「アイとアイザワ」第七話
静寂。
全身の力が抜け、穏やかで心地が良い夢を見ている様だった。僅かに頬から冷たい感触が伝わる。よく磨かれた光沢のある壁、いやこれは床だ。ああ、自分は今倒れているのか、と愛は思った。どれくらい時間が経ったのだろうか。遠くで男の声が聞こえる。黒い革靴が幾つか視界を横切った。山田所長代理と、おそらく部下だろう。身体はまだ動かない。一瞬の点滅により、再び例の情報の洪水を垣間見た。そこで、何か大事な事をAIZAWAから聞いた気がする。頭に靄がかかった様に、思い出せない。唇の辺りに生暖かい感覚がある。また鼻血。一日で2度も鼻血を出すのは人生でも初めての経験だと、愛は思った。
「どうなってる!?AIZAWA、答えろ!」
やはり山田所長代理の声だ。改めて、所長代理という肩書きは仰々しい上に無駄に長いなと、愛は思った。頭の中は静かで、実に冷静だった。先程感じた震える程の恐怖感も薄れ、どこか他人事に思える。そうだ、iPhoneはどこにある。愛は戻りつつある身体の感覚を頼りに、AIZAWAのインストールを行っているはずのiPhoneを探した。
「山田所長代理。やはり明石家 愛も“フラッシュトーク”に耐えられませんでした。試験に参加した職員よりは長く耐えましたが、やはり結果は同じくブラックアウト。」
AIZAWAは嘘はついていなかった。恐らく“フラッシュトーク”とは先程の点滅による伝達手段を指しているのだろう。会話の内容から察するに、以前もテストを行って職員が気絶したのか、ならば今の状況は山田所長代理にしても緊急事態には変わりは無いが、予想していなかった事故では無い。彼らの目を欺くためには、本当に一度気絶する必要があった訳だ。その様な事に考えを巡らせている間に、愛は自分の右脇腹付近に熱い何かがある事に気がついた。今、愛はうつ伏せになって倒れている。倒れる際に、iPhoneを下敷きにして、上手い具合に山田達から隠す形になっている。インストールの進捗はどうだろうか。まだ熱を持っている事からして、身体で隠してしまっているが通信が途絶えてはいない様だ。
残りの所要時間が知りたい。あと何分、この場を凌げば良いのだろうか。
「山田所長代理。対処の進言を致します。明石家 愛は“フラッシュトーク”の一部を記憶しているはずです。ですが、現時点で2分30秒気を失っています。事を急いで無理をさせれば、身体に悪影響が及ぶ可能性があります。しばらく安静に休ませた後、目が覚めたら病院の診察を受けさせるべきかと。」
愛は、AIZAWAとハイタッチがしたい気持ちだった。気絶したのは山田所長代理が部屋に入ってくる直前、つまりインストールの残り時間はおよそ4分30秒だと分かった。しかし、状況が把握できた喜びも束の間。
「いいや、今すぐ病院に搬送する。目が覚めて暴れられたら敵わん。」
おかしい、と愛は思った。AIZAWAは目視している人間の行動を読む未来予報が使える。しかし、この展開はAIZAWAの思惑に反している。インストールは施設内にいる間は継続されると言っていた。つまり、4分30秒(この時点で4分27秒)は施設を離れる訳にはいかない。愛は、今すぐ起き上がって、山田の股間を蹴り上げるという選択肢を追加した。しかし、部下がこの場に何人いるかまでは把握できてはいない。リスクが高すぎる。
「山田所長代理、かしこまりました。早速、救急車を手配しました。」
ちょっと何を迅速に対応しているの、と愛は思った。このままでは早々に施設を離れる事になってしまう。インストールが完了しなくては、その後に待っているのは非人道的な取り調べ…世界大戦…人類の半数が死滅する最悪の未来…。
「救急車は、あと8分で到着します。」
8分…。愛は、それと同時に昔記憶した本の内容を思い出していた。都内で救急車が到着するまでの平均所要時間は7分54秒だそうだ。AIZAWAなら現在の施設周辺の交通状況も分かるはず。その上で救急車を呼ばせたのだ。救急車を待つという事は、つまり8分は施設を離れないという事だ。几帳面で機械の様な効率主義…山田所長代理の性格を加味した誘導であった。
「AIZAWA、せっかくだが余計なお世話だな。社用車で搬送した方が早い。」
愛は再び絶望した。やはりAIZAWAの思惑には進まない。何かがおかしい、そう思った。思えば、山田所長代理に電話をしてきたのは誰だ?あの電話の直後に、山田は部屋に戻ってきた。そして、あの電話はわざわざ固定電話にかけて来ていたのでAIZAWAも盗聴ができなかった…。これは偶然か、もし偶然では無いとしたら…。
「AIZAWAよ…この件は甚大な金を生む。そして、金は我々の研究にとって不可欠だ、分かるな。この世は情報戦だ。情報を先に持っている人間が大金を手にする事ができる。一分一秒でも惜しいのだよ。その差が、数億数十億になるのだからな。」
ブレーンがいる。そう愛は結論づけた。山田所長代理に指示を出し、かつAIZAWAの特性を十二分に掌握している人物。順当に考えれば、代理では無い本物の“所長”か。
「おい、娘をおぶってやれ。駐車場まで運ぶ。大事な大事なパンドラの箱だ。落として壊すんじゃあ無いぞ。」
身体を持ち上げられたら最後、iPhoneが見つかる。見つかれば画面が見えてしまう。インストールがバレる。そうすれば、全ては水の泡。次の瞬間、部屋が薄暗くなってプロジェクターが投影された。今度は、いわゆる“フラッシュトーク”では無い、ごく普通の会社員がプレゼンで使う様な簡単な図解が表示された。
「山田所長代理、女性の正しいおぶりかたをご存知でしょうか。私のオススメは三番の“プリンセススタイル”です。お姫様だっこと言い換えてもー」
「AIZAWA、そんな事は聞いてない。部屋を明るくしろ!」
愛は山田達の視線が一瞬壁に向けられた隙を見計らい、右脇腹の下にあったiPhoneを引き寄せ上着のポケットに滑り込ませた。体内時計しか頼りが無いが、インストール完了までは残り3分くらいだろうか。カップ麺が出来上がるまでの僅かな時間だが、愛にとっては果てしなく長い時間に思えた。愛は、自分が好きなアニメのテーマ曲でちょうど三分のものを思い出し、脳内で再生を始める。愛の“カメラアイ”は文章や漫画などのいわゆる「空間芸術」は完璧に記憶できたが、アニメや映画などの「時間芸術」に関しては部分的で、シーンの絵は完璧に記憶できるものの、時間の記憶に関しては普通の人よりちょっと自信がある程度だった。それでも、テーマ曲を時間の目安にするには悪く無い作戦であった。残り2分51秒。
身体が宙に浮いている。愛は当然の事ながら気を失っているフリを続けているため目を瞑ったままだ。ちなみに、AIZAWAの言う“プリンセススタイル”だった。声の距離からして、山田所長代理を先頭に愛を抱えている部下を中心に数名が囲っている様だった。エレベーターの到着音が聞こえる。このまま駐車場に一直線に向かうのだろうか。少なくとも駐車場が地下では無い事を祈った。AIZAWAが言った“施設内”に地下が含まれていない可能性もある。愛のiPhoneは特に地下に弱いキャリアだったので、余計にそう思った。あと1分20秒。
「AIZAWAは、まだ我々の邪魔をしたい様ですね。」聞き慣れない声、部下の一人だ。
「最初に小説家の人生をインストールするんじゃなかったな…。色々と余計な発想が多い様だ。さっきの様なタチの悪いジョークも鼻につく。」山田所長代理は以前からAIZAWAと折り合いが悪いらしい。
「まさか、この娘に余計な入れ知恵などしていないだろうな…くそっ!制御が利かない人工知能なんぞ、やはり手に余る…。」
しばしの沈黙。エレベーターの到着音が聞こえた。駐車場のフロアに着いたのだろう。しかし動かない。愛は嫌な予感がした。視線を、感じた。
「所長代理、どうかされましたか。」
「鼻血が…。」
「ええ…そうですね。フラッシュトークの影響でしょう。試験の時も職員が出してたじゃないですか。一時的なものだから心配はー」
愛は早まる鼓動が彼らに聞こえてしまわないか心配だった。山田は恐ろしく几帳面な男だ。小さな気がかりもきっと見逃さない。彼が、何かに気付いている。
「鼻血が…すでに固まっている箇所と、まだ垂れている箇所がある…。」
「はぁ…つまりどういう?」
「鼻血は“二回”出ている。しかし我々が映像を監視している間…フラッシュトークは使っていなかった…。」
愛の早まる鼓動はゆるやかに平常時に戻っていった。映像の偽装がバレた。が、これはピンチでは無い。愛は、AIZAWAが、自分が初めて信じた父親以外の男性が、この程度の未来予報ができないとは思っていない。先ほどから何者か、“電話の男”の影響によって予定よりも危険は高まっていたが、ここに来てAIZAWAの描いた未来の軌道へ回収された。愛は、そう確信し落ち着いた。
「この娘…まさか…全部演技か!おい、一旦床に座らせろ!何か持ち出していないか!?」
ここは依然、エレベーターの中だ。彼らは一箇所に密集している。エレベーターには監視カメラがあるはずだ。AIZAWAの目があるはずだ。そして、頭の中に流れていた音楽が終わった。愛は全力で自分を抱え上げている男の手を振りほどき、地面に片手をついて着地した。そして、振り向きざまにiPhoneを取り出した。
「このガキー」
愛は叫んだ。恐怖の悲鳴でも無く、怒りの怒号でも無く、AIZAWAから伝えられた言葉を思い出し、それを叫んだ。
「AIZAWA起動!フラッシュトーク!!30倍速!!」
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