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July tree

56歳の初秋に訪れた初めてのカナダ・バンクーバー。
初めての長期海外ロケ。
コロナ禍に於いて10話のエピソードを無事撮影できるのか、そして私の身体は心は耐えられるのだろうか。
期待と不安を胸に、どこか異星に向かってカプセルシューターに乗って飛ばされ辿り着いた先には、海峡の先、大きな丸太が転がっている港町、バンクーバーだった。
多くの移民が暮らす街。先住民が大自然と共存した地に、
白人が入植した土地。

降り立ったその場所で、時代劇を撮るための衣裳を見に纏い、鬘をかぶり、さまざまな国の人々からなるスタッフと共に、大きなステージに上がって演技をする。
その初日の手応え、感動は、一生忘れられぬ1日だった。

朝から入った桁外れの大きなセットで、長い一場面を撮るのに、カメラが四方八方から狙うため、演じ手は最初から最後まで演技を何度も繰り返す。
私のクローズアップを撮る頃には夕方5時をすぎ、撮影が終わったのは7時を回っていた。

身も心も私の今のありったけを捧げた初日。
帰りの車の中から眺めた夕暮れのそれを今でも記憶の中に思い出すことができる。私と夕暮れ。異郷にひとりぽっちの私の頬を紅く染めたあの夕焼け。車の中からニーナシモンが流れていた。パーフェクトデイズ。私の初日が始まり、終わった。知らない異郷で労働にまみれ心地よく疲れた1日が終わる。それは日系人がかつて感じたような、そう、異郷に送られた写真花嫁にも似た、私も、ビデオと写真だけのオーディションで採用された身。これから撮影が終わるまで、この地で頑張らないとならない。どんな事が待ち受けていようが、この異郷の地で1人で生きてゆく私。

撮影が終わる予定の春には一つ歳を重ねる私は、この地にはどう映るのだろう。この地と私はどうフィットしてゆくのだろうか。或いは、水と油の様に混ざり合う事なく分離したまま、だろうか。

つけていた日記のようなメモと共に、丁寧に回想してゆこうと思う。

60を手前に本当に華麗なる賭けに挑んだ10ヶ月を。



ある日、撮影も数ヶ月もたったある日。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作を見た。
見る前から、サントラのレコードは入手していた。
映画をみて、サントラの重要性に身につまされ涙した。
なんて美しい瞬間なのだろう。あの場面に流れ来る
July tree。これもニーナ・シモンだった。
私の中で永遠に刻まれたあの2人の場面。
その場面なのに、私はいつの間にか自分のバンクーバーでの生活の中に
あの場面の美しさを重ね合わせていた、何も重ならないのに。
どこをどう重ねても切っても貼ってもコラージュにもならないのに。
でも、心地よかった。私のJuly treeだこれは!とさえ思えた。


私は、バンクーバーの自分の部屋から見える借景を眺めるのが日課だった。ベランダに出て、流鏑馬体操をして、9月の樹木の葉を眺め、
10月には色づく街になり、紅葉はやがて落葉し、雪が降り、
しのつく雨を眺め、長い冬を潜って新芽が若々しい春の訪れの中、
私はあの借景を眺めるたび、ずっとニーナ・シモンを聞いていた。
ある時、夫が帰国したその日。ベランダに出て、夫の履いてたスリッパを片付けると借景をぼんやり眺めた。慌ててニーナ・シモンを聞いた。それからグイグイと潮が引くように誰かがいたであろう形跡が消えてなくなるのが怖くなった。私はソファに身を沈め、その形跡が消えて全部この部屋から無くなるんじゃないかと怖くなって片隅で丸まっていた。何も手がつかず、夫の飲み掛けのマグカップもしばらく片付けられなかった。号泣すると声すら飲み込まれて消えていくような、
ポツンとひとり宇宙の果てに取り残された気分だった。
でもまた労働にまみれた。幸い労働は楽しくなってきた。
儘ならぬこともあったにせよ、私は仕事に没頭できた。
これも1日の終わりがあったからだと思っている。
人は朝の陽光をありがたがり、夕暮れに癒され、夜の闇に包まれ眠る。
朝陽に米国人が、ウォータールーのサンセットに、英国人がうたを歌ったように。私はいつもニーナ・シモンのJuly treeに癒された。
そして、あの歌詞のまんまの私の全てがバンクーバーでの時間にあった。ふと同じタイトルの映画をみて驚いた。陽光に照らされた役所広司さんの顔にあのニーナ・シモンの「パーフェクトデイズ」が流れていた。カナダの初日を想起せずにはいられず涙が溢れ出て止まらなかった。映画とは何も関係ないのに、映画は不思議だ。そこに映っているものが全てなのだから、その顔と音楽だけで、私は別の私の時間を回想したのだ。呆れてしまう。

もうすぐ7月だ。
July treeは立派に育っているだろうか。
あのバンクーバーの窓から、流鏑馬体操してた私と一緒にあの場所で成長した木々たちは元気だろうか。

私は東京の片隅で都庁方面を眺めながらあの借景を思い出している。

来月は都知事選を迎える東京の梅雨空


7月のバンクーバーの借景

(この文章はカナダで書いて捨てようとしてたものを蘇られ末尾はさっき書き添えたたものなので微妙な鮮度かもしれないが私自身の備忘録のためにもここに置いておく)

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