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miu miuと共感の分量

朝の表参道は人が少なく、歩いている人はそうとうに少ない。行きかう人はだいたい、走っている。信号待ちの間まで、リズミカルに足踏みしている。満杯の目的意識が体から放たれていて、なんだかきらきらしている。

おじさんはだから、わたしに話しかけてきたのだろう。あからさまに暇そうにだらだら歩き、交差点でもぼんやり止まっているだけだったから。

「すみません、あの看板」

ポンポンのついた帽子が可愛らしい彼は、おじさんというより年齢的にはおじいさんだろう。指差すのは、おなじみ谷内六郎の絵の隣の看板だ。

「あれ、なんて読むのかなあ? みいうみいう?」

「みゅうみゅう って読むみたいですよ」

「ミュウミュウ? 何語? なんの宣伝?」

「洋服やさんです。イタリアのプラダってブランドの妹版で、デザイナーの子どもの頃のあだ名からとった名前らしいので、イタリア語ですかね」

答えると、おじさんのマスクから笑みがはみだした。

「へえ、そうなの。ミュウミュウっていうの! 最近、ずーっと考えていたんだよね。ロシア語っぽい気もするし、なんだろう、なんだろうって。でもなかなか人に聞けないしさ。謎が解けて良かったよ」

信号が変わり、おじさんは片手をさっとあげると、去っていった。知らないことがわかるって、とても嬉しいことなんだという顔をのこして。

***

本の編集の仕事をしているけれど、いつからか、著者をはじめとする作り手側が「上から目線になりたくない」と気にするようになった。教えてあげるという姿勢が見えると、読者に「偉そうだ、なにさまだ」と反発を食らうからと。

明らかに難しいことや、まっさらに新しいことは全体の3割程度。7割は、読者が「それなら知ってる」「うんうんわかる」という配分がヒットの条件とも言われている。新しいことを知るよりも、共感のほうが、強い力を持つということだ。

「ああこれ、自分と同じ」と感じるのは確かにうれしいことで、でも、実はこわいことだ。共感の分量があまりに多くなりすぎると、共感できない人やことを、排除するようになる。まるでチャーハンの不協和音になりうるグリンピースを、注意深く執念深くとりのけるみたいに。

おじさんに改めて教わった。知らないことを知るって、本当はうれしいこと。知らないことを教えたり教わったり、子どもの頃の遠足のお菓子みたいに交換すればいいんじゃないかな。

チャーハンのグリンピースって、たいしておいしくないけど、あれがあるから中華屋さんのチャーハンって感じがするしね。


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