかった。


その説明責任は誰に対して発生するんですか

でも、この「私のために頑張る」を言語化できたのは、留学も終盤でした。

11月の上旬に、同時期にフランスへ留学していた後輩が、スペイン旅行のついでに私の住んでいる田舎町に顔を出してくれて。折角来たのだからスペインのバル文化でも、とかれこれ4,5軒連れ回していた時にいろいろ話をしました。

その子の就活のことだったり、旅行のやり方だったり、各留学先でのエピソードだったりを話していた時に
「だって何もできないまま帰りそうで怖い」
とこぼしてしまって。


後輩に何言ってるんだ自分。一瞬空いた間に、いや私2回目だからさ、英語も全然伸びないし、コミュ力も、、などと慌てて付け足していたら、


「その説明責任は誰に対して発生するんですか」


と心底不思議そうに聞かれました。

一瞬、詰まった。

確かに。
私は誰に言い訳したくて焦ってるんだろう。

(のらにわ)さん、自分の貯金で来てるんですよね?留年するわけでもないんだし、と後輩が続けている間、真剣に考え込んでしまう。

その「誰か」が全く思い浮かばなくて、
自分にだよなぁ、と返した。

私が私であるための

それから2週間くらい後、1限にある最終プレゼンの準備のために早起きして、珍しく朝ごはんをカフェで食べてから登校した朝。

7時を過ぎてもまだ真っ暗の、昨日の雨に濡れた街を歩きながら、後輩の問いかけが、本当にふと、腑に落ちました。


ああそうか、私は私に説明責任を果たすんだ。
自分に胸を張れる自分でいたいから。


後輩と話してからの間に、少しずつ、本当に少しずつ、よし、と思える瞬間があって。

内定先の課題としてTOEICを受けて、なんとか自分の中で満足できるスコアが出せた。
プレゼンのために読み込んだ論文の解釈がチームメンバーと一致した、議論ができた。
現地の友達とご飯に行って、ちゃんと2時間楽しく会話が持った。
度が合わなくなったコンタクトを、視力を測ってもらってから購入できた。

そうやって、小さな「できた」がようやく重なり出したタイミングでした。


結局、実感できる何かがあってはじめて過程を誇る余裕が持てたのだという事実は、相変わらずの弱さが見えるけど。

目の前に出た結果より、これまでの努力自体を誇っている。そんな自分がいることが新鮮でした。


できないことは山積みで、能力値が理想に追いつくわけじゃない。
未だに、レジュメはすらすら読めないし、友達と遊びに行くのも緊張する。これから始まるテスト期間も不安しかない。

それでも、たとえ成果が出なくても、私は私を嫌いにならない気がした。そこに向かう努力をしている限り。


我ながら難儀だと呆れもあるけど、ようやくシンプルになった。

結果がどうあろうが、頑張ることでしか深く呼吸をする方法はないんだ。



私が報いたかったのは

ずっと焦っていた。多分必要以上に。
そして、凹んで泣いて走って転んでまた転んで掴む答えは、やっぱり留学も海外も関係なかった。

「頑張るしかないんだよ」

2回も留学して、大学4年の半分を使って、たくさんのものを後回しにして。一般論ですら言われないような当たり前のことを噛み締めている。

それでも、22歳のいま、ここにきたから、見えたことでした。


だから、意地をはってよかった、と思う。


考えて考えて考えて、最善の最適解だと切り上げを選んだ1度目の留学が、ずっとずっとずっと、ずっと引っかかっていました。

あの時だって頑張ったよ。
入国後じゃないと取れないビザを取るために、英語で喧嘩も交渉もした。銀行も保険も携帯も契約した。予習復習も欠かさなかった。

だけど、途中で終わると決めた時に、そちらを選べた自分に胸を張れなかった。

あの帰国を後悔はしない。あそこで帰ったから、大好きになったゼミに入れた、バイトも辞めようと思うところまでやり込んだ、就活も。
たぶん、帰ってきたから、また行った。


私は結局自分が可愛くて、自分が選んだ選択肢のいいところを探してしまう、だけど。
「行きたい以外に理由はない」と開き直った今回で、「残りたいだけじゃ残れないの」と母を説得するふりをして飲み下した2年半前を、消化できただろうか。

後悔はしないけど、綺麗な思い出にしようとは思わない。
あの惨めさだけでも、私にとっては財産だった。

ただ、2度目だったから腹を括れた瞬間がたくさんあったのは確かで。
そうやって一つ一つを踏みしめて立って、ようやく、溜まったままだった諸々が、今の自分の肢体に広がっていく気がした。


2020年の2月と3月、確かに私はドイツにいたのに、その春学期に復学したから正式な記録に残らない、誰も証明してくれない私の2か月間。
自分で宣言するだけの自負を持っていないことが情けなかった。

人が忘れるのは防御本能だと聞いたことがある。
であれば、なかったことにしないために、私はもう一度飛行機に乗ったのかもしれない。


行きたいだけだった、行かないことを選べなかっただけだった。
たぶん、それだけが理由でした。

その衝動に報いるためだけに、踏ん張ってよかった。


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