自分の人生をありのままに振り返ってみた(養父真介)
でっかく生まれ、よく転んだ2~3歳
「3500g」。
名前の由来は、真実一路の己の信じる道を進めという意味で「真介」。兄と比べても一回り近く大きく、まるまると太っていて、腕もボンレスハム。産まれてすぐに、ちゅぱちゅぱとおしゃぶりをしていたらしく、「この子は大きくなるな」と母親は思ったらしい。おっぱいも良く飲み、おっぱいが大好きで、母親が昼寝してても飲み続けていたとのこと。食いしん坊万歳。ただ、歩きはじめたのは1歳半。とても遅かったみたい。
母親がフランスベッドの販売員をしていたため、その母親に背負われて、母親の営業先に同行。母親がお客さんと話すのは1時間程度になるため、普通であれば、ぐずるなり、落ち着きがなくなってだだをこねてしまうところ、聞き分けもよく、お客さんの前では何も喋らなかったみたいです。邪魔にならないよう隅っこでじぃっとして、絵本等を読んでいたらしい。恐らく、接触回数も多く、愛着が形成されていたからできたことかもしれませんね。
この頃の記憶はほとんど無いのですが、自分が転んだ記憶だけはなぜかあります。大阪府池田市に住んでいたときの二階のアパートから母親が目を離した先に、階段から転げ落ち、頭からコロンコロンと落ちていき、すとんとお尻から着地。ちょっとたんこぶが出来たぐらいで済んだようです。他にも滑り台から転げ落ちたり、自転車から落ちたりと、「この子、これだけ頭をぶつけてあほになったらどうしよう…」と本気で心配したみたい。過去に、頭から落ちる夢というのを何度も見ているので、その恐怖心というのはしっかりと覚えているのだと思います。自分の人生を振り返ると、バカというか無謀というか、そんな行動を人生で取り続けていますが、本当のアホにはなっていないので、ご安心をと今のところは言いたい。そういえば、青年期は頭痛持ちだったが、それがもしかしたら影響をしているのかも…と改めて思う。
自立をはじめた幼稚園児
ひよこちゃんの生地の服を母と兄弟3人でお揃いにしていたそうですが、しばらくして「ぼく着ないっ」と言い出す。「同じものを3人で着るのは嫌だ」と。母親は、「おぉ、もう自立しはじめた、自分の主張を出すようになったんだ。これまでのようにべたべたしちゃいけない」と思ったとのこと。自分の記憶としては、幼稚園の先生やFさんが好きだったという気持ちを覚えている程度。この頃は、鍵っことなった小学生の頃と異なり、母親と一緒にいる時間がまだ長かったので、心が平穏だったのだと思う。それ故に脳への刺激も少なく、記憶に留まらないのかな、と。
ただ1つ、チョロQ事件は、幼稚園の頃だったと思う。家族で旅館にいったときに、自分が持っていた古いチョロQを旅館のお土産コーナーに置いてあった新しいチョロQと、出来心で交換してしまったのです…。結局、その行為は親にも見つかっていないし、親にも伝えていないけど、今でもその行動が心に刻まれているのだから、よほど「悪いことをした」という認識と恐怖心があり、「もう二度とそんなことはしない」と心にも刻まれたと思う。
「あきやすのすきやす」な小学生
親から「挨拶はしなさい」と躾られ、それを忠実に実行していた養父少年。「忠実に」というのは、どういうレベルかというと、「出会う人全員に挨拶する」という行動。これは今でも覚えていますが、誰彼構わず挨拶をしていて、みながキョトンとした顔をしていたのが不思議でした。そりゃそうだ、見知らぬ子どもがいきなり挨拶をしてきたら、ビックリしますよね…。いい人なら「あれっこの子に会ったことあったっけ?」と過去の記憶を辿ってくれるでしょう。その後、「誰でもいいから挨拶しなさい」というわけではなく、「見知った人には挨拶しなさい」という意味だったことを知る。
小学校のときから母親は、本格的にフランスベッドの営業をすることになっていったので、鍵っ子に。当然のことながら、家には誰もいない。それが本当に寂しかった記憶が強烈に残っています。3つ離れた兄はいるのですが、兄が家にいた印象がないので、恐らく常に遊びに行っていたのでしょう。たまに、母親が早く帰っていることがあり、家の中が温かくて、温かいコーヒー牛乳を出してくれたことや、祖母が福岡から泊まりに来てくれて、家で待ってくれているときの「温かさ」を今でも覚えていますし、そのシーンを思い出すだけで、自然と涙が出るのは、それだけ嬉しかったということと、それだけ寂しかったということなのだと思います。そして、僕の心にはたぶん「寂しさ」という穴がこのとき開けられたのだと。ひとりぼっちが嫌というのは、後々の人生にも影響を与えることになっていきます。
鍵っこで、何より怖かったのは、キョンシー(幽幻道士)の映画を観たあとでした。家にキョンシーが潜んでいるのではないかという恐怖があり、帰ってからまずカーテンを開けてキョンシーがいないことを確認して回った。そういえば、当時の嫌なあだ名が「スイカ頭」。実際、ポッチャリしていて、髪型も似ていたから、わからなくもないけど、子供って本当に残酷ですよね…(あだ名をつけた犯人はこの後に出てくる八木くん)。
寂しさを紛らわせるためにも、「友達と遊ぶ約束をすること」がかなり重要でした。そして、このころ頻繁に遊んでいたのが「ドカンくん」。この「ドカンくん」と一緒に遊べるかどうかが生命線でした。他の友達とはあまり遊んでおらず、「いっちゃん」と「剛也くん」という2人の幼馴染もいましたが、遊ぶことは少なかったと思います。なぜ、このドカンと遊ぶことが楽しかったのかというと、当時、大流行したファミコンなりコンピューターゲームを豊富に持っていたから。みんなもそれを目当てにドカンの家に集まっていた。昭和の初期で言えば、皆がテレビを持っている家にお邪魔して観させてもらうというのと同じような感覚なんだと思う。
このコンピューターゲーム(ファミコン)も、小学何年生の頃かは忘れましたが、養父家にも導入されました。その頃はマリオやらドラクエ3に夢中になりました。発売日をみると1988年なので、小学4年生か5年生頃かな。一番覚えているのは、親が寝静まったころに、1人でこっそりファミコンが設置されている部屋に入り、深夜まで夢中になってしていたのを今でも記憶しています。親に怒られる恐怖感はありましたが(母親は怒るとめちゃめちゃ怖い)、それよりもドラクエの次の展開を知りたいという気持ちが勝り、はまってしまいました。自分の特徴として、一度ハマるととにかく探究をし続けるというのは、この頃から発揮されていると思います。
また当時、自分でも運動音痴(正確には器械体操系が大の苦手)を自覚していたにも関わらず、なぜか少年野球に入団。当然、万年補欠。外野でボールの距離感がつかめないから、全くと言ってよいほど捕球ができないにも関わらず、だ。なぜ、続けていたのか?は未だに謎に包まれていますが、堤防の練習場で食べたおにぎりや味噌汁の味は覚えているから、もしかすると、運動のあとの飯は旨い!という理由だったのではないかと邪推してしまう。食いしん坊万歳(そういえば、兄とはいつも食べ物の争いをしていたから、食欲は強いはず)。ただ、最終的に中途半端に辞めた感覚だけは残っています。数年前、仕事繋がりの野球経験が長い方と一緒にバッティングセンターに行ったとき、素振りが上手!と言われたのはめっちゃ嬉しくて、意外と子どもの頃に身に付けたものは体が覚えていることに驚きです。
他にも、習い事は兄が取り組み始めたものをみて、「僕もやる!」と言って、金魚のフンのように付いていっては、辞める…を繰り返したことをよーく覚えています。例えば、
・英語スクール・・・少林寺拳法を習っている性格の悪い男児が一人いて、すぐに拳で脅そうとする行為が嫌で、辞める
・少林寺拳法・・・準備体操メニューに入っていた側転ができないことで諦め(なぜ側転なのか?というのは今でも疑問ですが、先述のとおり器械体操系が壊滅的にできないため、それをやらされたため一気にやる気をなくしたのでしょう)、1日で辞める。
・習字・・・半年ぐらい。父親は文部大臣賞を取るぐらい習字大好き人間なんですけどね。
・そろばん・・・6級ぐらい?
反面、兄は継続できる人。
そのとき母親に言われて覚えている言葉が「あきやすのすきやす」。
福岡弁で、「飽きやすく好きやすい」という意味なのですが、悪い意味で使われているのはわかっていたので、心は傷ついていました。そのため、物事を中途半端にしてしまうのは、いけないとずっと思っていたし、物事を中途半端にしてしまう自分を卑下するようになっていきました。
本と漫画が大好きな小学校高学年
小学校高学年の頃に夢中になっていたことは、1つだけ。それが読書です。その中でも「ズッコケ3人組」は、全巻制覇したぐらいにはまって読んでいたと思います。さらに、母親が読んでいた赤川次郎さんの「三毛猫ホームシリーズ」もはまって読んでいました。その結果、視力が一気に悪化して、メガネっ子に。こういう性質は今も同じで、ハリーポッターもそうだし、社会人になってからは、宮本輝さんの本を、仲の良い先輩に勧められて、ドはまりし全巻を集めて読んでいます。本を読んでいると父親が「よく読むなぁ」と褒めてくれた影響が大きかったと思います。小学生のときではないのだけど、陳舜臣の「耶律楚材」という歴史小説を読んでいたときに、「そんな難しい本をよく読むなぁ」と言ってくれたことが嬉しくて、あまり読んでいて面白くもないにも関わらず読んでいたし、話しの返答スピードが速いと「よくそんなにすぐ返答できるなぁ」と褒めてくれたことも嬉しくて、返答が速いことは良いことだという認識が生まれたのだと思う(親の価値判断は子への影響大ですね)。父親は、小学5年生のときに学校でもらった表彰状を今でも大切に持ってくれていたから、父親としては本を読むことが本当に嬉しかったのだと思います。ただ、耶律楚材の本を読んでいたときもそうですが、途中からは読書をする目的も変わってきて、「読むこと」が目的となり、読書を楽しんでいたのかというと、そうではなかったと思います。「褒められるから読む」「読書をしていると認められるから読む」という感じ。たぶん、好きな本を読まずに「難しい本を読んでいると褒められるから読む」という承認欲求を満たすほうに舵を切ってしまったから読書に飽きたんだと思います(下手に親が褒めることにより、子供の本来の欲求を阻害するというのは怖いことですよね…)。
小学生時代は漫画もかなり読んでいました。それを見た父親が「勉強しろ!」と言うのが心底嫌でした。これだけ本も読んでいるのに、なぜ漫画を読んでいるときに「勉強しろ」というのかは、恐らく本人が苦労して夜間大学に働きながら通ったということもあるのだと思います。勉強しろと言われたときは、「勉強したいときにするわ」とは思っていましたが、ストレスになっていました。昔から父親への印象が悪いのは、母親が父親に対して愚痴をこぼすみたいなシーンが多かったせいもあるのでしょうし、実際、父親は、暴力を振るうみたいなことはなかったのですが、酒を呑んで呑まれてメガネを壊して帰ってきたり、その他にもあったような気もします。それを見て「自分はああはなりたくないな」と思ったから、酒を呑んでも、意識がなくなるまで呑むことはないのでしょう。
小学校時代の思い出深い人間関係
小学校時代の思い出深い人間は、「Kさん」と「八木君」。「Kさん」は小学校4年のときに大好きだった子。この子を笑わせることが何より幸せで、当時ウーパールーパーが流行っていたこともあり、「ウパルパウパルパ!」とウーパールーパーの物まね?ばかりをしていました。そして、八木君。この子は虎の威を借る狐で、本当に嫌な奴。常に、誰かをターゲットにして、自分の地位を保とうとしていた。そして、自分もこいつのターゲットの一人になっていました。この八木君が僕につくった謎のテーマソングがこちら。
「メガネ、ざるビーバー、先生、あのねのね(癖で手首を回していたため)。ブレーブス(少年野球団)、補欠組♪」
憎い奴ではあるけれど、よく観てるよねぇということと、常に人の揚げ足取りをしないと、自分の心の安定を保てないというのは、八木君自身の心にも様々な問題があったのでしょう。
さいごに、印象深い出来事として、僕は一度、生徒会長に立候補したことがあります(あえなく惨敗)。なぜ立候補したいと思ってしまったのか?恐らく、誰も出ないのなら、僕が出る!という謎の正義感ではないかと推察しています。その後の立候補者の演説のとき、緊張のあまり大きな声を出し過ぎてしまったんですよね…。そのあとに、誰かが「何を言っているかわからなかったよね」みたいなことを言っていて、ショックと同時にとても恥ずかしかったという記憶があります。たぶん、このことをきっかけに人前で話すことへの苦手意識が深く心に刻まれたようにも思います。
中途半端さを発揮し出した中学生時代
両親曰く「内面(うちづら)が悪くて、外面(そとづら)は良い」という感じで、家族に対しては、挨拶も最低限だし、あまり積極的に話もしない。でも、一歩外に出れば、家族以外の人には元気に挨拶もして印象が良かった、らしい。
中学1年生のときは、当初、卓球部に所属。理由は、小学校のときも卓球部に所属していたし、友人のドカンも卓球部ということもあり、惰性で決めた感じが強い。ある日、その友達とクラブの時間中にじゃれあっていたとき、上級生がそれに苛立ち、自分を狙って蹴ってきたのです。その勢いでメガネが顔面に食い込んで痕が残るほど痛かったこと以上に、やり返すことができなかった自分の気の弱さに物凄く腹が立ちました。そして、卓球部を辞めることに。
恐らく、このとき蹴ってきた上級生と、小学生のとき、自分がつま先立ちで走っているのを馬鹿にしてきたのは、同一人物かなと。人を小馬鹿にする奴、人に敬意を払えない奴に対して、心底腹立つという感情を抱くのは、このときの出来事が大きいし、自由な表現を制限するようになってしまったのも、この体験が影響しているのだと思います。
その後、2年生のとき、新しく横山先生が赴任し、その方がハンドボールの選手だったということもあり、新しくハンドボール部を設立。始業式のオリエンテーションで行った迫力あるデモに圧倒されて、F君という子と共にハンドボール部への入部を決めたのです。意外にも他に入部した子はいなくて、2年生は僕とF君。そして1年生が10人程度だったと思います。
僕自身、少年野球時代と同様、運動が得意かと言えば、お気づきのとおり、得意ではない(でも、嫌いではない)。で、ハンドボールって、握力がないとまず駄目で、何せ腕をぐるっと後方に回して、勢いをつけて前方へ投げるという動作をとりますからね。でも、握力が弱かったので、その動作を取れませんでした。結果として、弱っちい威力の球しか投げることができず、2年と1年は経験値も同じであったため、経験の有意差を後輩に示すこともできず、当然、活躍することもできなかったので、劣等感のみが高まる日々でした。
さらに追い打ちをかけるように、一緒に入ったF君が喘息もちということで(え!?そんなん聞いてないよ~という感じで)結局辞めることになり、2年生は「たった一人」に。2年生が自分だけとなってしまったことで、一応部長という立場になったものの、その立場に対してずっと居心地の悪さを感じていました。それも、何かバカにされているような、そんな感覚をもっていたからだと思います。ただ一人、小前くんという後輩だけは、すごく慕ってくれていて、その小前くんは体も小さく、力も弱かったけど、心の優しい子でした。ただ、本心は、自分が優位性を保てるから、安心できていただけだと思います(クズですね)。
そんな状態でうまくいくわけもなく、段々と嫌気もさし、部活動から距離を置くようになってしまいました。最終的に横山先生に呼び出されて叱られもしましたが、温情でハンドボール部所属のまま卒業をすることに。ただ、そのときも「中途半端に辞めてしまった」という劣等感は強く残ることになりました。小学校時代の少年野球や各種習い事、このあとでお伝えする高校時代のバレーボール部、すべてのことに対して中途半端さが残り、それが自分自身としても大きな大きなコンプレックスでした。
虚栄心が原因で、大きな挫折を味わった高校受験
自ら親にお願いして塾に通うようになりました。ただ、入塾したときの成績が一番よくて、そのあとドンドン下がっていきました。その塾も成績が悪い人間の尻を竹刀で叩くような恐怖感で勉強をさせるようなところで、それも相まって勉強が好きではなくなっていったように思います。
この頃、Windows88とか98が発売。自分の小遣いや貯金で買える金額ではなかったので母におねだりをしましたが、数十万もするものだから、当然簡単には買ってくれません。その後、成績で良い点数を取ったら買ってあげるという話になり、必死に頑張って最終的にパソコンを購入してもらいました。でも、結局、なかなか使いこなすことができず、ゲームをするのみになってしまったという苦い記憶があり、パソコンにのめり込むということはありませんでした(これは現在にも通じていて、プログラミング系は最も苦手な職種であり、DX支援みたいなことも興味が沸かないのは、そういうことなんだと思います。それなのに、時代の流れを意識して、DX支援に力を入れねばっと思うのは、ずれてますよね。ただ、自分のなかにある「探究心」と擦れば変化はあるかもしれません)。
高校受験にも差し掛かり、志望校を決める必要があったとき、下手に塾にも通って「中途半端な学力」もあり、そして、「下手な虚栄心」というのもあり、本来なら地元の公立高校(島本高校)にいけば良いものを、その虚栄心が邪魔をして、ワンランク上の三島高校を受験することに。元々背伸びして受験したところではあったので、当然、「不合格」。人生で初めての大きな挫折を味わいました。そして、本意ではない大阪青陵高校(男子校)へ通うことになったのです。
忘れちゃいけないTくんとSちゃん
TくんとSちゃんは知的障害を持っていました。自分の中で障害を持っている人が身近な存在であるのは、このTくんが小学校時代から、Sちゃんが中学校時代にいたからだと思います。そもそも違和感を感じていないから、大学生時代に知的障害をもった方たちが暮らす施設へボランティアとして通うことになったのも自然な流れでした。Sちゃんのお母さんからは、母が「息子さんがよく手伝ってくれる」みたいなことを言われていたらしいのですが、あまり記憶はなく、一番記憶として残っているのは、Sちゃんが超マヨラーで、何でもかんでも弁当のおかずにマヨネーズをつけるもんだから、それには「ウェッ」となった記憶があります。
「グレー」な高校生時代
高校3年間のイメージは、ひじょーーーに暗い。イメージカラーは見出しのとおり「灰色」。高校受験に失敗してしまったという思いもあるし、男子だらけ(男子校だから当たり前)というのもある。やはり、挫折感が大きかった。高校の制服が、イメージカラーと同じくグレーだったので、他校の生徒からは「墓石が歩いている」と言われたぐらい。男子校は男子校で楽しめばいい!と割り切れば良かったのだろうけど、なかなか簡単に切り替えできない自分がいました。
自分が入部したクラブは、「バレーボール部」。理由は単純で背が高かったからだ(たぶん、180cm近くはあったと思う)。なぜ、運動音痴にも関わらず毎回スポーツに挑戦するのかは謎だが、兄が高校のときバレーボール部に入っていたということもあるかもしれないし、球技がとにかく好きなんだと思う。そのバレーボール部に入部した1年生はなんと「11人」。この11人で頑張っていくと思っていたのですが、最初の頃から参加者が少ない…。11人という人数も勘違いだったのかと思うほどに。最終的に残っていたのは、自分と柘植君。その柘植君も徐々に来なくなっていったから、最終的に中学時代と同じく「ぼっち」になってしまった。バレーボールが嫌いになったわけではないけれど、自分以外の全員が先輩という環境のなかで、モチベーションを維持できるわけがなく、徐々に参加ができなくなっていきました。そして、参加できなくなって数か月後、顧問の中西先生に呼び出され、フェイドアウトしたことについて「こんなんじゃ、まともな人生歩んでいけないぞ」と諭され、泣きながら「辞めます」と伝えることに。ここでも中途半端さを発揮した自分が好きではありませんでした。
高校時代はとにかく色がないし、記憶も薄い。たぶん、惰性で生きていたから。象徴的なのが修学旅行で、行き先が北海道だから楽しいはずなんだけど、覚えている出来事が本当に少ない。唯一覚えているのが上記の札幌時計台。それ以外の記憶はない…(北海道なのになんてこった)。あと、友人と呼べる友人がいなかったので、「仲間外れ」になることを恐れていました。体育とかでペアワークをすることってありますよね?あのときに、独りぼっちになることをかなり恐れていたと思います。
高校時代は、しつこいぐらい「本当に色がない」と言ってますが、まったく色がないというわけではなく、それが「高槻カレッジ学院」です。自分で予備校に行きたいと、このときも親に言って、予備校に通うことにしたのですが、このカレッジ学院は自分にとって色のある青春でした。
講師陣も、国語の岩田先生、世界史の五代先生、英語の岩崎先生と超個性的。結局、色って何か?というと、女子なんだな、と。高槻カレッジ学院には当然女子もいて、その子たちがいるから色がある時間になっていきました。僕自身は、男兄弟だし、男子校だし、女子に免疫がありません。だから、最初の声がけが本当に勇気が必要で、心臓バクバクさせながら(超青春!)声がけをしたのが、Fさんでした。そして、そのFさんをキッカケに、高槻カレッジ学院で友人がドンドン増えていき、女子友達も増えていきました。「勇気ある最初の一歩がいかに大事か」ということを、この時身に染みて感じた瞬間かもしれません。
高校時代のもう1つの特徴的なこととして「お菓子作り」に嵌まったことが挙げられます。一時期は本気で辻製菓専門学校に行こうかと考えていたぐらい。凝り性で一流の道具を集め、オーブンも購入し、難しいと言われるようなレシピも何度も挑戦して作り続けました。その難しいレシピを再現できたときの達成感も強いし、それを食べた人が美味しい!と言ってくれたことも嬉しい。独立開業後、人生の恩人から「養父さんは、職人だね」と言われた根源もここにあるのかもしれませんね。小学生のときも確か図工の時間でやたら細かい絵を描いたことも記憶していますし、小学生の娘が書いた絵についても、細かく丁寧に書かれたものに魅かれます。最終的に、そこまで本気で取り組もうという気にはなれなくて、製菓専門学校に行くことも辞めましたが、好きな子ができたら、お菓子を作って渡すという普通の男子がしないようなことをしていたし、子供が産まれてからも、一緒に菓子作りをすることに一切の壁がないというのは、父親がパティシエでもないかぎり、稀かもしれません。
(傾向として、作ったことがないレシピで作るのが好きで、一度できてしまうと、そのあと繰り返すということは余りしないということも特徴的で、今の仕事にも通じるところがあります。新規の面談、新しく始める仕事が大好き、とか)。
高校時代はスーパーでのバイト生活も楽しみの1つでした。それは、中学時代から大好きだったAさんが同じバイト先だったから。このAさんを好きになったのは、中学のとき。泣きながらテストにおける自分の採点ミスを先生に伝えて、赤点になったんですね。正直に生きるその姿に感動して、それから気になる存在になっていきました。僕は、好きになったら、とにかくダメ元で告白するということを大学生活も続けていましたが、なぜかAさんだけはそれができませんでした。きっと、自分の好きという気持ちを大事にしたかった。その記憶のまま大事にとって置きたかったのかもしれないと今では思う。実際、あまり後悔もしていない。かといって、告白した子たちにいいかげんな思いだったのかというと、そうではなくて、いつも真剣でした。自分が前へ進むためにも、きちんと区切りをつけたかったのでしょう(相手には迷惑この上ないことだったと思うけど…)。
大学デビュー!な大学生
いわゆる大学デビュー。人生って楽しい!と思えたのも大学生になってからという印象が強い。それまでの自分はコンプレックスだらけ、クラブ活動も中途半端で何一つ真っ当にできていないという感覚が強く、何か1つでも「継続したい」という思いがありました。
大学では、新社会ボランティアサークルに入部(ボランティアでは珍しく、サークルではなく、部として存在していた)。なぜ、入部したかというと、もともと阪神淡路大震災のときにボランティア活動をしたかったから。そのときに一歩を踏み出せなかった自分に不甲斐なさを感じていたことをずっと引きずっていて、大学にボランティアサークルがあると聞いて、「これだ!」という思いでした。そのサークルには、老人ホームへ行く班など5班で構成されていました。僕は知的障害をもつ方たちが生活をする施設に遊びに行く白川班に所属することを決定。理由として一番大きかったのは、先輩たちが障害をもつ方たちとの交流を楽しんでいる雰囲気があったからというのと、小学校中学校時代から身近な存在だったからだと思います。あと、単純に自分自身も「楽しい!」と感じられたことも大きい。白川学園は京都の中でも歴史のある施設で、子供から大人までが入所し、障害もダウン症の方から、自傷行為をするような重度の方もいる、そんな施設でした。
職員さんのお手伝いをすることもありましたが、施設に入所している方たちへの付き合い方は、基本「自由」。メンバーそれぞれが自分に合った付き合い方ができる、そんな班活動でした。僕はどうしていたかというと、幅広い付き合い方をしていましたが、比較的活発な子供たちと一緒にあそぶことが多く、たまーに痛い思いもしながら、逆に痛い思いもさせながら(今考えると危険…)、楽しく活動していました。特に、班長の西川と僕は、子供たちとワーワーキャーキャー言いながら遊ぶことが多かったので、学園の門に着いた途端に「にっしかわ!にっしかわ!」とか「よーふ!よーふ!」のように、子供たちから大きな声で連呼され、過激に?求められていることが単に嬉しかったのだと思います。結局、4年間無事にやり通すことができたことで(途中ちょっと中弛みはありましたが・・)、あきやすのすきやすという母の呪いをここで1つクリアできた感があります。
このクラブ活動で感じたことの1つは、人前で意見をもって話すということが苦手だったこと。100人近くの部員がいる中で、自分の意見を堂々と発信している人をみると凄いなと思い、それができない自分に対して不甲斐なさを感じていました。
(今もこの感覚はあるのですが、おそらく、人の話を理解してから自分の腹に落とすまでに結構時間差があるということなのだと思います。何も意見がないわけではないので。)
また、このサークルには、各班を横断するグループが存在し、僕はそのなかで渉外局に所属をしていました。何をするのか?というと、メインは「飲み会の世話役」みたいな感じ。なんでやっていたのかというと、「人が飲み潰れたのを介抱するのが好きだったから」。酔い潰れてしまうことのほうが、楽しそうだと思う面は確かにあったけど、それ以上に介抱することの快感が自分にはありました。もう1つは、酒癖の悪い父親の情けない姿をみていたので、酔い潰れることに対しての抵抗感もあったのだと思います。
大学時代に「いい人」と言われることがあり、自分としてはその表現をあまり良いように捉えてはいませんでしたが、周囲に緊張感を与えない自分の雰囲気や、自然と介抱してしまったり、相談に乗ったりする行動がそうさせたのではないかと思います。サークル仲間の恋愛相談・失恋相談に乗ることも多く、失恋時にはわざわざ大阪の自宅から京都の友人宅まで原チャで深夜に駆けつけるみたいなこともしていましたが、相談に乗ることで、自分の存在価値を強く認識できたことも大きかったのかもしれません(自分のwant to※である「相談に乗って、状態を見極めたうえで問題解決をする」は、ここに原点があるように思います)。ただ、逆に自分が相談に乗ってもらいたいときに、他人は相談に乗ってくれる存在ではないということも知り、人間関係を継続することの難しさも認識していきました。その中で唯一、関係が継続したのはサークル仲間の「藤野」でした。自分の20年来の人生で初の友人です。同じ法学部ということもあり、同じサークルの渕本(通称フッチー)と共に、法学部の棟へ向かっているときに自分が言った何気ない「誰も信用していない」という言葉に対して、藤野は「僕は養父を信用してるんやけどなぁ」という言葉に衝撃を受け、「藤野なら信用してもいいかもしれない」と思うようになり、何でも話す友人になっていきました。
※want toとは、時間を忘れて没頭してしまったり、誰にも褒められなくてもやってしまうもの。頼まれてもいないし、お金が稼げるわけでもないのにやってしまうものです。
充実しているけど、それだけで終わらせてはいけないと考えた真面目な大学3回生時代
※知ってました?関西では大学1年生2年生のことを1回生、2回生と言うんです。
クラブ活動自体は楽しかったし、満足もしていたのですが、親に高い学費を支払ってもらっているのに、勉強を真剣にしていないことに対する後ろめたさみたいなものがありました。もう1つは、社会に出ることへの漠然とした不安。法学部って潰しがきく学問という認識でいたのだけど、反面、特徴がない…という弱みもあると感じていました。さらには、障害者施設で働く方たちの大変さをボランティア活動を通じて実感していたこともあり、また、自分自身が法学部という学部に所属していたこともあり、その関連の仕事で外部からサポートできることはないか?と考えました。
そこで、法学部関連の資格を探しに、東京LECリーガルマインドへ。その資格専門学校のパンフレットを眺めていたときに、パッと目に飛び込んできたのが、
「心の専門家になる」
とPRされていた社会保険労務士という資格。でも、社労士って「心の専門家」ではないんですよね…。心の専門家と言えば、臨床心理士とか産業カウンセラーをイメージすることが多いのですが、なぜか、思い込んでしまったというか勘違いをしてしまって、「社労士って面白そうな資格やな、良しやってみよう!」と決断しました。
(結構思い込みが激しいという認識はあって、この後に大学を休学して語学学校に行くことにもなるのですが、そのときも思い込みによって、現状を変えるという行動を取っています)。
(社労士は今年で16年もしている職業なので、長くなってしまいますが、もう少しこの話を続けます)
その後、社労士の勉強本をまず購入しました。その本の著者曰く、社労士の試験というのは、試験科目も多く、出題範囲も広範囲に及ぶから資格学校に通ったほうが、効率よく学べますよ、と。そして、独学はお勧めしません!みたいなことが書いてあり、逆に、そう言われると、独学で取ったろやないかい!と思って、独学でチャレンジすることにしました。他の人と同じやり方を好まない、自分独自の道を歩みたい(独自路線を行く)という思いが、そのチャレンジに向かわせたのだと思います。
(その後の人生でも、未経験で独立開業したり、どの社労士事務所も採用していない選考手法を導入したり、職員がひとりの状態で新卒採用をしたりと、零細事務所がインターンシップを実行したり、独自の道を選択することに生きがいを感じているのだと思います)
これまでもお伝えしたとおり、私自身は勉強が嫌いであり、大学受験もそこそこしかしておらず、勉強そのものに対する自信なんてものはありません。試験日までの期間は9か月しかなかったのですが、ひとまず「最初の6か月は1日も休まず最低1時間以上は必ずやる」という目標を定めました。これまでの勉強はとにかく「少しでもサボりたい」という気持ちが脳裏を掠め、それを実践してきたので、自分の中で「1日も休まず」というのは、大きな課題でした。結果的に、平均して2~3時間は1日も休まず継続できたし、それもまた自己信頼に繋がりました(自分がやりたいと思って決めたことはちゃんと継続できるんだな、と)。
そして、6か月経過後ぐらいに模試を受験。結果は当然「合格圏外」。
普通なら「こりゃあかんわ、来年合格したらええわ」みたいな感覚を持つような結果なのですが、そのときの自分は一切そのようには思っておらず(謎の自信。正にエフィカシー(自己効用感)が高い状態と言えます)、試験までの残り3か月間を思いっきりスパートを切ろうと思い、1日10時間近く勉強しまくる生活に切り替えました。その頃、恐らくゾーンに入っているような状態だったと思います。体温も平熱が36.5度のところ、37.0ぐらいまで上がり、何か体が熱いみたいな状態になっていたので病院にも行ったところ「(原因不明のため)おそらく自律神経失調症じゃなかろうか?」とドクターに言われました。結局、勉強しているうちに、あまり気にならなくなっていきました。
僕の勉強法はシンプルで秋保雅夫さんという方の「丸覚え社労士」という本をひたすら書いていたのですが、正直なところ学生である自分には、理解できる部分は少なくて、2週目ぐらいまでは殆どと言っても良いぐらい理解できていなかったと思います。
(僕はこの頃もそこまで理解が速いというわけではなく、時間のかかるタイプだったんですね…。今にはじまったことじゃない。じっくりじんわりタイプ。改めて、新しい物事をはじめるときは、泥臭く着実に歩を進めていこうと思う。)
でも、それが恐らく5週目ぐらいになっていた頃、脳内のシナプスが横に繋がっていくような感覚で、今まで理解できなかったところが「わかる!」という状態になり、より勉強に熱が入り、その熱を失うことはなく試験日に突入!という感じでした。
そして、この時に臨場感として持っていたのが、社労士という資格が書かれた名刺をもって、経営者に挨拶をしているシーン。結構、イメージできていたのですよね。これまでの人生でもそうですが、ここまでイメージがハッキリしたものというのは、本当に実現しやすいと感じています。
試験当日は、なぜか「合格する感覚」しかなかったですね。当然、緊張感もあるのですが、それ以上に「やったる!」みたいな気持ちが勝っていて、集中力が途切れることなく、試験を終えることができ、最終的に「9か月間」で一発合格することができました。
その流れで行政書士も取ったろう!と思ったのですが、集中力が続かず、あえなく撃沈。人生は甘くないというか、ろくなイメージもしていませんでしたし、当然の帰結かなと。
この資格を取得してからは、特に父親は勉強をしろみたいなことを言われなくなり、自分の中にもあった勉強に対するコンプレックスみたいなものも昇華されたように思います。
この勢いで「独立開業を!」と意気込みましたが、そこはやはり不安で、唯一の知り合いだった社労士さんに聞いてみたところ「お客さんは中小企業経営者だから、社会人経験がないと難しいのではないかと思う。大企業から中小企業まで経験することで、そこで働く人の気持ちも分かるし、適切な助言もできるのではないかと思う」と言われ、「なるほど!」と思い、独立開業をする思いを一旦は封印し、就職活動をすることに舵を切りました。
初めてレールから外れること(独自路線を行くこと)を決断した20歳。語学学校選びで大失敗→バックパッカーへ
就職活動へ舵を切ったものの、このまま就職活動に進んでも良いのかと自分なりに疑問もありました。おそらく皆と同じような行動を取るということへの疑問があったのではないかと思いますし、社会の流れに抗いたいようなそんな気持ちもあったかもしれません。「大学生活でやり残したことはないか?」そんな思いもあり、ずっとモヤモヤを抱えたままでいました。
大学生活ではやりたいことをやってきたし、その中でも、文化団体連盟という文科系クラブの上位団体があり、この団体でも渉外局に所属していました。そのメンバーは、ボランティアサークルのメンバーとも異なり、個性的。渉外局では、京産大の文化祭を宣伝するようなことをしていて、他大学の学生との交流も刺激的でした。その影響もあってか、「誰かと交流する」ということにとても興味があり、そういえば、「多くの日本人とは交流してきたけど、外国人とは交流してないな」と、忘れもしない大晦日の自宅の自分の部屋で閃いてしまったんですね。そこで、自分の部屋から飛び出し、階段を一気に駆け下りて、母親に「悪いけど、1年間休学をして、語学学校に行かせてもらえないか」と相談を持ちかけました。
自分のなかで、「就職活動をするという大きな流れ」から逸れることに対して恐怖感はありましたが「外国人とコミュニケーションをしたい」という気持ちの方が勝りました。母親は、基本、「やりたいことがあれば、やりなさい」という性格だったので、了承をしてくれて、そこから語学学校に向けての準備が始まっていきます。
当時の僕は、特に英語が得意でも何でもない状態。そのため、語学学校へ行くにはどうしたら良いの?みたいなところからスタートです。「語学学校の歩き方」みたいな本を買ってきて読み進めたところ(社労士のときも同じ韻を踏んでますよね。根は慎重ですし、とにかく情報を広く集めてから、自分の本心を貫き通すという感じでしょうか)、一般的には代理店に頼むもの、自分で申し込むのはハードルが高い、のような内容が記載されていたので、「だったら、自分で調べて申し込もう!それも勉強!」と思って、ベルリッツのサンディエゴ校に狙いを定めて、コンタクトをとって入学の話を進めていきました。
あまりにも英語ができない状況では、向こうで過ごす時間がもったいないという思いもあり、年明けから数か月は英語漬けの生活をして4月を過ぎてからサンディエゴ校に入学。この留学前に、友人、ゼミの仲間、クラブの仲間から送別会を5回ぐらいやってもらったことが、より自分の目的を達成せねば!という思い込み(勘違い?)を強くしていきました。
その勢いのままサンディエゴの語学学校へ行ったところ、残念なことに「ここはNOVAか!?」みたいな環境でした。生徒の5割以上が日本人で、日本人は日本人で群れているし、教室の内外で仲良く日本人同士が話しているのを見て「一体、君らは何のためにこの学校に来ているんや?」みたいな感覚が拭えず、ほとんど話しかけもしませんでした。自分のなかで、親の金を使ってきているわけだし、日本で多くの人に送別会もしてもらったし、この半年の語学学校で、外国人とも普通に話せる状態を目指していただけに、このままだと自分の目的が果たせなくなることに入学早々に強い危機感を覚え、この語学学校で6か月過ごした後の自分が容易にイメージできてしまったため、「ここじゃない感」が半端なく自分を襲いました。
そして、入学早々、悩みに悩む日々が…。日常は必死に勉強をしていたため、ホストファミリーからは「シンスケ、モットアソビナサイヨ!」みたいなことも言われたけど、どうしても遊ぶ気分にもなれませんでした。ホームシック気味にもなり、泣いた夜もありました。そして、「やっぱり、このままじゃあかんわ」と思い「6か月行くつもりだった語学学校を、1か月に切り上げること」を留学から僅か2週間で決断し、さらに、やりたくてもやっていなかった「バックパッカー」へ切り替えることにしたのです。これまで一人旅さえしたことがなかったし、初めての海外生活で、バックパッカーをすることについては恐怖心で一杯でしたが、その決意は強く、母親に連絡をしてバックパッカーに切り替えることへの了承を得ました。
(このとき母親にはかなり心配されました。そりゃ当然ですよね。今のようなスマホがあるわけでもなく、こちらからの連絡を待つしかなくなるわけですからね。自分のwant toの1つである「やったことがないことをやる」が発動された象徴的なシーンだと思います。)
当時、なぜバックパッカーになりたかったのかというと、奥田民生さんの「さすらい」という曲で、「周りはさすらわぬ人ばっか、少し気になった」というフレーズを聞いて、世の人があまりさすらっていないなら、「自分はやらなあかんよな」って勝手に思い込んだのが大きく単純なキッカケでした。
バックパッカーへ切り替えることについては、実の親だけではなく、ホストファミリーにも伝える必要がありました。ホストファミリーは、当然「大反対」。当時予定していたアメリカ横断の交通手段が、グレイハウンドバスという移民の人を含めた低収入層の人たちがよく活用しているバスで、危険性を伴うものだったから。
実際に調べてみるとバスターミナル近辺は危険なところも多いし、夜間は歩くなみたいなことも書いてある。怖くないかと言えば、正直怖い。でも、「やってみたい」という意志がこのときも勝りました。唯一、旅の具体的な相談をしたのは「ikeda chiemiさん」。地球の歩き方の語学学校編の中にあった海外留学する人の相談窓口になっていた方です。語学学校も代理店を通さず、自分で予約していたので、何かあったときのためにこの相談窓口だけは加入をしていたのですが、咄嗟に加入していたことを思い出し、事の顛末を話したところ「いいんじゃない。やってみたら?」とアッサリ言われ、さらに「良かったら、サンフランシスコにいるから遊びに来てもいいわよ」とまで言ってくれたのです。また、語学学校時代に仲良くしてくれていた心優しいスイス人のnickも、もしスイスに来るなら遊びに来たらいいよと笑顔で言ってくれました。このことがどれだけ心細い当時の心を支えてくれたことか…。またお会いすることができるなら、是非お会いしてそのときのお礼を再び伝えたい。本当に。
バックパッカーは緊張の連続でした。何せ、初めての場所、初めての人、初めての宿、初めてだらけであったから当然です。ただ、池田さんのお陰で最初の目的地をサンフランシスコと定めることができたし、そこで、日本食を振舞ってくれたので、本当に楽しいひとときを過ごすことができたというのは、旅の始まりとしては、上出来だったのではないかと思います。なぜなら、記憶にある素敵な場所というのは、すべて「人とのご縁に恵まれた場所」だったから。
・アメリカの片田舎のユースホステル
・ニューヨークのユースホステルで出会って仲良くなった香港人男性
・フィンランドのロバニエミ
・スイス人nickとの再開
・ユングラウヨッホのユースホステルで出会った日本人たちとの自炊
・オーストリアでの日本人美術家との出会い
彼らと出会った街を覚えているのは、彼らとの楽しい記憶があるからです。また、初めてグレイハウンドバスに乗ったとき、隣に座ったのが白人弁護士の人でした(一応名刺ももらいました)。この人が乗車している3時間ぐらいめちゃくちゃ話しかけてくれたので、英語を話す時の緊張感が薄れて、分からないときは分からない!とハッキリ言えるようにもなり(時に関西弁も使い)、どんどん「外国人と話すこと」に免疫がついていきました。
このバックパッカーの旅もトルコに行き着いたとき、陸路での帰国も考慮していましたが、
「もう娑婆(実社会)に戻らなあかんなぁ…」
という言葉が脳裏をよぎったので、帰国して就職活動へ。
順調だけど、100%自分の意思ではなかった就職先
就職活動では、エントリーシートで落ちない限り、順調に最終面接に進んでいくという状況で、他者と異なる道を進んできたという自負とそのネタが面接における差別化に繋がったのではないかと思います。銀行や医療機器メーカーの内定をもらい、さらに、アイリスオーヤマの最終面接まで進んでいたところで、K社というメーカーを職業能力開発センターの稲葉さんに紹介してもらいました。「耐震性水道管を製造・販売している」という業務内容をみて縁を感じたのは、新社会ボランティアサークルに入部するキッカケとなった阪神淡路大震災のときに、一部のライフラインが守られたのはそのK社が製造している水道管が活躍をしていたということを知ったから。エントリーシートの志望動機欄には、枠目いっぱいの文字で「耐震性パイプを売りたい」とのみ記載し、応募。また、複数社の内定と先行途中だった企業に対して丁重にお断りのご連絡をして、K社の最終面接に臨み、無事内定をもらうことができました(今思えばリスクあることをしてますよね…)。
ただ、この内定には何も問題がないわけではありませんでした。一部上場企業でもあったので、親が喜ぶだろうなという思いもありました。それが、その後の人生を狂わせる要因にもなったのかと今では思います。すべて自分の意志ではなかったから。
さきほどの職業機能開発センターでは、大学時代のなかでも重要な役割を果たしてくれました。なにせ1年休学しているので、知り合いがいない。法学部のゼミには参加させてもらっていましたが、学年が1つ上ということもあり、自分が勝手に壁をつくっていました。ただ、この職業機能開発センターで知り合った、男性の上野こうじ、伊田こうじ、女性のHさん、Fさん、Oさんについては、その壁が自分の中にはなく、就職活動戦線を共に戦う仲間という関係性を築くことができたのです。そのなかでHさんは人生で初めての相思相愛の関係になったわけだから、人と人とのご縁というのはどこで繋がるか分からないですよね。さらに重要なのは、上野との出会いです。上野についての第一印象は、「馴れ馴れしい奴やなぁ(でもそこまで嫌じゃない)」という感じではあったのですが、上野が僕に興味を持って距離を縮めてくれたのだと思います(そう考えると自分から信用するということをしていない人生かな、と)。今でも定期的に連絡をとって、近況を報告できる関係性が続いているのは、上野の性格に依るところが大きいですね。当時の僕は「変な人扱い」されることも多かったし、今よりも「自分勝手」で自分をコントロールすることも苦手でした。
そんな上野とは、二人旅もしました。どちらが言い出したのか思い出せないのですが(今度きいてみよう)、養父家の車で富士山を登り、東日本を一周するというプラン。一人旅には慣れていましたが、二人旅は初めてでしたので、行こうぜ!ってなったのだと思います。その旅の思い出はいろいろありますが、その中でも、印象深いのは、何かの拍子で喧嘩してしまったときのこと。お互い無口の状態が続き、ある場所でテントを張った時に、上野が正面からぶつかってきてくれました。僕としても意固地になっていたし、それを自分から打開する力がなかったから、上野のこの行動が自分にとっては本当に有難かった。その後の道程も喧嘩はありましたが、その正面衝突があったから、その後の旅はぶつかりもしましたがその都度解消することができました。ある晩、大雨が降ってテントが水浸しになり、その中でも上野が寝続ける…なんてハプニングもありましたが、刺激的で大学生のときしかできない印象的な旅でした。
その他の出来事として、
・高額な英語教材を購入しそうになる(思い込みが激しい)
・同じサークル仲間の同期やサークルの他班の後輩からマルチ商法を誘われる(騙されやすそうに見える)
・同じサークルの後輩に告白しては撃沈を3人は繰り返すという無節操&振られ三昧(自己肯定感ガタ落ち、人を好きになりやすいのは確かにある…。あきやすのすきやす?)。
・さらに海外から帰ってきたあと、Mさんを好きになって、3回告白して撃沈(その勇気はどこから湧くのか…)
・家で車を購入することになり、なぜかその交渉を全権委任され、車冊子で価格を調べ、数社の販売店を巡り、価格を交渉して、冊子の価格と同等の契約を成立させる(親の任せっぷりが素晴らしい)
・就職活動後は、先進国のみならず発展途上国も見聞したい!と思い、タイ・ラオス・カンボジアへ1か月のひとり旅(欧米とはまた異なる出会いあり)
・野宿がしたい!と思い立ち、自転車で琵琶湖一周1泊2日の野宿旅をしたり(野宿への憧れ、やったことがないことをするというwant to発動)
・自転車で大阪から広島まで2泊3日の野宿旅をしたり(目的は、実家が広島の友人に会い、広島焼を食べること!)
・西川と後輩女子3人と四国一周(あまりにハプニング無さ過ぎて記憶が薄いけど楽しかった…)
本当にやりたいことをやり尽くした大学生活だったと思います。
それと比べて今はどうなんだろう…。本当にやりたいことをやり尽くしていると言える?社会的責任を帯びているし、学生時代のように好き放題にはできない。でも、それでも、何かがんじがらめに縛られてはいないかい?と自分に常に問いたい。
社会に揉まれ絶望し、あがき続けた社会人1年目~3年目
新入社員全体の研修を終え、配属が決まり(配属の希望は無意味であることを悟り)、その後に行われた3か月間の工場研修は誰よりも真面目に受講していたと思います。そして、真面目に受けることのできない同期の数人(特にずっとヘラヘラしているT)に対しては腹立たしさを覚えたほどです。工場研修が終わるとき、お世話になった工場の方々に涙が出るぐらい寂しさを感じましたが、営業マンとして配属された後は、工場の一部の方々には苦しめられることになるのですから、まだまだ工場の実態(閉鎖的な場所であったということ)を理解できていなかったというのは言うまでもありません。
会社の本社が大阪でしたので、当たり前のように本社に配属されると考えていましたが、なぜか、北関東支店に配属。その北関東支店は、K社として新しく開設された支店でした。当時聞かされていたのは「課長が新人を育てたい」という理由。本来、新人は、所属している社員も多く、人を育てる余裕代も土壌もある大阪本社か東京支社かどちらかに配属されます。でも、なぜかバルブ事業として初となるレベルで支店に配属…。その真相は何だったのか…。それは、よくある話だと思いますが「人間関係の問題」。課長と中堅社員が対立し、その中堅社員が東京支社に戻され、その後釜としてやってきたのが、「何も考えていない新卒者の私」でした。
「新卒が配属されて職場の雰囲気が一新された」のような美しい話は無く、「課長 VS その他」でドロドロとした対立構造は継続していて、案の定、新卒者養父も巻き込まれ、「その他」のほうに取り込まれていきます…。結果的に、課長にとって「育てづらい新卒者養父」ができあがり、6か月経過後に、新卒者を育成することを諦め、希望退職で辞めてしまいました(本当に申し訳ないことをしました)。
その後にやってきた後任の課長は、従前の課長とは水と油ぐらいの違いのある人。典型的な昭和型の上司で、パワハラ気質。当時の課は、課長、新卒者、派遣の営業、派遣の事務(この人にも良くバカにされました…)で構成されていたのですが、派遣の営業も、派遣の事務もバッサリと切られ、「パワハラブラックな課長、能天気な新卒者養父、新しい派遣の事務員Wさん(むっちゃええ子)」で再構成されました。
パワハラ課長としては、何とかこの能天気な新卒者を使って、課としてのノルマを達成しなければならず、促成栽培を試みることになったと思うのですが、ミスも多いし使いもんにならないと考えていたのではないかと思います。ただ、当の本人も、
「どうやったら営業はうまくいくのだろうか?」
「どうやったら売上を上げることができるのか?」
とずっと暗中模索状態でした。それどころか、製品についてもちゃんと理解していなかったし、業界構造も理解できていませんでしたし、自分が今どういう立ち位置で仕事しているのかさえ良く分かっていなかったと思います。
まぁ、よくそんな状態で営業していたよね…と今では思います。基本、走りながら考えるタイプだとは思いますが、かなり無謀なスタートでした。いま経営している社労士事務所で、職員から「知識がない状態でどうやって営業をするのかイメージが湧かない」と至極真っ当な質問をぶつけられましたが、当時の僕は、知識がない中で手当たり次第、頭をぶつけながら動いていたという状態でした。
当然成果はでないし、成果がでないから無理をするし、無理をするからミスが多発するし、と散々な状態でした。レンタカーは縁石にぶつけて自腹で弁償することになるわ(本来は弁償する必要なんぞないのですが)、居眠り運転で前の車にぶつかりそうになったことは何度もあるわ、居眠り運転を避けるためにパーキングエリアで昼寝をしていたら、なぜかそれを上司がたまたま見ていて「こわっ」てなるわ、大事な商談の日時や場所を間違えるわ、ありとあらゆる大失敗をした(1つ失敗ではない恐怖体験が混ざってますが)と言えます。
明らかに、キャパオーバーでした。
その失敗のたびに上司はどうしたかというと…。
ミスをするたびに、唇をプルプル震わせながら、青筋を立てて怒鳴りまくります。それも他の事業部のメンバー20人前後がいるフロアで。人格否定は当たり前。「給料泥棒」という言葉は日常茶飯事。社労士になり、パワハラ研修の資料を作成するために裁判例を読んでいたとき、裁判例の中で示されていた具体的な事例に対して、ものすごくデジャブを感じました笑。
その叱責の時間も問題。数分ではない。数十分でもない。最低1時間、最長3時間でした。精神的身体的疲労が原因でもあるのに、さらに追い打ちをかけるかごとくの叱責タイム。ただ、内容がすべて悪いわけでもない…(惜しい部分もある)。1時間は過去の失敗を傷に塩を塗るが如く掘り起こし、しかも感情的な怒声(これはアウト)、2時間目は、どうするかを自分で考える反省タイム(これは有り)。だいたいこんなフロー。非生産的な時間を除けば、問題はないのだけど、その非生産的な時間が全体を台無しにする。そんな感じでした。実際、営業部長が北関東支店に寄ったときも、その叱責時間の長さを指摘していましたが、結局、直ることはありませんでした。そう、人は簡単に変わらない。まぁ、しかし、このパワハラ課長のエネルギーについては凄まじい。結局、このような叱責が2年半続いたのだから…。
ただ、このとき、たった1人だけ、僕を救ってくれた人がいました。それが隣の事業部に所属するT先輩でした。その先輩は、中途入社した方で、見るからに仕事ができる人という感じの人。シュッとしていて、実際に格好いい。時間に無駄がないし、発言に曖昧さがない、作業も同時並行で進めて、下手な残業はせずにさっと仕事を終える。当時、その先輩が所属する部署でもさまざまな問題があったと思いますが、見るに見かねてか、パワハラ課長が誤った見解を示し、大声で僕に怒鳴ったあとに、冷静な声で「あのね、課長」と、正しい情報を提供し、叱責の方向性が間違えないように正してくれました。パワハラ課長もT先輩に一目を置いていたので、パワハラ課長もその話しに耳を傾け、その後の叱責もトーンダウンすることもありました。あの広い支店のフロアで、僕をフォローしてくれたのはこの人だけでしたから、本当に有難い存在でした。
ある時、そんな好意を勘違いしてしまって、馴れ馴れしく近づいたときに、その先輩から「養父、調子に乗るなよ。俺は会社の人間と親しくするつもりはない」とピシッと言われて、ショックを受けるという出来事がありました。当時の自分は頼る・依存する存在がいなかっただけに、下手に甘えてしまったのだと思います。そういう心を見抜いて、適切な距離をとってくれたのは、悲しかったけど正しいとも思えたから、素直に受け容れることもできたし、下手に調子乗って近づいてしまったことは自分の誤りだったと気づくこともできました。そして、自分自身、この先輩のために、まずは役立てる自分になろうと思い、自分が仲良くなった行政の方を紹介して共同受注に繋げたり、有益な情報を掴んだらすぐに共有をしたり、プライベートでも友人たちを紹介して、先輩の交友関係を広げたり(各国料理の会という異業種交流の場に参加していて社外の友人が多くいたのです)、と最終的に一番仲の良い、信頼できる存在になっていきました。
(今も調子に乗ってしまうというのはある!って思っちゃいました。気をつけねばですね)
暗中模索・五里霧中で営業活動をしていましたが、この北関東支店、何とメーカーなのに製品の取扱説明書さえ備え付けられていませんでした。前述のように、基本的に新卒は東京支社や本社に配属されるし、最初に配属されたのは中堅の営業マンだったので、余り必要性もなかったのでしょう(この後、東京支社に配属されるのですが、資料の豊富さに驚いたほど)。さらに、この北関東支店は、ライバル会社にとっては埼玉に工場があり「ホーム」でもありました。営業マンも私のような新人を含めて3人もいたため、ひよっこの新人が情報戦で勝てるわけもなく、あがいてももがいてもどうにもならない状態でした。
さらに最悪なことに大学時代に初めてお付き合いした心底好きだった女性にも振られ、人生が更にどん底に。おそらく精神状態は限界に近く、鬱の一歩手前だったのは間違いないと思います。借り上げアパートの部屋には、訪れる友人が驚くほど壁一面に自分を奮い立たせる言葉、「為せば成る」「己に勝つ」みたいな言葉を紙に書いて貼って、何とか自分の精神を保っている…そんな状態でした。
人生最悪のとき。どうすれば自分の人生が変わるのか、もがきあがき苦しんでいました。上司には「もっと営業の勉強しろよ」とか「もっと営業関連の本を読めよ」とか言われて、「はぁ」と答えていましたが、実際、僕は読みまくっていた。読み漁っていた。「お前に言われるまでもなくやってるわ、ボケ!」って内心では思っていました。
そして、本だけではなく、外部のセミナーにも参加し、少しでも売上を上げる術がないかを模索していました。このとき参加していたのが、「私には夢がある」という会社のセミナー、経営コンサルの石原明さんのセミナーや営業コンサルの吉見範一さんという方のセミナーでした。このときの人との出会いが後々、社労士として独立開業をするときの軌道に乗せる切っ掛けになるとは当の本人も露知らずですが、人生はそんなものかもしれません(だから、人生最悪のときは、動けば切り拓かれる確率が上がるのだと思います。養父よ、決して忘れるな)。
しかし!このほとんどが参考にはなりませんでした。なぜなら、どれも官公庁向けの営業ではなかったから…。実際、官公庁向けの営業セミナーなんてものは殆ど存在しないと思うから仕方のないことなのですが…。
そんな中で、1つだけ営業で活用できそうなものがありました。それが、「ニュースレター」。ニュースレターの役割は、「自分という人間」を知ってもらうツール。忙しそうにしている(まぁ、そうじゃない人もいましたが、そういう人はキーマンでもなく…)行政の人に話しかけるのが本当に苦手でしたし、不在にしている人も多かったので、「渡すだけ」「置いておく」ということができて便利でした。さらに、このニュースレターには、製品情報も細かく伝えていたので、自分自身も勉強になり、製品に愛着が沸くキッカケにもなっていったのです。とはいえ、このニュースレターを配布している人間は業界内では皆無。まずは配るということだけでも「勇気」が必要でした。手書きでもあり、内容に自信があるわけでもないから、恥ずかしいという思いもありました。でも、思い切って配布を続けていきました。このニュースレターをキッカケに声をかけてくれる人も増えたし、土日を潰して作成していたから手間は掛かってはいたけれど、その後の大口受注にも繋がっていきました。
このニュースレターは、後になって上司にも見つかり何か言われるかと思いましたが、この件については何も言ってくることはありませんでした。こいつなりに努力してるんだなと思ったのではないかと思います。このニュースレターに唯一登場したのは、4人目の上司のGさん。Gさんはこのニュースレターを面白がってくれて、執筆を希望してくれました。
ただ、仕事への悩みは深く、この仕事を本当に続けて良いのかという思いはなかなか拭い去ることができず、このころ再び、社会保険労務士開業への道を考え始めていました。実際、河野順一という社労士の独立開業塾にも十数万を支払って通い出しました。さらに、独立開業するために必要な事務所経験がなかったため、事務指定講習を受けようと7万円の支払いまで済ませました。
しかし…、「このまま辞めても良いのだろうか」という思いも当然ありました。営業に自信があるわけでもなく、むしろ、営業の落ちこぼれ状態で独立して本当に良いのか…。果たして、今の仕事をやり切ったって自分で言えるのか…と自問自答を繰り返していた。そして、ある日、「いや、このままおめおめと辞めてしまえば、自分はきっと後悔する。やり切った!という確証をもって辞めるなら良いが、そう思っていない自分がいるなら、今の仕事に本気で取り組むべきた」と思い、事務指定講習費用7万を棒に振り、本業である営業へ専念することに対して腹を括りました。※恐らく事務指定講習の費用を2回払った人間は殆どいないと思います…。
そんなある日、入社3年目の終わりの頃だったと思いますが、その日も何かミスをしたのだと思います。上司が「もうお前に言うのは飽きた…」と。この言葉が「上司に見捨てられた」という感じがして本当にショックを受けました。会社からの帰り道に涙を流しながら、もう明日から叱責されることもないのか…と帰ったのを覚えています。ただ、その翌日、上司は普通に話しかけてきたので、「昨日のあれは何やったんや!?」というのはオチとしてお伝えしておきたい。
そんなこんなで腹は括ったものの、洗脳もされ、精神も限界にきていた頃、異動の通知が届きます。それも二人同時。最後に、パワハラ上司から「お前の心臓には毛が生えとるな」と言われ、内心は「アホかっ死にそうになってたわい」と思いつつも嬉しかったことを今でも覚えています。
ただ、この上司。トンデモ上司・見る目がない上司であることに変わりはなく、3人目となる課長に対しても、ろくでもない申し送り(引継ぎ)をしていました(数年後に判明)。さらに、このパワハラ上司は、3人目の上司のことを、「あいつはウェットではなく、ドライだから、何かあったらすぐに切られるぞ」とも脅してきました(実際は、後述しますがそうではない人)。
営業の醍醐味を知り、チームに貢献することの歓びを感じた社会人4年目以降
その3人目の上司の金折さんは、たまたま母校の大学が同じ人でした。東京支社へ挨拶に行った際に声を掛けたところ、真っ先に言われた言葉は、
金折さん「養父、お前な、同じ大学だからといって特別扱いはせんからな」
おどおどした養父「は、はい」
(いやいやいや、別にそんなこと一言も言ってないやーん、なんでそんなこと言うんやろ…と内心では思いつつ、この会社って変な人多いよな…(自分のことを棚にあげつつ)先が思いやられるなと思いました…)
ただ、この発言からしてドライそうに見える金折課長は、実は「超ウェットな人」。ぶっきらぼうに見えるから、ドライっぽく見えるし、理不尽なことに対しては、先輩でも上司でもNOを言える人でもありました。だから、前のパワハラ課長なんぞは、「こいつはドライな奴だ」という印象をもったに過ぎなかった。NOをいう人ではあるけれど、ちゃんと相手のことも配慮する人ではあったので、社内でも多くの人に信頼されていました(実際、この後大好きになっていきます)。
そんな金折課長。僕がパワハラ上司にケチョンケチョンにされていたことも当然熟知していて、丸っきり自信がないことも見抜いていたのだと思います。何度か客先との同行を済ませたあと、大口取引先I(アイ)社のネゴをする直前に「養父、お前に任せるから」と言ってくれたのです。
僕はこの時、この言葉で「信頼してくれている」ということを強く感じたし、それと同時に「この上司の思いに応えるためにも、自分の責任を全うしなければならない」と思いました。この言葉をキッカケとして、営業マンとしての人生が変わっていったと思いますし、主体的に動くことができるようになっていったと思います。それまでは常にパワハラ課長の顔色を伺いながら、「この人が何を言うのか?」というのを気にしながら防御線を張りつつ、どれだけ失敗をしないように行動するかばかりを考えていたわけですから大きな変化となりました。粗利益に対するこだわりや責任も、上司の期待や信頼に応えるために身につけていきました。
東京支社は、ないないづくしの北関東支店生活に慣れていた自分にとっては、本当に快適な場所でした。豊富な取説、豊富な資料、そして「生き字引のような大先輩」がいたこと。北関東支店時代は、上司に疑問に思ったことを尋ねても、頓珍漢な質問も実際あったのだと思いますが、「そんなことは考えんでいい」と一蹴されていました。しかし、この東京支社にいる「生き字引のような大先輩」はとにかく優しい。「仏の舘さん」と周りの人が呼ぶくらい温厚な方で、聞いたことを1つ1つ丁寧に教えてくれた。これまで疑問に思ったこともすぐに聞けるし、製品についても本当に詳しい方でしたので、本当に有難い人でした。
自分が理想とする上司を思い浮かべるときこの金折課長を常に思い浮かべるわけですが、この金折課長時代に「(官公庁需要ではなく)民需の新規顧客開拓チーム」が結成されました。この時のメンバーが、K課長、M野先輩、M崎先輩、僕というメンバー。「どうやって民需を開拓する?」みたいな話からはじまり、日本経済新聞の株価欄に載っていて、バルブを使ってそうなメーカーを1つずつピックアップし、1社ずつテレアポをしていく…。既存顧客の対応もしながらの仕事ではあったので、大変ではあったのですが、「新しい取り組み」自体が自分にとってかなり刺激的でした。M崎先輩を除き、このときのメンバーとは会社を退職してからも仲良くさせてもらっているのは、やはり、そのときの苦労を共に分かち合ったというのも大きいのではないかと思います(大きな成果を出すことはできなかったのは悔やまれますが…)。
もう1つ、自分のなかで良く覚えているのは、誰から頼まれもしないのに、ひとりで新規顧客開拓をしていったこと。当時、所属していた事業部が取っていた戦略は、「とにかく二番煎じ」。なので、どの製品も他社が取り扱っているし、正直、面白味がないものばかり。だからこそ、「営業マンが必要」ということでもあるのですが、自分としては、どうしても「売りたいものを売る」ということがしたかった…。そこで、自社の商品を再度見回していったときに「減圧弁」という商品がありました。この商品は他社と差別化もできるし、実際にお茶を栽培している人たちにとって、非常に役立つ製品であることも分かっていきました。そこで、勝手に静岡の土地改良区に営業をかけ、製品の導入をアピールして回りました。結果的に、芳しい成果は成し遂げることができなかったのですが、「良いものを周知する」という欲求(want to)に火をつけるということを自覚することになりました。
さらに、もう1つ挙げるとすれば、他社にはない新しい製品を開発することになったときのことです。その開発を担当することになったのが同期のI君でした。その製品を実際のパイプラインで使ってもらってデータをとる協力をしてもらう行政機関を探す必要があったのですが、その水道局探しも「新しいもの好き」の自分としては積極的に行って、早速見つけることができました。その水道局自体、さまざまなチャレンジをしているところではあったので、渡りに船だったのだと思います。これも既存業務があるなかでの仕事にはなったのですが、新しいことに取り組むこと自体は新鮮で刺激的でした。
モヤモヤからの~再びレールから外れることを決断した社会人7年目
そして、上司も代わり、再び仕事がマンネリになりつつあったころ、ふと、休日や休憩も関係なく働いているのに、なぜ給与も低くて、団塊の世代に吸い取られないといけないのだろう?と疑問に思ってしまいました。「俺たちもそうしてきたのだから、お前らもそうしろ」という声はあったのですが、「いやいや、そうじゃなく、俺たちもそうしてきたのはいいけど、あんたらはもっと働けよ」と思うようになったのです。
さらに、定年退職していった昔バリバリの営業マンだった人たちが、しょぼくれた感じで再雇用されて、余生を過ごしているのをみるのも非常に残念でした。全く輝いていない…。お客さんについては、数億もする大事な案件を任せられて、社長賞なんてものを受賞したこともありましたが、遣り甲斐や達成感はありませんでした。たぶんそれは、自分にとって目新しいものはなく、ただ、製品を的確に納品するということに、一切の刺激が無かったからのように思います。そのやり取り自体も、個人対個人ではなく、企業対企業というやり取りであり、会社の一歯車として動いていること、個の喪失感というものもあったのだと思います。そのなかで、段々と、「お客さんから直接ありがとう」と言ってもらえるような個人相手の商売がしたいと思うようになっていきました。
そう考えたときに、自分の母親がフランスベッドの全国トップ10にも入るような販売員をしていたということもあり、その道についても考え、母親に相談をするも何かうやむやにされてしまいました。それもそのはずで、母親は個人事業主として働いており、トッププレイヤーではあったものの、その仕事の大変さというものを20数年間のなかで身に染みて感じていたからだと思います。自分もそれ以上は追及もしませんでした。
その次に目星をつけたのが、介護施設への転職。首から下が全く動かないという春山満さんという方のビジネスマインドに共感していたということもあり、その人がオリックスと提携して展開していた介護施設に興味を持ったのですが、自分より若い面接官にあっさり落とされて終了となりました。
「自分は一体何がしたいのか…」
模索していたとき、ふと、
そういえば社労士資格を持っていたよね
二度も独立開業をしようとしたよね
開業塾にも通い、事務指定講習も無駄に2回も支払ったよね
年齢も30直前で、今しかないんじゃない…?
と思ったのです。でも、脳はそんな無謀なチャレンジに抵抗をし続けます。
資格を取ったのは10年前だぜ
知識も無いで…
ましてや大切な経験もない…
そんな中で独立開業しても大丈夫なんかい?
当の自分が一番不安でした。
大企業に所属し、手厚い福利厚生に守られたレールから外れることが何より不安でしたし、開業体験談をいくら読み漁っても自分がうまくいくイメージをハッキリともつことはできませんでした。でも、自分には独立開業する資格、物理的な資格という意味ではない、
「精神的な資格」
というものがあると自分では思っていました。なぜなら、2度も独立開業をしようとして、それを断念し、今度は3度目だったから。
モヤモヤしまくっていたこの頃、大阪出張からの帰りの新幹線の中で、最終的に、独立開業をすることを決意。そのときの心の叫びは今でも大切に残しています。
【注】養父は関西人です。
===ここから===
今、挑戦しないでいつ挑戦するねん!31歳や。妻一人や。怖いもんなんかあらへん。貯金も300万ある。もちろん妻に頼るつもりなんぞない。俺は俺で自分の可能性を限界以上に高めたい。俺は絶対成功する。そういう運命にある。そういう生き方ができる人間なのだ。ほんまに仕事が趣味だと思っている。
自分が働いて稼いだ金は自分で頂く。若者が不利な世の中で、なぜ必死こいて働いて稼いだ金を団塊世代に渡さなあかんねん。それを解決するには自分ですべてをするしかない。大企業の保護のもとやったら何も言えんのやからなぁ。
(この思いがあるから、独立開業した今も、職員の処遇について極力他社より上げたいと思っているし、どうやったら最大化できるのかを常々考えています)
どっちの真介が好きかって言ったら、挑戦している俺。
「社労士試験」のときも、「さすらい(バックパッカー」のときも、「広島への自転車野宿旅」どれも最初は恐くて恐くて恐くて踏み込めなかった。
せやけど、もがいてあがいて、もがいてあがいて実行し成し遂げた。
社労士の独立開業もそうだ。一度目はLECの単発講習で知り合った社労士先生と話し、大企業で経験を積んでからでも良いのでは?というアドバイスをもとに、中小企業に所属せずに大企業という道を選択した。
誰かが困ったときに手を差し伸べることができる人物でありたいし、まずは自分から希望に満ちてる輝ける真っ当な人物になる。暗闇を歩いている若者に希望を与えたい。若者に自分のように闇夜を歩いている人に輝きを提供したい。
2度目は北関東支店に配属され、3年目のとき。社外セミナーの帰り道に、北関東支店があったソニックシティビル20Fのフロアで決意をした。やっぱり俺は社労士になる!と。だが、本業で成果を出していないなかで、本当に独立開業して良いのか?という疑問もくすぶり続け、最終的には断念した。
何が言いたいのか?
結局結局結局、思い続けて思い続けて思い続けて、20歳の頃から思い続けて、ほんまになりたいと、ほんまに社労士「士(さむらい)」として3号業務で良いアドバイザーになりたい、と強く思った。その心が今も生きてるから何度も何度も熱くなるのだ。そういう面では、20歳の頃から10年間思い続けてきた仕事なんだ。10年間だ。
自分の可能性、社労士の将来性は、悩んで迷って考えて、中途半端に諦めてきた。本気で調べもせず、自分に自信もなく…。少なくとも今のおれは自分に自惚れることができる土台ができあがった。確実に。自惚れ力は100%だ。反面、勘違い野郎だが…。
それでもいいのだ。自惚れることができなくて、他人を振り回す仕事なんぞできないし、良い仕事なんぞできん。マイナスはプラスでもあるのだ。
今回も一度めげそうになったが、12月から6月23日までずっと社労士に関わり続けてきた。そして思い続けてきた。今もその思いは続いているし、より高くなってきている。
不景気だから、
若いから、
知識がないから、
と言い訳をする己もおらん。
そんなもんは「やる気200%」の人間にゃ屁みたいなもんだ。
大事なのは、何としてでも成功してやるということを強く本気で真剣に願っているかどうかだ。俺は本気だ。
===ここまで===
恥ずかしいくらいの熱い思い。当時どれだけ真剣で、どれだけ自分の心が不安だったのかが良くわかる文章です…。思い込みの部分も多いけど、猪突猛進するには、馬鹿になるには、これぐらいの熱さがないと、安全な場所から飛び立てるわけがありません。
開業を決意してからは、とにかく情報収集をしまくりました(コーチング用語でいうと、「RAS=Reticular Activating System」が発火している状態ですね!)。開業体験談もさらに読み漁っていきました。とにかく、何か目標が定まるとトコトン情報収集をするというのは、社労士資格のときも、語学学校のときも、開業の時も同じです。
そんなある日、確か起業系かセミナー講師系のセミナーだったと思いますが、そこで開業塾で知り合った方に偶然出会いました。その方は総務経験者であったため、羨ましいほど知識も豊富な方であり、自分としては優等生に見えてしまい、通塾時代は劣等感も相まって、あまり話すことができなかったのですが、そのときはもうそんな悠長なことを言ってられないほど、情報を欲していたので、勇気を出して声をかけ、お時間をとってもらって、今の仕事状況を根掘り葉掘り聞いていったのです。
そこで、自分として一番有難い情報だったのが、その人の仕事の9割が「1・2号業務」と言われる手続き業務であったこと。未経験から始めることになるため、いわゆる3号業務と言われる相談業務については、どのように展開していけば良いのか模索中でした(気合いで乗り切ろうと思っていました)。1・2号業務なら本を見ながら、知人の先輩社労士さんに聞きながらでも、何とかやっていけるんじゃないだろうかと単純に思っていたからです(これは当たりのようで、当たりでもないのですが)。
夏にはようやく事務指定講習も受講。その時に出会ったのが気さくなF先生です。講義が面白かったので、名刺交換をさせてもらったときに、「一度事務所に遊びにきなよ」と言ってくれたので、「じゃあ、ぜひぜひ!」ということで、その言葉どおりに事務所見学へ。これまでの人生含めて思うことは、こういうときに口だけではなく、行動に移すということを実践してきたから、道は拓けていったと思います。もちろん、失敗することも多いのですが…。「有言実行」を実践できる人は現実的にはかなり少ないでしょう。
そのときのアドバイスで一番印象的だったのは、「一日10人に連絡を取るようにしたほうが良いよ」ということ。このアドバイスは有益でした。独立開業をしたら携帯は当然鳴らなくなります。それゆえ、とにかく営業活動をすること(自分を周知する活動)が大事。その活動時間の「量」が重要になる。事務所運営で軌道に乗せることができない人というのは、営業活動の時間、人と会っている時間、自分を周知している時間が圧倒的に少ないと思います。人にはそれぞれやり方があるし、どれが正解というのは無いのだけど、とにかく売上が立たないことには「何も始まらない」というのは事実であって、一定の売上が最低限必要ということも事実。その中には、「契約しなければ良かった」というクライアントも紛れ込んでくるけれど、最初からそれを峻別するということも実際は難しく、痛い目を見ながら、その峻別ができるようになっていきます。私のようにコネなし、知識なし、経験なしで始めるような人間は特に、最初から戦略など立てても、ほとんど意味が無いし(実際は立てていましたが)、戦略が足枷になることもあるから、とにかく、営業活動の時間を圧倒的に増やして、他者を凌駕する「圧倒的な行動量」が必要になります。うまくいかない人の特徴は、頭でっかちになってしまい、予防線ばかりを引いてしまい、知識の習得に大事な時間を割いてしまうことかなと。だからこそ、実践(アウトプット)が大事。ある程度の知識を持ったのなら実践あるのみ
(今一度、コーチングを学んでいる自分にも言い聞かせたい大事なこと!!!)。
実際、不安なのも分かる。こういう仕事がきたらどうしようと思うのも分かる。未経験だったら、なおさらです。でも、それも受注してから悩めばいいし、心配なら同業の知り合いや先輩と繋がりを持っておくこと(他力を使うこと)は最初の段階では特に重要だと思う。もしもの時は共同受任という方法も有りだし、先輩にお金を払ってでも、仕事を教えてもらいつつ進めたらいい。
仕事の引継ぎもそうだけど、研修中みたいな状況のときは、身につかないもの。なぜなら、当事者意識が芽生えないから。本当に身につくときというのは、現場に立って、場数をこなしているときだと思う。現場に立てば、自分が矢面に立って思いっきり脳みそに負荷がかかるから、それが身につく知識なり経験になっていくのだと思います。だから、とにかく打席に立つ、営業をする時間を最大化していくことをしない限りは、当然、認知度が高まっていかない、知り合いが増えない、お声が掛からない、紹介が増えないということで、売上が伸びないということになると思います。実際、今の事務所が伸び悩んでいるのは、僕自身が人に会わない、行動しない、周知している活動が少ないということをコロナ禍前あたりから続けてしまったことが大きな要因だと自虐的に思うところです。だから、今、行動を増やせるように体制を整備しています。
もう1つ気を付けていたことは、生活リズム。前職で、線路に飛び込む一歩手前まで追い詰められたことのある年の離れた別の課の課長(同じ母校つながり)が「0時をまわってから寝るなよ、0時になる前に寝ろよ」と会社を辞める挨拶をしたときにアドバイスをくれました。そのアドバイスに従って、0時より前には寝るようにしていたし、集中力が切れるとさぼりがちになってしまう自分は、誰も何も言ってくれない環境だからこそ、自分を律することが大事と考えて、朝7時から仕事を始めて、夜7時には仕事を終えるようにしていました。そして、仕事中は、とにかく、人に会い、ブログを書き、Twitterを投稿するというように、とにかく自分の周知活動に全力を注いでいきました。
独立開業1年目~3年目
で、2008年9月に開業登録し、2008年11月から本格的に開業したのですが、当初からうまくいったかと言えば、当然うまくいくわけがありませんでした。元々、友人知人も少ないため、携帯が故障しているのかと思うぐらい、携帯が鳴ることはありませんでした。結局、最初の3か月間は、給食を提供している会社さんからの社会保険・労働保険の新規適用のご依頼1件のみ。確か、法人会でたまたま1回だけご挨拶をしたことのある人だったと思います。ご縁はどこでどう繋がるか分からない。
この依頼の売上は(3か月間の売上は)、たった「10万円」。
でも、この依頼を受けたときのシーンは本当に嬉しかったぁぁぁぁぁ。もう何とも言えない歓びでした。何もないところからのスタートで、0➡1を出すことの難しさを身に染みて感じていただけに(え?本当に社労士の仕事ってあるの?ぐらいに思ってました)、「お金を頂いて仕事ができる」ということが本当に嬉しかった。今では、簡単にできる社会保険・労働保険の新規適用の手続きも、当時は「初体験」。とにかく本やらネットやらで調べまくって、行政機関にも確認をとって、無事に手続きを終えました。基本、未経験で始めただけに、すべてが「初体験」になっていくのですが、「初めてのもの」ほど最も興味があることなので、自分にとって何の苦もなく、ある意味、経験なしで調べながら進めていくことは自分の性分に合っていたのだと思います。
反面、「同じ仕事」を継続するということが大の苦手。職人的に極めようと情報を集めて、より良いものをクライアントに提供したいという思いで突っ走るのですが、新しい知見が減ると極端に興味が薄れていってしまう。だからこそ、早めに人を採用して、自分が実践した仕事、切り拓いた仕事を任せていくことが、事務所の成長には必要なのだけれど、この当時はまだ自分の特性を適切に把握できていませんでした。
さらに、自分が獲得してきた仕事への有難みが強過ぎたことも、現実を直視できていないことに繋がっていきました。開業後3年目後半に、紹介で初めて人を採用することになったのですが、その人はとても落ち着いた方でした。フワフワした人とは真逆の「大人の人」。ただ、当時の自分としては、逆にその落ち着いた感覚に戸惑いがありました。社労士の仕事ができるって貴重だし、素晴らしいことなのに、何でそんなに落ち着いていられるの?と(楽しそうじゃないの?と)。働く人にとっては、ただ単に課せられた仕事であり、素晴らしいも何も、果たすべき責任を果たすだけと思って向き合って下さっているのに、上司はそれ以上の喜びを見出せという感覚を持って迫ってくる…何とギャップの大きい状態でしょう。
働く人にとっても戸惑うばかりだったと思います。当時、面談をしたときの重苦しい雰囲気を今でも覚えていますし、面談でそのギャップが改善されるようなことは当然ありませんでした。そして、そんなギャップがある状態でうまくいくはずもなく、だったら、当時事業会社に勤めて、不平不満ばかりを漏らしていた(何とも危険な感じ…)妻に働いてもらったほうが良いかもしれないと安易な判断をしてしまいました。結局、初めて雇用した方には、話し合いの末、4か月ほどで辞めてもらうことになり、妻にフルタイムで勤務してもらうことになりました。このときとった私の選択肢は「誤り」であり、最終的に自分を苦しめていくことになるのです。
開業当初は、「就業規則」をウリにしたいと思っていました。名刺にも「就業規則専門」と謳っていました。でも、経営者が集まる会に行って、さまざまな話をする中でも、就業規則に興味を持ってくれる方は皆無に近い。それもそのはずで社内ルールを作ることって、社外秘だし簡単に外で話せる話でもない。当時はそれもよくわかっていませんでした。
基本、今もそんなに変わりはありませんが、挨拶をしても「社労士さんですか(ふーん)」という感じで終わることが多いので、その点は今も昔も大きく変わらないように思いますが、そのような中でも、経営者への認知度を高めるために、人との出会いを繰り返すなかで、「社労士さんって、助成金の対応できますよね?うちでも使いやすいものってない?」みたいなことを聞かれることが度々ありました。就業規則については聞かれることはないけれど、助成金のことは本当によく聞かれるな…、経営者は助成金に興味をもつことが多いのかな…と思うようになっていきました。
そして、「今の市場のニーズとしては助成金への対応なんじゃないか」と。
ただ、開業前に読んでいた開業本の中で一番参考にして勝手に敬意を表していた社労士先生が、「助成金は経営にとって悪である」レベルで書いてあったので、経営者にとってマイナス要因になるのであれば、その助言を守ろうとしていました。
でも、市場のニーズは思っていたものと違うぞ…と。
そこで、たまたまセミナーで知り合った同じ大学の同業の先輩に、「もしかしたらこういうニーズってありますかね?」という話しをしたら、一度試してみようということになり、FAXDMを一緒に取り組むことに。
その助成金の名称が、「中小企業緊急雇用安定助成金」。
当時、リーマンショックの後ということもあり、世の企業(特に私が接するような中小企業)はとにかく、景気の冷え込みに対してどのように対応していけば良いのかが分からない状態だったのだと思います。そこで、国は従来の雇用調整助成金の要件を緩和した「緊急雇用安定助成金」を創設したのです(コロナショックのときも同様ですね)。そもそも助成金というものが分かっていなかったし、どのようにすれば良いかノウハウも無かったので、同業で教材を売っている人から購入したり、行政の資料を読み込んだりして、とにかく知識を身に付けていきました。
恐らく開業5か月目の頃だったと思います。ちょうどそのとき一本の電話が鳴りました。開業後にも挨拶をさせてもらった経営者の方(営業に悩み、外部のセミナーに参加したときに名刺交換していた方)で、「養父さん、緊急雇用安定助成金って知ってる?」という内容の電話でした。正直に「僕もいまそれを調べていて、要件等もだいたい分かってきたところなんです」と話をしたところ、「ちょっと話を聞かせてよ」とトントン拍子で話しが進んでいき、これが記念すべき、開業後初となる「顧問契約」となったのです。
その後、月に1件程度の割合で順調に顧問先が増えていきました。何か月も続いたと思います。すべて周知活動をしていた中で知り合った方からの紹介でした。そして、顧問契約と緊急雇用安定助成金やその他の助成金の対応で、日々の忙しさが加速度的に増していきました。
開業して間もないころ、前述の同業の先輩から「養父さんは、どんな分野を攻めようと思っているの?」みたいなことを聞かれたことがあります。僕としては、大学時代にボランティアサークルに所属していたということもあり、介護福祉に携わる人たちの仕事の大変さというのを感じていたから、「外部からこの人たちを応援したい」という思いがありました。そのため、「介護福祉業界」をサポートしたいという話をしたのですが、この先輩は親切心かつその人の情報の範囲で、「介護福祉業界は収益が低いから、お客さんにするのは厳しいと思うよ。5000円の顧問料を支払うのも厳しいところもあるしねぇ」と伝えてくれました。自分としては、介護福祉業界への思いはあったのですが、やはり、月額5,000円の顧問料も払えないとなると、自分自身が生活もできなくなってしまうから、この業界へ注力していくことについては方向転換をしなければならないのかも…と判断せざるを得ませんでした。
この同業の先輩の意見は正しい情報でもあり、正しくない情報でもありました。確かに、家族経営をしているようなところで、本当に小規模な事業所は、月5,000円を支払うのも厳しいところもあります。ただ、そういうところでも数万のお金を払って依頼して下さるところもあるし、ある程度の規模があり、一定の収益を上げているところは、通常の料金を支払うことができるところもあります。結局大事なのは、「それが貴方にとって本当にしたいことなのか?」ということであり、それは他人がどうこうできるものではないし、自分の意志で決めれば良いだけのことだったと今では思います。結局、介護福祉業界への接点は、介護福祉業界へ注力している行政書士さんからの紹介で、介護福祉業界特化している税理士さんのセミナーに参加することになり、さらに介護福祉専門のコンサルタントH氏と知り合うことで、介護福祉業界への接点が広がっていくことになっていきます。
このH氏とは、介護経営塾を税理士さんと共に主催することになり、運営側としてサポートをすることになりました。この介護経営塾で知り合った社会福祉法人さんとは、顧問契約をお願いされたり、セミナー講師として呼ばれたりと、今も継続した繋がりがあります。
この介護経営塾自体は、H氏に振り回されることで、かなりの時間を費やすことになりました。H氏は京大卒で、華麗な職歴とデイサービスを自分で経営することで机上の空論ではない実践的な話ができる、ということをウリにしている人でありました。そして、知識も豊富で体系立てた内容のセミナーも得意ではあったので、それだけで「優秀な経営コンサルタント」という認識を当時の自分は持ってしまいました。というのも、その頃の自分は、
人を人間性(人格)で判断するということをしておらず、
「肩書きで人を判断する(経営者という肩書の人と付き合うことで自分の自尊心が満たされる的なもの)」
「学歴で人を判断する(自分の学歴コンプ)」
「言葉で人を判断する(実際の行動に着目していない)」
ということをしていたため、適正に人を観るということが全くできていませんでした。
なので、自分が「無茶ぶりをされて、大変な状態」であることも認識せず、「優秀な人と付き合っているのだから、しょうない」というような割り切り方をしていたと思いますし、それは決して正しい認識ではありませんでした。結局は、知識だけ・言葉だけの表面的な経営コンサルタントと付き合ってしまったのが、運の尽きだったと思うですが、自分のなかで経営コンサルタント系は「胡散臭い」という認識ができてしまいました。実際は力のあるコンサルタントもいるし、まともなコンサルタントもいると思うのだけれど、そういう人は知る人ぞ知るというもので、逆に胡散臭い人のほうが目立ってしまうのかもしれないと思います。ただ、この胡散臭いという人間も、よほどのミスをしない限りは、その巧みな言葉遣いに騙されて、有難い助言と受け取っている経営者も数多く存在するのだろうと、その後のこのH氏の活動を見ていても思います。
ただ、介護福祉業界への接点を多く持てたことはこのH氏のお陰でもあるし、このときに膨大な時間を使ったから介護福祉業界のことも良く理解できるようにもなっていったのだから、人生にとって無駄だったとも言い切れません。もっと早く気づけばよかったというのは反省点ではありますが。そして、念願だった商業出版を果たすことができたのも、このときのハードワークのお陰とも言えます。
大きな転機となるのは、開業後3年目に初の顧問先となった経営者の方に、概念化能力開発研究所(当時はカウンサルジャパン株式会社)の奥山さんを紹介してもらったことです。当時、顧問先が20社程度になるまでは、毎月1回は訪問をしていて、同業の先輩からも「(定期訪問なんて)ずっとはできないよ」とアドバイスを受けていました(現実的にはその通り)。ただ、お客さんの状態を適切に把握できるし、後継者育成のための定例的な会議を実施したりすることで頼りにされているという実感が嬉しいということもあって、やれる限りはやっていこうと思っていました。
(同業からの声として、訪問しても話すことがない、また、間を持たせられないという話を聞きましたが、自分の場合は平気で1時間~2時間が過ぎていくので不思議に思っていたのです。ただこれは僕自身が「あらゆることを聴きまくる(アクティブリスニングをする)から」だと思います。根掘り葉掘り聞くので、時間もあっという間に過ぎていくのですが、無自覚にしていることなので自分ではなかなか認識できないのですよね…。お客さんや職員に言われた初めて気が付きました。)
しかしながら、その訪問をしていくなかで課題を発見しても、「課題解決をする人間」が組織内にいなければ、「何も会社は変わらない」という現実を目の当たりにして、
「一体どうすれば会社は変わっていくのだろうか?」
という疑問がずっと自分の中に渦巻いていました。その中で辿り着いた一つの答えが「採用」でした。社労士の場合、問題行動をとる社員に対して、どのように対応すれば良いか法的な側面も含めてアドバイスを求められることが度々ありました。では、なぜ、その問題行動を取る社員を採用してしまったのかというと、大抵「人が欲しくてたまらない」「喉から手が出るほど人が欲しい」という状態になってから採用をしてしまうと、失敗する確率が各段に上がるということも分かってきました。とにかく、冷静に人を観るということもできなくなるからです。
・組織の課題解決も「採用」が起点となる
・問題行動をとる社員についても「採用」を起点として失敗する
とにかく企業は「入口管理」をしっかりしなければ、会社を変えていくことができないのではないかと思うようになっていきました。でも、それをどうしたら良いのかが分からない。その頃に出会ったのが、先ほどの「奥山さん」だったのです。
顧問先の経営者も、採用後に大半が辞めてしまうという現状に当然危機意識を持っていて、たまたま経営コンサルタントからの紹介で奥山さんと知り合うことになりました。その流れで僕も紹介をして頂けることになりました。
紹介して頂いた日は、ご挨拶程度だったのですが、奥山さんが私のHPやブログを丁寧に読んでくださり、改めて会って話しませんか?というメールが届きました。願ってもないというか、自分から連絡をしようと思っていたぐらいでしたので、即レスで日程を調整して新宿で会うことに。
奥山さんからの話はとにかく知的好奇心を満たしてくれる話であり、恐らく平気で2時間以上は話したと思います。すぐに理解できないようなこともありましたが、とにかく、「アセスメントセンター」というものが、自分が抱えていた課題を解決するための「キー」になる。自分にとって、このアセスメントセンターを知ることが人生のターニングポイントになるとまで思いました。
「アセスメントセンター」は、世界大戦中にアメリカで開発されたと言われており、戦争は情報戦であり、情報を収集・操作・統合するスパイの活躍が重要になる。そのスパイは当然優秀な仕事人であり、精神的なタフネスさを要求されるのは、誰もがイメージしているところではないでしょうか。漫画やアニメでお馴染みのスパイファミリーの「黄昏(たそがれ)」をイメージしてもらったら分かりやすいかもしれません(ご存知ですか?私はアーニャもヨルさんも大好きです)。そのスパイの適任者を探すために開発されたのが、この「アセスメントセンター」でした。これだけでも興味が膨らみませんか?私ももう正直無我夢中でした。どうにかしてこの技術を自分のものにしたいとも思いましたし、早く、このような技術があることをクライアントや多くの人に知ってもらいたい!!と思うようになりました。
この後の養父は、
・これから採用をしようという人や人の問題で苦しんだ人にアセスメントセンターについて熱く語る
・クライアントへのニュースレターで熱く語る(書く)
・ホームページやブログで熱く語る(書く)
というように、とにかく経営者や採用をする人と接点をもったら、熱く語るという暑苦しい人間になってました。
(自分が良い!と思ったものに対して「情熱をもって周知をする」というのは自分のwant toの1つだと思います。報酬をもらわなくても勝手にやってますしね…。行き過ぎかもしれませんが、奥山さんが世に認知されていないということ自体が歯がゆくて、ほぼ日の糸井さんに対談どうですか?と勝手に送ったことも、ここにこっそり書いておきます。奥山さん、すみません…)
ただ、自分が特化していた「介護福祉業界」のクライアントの反応は一様に薄い状態でした(今思えば、養父が空回りし過ぎるのを奥山さんが時折り心配もしてくれていました)。というのも、このアセスメントセンターは、実施するにあたって、一定の人数(最低でも4人)を集める必要があり、そもそも人が集まらない、応募者がいたとしても、一人か二人という状態でしたので、アセスメントセンターを実施する状態に持ち込めるわけがなかったのです。実際は、自社の社員に入ってもらうことで何とかする方法自体はあるのですが、それでもハードルは高いものがあります。
そのため、温度差抜群!暖簾に腕押し!というような状態で、熱く語れど、実際に活用するという流れにはなかなか至りませんでした。とはいえ、それでも、アセスメントセンターの理論を知ることは、間違いなく経営に活きるものであり、奥山さんが主催するセミナーに参加を促したり、人で痛い目にあったときに「なぜ痛い目にあってしまうのか?」ということを論理的に説明をしたり、問題行動をする社員が顕在化してきたときに、どのように対応すれば良いのか、なぜそのような行動を取ってしまうのかを論理的に説明できるようになっていきました(よくお客さんには、「先生は、なんでそんな先の行動が読めるんですか?」と尋ねられたほどです)。実際の採用アセスメントの現場にも2年間、百数十時間をかけて実体験できたことが、「社会構造」を知るためにも、「採用の実態」を知るためにも重要な学びの時間となりました
この問題行動を取ってしまう人への対応については、それまで自分なりの経験則で語るしかなく、アセスメントセンターを知るまでは、自信をもって対応することができていませんでした。しかし、このアセスメントセンターの理論や技術を深く理解することで、人間の原理原則(特に問題行動をとってしまう人の心理)を深く理解できるようなり、経営者が判断に悩むような場面でも、その次の展開を予測し、どのように企業が対応を取る必要があるのかを先読みをして的確にアドバイスできるようになっていったのです。そして、その問題解決支援業務が、私自身の得意分野となっていきました。
私が経営している社労士事務所のホームページには、お客様の声が何件か掲載されているのですが、その中でお客様が語ってくれている
「以前の社労士さんも、自らの経験に基づいて共感はしてくれたんです。ただ、そこから解決策は生まれないので、仕方のないこととして私自身もあきらめていました。それに対して養父さんは、分析して根拠を示してくれるから、腑に落ちる、納得できるんです。それは他の社労士さんと違うところなのではないか」
というのは、私が提供しているアドバイザリー業務の本質を突いて頂いているものだと思います。本当に有難いコメントです。
独立開業4年目~2019年
2011年7月頃に入社した妻については、2013年頃まで一緒に働いていましたが、一緒に働くことの限界を1年目から感じ始めていました(巻き込んでしまったのは、すべて自分の落ち度です)。手続きの処理の速さ、知識の習得、エクセルなどの活用については、本当に頼りになりました。今でも作成してもらったエクセルの請求ファイルは活用しているぐらい。でも、自分が求める仕事の「質」には大きな課題があり、身内ゆえお互いが感情的になることもあり、このまま一緒に働くことで共に落ちていくという感覚がありました。クライアントへのサービス品質を維持できないことは大問題でした。そして、一大決心をしたのです。
「身内とは一緒に働かない」ということを。
そして、「家業」から「企業」へ転換することに。
妻に対して一緒に働かないかと誘ったのは自分であったし、大きな責任も感じていました。でも、この決断をしなければ、決して前へ進めないと思いました。妻と向き合って伝えるのは、本当に辛い時間ではありましたが、その意志は決して変わることはありませんでした。
問題は次の採用です。クライアントが採用で失敗するシーンを散々見ていますし、面接で人を見極めることの困難さも十分に理解していました。アセスメントセンターを知り、採用選考の段階で人を見極めることの困難さを理解した上で、ある会社の開業をサポートすることになったことにも触れておきます。
※内容は守秘義務もあるので、各社の事例等を織り交ぜて改変をしているのをご承知ください。
この事業所での顧問対応として、「たった月2~3万」の顧問料で面接の立ち合いから労働契約書の作成や説明までも対応していたわけですから、何て良心的なんだろうと今では思いますが、当時はまだまだ自分が提供しているサービスの価値というのを安く見積もっていました(大先輩方にも申し訳ない状態)。今なら、平気で1時間あたり1.5万~2万円で稼働しているような案件ばかりでしたので、どれだけの奉仕をしていたことか…。
その事業所で私も同席した上で数名採用したのですが、当然うまくいくことはなく、「見えやすいもの(経験、知識、資格、話した内容など)を面接で良いと思っても、蓋を開けてビックリみたいなことは山ほどあるということ、逆に、面接で派手さがなく、アピールもしないから、うーん大人しい人だよね…」みたいな感じで、目立たない人が実は一番、事業所思い・他者思いで、一番頼りになったということがありました。実はこれが採用面接を難しくしている点であり、面接をしている側として、「入社したい!」みたいな気持ちを全面で出してくれたほうが嬉しい。でも、心が落ち着いている人というのは、下手なアピールのようなものをしない特性があり、言葉と実際の行動が一致しないなんてことは山ほどあります。恐ろしい話です。
経営者が社員さんと向き合うことができない方の場合、社員さんからの質問や相談がすべてこちらに来てしまうというような状態になってしまいます。結果として、採用から退職までの様々な対応をすることになるわけですが(一歩間違えれば弁護士業務に抵触するリスクも包含しますので、開業したばかりの社労士さんで顧客に熱心に入り込む方ほど注意してくださいね!)、そういった対応も全て「月2~3万」で対応していましたので、本当に破格であり(お客さんにとってはラッキーであり)、自分としては無知でした…。この時期に取られた時間は本当に半端ないのですが、これも大事な人生経験であることは間違いありません。最終的に治めるところは治めた上で、今の顧問料でこれ以上の付き合いはできないということでお断りをすることにしました。
※この「場を治める」という才能は今後もあらゆる会社で実践していくことになります。
話を戻します。結論として、面接では人を見極めるには高度な技術が必要であり、今の自分にそれができるとは到底思えない。だからこそ、プロフェッショナルの力を借りよう(何でもかんでも自分でやろうとせず、他力を使うことの大切さ)。奥山さんに採用コンサルを依頼したいと思いました。ただ、依頼するに当たって、これまでと異なる「覚悟」が必要でした。
「本当に優秀な人を採用して良いのか」
「優秀な人を採用する資格があるのか」
「優秀な人を本当に活かせるのか」
これらを散々考えました。
そして、決断し、覚悟を決め、奥山さんへ依頼のメールを送りました。奥山さんから間もなく返事があり、一度お会いすることに。そのとき経営者としての覚悟を問われたことを今でも記憶しているし、そのときの自分の言葉で精一杯語ったうえで、最終的に採用コンサルを引き受けて下さることになりました。
(本当にやりたいことであれば、真剣に考えたうえで、依頼をする。「依頼を受けてくれなかったらどうしよう…」なんてことを考えてしまうけど、真剣に考えたうえでの依頼なら、その後の結果について後悔することはないと思います)
応募者募集のための媒体は考えられ得るあらゆるものを活用しました、
・ハローワーク
・リクナビネクスト
・ヒビコレ(社労士求人専用媒体)
・事務所の玄関口への掲示!?
などなど。何とか人数を集めて、グループ討議を実施し、社労士有資格者を採用することができました。ただ、自分のアセスメントセンターへの認識が甘く、彼女に対して過度な期待を寄せてしまったがゆえに、冷静に能力を見極めることができず、本の執筆や顧客対応など負荷のかかる仕事を任せてしまいました(正にブラックでクズな経営者でした)。最終的に2年近く働いてくれたのですが、彼女を活かす力が当時の自分にはありませんでした。
そして、その彼女が辞めることになってから、一旦はすべての仕事を自分ひとりで担いました。2013年の2月~3月は文字通り死にそうになるぐらいの状態。再び、奥山さんに採用のサポートに入って頂くことになり、その超忙しい合間を縫って、各種求人媒体や紹介会社を使って母集団を形成する努力をしました。結果的に100名近くの応募があり、その中から二十数名がグループ討議に参加して下さることになり、5回程度は実施できたと思います。その中で通過してくれたのが現在も働いてくれているWさん(入社10年目)です。
前回の自分の反省を踏まえ、過度に期待するのではなく、仕事の割り振りも的確にできるようになったことで、事務所運営は順調でした。また、このとき単独で出版することもできました。前回はひよって共著にしてしまいましたが、今回は自信をもって単著でお願いしました。
プライベートでは娘も生まれ、その娘との時間を大切にしたいという思いもあり、顧客数の増加も一進一退でした。社員を増やすという気持ちはなく、一人当たりの生産性が1000万を超えることで、現状に満足していました。
恐らく、そのころは仕事への集中力も切れていたのだと思います。
理由は、開業前のゴールを達成し、必要なゴール更新をしなかったから。
「没頭できる趣味はないか」と社交ダンスの次の趣味を探し出し、ベンチャースポーツと言われるテニスとスカッシュの合いの子のような「パデル」というスポーツにドはまりしていきました(遣り甲斐を趣味に求め、現実逃避をしていたのだと思います)。ただ、このパデルも激しいスポーツで、自分の体のケアができていないことにより腰を痛めてしまい、最終的にはやめてしまいました。
さて、どうしたもんか…と思っていたところ、税理士さんから規模の大きい法人を紹介され、そのときにこの規模感を引き受けるのは今の体制では難しいと感じたのと、職員の給与をさらに引き上げていくためには、人を採用していく必要があると思ってしまった年でした。要は売上の伸び悩み(行き詰まり)を感じていました。積極的に人と会う行動もしていない、圧倒的に営業やマーケティングに関わる行動量が減っていたのですから当たり前の話しなのですが…。ただ、人員が不足しているわけでもなかったので(Wさんの生産性が異常に高いため)、なかなか踏ん切りがつかない状態でもありました。
ターニングポイントとなる2019年
そのころ、何かの切っ掛けでマインドセット社の「コーチング」というものを知り、そのスクールに申し込もうと思ったのですが、知人も友人も少ない今の自分には、このコーチングスクールを卒業するのは厳しいし(今思えば観点が大きくずれていますね)、自分にその能力はないと勝手に判断し、断念しました。ただ、そのコーチングスクール(今はアカデミー)と2023年の年末に再び出会うわけですから、結局「心底やりたい」と思ったものには、巡り合う運命があるように思います。社労士のように。
そのような中で、自分の中のモヤモヤを断ち切るがごとく、未来への投資を行うため、最終的に採用へ舵を切る決断をしました。それが2019年。前回と異なり、今回は奥山さんからアセスメントセンター1次試験の内製化コンサルを受け、Wさんと二人で2019年の夏からひたすらグループ討議を実施していきました。その延べ人数は100人を超えました。二次通過者がでない中で、コロナ禍に突入。3か月ほどの期間を空けることになり、2020年の8月下旬から再び採用活動を行うことになりました。そのとき、自然と中途採用の限界を感じ、新卒採用を実施することになっていきました。
中途採用と新卒採用をミックスして実施する中で、ひと際、冷静で落ち着いた存在の応募者がいました。それが新卒第一号になってくれたTさんです。無事に2時間半もの二次試験も通過し、いよいよ最終面接。こちらは9か月かけて漸く巡り合った人なので、採る気満々でしたが、努めて冷静に事務所の状態(プラスやマイナスを含めたもの)や対応をお願いしたい仕事内容を伝えて終えました。その後、合格通知を出し、内定受諾の連絡を待つことに。最終面接時のTさんの反応は余りにも「素っ気ない」というか、「是非入りたいです!」みたいなやる気を見せてくれるわけではなかったので、若干肩透かしを食らったような面はありました。でも、当の本人は最終面接であるし、かなり緊張をしていたということもあり、さらに、心が落ち着いている人(心が強い人)ではあるため、素っ気なく見えただけだったのです。結果的に、すぐに内定受諾をしてもらい、一旦採用に一区切りつけることができました。
比較的順調な2021年、想定外な2022年
Tさんが入社してくれたのは2021年2月。2月~3月はアルバイト勤務をしてもらうことになりました。なぜなら、4月からの仕事がかなり忙しく、OJTをするにも中々時間を取れないという現状があったからです。さらに、(結構勢いで)2022卒採用を実施することにもなり、早速その2022卒採用の担当者になってもらう必要があったからです。
この年は2021年4月からスタートでしたが、2021卒のときと大きく異なったのは、当初から「新卒採用一本」で始めたこと。自分たちみたいな超零細企業が、大企業と横並びに採用を開始することに対して、本当にうまくいくのかという大きな戸惑いはありましたが、紹介会社さんたちの尽力もあり、最終的に7月に職員3人目、新卒2人目となるHさんを採用することができました。
Hさんには2021年10月からアルバイトで来てもらうことになり、ホームページの改修や、僕自身が担当している仕事をお願いするようにしていきました。
その翌年の2022年の新年早々に想定もできない大変な出来事が発生し、2021卒採用と2022卒採用を実施しなければ、Noppo社労士事務所は終わっていたかもしれないという事態に陥るのですが、先行投資としての2021卒と2022卒採用が最終的には自分の身を救うことになったというのは感慨深いものがあります。
再び暗中模索の2023年からの~、コーチングアカデミー
2023卒採用、2024卒採用は、Hさんが採用担当者になって始めていきましたが、いくら回数を重ねても一人も通過者がでないという事態に陥りました。最終的に「募集職種」と「開始する時期」の問題があるという結論に至り、またもや超零細企業が2025卒のインターンシップを実施するという無謀とも言えるチャレンジをすることに。
初回の開催を2023年12月27日とし、何とか学生さんを集めることができましたが、それでも「たったの2人」。これまでの採用がいかに紹介会社さんの恩恵を受けていたかを思い知ることになりました。さらにその数日前に僕自身が発熱。何と初回のインターンシップに参加することが叶いませんでした…(でも優秀な職員のお陰で無事に開催することができました)。
その後、風邪も回復しつつあるころに、家でYouTubeをみていたところ、2019年にも登場した「コーチング」に再び出会うことになったのです。
なぜこの「コーチング」に惹かれたのか?
それは、ここ数年の課題として、顧客との接点をもっと増やしていきたいということがありました。しかし、コロナ禍を経て、介護福祉業界のクライアントというのは直接お会いすること自体が困難になっていました。さらに、月1訪問していたときと異なり、何か用件やお困りごとがあった際には対応するという体制に切り替えていたため、顧客の情報を先取りすることができなくなっていました。
もう1つの課題としては、クライアントで何か問題があったときに、その問題解決のために手取り足取りサポートすることになるのですが、あくまでもマイナスをゼロに戻すだけであり(それも組織の土台をつくる重要な仕事ではあるのですが)、ゼロからプラスの支援ができているわけではありませんでした。
そのサポート内容のもどかしさから、
何か新たなサポート方法がないか、
付加価値の高いサービス提供ができないだろうか、
新卒の職員たちにも一緒に取り組んでもらえるようなサービスを開発できないか…
安定支援だけではなく、クライアントに右斜め上のゴールを向いてもらうような成長支援サービスができないか…
(この辺りは毎回空回りしているように感じますが、独立開業時や採用アセスメントの導入も含めて踏ん張って飛び立つには、通底する必要な空回りと感じています)
と悩んでいたときに出会ったのが、このマインドセット社の「コーチング」だったのです。2023年の年末から年始にかけて、ありとあらゆるインターネットページを読みこみ、YouTubeすべてを観る勢いで情報を取り込んでいきました。その結果、やはり、僕はコーチングがしたいと思ったし、このコーチングをクライアントに提供したい!と心底思いました。
そして、2023年の年始早々にマインドセット社に連絡を取り、不安な点をクリアにした上で、最終的にコーチングスクールに申し込みをしました。
ここまでの流れは本当に早かったと思います。
しかーし!自分のこのときの認識していた「ゴール」というものと、このマインドセット社が提唱する「ゴール」というのは、全くと言って良いほど、異なっていました。自分のなかでゴールというのは、右斜め上ぐらいのゴールではあったのですが、マインドセット社が提供するゴールというのは、そうではない。「現状の外側」なのだ。え、なに!?現状の外側って?という感じで、メダパニ(ドラクエの混乱呪文)を食らったように混乱するなかで、マインドセット社が早々に提供してくれた1期のときの動画を視聴していくのですが、見れば見るほど分からない用語と概念に混乱は深まっていくばかりで、さらに、不安も募っていきました。「本当に参加して大丈夫なの!?」と。
でも、学長である李さんの言葉で、自分の中で大きく腑に落ちた点があります。それは、コーチは、「コーチングをする人」ではなく、「問題解決をする人である」。つまり「問題を解決をするプロフェッショナル」だという内容でした。李さんはターゲットとするクライアントに、必ず伝えていることがあるそうです。それは、「私を雇えば、その問題って解決しますよ!!」ということ。もう正に自分がやりたいことの「ど真ん中」。そして、このように続きます。コーチビジネスにおける、コーチの役割は、「クライアントが、自分で問題を解決するお手伝いをすること」だと。それが私たちの仕事であり商品だと。
このコーチングの本質的な解は、僕にとって必要な言葉でした。どうも「現状の外側にゴールを設定する」という感覚が、余りにも自分の認識にない感覚で現実的なものとしてイメージすることができなかったからです。
4月からコーチングスクールが本格的に始まっています。想定したものと違ったように思いつつ、実はそうでもないと最近の自分自身は気づいています。クライアントに付加価値の高いサービスを提供したいのであれば、まず先に己自身が変革を遂げる必要がある、と。現状維持しかできない人間に、誰が成長支援を依頼するのか、そして、成長支援ということができるのか、と。
このスクール(アカデミー)の6か月をどのように過ごすかはすべて自分の主体性に関わっています。また、自分だけではなく、半端ないWILLを持った学長、メンター陣、同じ思いをもった仲間と一緒に歩んでいけるのが、本当に有難い環境だと感じています。このスクール期間はあくまでも通過点。自分のありたい未来の設計を考え尽くし、自分自身の行動そのものが、クライアントのモチベーションに繋がるような存在になり、当初の目的を超えるような場所に到達したいです!
つづく・・・