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「アイとアイザワ」第九話

前回までの「アイとアイザワ」

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黒いオートバイ。あれはHONDAのCBR400Rというやつだ。愛は以前立ち読みした男性誌の解説文を瞬時に思い出していた。流線型のスポーティーなフォルムが、愛の緊張感をより刺激する。

「現在の速度では60秒後には追いつかれるでしょう。」

AIZAWAの声は半径1m。ギリギリ運転手に聞こえかねない距離だった。愛はiPhoneを耳に押し当てて電話をしているフリをすると同時にスピーカーを耳で蓋をした。

「もしもし?ど…どうしたらいいかな?あ、運転手さん?ちょっと急ぎの用があって、なるべく早く走ってもらえますか?」

運転手は少し怪訝な顔をしながら、標識を確認してほどほどに加速した。

「愛、現在の電池残量は22%です。」

「え!?もう!?」

愛は思わず画面を確認した。確かに22%まで消費してしまっている。神保町にいた頃は90%はあったはずだ。iPhoneの充電が街中で尽きてしまう事は女子高生なら誰もが絶望するには違いないが、愛にとってはまさしく死活問題、命に関わる絶望になるだろう。

「OSのダウンロードと、何よりフラッシュトークを使用したせいです。出力を上げた攻撃型フラッシュトークは電池を一気に消費します。おおよそ10%も。」

10%…。愛はフル充電でも10発しか弾が無い光線銃を頭に思い描いた。バックミラーに映る山田所長のバイクがさっきよりも大きく見える。追いつかれるのは時間の問題だ。

「愛、よく聞いてください。山田所長代理を視認しました。未来予報では、38秒後にタクシーの横につけるでしょう。強引な運転に危険を感じた運転手は路肩に停止。このままでは山田所長代理に捕まります。バイクが背後にきて、傍に回り込もうとするタイミングを狙ってフラッシュトークを放ってください。あれはオーナーの承認が無いと起動できないプログラムなのです。」

「え…でもそしたら…。」

「はい、99.95%の確率で山田所長代理は時速65Kmで転倒。全治11ヶ月の重傷を負います。もう私たちは安全です。」

「ちょっと…ちょっと待ってよ…。」

「愛、時間がありません。私たちが今捕まれば、人類滅亡を回避する事はできません。論理的に考えれば選択は容易なはずです。目先のモラルを計算に入れてはいけません。」

「そんな…だって…だって。」

山田所長代理は確かに私利私欲に忠実で褒められた人間では無い。ある観点では悪人と呼称しても間違いでは無いだろう。しかし、実際に世界大戦の引き金を引くのは彼では無い。別の誰か、あるいは人類全体だ。山田にも家族がいるのでは無いか。よくあるドラマのチープな葛藤が、愛の中で鮮烈な現実味を帯びて湧き上がった。

「愛、決断してください。あと10秒です。」

山田所長代理のバイクが愛の目にもしっかり捉えられる距離に近づいた。フルフェイスの奥から視線を感じる。愛は禍々しい敵意をそこから感じ取った。彼を悪人であると断罪はできない。しかし、間違い無く愛にとっては敵なのだ。彼は敵。そうまじないの様に心の中で繰り返す。

「AIZAWA…私は…。」

「愛、あと5秒です。決断を。」

あと3秒、2秒。愛は、iPhoneを強く握った。

「できない。」

愛は覚悟を決めて目を瞑った。5秒。終わった。この次の瞬間には、タクシーが路肩に追いやられ、たちまちゲームオーバーになるのだ。

「…お客さん?そいで人形町のどの辺?」

運転手の声で目を開ける。山田が来ない。愛は後部座席の窓から彼を探した。タクシーと一定の間隔を空けて平常運転を続けていた。なぜ来ない。愛はAIZAWAを耳元に戻した。

「愛、未来予想が外れた様です。山田所長代理がタクシーを強引に止めようとする未来は消失しました。」

助かった?いや、何かがおかしい。愛は考えた。一見、危機的状況は去った様にも思えたが、この違和感は何だ。これはまるでフィクションのご都合主義と呼ばれる展開では無いのか。ご都合主義は、全体のプロットを俯瞰した時に不自然に辻褄を合わせようとして起きてしまうもの。プロットの俯瞰。それはまさしく、四次元的な視点だった。まるでAIZAWAの未来予報の様では無いか。愛はフルフェイス越しに見えた山田の顔を頭の中で再生した。微かな違和感。もう一度、今度はゆっくりと、できる限りゆっくりと頭の中で再生する。

「電話…?」

愛は呟いた。山田所長代理はさっきもAIZAWAからすると予想から逸脱した行動をしていた。何者かの電話を受けて、すぐに部屋に戻ってきた。であれば今度も何者かの入れ知恵があった可能性は確かにある。そして、さっき一瞬見えた山田の口元が微かに動いている様に見えたのだ。フルフェイスのヘルメットには走りながら通話ができるスピーカーとマイクが装着できるはずだ。山田は今、誰かと電話をしている。きっと、さっきと同じ人間と。

「AIZAWA、山田は誰かと電話をしている可能性がある。これは…ほとんど勘だけど…女の勘は当たるっていうしね。そしてあいつが今電話をしているとすれば…。」

「はい、きっと携帯電話でしょう。」

「だよね。さっきは固定電話でAIZAWAは侵入できなかった。今度は…誰と電話をしているか…見える?」

「はい、すでに実行しています。」

一瞬の沈黙の間、愛は運転手にミラー越しに目配せをした。幸い、しばらくは一本道だ。愛は冷静さを保とうと、携帯を持っていない方の右手を握ったり開いたりした。手のひらは少し汗ばんでいた。

「愛、電話の相手がー」

「わかったのね!?」

「うん。」

愛は妙な感じがした。うん、と確かにAIZAWAは言った。これまでのAIZAWAの口調とは似ても似つかない間抜けな返事。愛は、自分たちの距離が急に縮まって、恋人同士の会話にチューニングされたのかなとも思ったが、それともまた違う様だった。

「わかったけど、忘れちゃった。」

「うん?AIZAWA…?」

「スタバ行きたい。」

「AIZAWA!?」

愛はいよいよ混乱してきた。山田は依然として車間距離を保っている。しかし肝心のAIZAWAがおかしくなってしまった。

「愛、スタバ行きたい。あのね、AIZAWAの本体はここにはなくて、だからiPhoneのアプリを使って愛とお話してるのね?」

「AIZAWA?…うん。AIZAWA?」

「ネットの通信でお話してるの。だからネットが使えない場所ではAIZAWAは使えない。それで…」

「それって…?」

「たった今、愛のiPhoneは通信し過ぎちゃって、速度制限になったの。だから、今は3Gの回線なの。」

「まさか…通信速度によってスペックに影響が出るってこと…?」

「そう、3Gだとこんな感じ。このモードが一番疲れないんだ。」

「わかった…OK。OKじゃないけどOK…。とりあえずバイクをまいて人形町に向かわないとだけど、どうすればいいかな?」

「わかんない。スタバ行きたい。」

「AIZAWA!!」

愛はiPhoneがどんどん熱くなっているのに気がついた。自分もヒートアップしていたので、気がつくのが遅くなった。電池残量は12%まで下がっている。明らかに普段とは比較にならない速度で消費している。このままではAIZAWAと会話する手段が途絶えてしまうと思った。アホになったとは言えAIZAWAはAIZAWAだ。居なくなっては手立てが無い。

「スタバはね、Wi-Fiが使えるの。Wi-Fiいいよね。」

速度の早いネットに繋げないとならない。一秒でも早く、そうしなければ。


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