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北京入院物語(70)

 会社を1回変わった経験がある人、2度結婚した人、2人以上子供がいる人は、無意識にせよ前と後というふうに比較をし、ずいぶん違うものだなぁとか、あまり変わらないないものだという感慨があります。

 周さんと包さんを比較する意味がどこまであるかは疑問です。
しかし、付き添いとして適性があるのは包さんといわざるを得ません。
私のような全身性障害者が付き添いに望むことの1つに、自分の手足の1部になってほしいという基本的な要望があります。
「手足のように使う」という言い方は、あまりよい印象を与えませんが、自分でできる人が他人の手足を使うときにいう言いかたと思います。

 手を使う作業というのは、数え上げると、きりがありません。
あげる、下げる、つかむ、ひねる、まわす、つまむ、さわる、おす、ひっぱる、かく・・・いくらでもあります。
このほとんどできない私は指示して、付き添いにしてもらわねばなりません。

 その基本動作が付き添いの気分しだいで出来たり、出来なかったりすると手をもぎ取られたに等しいことになります。
いちいち、気兼ねしたり、お礼を言うのも面倒なことです。

 足に関しても同じことが言えます。
足代わりという言い方がありますが、私の場合は車椅子とその介助作業が足代わりとなります。
自分の足が意に反して歩かないということは、病気を除いてありえないことです。
ところが周さんのように付き添いが外出を決めるとなると、足の自由はなくなります。
オーバーに言えば、周さんに介護を受けるということは「手足をもぎとられた」いうことに等しかったのです。
北京入院物語(71)

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