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かつてそこにあった日本人街を歩く



お便りありがとう。

宮古島はもうすっかり夏準備に入ってるんだろうなあ。ゆうなの花も咲いて月桃もそろそろですよね。こちらバンクーバーにも春の訪れが参りました。あんなに寒く長い冬もそろそろお暇してくれるのかしら。花冷えはありますが、こちらは桜もマグノリアも水仙も花たちが一斉に咲き誇ります。そう。まるでエデンのように。嵯峨信之さんの詩を思い出します。

エデンの妻

妻よ 今日わたしはさるすべりの木を植えよう 

ふたりでエデンに近づくために

雨とふる理性にも けっしてSEXを失わないように 

わたしの手のとどくところに 

いつもほのぼのと桃いろの花が咲いているように  

 妻よ エデンの 妻よ  

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たくさんの花が咲く中で私が一番好きなのはマグノリアです。この花が開くと自分の生まれた3月に思いを馳せ、母の生まれた4月を感じます。ちょうど弥生から卯月へと変わる頃です。先日ワケあって日本人が暮らしていたまちを歩きました。以前お話しした漁師町のスティーブストンの村上さんの家の庭にもたくさんの花が咲いていて、その庭を見て日本の普通の家の庭を思い出したり。缶詰工場の先にある遥か向こうに海原を望める大きな岬の公園があります。そこには和歌山県人会が建てた日本庭園があり、さらに歩くとたくさんの桜並木には花盛り。桜の下で写真をとったり思い思いに皆さんチリングしてました。

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風が強いこの場所で、長い冬の寒さに耐え咲いている花たちを見ると、なぜか日系人の嫁たちを思います。当時はほとんどが写真花嫁ですよね、きっと色々耐えてきたんだろうな、だけどほらこんなに綺麗に咲くんです。こんなに花開いて、皆を楽しませ、自らの散り際まで美しく儚げに。

この地にかぎらず日本人の移民の話は悲劇として語り継がれていることはご存じでしょう。世界に移民したウチナーンチュ然り。ここにも2万2千人とも呼ばれた多くの日本人移民がいたそうです。

多くの日本人が暮らしたという街があった場所、ダウンタウンから歩いて20分くらいでしょうか、港の近くにあるパウエル通りにあった日本人街。ここは最初バンクーバーに来た時から治安が悪いので行くのを禁じられていました。もう日本人もいないよと。そんなことないでしょうと、てくてく歩いて参りました。そしたら、あの映画化もされましたインターナショナルリーグまで行った日系野球チーム「アサヒ」のグランドだった場所、今はオッペンハイマー公園ですが、そこにはギターを爪弾く爺さんや、チェスに興じる人、お菓子を食べたりおしゃべりしたり、普通の市民が集っておりました。私の暮らす近くの公園にいる人と変わらない人々の笑顔がそこにはありました。確かに、街の雰囲気は荒んでいる気もします。商店は閉ざされ、家のない人もいたり、アッパーやミドルかといえばそうでない人々の姿かもしれません。それでも私はそこにある笑顔に惹かれました。そして昔の日系人の姿を想像しました。親は働いて忙しい中、一緒に遊べるのが休日だったりすると公園で野球観戦したり、お菓子をたべたり、銭湯に出かけたり、思い思いに楽しんでいたのでは。そして、当時の日本語学校がまだあったのでブザーを押して、訪問しましたら快く迎え入れてくださり、中を案内してくれました。扉の写真の校歌はこの日本語学校のものです。歌詞に小さく胸打たれました。ここは日系俳優ジョージ・タケイ氏も訪れたそうです。中には、こどもたちのお習字や雛祭りの工作や図書館、柔道場、体育館、などなどがあり、この学校が当時から存続している軌跡を辿ることができました。

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ここには現在も日本語を学ぶこどもたちや人々がいます。そして、この学校の屋上からはかつての日本人街がどのような位置にあったのか、暮らしぶりもほのかに想像できました。商売に貿易に教育に、そして日本から来たばかりの人を迎え入れる日本人街でもあった訳です。しかし、今となってはかつてのように日本人の姿も声もありません。開戦後の真珠湾攻撃で場面は一転しました。

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日本人は強制収容所送りとなり散り散りになって、再びこの場所へ戻ってももうここで以前の暮らしは不可能だったり、さまざまな事情を抱えこの地を後にした方が多かったそうです。それでも、この地で頑張って生き延びた日系人はいて、さらには、移民として渡った沖縄県民などは、一度沖縄に戻ったものの、沖縄本土復帰を境に、再びカナダに戻って人もいるそいうです。日系には多くの悲劇がありましたが、当時の建物が結構残っていることが不思議でした。多くは焼かれたり立退で壊されていると思ったからです。消された看板ではあれどその姿はいまだに現存していました。

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沖縄県民のカナダへ戻った移民の話はなるほど納得だと私は感じました。バンクーバーというこの地に暮らすことで、理屈ではなく、肌身で感じているのかもしれません。ここは色々自分でできないとダメだし、厳しい自然との共存もあります。そしてここで暮らしていると、自分に少しばかり自信がついてくるのです、私もここでひとり、人間らしい暮らしができている。仕事をして、なんとかやれている。まあプロダクションのアテンドもあるので、まだまだ甘いですが、それでも、一人で暮らしを立てて日々歩き続けてきたと思うと、なんだかね。ある日、もう私無理かもって思った冬の寒いある日に、大先輩であり「お姉ちゃん」と慕う田中裕子さんと国際通話で話す機会があり、お姉ちゃんはしみじみ語りかけるのです。「依ちゃん。依ちゃんは、偉いよ。私にはできないよ、そんな、遠いカナダで、ひとりで、、、」って語りはじめたのです。お姉ちゃんの唇から言葉が出ると全てが詩的で文学そのものになるので、そのまま文字に起こして小説のでだしが書けそうな自信すら湧いてきちゃいそうになりました。その気高く勇気ある言葉を私は自分の宝箱に入れて時折引き出しては、脳内再生しております。

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そう。約一年という短期であってもこの地で就労する身としてブリテイッシュコロンビアの市民として受け入れられたその証拠に、図書館でも本のみならず、楽器を借りたりぼんやりしたりと大いに利用させてもらったし、市民プールも通ってるし、インフルもコロナのワクチンも打てた。こちらの市民に混じってバスや地下鉄に乗り、あちこち歩くことで、物価を知り、文化を学んだ。これは大いなる57歳の私の冒険であり、知的財産になったことと思っています。そして、日系人をはじめ移民たちのこの地での軌跡を辿ることで、一層想像力も逞しくなりました。先日などは、ブリティッシュコロンビア大学の学生に混じって裸になってもいいビーチで(私は着服のままで大変失礼)サンセットを楽しませてもらったり。人間としての営みというのでしょうか、花が咲けば花を楽しみ、雨が降れば恵を思い、沈む夕陽に1日の疲れを癒し、休日には労働から解放され笑顔で過ごす。コロナにかかっても誰もそれを悪く言わない。ネガティブなことがあまり転がってない。人との距離感が絶妙でまるで通り抜ける風のようです。

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長くなりましたが、言いたいことは、当時の日本人移民、日系の暮らしを想像することで感じられた私なりのアイデンティティ、そして地球に暮らす人として、当たり前の毎日を過ごすことに趣を置ける日々だということですかね。そんなカナダでの暮らしもあとわずかになってきました。この地で私は外間さんの本をよみ、そして沖縄から離れた思いを綴った佐藤惣之助の詩を歌い、私もここから遥か遠い沖縄を想います。いつか再会する日を心待ちに。その時は図書館の話もたくさんしましょう。ちなみに私という礎をこさえたのがこの多摩平の小さな図書館です。心より感謝してます。もうないけどね。今でも目を閉じるとこの図書館にいた自分を思い出します。そして、松ぼっくりを足蹴にして家路についた小道がこのバンクーバーのKitsilano の住宅街にそっくりなんです。同じように多摩平に育った人ならきっと体感できる小道なんですけどね。1960年代ってそんな場所ばかりだった気がします。

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最後にネットで拾った当時のその図書館の写真を添えます。

ではね。またね。バンクーバーより愛を込めて。

依子




 


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