「アイとアイザワ」第八話
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愛は、閉まりかけた扉をとっさに身体で押さえた。視界に光の残像が残っている。愛が放ったフラッシュトークの光が、よく磨かれたステンレスの壁面に反射したせいだ。画面の反対側にいた愛自身も、その強烈な光の流れ弾に晒された形になった。愛は長い睫毛をパタパタと瞬かせ、それを何度か繰り返してから、足元の一年以上履き込んだローファーを確認した。視界はほとんど元通りになっていた。
「待て!」と怒号がエレベーター内に響いた。愛を抱えていた大男(ずっと目を瞑っていたため、始めて視認する。)の巨体の影に隠れて、ブラックアウトを逃れた部下がいたのだ。完全に意識を失い背後に倒れこんだ大男が、その部下を押し潰している。何とか巨体をどけようと奮闘しているその男は、まだ20代に見えるが髪は薄くて綺麗なおでこが露出していた。愛は、自分の目も眩んでしまった原因が彼のおでこに反射したせいなのではと真剣に疑った。
「待てって!それ!そのスマホ貸せ!それを持ち出したらダメなやつだって!」
愛は、上司が気絶した途端に小物感が溢れ出すデコ広の男を一瞥し、これが会社組織の縮図かと思った。指令が途絶えた兵隊ほど愚鈍なものはそうそう無い。
「そのデカイのが起きる前に言っとく。あんた達は最低。世界の滅亡より金儲けなんて、フィクションの世界でも今時珍しいチンケな悪役じゃない。恥ずかしくないの!?」
「は!?何言ってんだ?」
愛は啖呵を切った勢いで駐車場に飛び出そうとしたが、思わぬ反応に振り返った。デコ広は依然として大男の下で愛を恨めしそうに睨みつけている。その反応の理由は察しがついた。きっとAIZAWAが伝えた山田所長代理の思惑は、末端の社員には隠されているのだろう。
「追ってこないでよ。今に私を逃して良かったって思わせてあげるから。」
愛は、駐車場の出口を目視すると全速力で走り出す。突然、耳元でAIZAWAの声が聞こえた。
「愛、走りながら聞いてください。」
「AIZAWA!?どこにいるの?」
愛は言いつけを守って走りながら何処かにカメラが無いか駐車場を見渡した。
「iPhoneです。指向性で音声が出せるようにしました。この声は半径1m程度にしか聞こえません。」
愛はiPhoneの画面を見た。そこには青年がバストアップで表示されている。目にかかる長さの愛らしい猫っ毛。髪色は明るいグレーで、瞳はエメラルドグリーンの、正真正銘の美男子だった。おそらく実在の人間では無い。見た目は人間そのものだったが、これはAIZAWAのアバターの様なものなのだろうと、愛は理解した。清潔感のある白いシャツを着ていたが、課金すれば好みの服装にカスタマイズできるのかなと、愛は余計な事も考えた。
「愛?どうかしましたか?」
愛はAIZAWAに似合う服装を頭の中で試していたが、我に返って答えた。「いやいや!えと…AIZAWA、スピーカーをいじったって事?」
「ハードは変えられませんよ。正確には擬似的な指向性を、パラメータをチューニングする事で実現しています。先程のフラッシュトークも同様です。」
愛はイマイチ理解ができなかったが、口頭でしかも走りながら聞くには難しいので、後でフラッシュトークの情報量で教えてもらおうと思った。
「愛、駐車場を出たらすぐに隠れる場所を探してください。」
愛は自分がにわかに高揚している事に気がついた。フィクションの世界が大好きだったし、目の前で何か理解を超える事が始まる日を心の何処かで待っていた。それは幼い少女が白馬の王子様を待ち焦がれるかの様に、愛は何かが始まるのを待っていた。それが例え、人類の存亡がかかっていたとしても。
「AIZAWA、そのいわゆるXデーの日付しか聞いてないけど、今後どこに行って何をすればいいのか教えて。」
「私は、その未来の別れ道を“フラグ”と呼称しています。創作の世界でよく使われる言葉なので愛も直感的に理解できるでしょう。私たちは結末がまだ決まっていない物語にいます。そのフラグがどんなものかのか、まだ決定していない様です。」
愛はすぐに“死亡フラグ”という単語が頭をよぎったが、あまりに不吉なので考えない事にした。
「その…最後の大きなフラグの前に、まだやらなきゃいけない事があるのね?つまり…小さなフラグがあるって事?」
「察しが良いですね、愛。その通り。便宜上、Xデーに回収しなくてはならない最後のフラグを“エンドフラグ”と呼びましょう。エンドフラグは、私たちの今後の振舞いによって変化します。その内容も、回収の難易度も。最初の小さなフラグは3日後に歌舞伎町に発生します。それら小さなフラグを回収する事で、私たちはエンドフラグに対して有利になるでしょう。」
「いきなり最後のクエストに突っ込んでも全滅するだけって事ね。ゲームで言えば。」
「そうです。私の未来予報はゲームの攻略本だと思ってください。ただし、大部分は塗り潰された攻略本ですが。」
AIZAWAは自虐的なジョークを飛ばした。
「愛、まずは協力者を見つけて身を隠してください。誰かを頼って身を隠す事は、信頼関係に大きく依存する行為です。私の方から提案する事は可能ですが愛が自らの意思で協力者を抜擢した方が成功の確率は高まるでしょう。ただし、親族は真っ先にNIAIが疑うでしょうから除外するのが賢明です。」
愛はその言葉にぞっとした。親族。自分のお父さんとお母さんの所にNIAIの連中が来る事を考えると恐ろしくなった。
「AIZAWA、私の親族に危険が及ぶ可能性は?」
「可能性は高くありません。日本は警察もマスコミも非常に高いレベルで機能しています。非人道的な工作はリスクが高過ぎると判断するかと思います。であれば、親族とは接触せずにその周辺で愛を探すに止めるでしょう。」
「え?警察もグルなんじゃないの?」
「グルと言う表現は適切ではありません。組織全般は基本的に上からの指示に下が従うという原則で機能しています。実際に上の指示が正しいか否かは問題では無い。女王アリに従う働きアリに善も悪も無い様に、警察も我々にとって悪とは言えない。ただし、指令があれば我々を捕まえようとするでしょう。その指令が無い限り、警察は私たちにとって無害です。」
信頼できる人間。幸か不幸か、愛は家族以外でそう思える人間は少なく迷う事はしなかった。単なる信頼という尺度であれば神保町の交差点にある古本屋の店長のチョイスは信頼に足ると前々から思っていたが、ここで言う信頼とは異なる事は明白だった。身の危険がある中で信頼できる相手、それは命を預けるに足る相互の信頼関係を指しているのだ。
「人形町に向かう。親友の家があるの。今日はバイトが無い日だから、今の時間は家にいるはず。」
「周防 花ですね。小学生の頃からの友人なら信頼できるでしょう。かしこまりました。駅は施設の人間がいる可能性があります。車で参りましょう。ちょうど先ほど手配したタクシーがあと1分程で施設前に到着します。」
「もしかして、そこまで読んでタクシーを?」
「あくまで数多ある可能性の一つに上手く収束したに過ぎませんよ。愛が大男の腕を振り解くタイミングが0.1秒早ければ、男は前方に倒れて愛に直撃していましたし、0.1秒遅ければ大男はフラッシュトークを免れる角度に顔を向けててしまっていた所でした。」
「九死に一生を得たって感じね。」
「愛、確率で言えば10%よりも少なく、九死に一生では多過ぎます。」
タクシーに乗り込みながら、愛は愛しの人工知能が繰り出した笑っていいのか微妙な言い回しに「そうだね」と相槌を打った。やはりここは新木場で間違いが無いようだ。巨大な高架橋を見上げながら、愛は周りの風景を確認する。
「人形町まで、住所は」そう運転手に告げた瞬間、愛は小さな悲鳴に似た声を漏らした。「住所は後で!出してください!」バックミラーの端が、黒い影を捉えていた。
「愛、山田所長代理のバイクが接近中。」
Chapter2 - ROAD MOVIE
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