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緩くて、厳しい!?アメリカ(テキサス)のスクールライフ(1)とにかく緩い学校教育

とにかく緩い学校教育

はじめに・・・なのですが、このコラムは”ディスり”が目的ではありません。小学校から大学まで日本で教育を受けた日本人の視点からみた、テキサスの公立学校についてのお話です。教育というのは、それだけで完結しているわけではなく、その先には社会人としての生活があります。別のコラムで”赤いアメリカ”シリーズを展開していますが、現在のアメリカを襲う共産化現象について語る際、学校教育の現状は決して切り離せないものだと考えています。

自らの経験を踏まえて申し上げると、アメリカの学校教育は、おそらく日本で考えられているものとは異なります。アメリカの教育にも、良い面はたくさんありますが、日本のメディアや教育関係者が言うような「日本の教育がダメで、アメリカの教育が素晴らしい」と言うのも違うように思います。

このシリーズは、比較教育論というような大層なものではなく、母親目線で見守る子どもたちの学校生活や、自らの就業経験を通して受けた、カルチャーショックをベースに、「なぜそうなんだろう?」と考えてみた、教育周りのこととして、シェアさせていただきたいと思います。

アメリカ人の計算あるある

アメリカ人の数学力にまつわる都市伝説で、「算数がヤバイ」「おつりの計算を足し算でする」「九九が言えない」等々があります。が、本当です。ただし、ここではトップ何%かのアメリカ人は除きます。フォーカスするのはあくまで標準的なアメリカ人・・・とは言え、博士課程やMBAを持っているような人や医師等も含みます。

アメリカ人の計算あるある:

  • 95ドルのものを100ドル札をだして購入すると、1ドル札を1枚1枚テーブルの上に並べながら、「96、97、98、99、100ドル!」という感じでお釣りをもらう

  • 95ドルのものを購入するのに、100ドル札と1ドルを5枚出し、おつりを10ドル札1枚でもらう・・・は、その意図が絶対に理解してもらえないのでしない方が良い(こちらが”95ドルのものを100ドル札を出せば購入できると理解できていない人”として扱われてしまう)

  • 普段の計算はイマイチなのに、レストランでの、チップの暗算(合計金額の10〜25%。20%が標準的な印象)がやたら速い人がいる

  • ダース単位のものを購入するのに、何箱買うべきか、電卓を使う(2箱が24個がわかっても、50個必要な時に何箱買うかがわからない)

  • 午後の時間帯を13時、14時・・・・という24時間表記にすると、何時か分からなくなる(除く、軍隊の人)

一番最初にあげた、”おつりの計算に引き算を使わない”はアメリカあるあるで最も有名なものだと思いますが、最近は電子マネーか、クレジット決済のところが増え、この1枚1枚お札を重ねていくおつりの渡し方を見る機会も少なくなってきました。

九九については、学校で九九を教えるということがないようで、暗記をしたい子は「5、10、15・・・」みたいな形で覚えていくようです。しかも、先生によって教え方が違う・・・という話もあり、みんながこの方法で覚えているのかは確かではありません。
我が家では、幼稚園時代に、遊びの中で覚えさせていましたので、小学校で掛け算を学んだときに、もう一度、こっそり復習させたのですが「こんなの誰もやらない!」とかなり抵抗されましたが、中学生になった頃、「やっぱり役に立つ!」に意見が変わったようです。余談ですが、インド人が99×99まで言えるというのは本当です。

九九の延長で言うと、日本よりもむしろアメリカの方が使う機会が多いと思われるダース”という単位。12の倍数になるわけですが、これも電卓で計算する人を見かけます。
一度、かなりびっくりしたのは、”ダース単位で売っているものを、100個ほしいが、何箱買うべきか?”を知りたかった同僚が、電卓で”12×2”から計算を始めたことです。電卓と格闘する同僚に、「9箱じゃない?」とか「8個残っちゃうけど、9箱オーダーしなきゃだよね?」とか言っていたものの、同僚の手は止まらず・・・。”12×9”まで来て、ようやく「本当だ!9箱だ!」っと。「聞こえてたんかーい!」というツッコミと、「電卓使うにしても、せめて12×7とか8とかから始めないのかな?」という疑問とで、複雑な気持ちになったものです。

”12”といえば、アメリカでは、”15時”のような言い方はしません。”午後3時”のような言い方をするか、午前・午後を付けずに”3時”のような言い方をします。ちなみに、午後の時間帯を13〜24までの数字を使って表すことを、ミリタリー・タイムと呼びます。その名の通り、軍隊で使われるものですが、一般的ではないらしく・・・。「15時に・・・」というと、必ず「15時って何時だっけ?」と、聞き返されます。
最も謎だったのは、日本とのオンライン・ミーティングを度々行っている同僚が、日本からの日程調整のメールを受け取ると、必ず私に転送し、「”午後○時”の形にして!」と、お願いしてくることでした。「12を引くだけじゃん!」なのですが、何度説明しても自分で計算する気がないようでしたので、「午後○時」と、回答のみを返事するようになりました。ちなみに、このリプライの仕方はアメリカでは失礼なメールにはなりません。リプライに対する返信も大抵「Thanks!」のみです。

というわけで。以前は、「日本人だから、数学できるでしょ?」と言われると、「そんなことないよ。私、超文系だし」と言っていましたが、最近は「そうだね」と軽く流すようにしています。

次章では、なぜ、こんな”あるある”の状態になってしまったのか?について検討していきたいと思います。まあ、次章のタイトルがその答えなのですが・・・。

小学生のうちから電卓使用OK

小学校の算数は、ほぼほぼドリルだった記憶がありますが、アメリカでドリルはありません。宿題は出ますが、繰り返し繰り返し計算させるという類のものではなく、やり方が分かっていればよしとする形のものです。何故なら・・・。

学校で、電卓使用がOKだから。

オンラインを使ったテストでは、きちんと電卓機能がついていたそうで、電卓使用が前提のようです。

今の30代に、彼らが小学校時代から電卓が使えたのか尋ねたところ、中学生からだった記憶があると言うことでしたから、計算に関するトレーニングは、どんどん緩くなっているのかもしれません。

そもそもなぜ、学校で電卓の使用がOKなのか?と言えば、「日常生活では、普通に電卓を使うよね?」という合理的な理由からです。ちなみに、代数の計算も計算機で行います。Googleで検索すると、いろいろ出てきますが、例えば、下記のような感じです。計算式を空欄に入れると、計算してくれます。

https://mathpapa.com/algebra-calculator.html

理系の博士課程等にいくような場合でも、基本的に計算はExcelを使うため、自分で計算する必要がないと考える人が多いようです。ですので、Excelを使わない経費精算の書類等は、超文系の私でもドン引きするほどの計算ミスの嵐。経費精算は毎日の仕事ではありませんし、「Excelを使わない経理が悪い」と言うことで、ミスを気にする感じもありません。ディスりに聞こえてしまうかもしれませんが・・・

この”日常の中で計算する必要がない”という点がポイントです。

日常生活の中の計算は暗算が無理という人でも、チップの計算だけがなぜ速いという人もいます。チップの計算は、”絶対に20%ぴったりでなければならない”というものではありませんので、”だいたいで良い”ので楽な計算という見方もできますが、チップの額がスラスラ出てくる人は、「×20%」をある意味九九のように記憶しているのか、「×20%」の計算慣れしているのだと思います。
概算であれば計算できると言うわけでもないと感じるのは、”ビジネス上の概算”についてはやはり電卓、もしくはExcelが必要だからです。やはり”日常的に計算していること”=トレーニングの積み重ねが重要なのだと思います。

と言うわけで、先ほどの、アメリカ人と算数をめぐる都市伝説について、現状を正しく表現するなら、「アメリカ人はチップ以外の計算練習をしていないから暗算が苦手」といったところでしょうか。

こういう話をすると、「アメリカの教育は合理的だ。日本もまねて、学校に電卓を入れるべき!」と、主張する人もいるかもしれませんが、私は、日本の算数教育は絶対にドリルや九九を止めるべきではないと思います。
ちなみに、私は計算は大の苦手で、必要性を感じて意識して勉強するようにしたのは社会人になってから。ビジネスをする上や、日常生活の中でも大きな買い物をするときには、概算でも、感覚的にでも、ある程度、数字を理解できていないと困るからです。
子どもの頃は、仕方なくやっていた(やらされていた)算数のドリルですが、数字的なセンスを育てるのには、ドリルが最適だと、大人になってからーー特にアメリカに来てからーー痛感しています。

一方、代数の計算は、日常生活の中で使うか?と言われれば、確かにいらないものです。ただ、コロナが始まって感じるのは、P社やCDCが出している数字や、統計等の資料について、専門知識がなくても果敢に理解しよう、検討しようと挑む人は日本人の方が圧倒的に多いということ。このような態度は「訳わからないモノに挑んできた経験」から来るのではないかと考えています。
狭くて高い専門性を要求されることが多い、アメリカ人は、例え医師であっても、コロナが専門でなければプライマリー・ドクター(初期治療や定期検診を担当する医師)であっても、コロナ関連の一次情報に当たろうとしない傾向にある印象でした。P社の有効性の計算のカラクリ(ではないのでしょうけど)については、表や数式を見せて、どんなに説明しても、理解しようとする態度さえ見えないものでした。

とはいえ、これも、”だからアメリカ人がどうだ”という非難する類いのものではなく、単純に”合理的だと思えるものしか学ばないという教育の結果”だといえます。そして、私は一見、非合理だと思える学習にも意味があると、信じていますし、これこそが日本人の強みであると思っています。

というわけで。先ほどの都市伝説(?)、”アメリカ人の算数力がヤバイ”というのも、主語を”アメリカ人”から”日本人”に変えて、”日本人の算数力がヤバイ”に修正したいと思います。後者の”ヤバイ”は、”一昔前の若者が使っていた(今も?)方のヤバイ”であり、”スゴイ”の意味ですが・・・。同じ事実を語るにしても、言葉はできるだけポジティブなものを使いたいと思うのが、言霊を信じるJapanese in Texasです。

体操服のいらない体育の授業?

アメリカのスポーツと言ったら、オリンピックのメダル獲得数・ダントツ世界一であり、MLB(野球のプロリーグ)NBA(バスケットのプロリーグ)等、プロスポーツの頂点が集まっているような印象があります。実際、子どもたちの学校に行ってみると、小学校の高学年くらいには、日本人の大人の背丈はある子が出てきます。ただ、体格の良い子が多いのか、少ないのかと言うのは、その学校の人種割合にもよって異なるため、一概には言えません。一般的にヒスパニック系やアジア系は、日本人と同じか少し低いくらいの感じ。コケージャン(白人)やアフリカ系アメリカ人(黒人)の割合が多い学校だと、「背が高い子が多い学校」と言う印象を受ける日本人が多いと思います。

アメリカの子どもたちのスポーツって、それはそれはすごいんだろうと思って行ってみたところ・・・なんというか・・・ここにもカルチャーショックがあり・・・。(繰り返しになりますが、今回のコラムでは、トップ中のトップは除いています)。

小学校から高校までの子どもたちのスポーツを観戦しながら度々思うのは、「スポーツをする上で、一般的に”恵まれた体格”であっても、その身体を使いこなせるかどうかは、本人のトレーニング次第」ということ。むしろ”使いこなせない、恵まれた体格”は、運動する上で邪魔になるのではないか?と思えてしまう子もいるほどです。

この問題をなぜだろう?と、原因を探っていくと、やはり辿り着くのは、教育です。アメリカの学校で体育にあたる授業は、PE(Physical Education)と、呼ばれます。この授業で何をするのか?をヒトコトで表現するなら「体操着のいらない体育の授業」ーーつまりそこまで身体を動かすようなことはしないし、汗だくになるような心配がないくらいの授業です。
PEの授業は毎日行われ、コンセプトとして聞いたことがあるのは、学習に必要な身体作りを・・・ということなのですが、子どもたちに聞いた具体的な内容としては、鬼ごっこやボール当て(ドッジボール?)と言ったゲーム的なものやダンス等、個人的には”休み時間に行うような、身体を動かした遊び”という印象を持っています。

おそらく・・・日本とは違い、親の車で通学が大多数を占めるテキサスの学校では、1日1回は、少しでも身体を動かす習慣をつけるということが大切なのかもしれません。

さて、そして、このようなPEの成果というか、スポーツをする小学生がどんな感じなのか?についてです。小学高学年を対象とした、学校対抗のキックボール大会を観戦したことがあるのですが・・・。スキルよりも何よりも、”打順を守る”や”ベースをきちんと踏んでから走る”という基本的なルールを守れないチームもあり、驚きました。しかし、それよりも衝撃的だったのは、審判をしていた大学生の子が”ルールが一切守られていない”というその状況を普通に受け入れ、反則を取らないどころか、子どもたちを一切注意をしなかったということ・・・そして、試合後、”ルールガン無視”なのに負けてしまったチームの子に大人が「Good Job!」と声かけしていたことでした。

いやいやいやいや。ルールを守らないスポーツなんて、スポーツじゃないし。
ルールが守らなかった上に、負けるなんて、褒める要素、一切ないじゃん。

このことはあまりにも理解を超えた出来事でしたので、事あるごとに、友人、知人、同僚に意見を求めてみたのですが、「小学生だとルールを守るのはまだ難しいよね?」というのが多数派の意見のようでした。

とにかく身体を動かすって楽しい!

を学ぶことが大切ということのようです。

そういうこともあってか、運動会もありませんし、クラスマッチも、マラソン大会もありません。走ったりすることはあるようですが、速さを測っても、クラスメイトと競ったり、自己の記録を良くしていくという類いのものではないようです。また、跳び箱やマット運動等、できるようになる努力をするという種目もないとのことで・・・。

このような子どもたちの自主性に任せ、身体を動かすことを楽しむことに重点をおいたPEクラスを絶賛する日本語ブログもありました。しかし、私はPEに対しては疑問しかありません。
運動会は、運動が苦手な子にとって地獄と言いますが、逆にいえば、勉強は苦手だけど、運動は得意という子が自己アピールできる数少ない機会です。また、できないことに挑戦することや、今よりももっと良い記録を作ろうと努力すること、そして、何より「できた!」という小さな成功体験は、成長するにつれて出てくる様々な困難と向き合う力となります。

さらに、”競う”ことを極端に拒否する教育グループもいますが、社会に出れば、色々な場面で”競う”わけで、早いうちに、”負け”から立ち直り、”勝つ”ための努力をし、失敗から学んでいくことは成長に不可欠な経験だと思います。

勉強も運動も、子どもたちの自主性が優先という建前で、やりたい子はやって、やりたくない子はやらないという自由な環境の中ーー言い換えると、緩々な環境の中で過ごしている子どもたちと、学問、スポーツともに世界トップクラスにいるアメリカ人青年との印象には、随分隔たりがあります。もちろん、ゆるゆるに過ごしていたら、急に何かができるようになったといえば、そうではありません。

中学入学が見えてきた頃から、突然、”振り落とし”作業が始まります正確にいえば、できる子を引き揚げていく作業ですので、”できる子”でなければ、”自分ができていない”ということにも気が付けないまま、選別作業が完了していることもあるかもしれません。

次回は、そんな、ちょっとこわ〜い、”気がついたら、振り落とされているシステム”についてシェアさせていただきます。

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