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(私小説) 運命は扉をたたくか No3

崩 壊  

便利屋


 
 職場の直属の上司は入院前、私に何かあったらどえらいことだと心配してくれましたが、その『どえらい』診断結果を持って会社に戻ってきました。前に言ったように私の仕事は研究職というかっこいいものではなく、頻繁に製造現場に行かねばなりませんが、現場は粗末な階段があったり、足場が悪かったりと危険な場所でもあります。私の病気が進行性の筋肉の疾患だということを当時の技術研究室の上司はきっと考えたのでしょう。

 私は病院から帰って以降、製造現場に行かないように言われました。しかしそれは実験室にこもっていればよいという意味ではなく、一線から外すという意味であることがしばらくしてわかりました。職場には管理職が六名と研究開発員が二十余名いましたが、一線からはずされた私の処遇に関してはどうしたものかと悩んだことと思います。

 結局しばらくして私は技術研究室に続けて勤務する代わりに、事務職に変わることになりました。ただ事務職といっても急に私のために作ったような事務職ですので、仕事もこれといったものがありません。事務職に変わったある日、技術研究室の室長から、コピーを取って来てくれと言われました。私は何を言われたのか理解するのに時間がかかりました。私はそれまで会社の中枢部で、新製品の開発をしていたのです。人に事務作業を頼むことはあっても、頼まれたことなどありません。室長から依頼されたコピーを取りながら、私は訴えようのないやるせなさを味わっていました。

 毎日あれほど忙しかったのにまったくすることがなくなりました。私の仕事の一つは一年下の後輩が受け持ち、この優秀な後輩は、皮肉なことに、当時私が行き詰まっていた技術的な問題を解決し、量産化の見通しがつきました。先輩に移行した仕事は、後輩の仕事まで急に引き受けさせられたわけですから、私としては、心苦しく、その後進捗具合は気になるものの、聞くこともできません。両隣と向かい側の開発員は忙しく実験室に出入りし、現場に出かけて、席にいることはほとんどありません。部屋には研究室の室長と暇を持て余す私しかいません。

 仕方なく私は回覧で回ってくる雑誌を隅から隅まで読むことになります。時々時計に目をやりますが十分も経っていません。また雑誌を読み始めます。時計に又目が行きます。始業から一時間も過ぎていません。とにかく本を読む以外仕事がないのです。しかし本を読むのが仕事でないことは私が一番知っていました。

 出勤して三時間余でやっと昼のサイレンに救われました。この時間だけは人並みに戻れます。その昼休みもわずか四十五分で終わり、午後の仕事が始まります。いや始まったのは他の人であって、私はまた同じ雑誌を読まねばなりません。昼からの時間の長いこと、長いこと・・・。とにかくすることがないのです、、

 いや、ありました!。研究室は、ワンフロアーの吹き抜けに、二十の事務机が並んでいます。ときどきこの吹き抜けのフロアーにまったく人がいなくなりました。五のセクションに分けられた開発員用の机にはそれぞれ電話がありました。そうしますと、かかってくるすべての電話は私が受けなくてはなりません。用件をメモしていると、もう一台が鳴り始めます。セクションからセクションに走っていかなくてはなりません。雑誌の閲覧とコピー取り、そして電話番が、検査入院以降の新しい仕事でした。

 回覧雑誌を読み尽くしてしまうと、倉庫に行き、数年前の雑誌を持ってきて読んで午後五時の鐘が鳴るのを待ちます。鐘が鳴ってもこの部署では何の動きもありません。午後五時の定時に退社するのは私一人だったからです。一年下の後輩でさえ夜遅くまで残業しています。名札を目立たないようにそっとひっくり返しますが、微かな音が何とも悲しく響きます。バイクにまたがり会社から離れて初めてホッとしました。

 こういう生活が毎日続きました。会社に入って四年目で、いよいよこれからと言うときに私は、室長のコピーを取り、電話番をし、午後五時に退社する毎日を送り始めたのです。
 人には少なからず自尊心があります。大学を出た自負と会社の中での研究室という恵まれた職場で仕事をし、時に現場の作業員に指示して、その中で培った経験や信頼は自信となり、社会的な役職こそがまさに自分なのだと思っていました。その社会的な自分がガラガラと崩壊したのです。
どうして私なのでしょう?
どうして私がこんな病気にならなければならなかったのでしょうか?


模索 手さぐりでさがすこと


 私が検査入院し、引き続き治療を受けた病院は、全国でも有名な大学病院でした。ですから、きっと良く効く薬をくれて、その薬を飲んでいれば(時間はかかっても)いずれ治ると思っていました。

 しかし西洋医学がどんな病気にも絶大な効果を持つと信じていたのは私だけです。特に私の病気のような神経難病に関しては原因すらはっきりしていないものが大半です。西洋医学といえども原因がつかめない難病に関しては手が下せません。 その当時、医者もどう言う病気なのかをはっきりと分かりやすく説明してくれませんでしたし、私は聞いたことのないこの脊髄性進行性筋萎縮症のことを、大きな本屋の医学書で調べてみましたが、載っていません。何軒もの本屋を巡り医学書を読みふけりましたが、該当する病名はありませんでした。

脊髄性筋萎縮症
  脊髄性筋萎縮症(SMA)とは、運動神経細胞の異常によって体幹や腕・脚などの筋力低下、筋肉萎縮、筋緊張低下(神経や筋肉の異常により全身の筋肉が柔らかくなった状態が起こる病気です。海外における発症頻度は1万人に1人、日本では乳幼児期に発症する確率は10万人に1~2人と推定されています。発症の頻度に男女差はありません。脊髄性筋萎縮症は、発症の時期と症状の重さにより4つのタイプに分けられます。私の場合は TYPE 3「次第に歩けなくなることがある」に該当するものでした。
 
 私のような稀少難病患者は病気の発生率も低く、同じような患者に出会うということもめったにありません。日本全国でも一万人もいませんので、統計的なデーターも整っていません。要するにこの病気のことは医者も含め良く分からないものだということを理解したのはかなり後です。

 西洋医学が私の想像したほどのものでないことにがっかりしました。病名が確定し、月に一度診察と薬をもらいに行くことになりましたが、医者の口からは前向きの言葉がありません。つまり数ヶ月こういう薬物療法をして、その後は・・・というような治療計画です。

 診察が終わった後、実に長い間待たされて渡された薬は、赤いプラスチックに入った丸い錠剤でした。程なくして、この錠剤(メチコバール)がビタミンB12であることを知ってまたがっかりしました。このビタミンB12が中枢神経や末梢神経を正常に保つ役割があると言われているのは理解できましたが、なんだ、サプリかぁというのが私の正直な気持ちでした。

 唯一治療らしかったのは運動療法です。検査入院以来、医師の薦めもあり、その病院のリハビリ科の先生とマンツーマンで運動療法が始まりました。当時聞きなれないリハビリというものには、何がしかの幻想があり、運動選手が怪我のあと、このリハビリというものをして、現役復帰を果たし活躍するということを聞いていました。私はおめでたいことに、このリハビリを続ければ元に戻ると信じていました。

 ですから、私はどの程度のリハビリをすれば治るのかというその質問に、医師が的確に医学的に答えてくれるものだと思っていました。医師は少し困ったような顔つきで、まぁ、疲れないことが大事です、疲れたら何にもなりませんとアドバイスをしてくれました。私が求めていたのは、どの程度のリハビリをすれば治るのかの答えでした。しかしその言葉はどう考えても熱の入ったものではありません。私にはこう聞こえました。まぁ、あなたの気が済むようにやってください。

 一週間に三回というやや多すぎるリハビリを継続しました。まず病院に直行し、私とほぼ同じ年格好の理学療法士の先生と、マンツーマンでリハビリを行いました。終わるとびっしり汗をかくほどリハビリをしたのです。
 リハビリ室には実に多種多様の患者が訪れていました。おじいさんも、おばあさんも、若者も、そして小学生とおぼしき少年も。

 ふとその少年を見ると右腕がありません。彼は左手だけで腕立て伏せをしていました。そばには理学療法士が一人つきっきりです。彼の長い一生を考えたとき、私には何ともやるせない気がしました。その小学生が突然腕立て伏せを止めると、周りの空気を引き裂くように大声でこう叫ぶのが聞こえました。
「こうなったら、、、誰も彼も道連れや!」

 彼の受けた精神的な傷は癒されるときが来るのでしょうか?
そしてまた私の傷も、、、。

 昼近くなって会社に顔を出すという生活が続きました。もちろん、もはや私は会社にとって戦力外でしたから、一週間に何回遅刻をしようが大した問題ではありませんでしたが、年末のボーナスの査定で、上司がやや気の毒そうに、君の場合は仕事はよくやっているのだけど、やっぱり遅刻というのはねぇ...と平均から一〇%のカットを通告されたときは、仕事はよくやっているという言葉がまた悲しいほど心に突き刺さりました。そのころ私には仕事と言うほどの仕事などなかったのです。

 いろいろあると思っていた希望への扉が一つまた一つと目の前で閉まり始めました。わずかに閉まっていない希望への扉を探し出すことが私の当面の目標になりました。

 理学療法士の先生が水泳が体にいいよと言ったのを思いだし、当時バイクで会社まで通勤していましたので、退社後比較的近くにあった温水プールに通いだしました。まだ体力もありましたので、一回に一キロメートルを泳ぎ始めました。二十五メートルのプールを休むことなく、何回も何回も平泳ぎで泳いだのです。しかしプールからの帰り、私は疲れきり、歩くことそのものができなくなり、もう少しで転倒しそうになり、過度の水泳は逆効果と分かり愕然としました。

 私には治療法がないということが理解できませんでした。いや、立派な先生と高度な医療があれば、きっと治療法があるはずだと信じていたかったのです。
 当てにしようとしたリハビリもまた、期待した効果がなく、疲労困憊しただけでがっかりしました。医者にそこまで言われても、私はやはりリハビリに精を出さざるを得なかったのです。

 朝、バイクで出勤したのは会社ではなく、病院でした。私は一回一時間のリハビリを受け、終わる頃にはびっしょり汗をかくほど運動をしたのです。リハビリが済むとバイクにまたがり、昼前に会社に出勤です。定時に出勤した人のバイクで満杯の置き場を整理して、職場に顔を出します。職場の同僚はすでに私のリハビリを知っていましたからなにも言いません。なにも言わないというか、自分の仕事に忙しく、私に構ってられないと言うのが正解だったでしょう。

そう、なんで私なのでしょうか?
どうして、私でなければならなかったのでしょうか?


 こんな場合、誰でもがするであろうことをやり始めました。自分の納得のいく病名を付けてくれる病院を探すことです。納得のいく病名というのは正しい言い方ではありません。治る病名を付けてくれる病院を探したという方が正確でしょう。いわゆる『ドクターショッピング』です。別名「青い鳥症候群」とも。

 地域で有名な総合病院にその期待をかけて受診しました。検査台の上で衣服を脱ぎ、下半身の太股の後ろを見せたとき、筋肉萎縮は当時この箇所が顕著で、まるでナイフでそぎ落としたごとくえぐれていたのですが、うつぶせの私の背中から、研修で来ていた若いインターンが
「ひどい...」と絶句した言葉が聞こえてきました。その病院の診断は『遠位性の筋ジストロフィー』。ただし、正確な診断には検査入院が必要といわれました。

 しかし二週間の検査入院からさして日が経っていませんでしたし、週三回遅刻を認めてもらっていましたので、いくらなんでも、また検査入院のために会社を欠勤するなどとても上司には言えませんでした。相変わらず病院にはサプリだけをもらうために通院しました。

 別に悪口でも何でもありませんが、大学病院と言うところは基本的に研究機関でもあり、若手医師の教育や新しい治療方法や医学医療にかかわる様々な研究が行われています。ですから、いったん私の病名が確定すると学術的な興味も薄れ、いつの間にか最初の先生は別の病院に行き、少し若い先生が担当となり、その少し若い先生もまた担当からはずれ、かなり若い先生が私の担当となり、部屋も診察室ではなく、間切りで囲んだ部屋の片隅になりました。それは大学病院から見た私の病気に対する評価そのものだったのかもしれません。

 あると思っていた希望という扉は、目の前で静かに、確実に閉まっていきました。私は次第次第に閉じ込められていく自分を感じだしました。と同時に砂漠の砂の上をじりじりと焦がす強烈な太陽の下を歩いているような、何とも言えない焦燥感を味わいだしたのです。

 朝、目を覚まします。そうすると頭の中に『進行性』という言葉が張り付いているのに気が付きます。いったん張り付いた言葉は四六時中頭を離れません。何をしていてもその言葉が頭にありました。進行性...進行性...進行性...。

 いやだ!!と大声を上げてその場を立ち去れたらどんなに良かったでしょう。しかしその場を立ち去るも何も、立ち去る本人が進行性筋萎縮症の当事者だったのです。当時はまるで死の宣告のように聞こえたものです。

 焦燥感はいよいよ私を襲い始めました。もはや焦燥感の中で息をしているに過ぎなくなりました。やり場のない怒り。深い深い悲しみ。大きな不安。すくいを求めて周りを見渡してもそこには何も見えませんでした。人はこういう状況になると限りなく孤独になるものです。せめて酒でも飲めたら、しばし忘れられたかもしれません。しかし飲めば吐き気だけがする私は、酒に逃げ込むことにも失敗したのです

逃避行 さけてのがれようとすること


あせり


 
 私はこの時期、本当に孤独でした。それも多くの同僚がいる職場でひしひしと孤独感を感じていました。私は元来なにか問題が起こると、一人で抱え込むという性格で、内向的でした。背は高いものの痩せていましたし、人目で線が細いと看破されるような風貌でした。私は両親を始め、他人に相談しようと言うことすら思い浮かばないほど孤高の人でした。

 職場には夢も希望のかけらすら見いだすことは出来ず、ただ時間をつぶすだけに出勤する毎日です。良くなるという見込みは薬とリハビリしかありませんでしたが、このどちらも先にはっきりと希望が見えません。飲まないよりはまし、やらないよりはやったほうがよいというものです。大学病院のインターンは、脊髄性筋萎縮症と言ってもいいですと、わざわざ進行性という言葉を外してくれましたが、病名を告知されてから『進行性』という言葉が頭から離れなくなりました。

 朝目が覚めると頭には『進行性』という言葉がもう張り付いています。私はこれはきっと悪い夢だと何度も思ってみました。しかし現実であることを思い起こします。その繰り返しです。何年歩けるだろうか・・・車椅子に乗る自分を想像してみます。
歩けなくなる! 歩けなくなる! 歩けなくなる! 歩けなくなる! 歩けなくなる!
 (紙面の都合でこの程度にしておきます。)

 ぼんやりしていると、不意に心の底の方からカーッと苛立ちが沸いて来て、全身まで熱くなります。そしてその後、心臓をつかまれたような奇妙な不安感が襲ってきました。私は暗い暗い底に落ちていく予感がしました。
なぜ私が?
どうして私がこんな病気にならなければならなかったのでしょうか?

 当時会社を半日休み、週に二、三回先生の元へ、リハビリに通っていました。お正月明けの冬の朝、いつものように先生の元に行くと、職場の同僚の人からこう言われました。
「T先生はお正月休みで、今日は来られていません」

 昔の話なのではっきりしませんが、私の勘違いか、約束していない日に来てしまったようです。その時の私の気持ちは異常なものでした。心の底にあったどす黒い感情が一気に表れました。先生がご家族と楽しそうに家で過ごす光景が思い浮かぶのと反対に、会社に引け目を感じながら、冬の朝を一時間バイクでやってきた冷え切った惨めな障害の自分・・・みたいな感情です。

 簡単に言うと、先生と同じ世界に住んでいるという連帯感が崩れ、やはり先生と自分は天と地ほど、幸せが違うという嫉妬というんでしょうか。どことどこの線をくっつければこういう結論になるのか不思議です。しかし当時感じたのはそういう嫉妬でした。ただそれだけの理由で、もう二度と行くものかと決めたように思います。
唯一の心の支えであったリハビリの先生を、ほんのちょっとした些細な出来事で私が見限ってしまったのです。


テレホンクラブ


 
 とにかく刻々と迫り来る進行性の筋萎縮という恐怖を、たとえ少しの時間でも忘れることが出来たら、、、、。事実と直面することを避けていたに過ぎませんが、その頃の自分には、とても事実を冷静に見つめるだけの精神力などありませんでした。

 私はいつしか外に喜びを見いだすことになります。午後五時に逃げるようにバイクにまたがり退社していた私は、昭和六十一年の春のある日、帰路の途中で、道の両側に、数十メートルも延々と黄色の旗が風にはためいているのが、目に飛び込んできました。そこにはこういう文字が書かれていました。
『テレホンクラブ本日オープン! すてきな出会いをあなたに!』

 テレホンクラブは前年、昭和六十年に産声を上げ、その波が一年をせずに私の住む京都にやってきたのです。
 システムは入会金三〇〇〇円と引き替えに会員になります。各自は個室に入り、外からかかってくる女性からの電話を待ちます。畳一畳あるかないかという本当に狭い個室には、イス・机と電話とティッシュペーパー、ゴミ箱、そしてメモ用紙が置いてあります。簡素な部屋でしたが、何よりも陰鬱な欲望の匂いがしました。この部屋の使用料金が一時間三〇〇〇円です。

 五時に会社を退社してまず夕御飯をすまし、オープン早々で一桁の会員番号のついた会員証を見せて個室に入ります。外からの電話は各部屋の電話に同時につながりますので、いかにフックを早くあげるかは技術がいります。
 男性側はどんなことがあっても一時間三〇〇〇円かかる一方、女性は無料で電話がかけられます。女性は気に入らなければすぐに電話を切りますが、男性はこの一本に全身全霊をかけます。そんな男性をおちょくるように、早く来てと言って置いて、遠いところから、目的の女性を探している男性を見て、喜んでいるという意地の悪い女性もいました。

 そこで私は私で、適当に相手の気に入りそうな職業を伝え、年齢を多少少な目に言い、何とか相手の気に入られるように努めました。そうして盛り上がってくる頃に、どこで会おうか?こういう話に持っていくのです。
 私はのめりこみ易い性格で、じっとしているだけで向こうから未知の女性が飛び込んでくるという、このテレクラ遊びに没頭しました。

 運良くつながって女性と話し始めても、職業や年齢や身長、体重等、実に些細なことが女性に気にいらないと、いきなり電話は切られてしまいます。中には気が合って話がどんどん弾んでる最中に、やめとくわ、本気になるとやばいからと、電話を切られました。夕方から電話を待ち続け、八時、九時になっても相手が見つかりません。となりの男性は早々に『内定』を勝ち取ったようで、バタンとドアを閉めるといそいそとどこかに出かけていきました。とうとう十時、十一時までねばって一人も相手が見つからず、がっかりしながら帰る日もありました。今から考えてみれば、店に雇われた言わゆる『桜』もかなり混じっていたことと思います。

 しかし実際にデートにまでこぎつけるまでに、二日に一度のペースでこのテレホンクラブに通っても、週にせいぜい二人か三人しか会うことができません。この数名の女性に会うためにかかったお金は相当なお金になりました。なにぶん、一時間三〇〇〇円は結果がどうであれ払わねばなりません。一回通えば少なくとも一万円近くは必要でした。そのテレホンクラブに多いときで週に三回、少ないときでも一回は行っていたのですから、とても給料だけでは足りません。

 とうとう定期貯金にまで手をつけてしまいました。銀行の窓口で解約を申し出て、手続きが済むまでソファーで待っているとき、私は自分に向かって悲しい問いかけをしていました。
(こんなこと、いつまで続くんだぁ?)

 いつ、どこで、どんな服装で、、、というごくごく簡単な打ち合わせで、銀行の前で、私鉄駅前で多くの女性と会いました。大半の女性とは、身元を特定するような事実は言うことはありませんでした。それはお互いの暗黙の合意とでも言うものだったのかも知れません。女性とはその一夜だけの関係であり、再び会うようなこともありませんでした。

 一輪のバラ


 
 その詳細については単に週刊誌的好奇心を掻き立てるに過ぎません。しかし、ただ一人だけ今でも印象に残る女性がいます。テレホンクラブで知りあい、相手の女性の電話番号を聞きだし、その晩、彼女の家に電話をしたのです。この手のことに詳しい方ならご存じでしょうが、本当の電話番号を教えてくれる女性というのは少ないものです。半信半疑で電話をすると、なんと当の本人が出ました。その日二回目の電話です。時間は既に深夜になっていました。どんな話をしたのか、今となっては思い出せません。
 私は熱い期待を込めて、彼女と初めて会う場所と時間を決めました。日時は夏の土曜日の七時頃だったと思います。柄にもなく、私は花屋で一輪のバラの花を買って、背広の内ポケットに入れていました。

 あらわれた彼女は真っ白なワンピースを着ていました。河川敷のコンクリートには昼の暑さが残っています。その河川敷に並んで腰を下ろし、いろいろな話をしました。ふるさとのことや、仕事、スポーツの話など、、、。小さな店屋の店員をしていて、地方から出てきて既に五、六年が経つことを教えてくれました。年齢は三十前でした。

 彼女はそんなとりとめもない話を真剣に聞いてくれる相手を求めていたのでしょう。自分を認めてくれる相手を探していたのだと思います。しかし私は、彼女の話を適当に受け流し、早く話がすまないか待っていました。対岸のライトが映る川面(かわも)を眺めながら、全く別のことで頭がいっぱいでした。

 会話がしばらくとぎれました。
「、、、行こうか?」
 私がまず立ち上がりました。少し遅れて彼女が立ち上がりました。私の頭の中はもう『それ』しかありませんでした。私は歩き出したものの、彼女は立ち止まりました。二人は河川敷で向かい合いました。

「それ、、、もらっていい?」
 彼女はバラの花を指さしました。私は意味がよく分かりませんでしたが、反射的に彼女にその一輪のバラを差し出しました。
「ありがとう」

 彼女はバラを受け取ると、くるっと背中向きになり、雑踏の中を歩き出しました。週末の雑踏の中で、しばらく彼女の白いワンピースは見え隠れしていましたが、やがて闇の中に消えていきました。一晩だけ名も知らない深海魚が海面にまで現れ、身を翻し深海に戻っていったのです。私は呼び返すことも出来ず、彼女が消えてからも、しばらく動くことが出来ませんでした。
 
 彼女は孤独をいやしたかったのだろうと思います。その意味では私もまた同じでした。
 その女性の例を挙げるまでもなく、大半の女性とは気まずい別れ方になりました。遊びの恋愛が始まったのもその日なら、終わりもその日でした。そしてその終わりに私はひどく傷ついたのです。うさを晴らすつもりが、うさを背負い込む結果となりました。私はテレクラ遊びそのものに苦痛を感じだしたのです。

 私のテレクラ遊びは昭和六一年七月五日をもって終わりを告げます。実は七月四日、五日と続けて違う女性と会ったのですが、ことごとくいやな目にあったのです。一人目の女性にはボーナスを盗まれ、二人目の女性にははっきりともう会いたくないと言われたのです。

一時間三〇〇〇円払って私はいったい何をしていたというのでしょうか? いまならはっきり答えられます。
 お金で幸せを買おうとしていたのだと。
 
  

諦念 あきらめる、断念する


 
 一時間三〇〇〇円払って幸せは買うことは出来ませんでしたが、一種の諦めは買うことが出来ました。なぁ、散々お金を使って遊んだじゃないか?。
 自暴自棄のすさんだ自分はこのテレクラ遊びで多少癒されました。もう特にやりたいことは残っていませんでした。

 昭和六一年の夏を過ぎるころから、少しずつ自分を取り戻し始めました。またほとんど雑誌を読んで過ごす以外仕事のなかった会社も、曲がりなりにも仕事と呼べるものが少し出てきました。
 当時の研究室の室長は私のために何かと仕事を作り出してくれました。事務室には以前からパソコンといわれるものが設置され、ワープロ、表計算ソフトを管理職が使っていたのですが、この作業を私がすることになったのです。

 さらにこの会社のすべての工業製品の標準原価を、年に一度パソコンを使って作成するという作業もすることになりました。特許の検索には、その当時やっとパソコン通信を通じて、遠方の大型コンピューターのデーターを引き出すということが始まっており、わざわざその操作の講習会にも行かしてくれて、この操作も任されるようになりました。進捗管理のための簡単なプログラムも作りました。

 もちろんこう言った仕事が朝から晩まであるわけではありません。単発で思い出したようにポツンポツンとあるだけで、それ以外の時間はやはり雑誌を読まねばなりません。相変わらず部屋には誰もいず、私と数人の管理職だけが部屋で仕事をしていました。

 孤独であることは違いなかったのですが、一頃に比べるとずいぶん気が楽になっていました。それは結局簡単に言えば『慣れた』ということです。孤独感にも慣れ、進行性という言葉にも慣れたということだったのです。私の体が少ずつ悪くなっていき、筋肉が萎縮していくことを現実として受け止めるようになったのです。諦めと引き換えに・・・。

 病名の告知があって半年以上かかってやっと『進行性』という言葉を受け入れたのです。発病前の自分にはもはや戻れないことを悲しい事実として自分なりに消化しつつありました。一時期の荒れたガサガサした心は、どすんとした沈んだ気持ちになりましたが、この方がはるかに楽でした。出来ないことは出来ないこと、出来ることだけをしよう・・・とりあえず私はなんとか事務作業に精を出すことにしました。

不信


 
 私のこの難病は、どちらかというと足のほうから始まり、次第に上の方にまで萎縮が上がってきました。したがって、告知された頃は腕にはほとんど萎縮は見られず、健康な人と同じ程度の力がありました。一番ひどく萎縮したのは足首で、次に背筋と太ももの後ろ側の筋肉でした。

 数日パソコンに向かって仕事をしていたある日のことです。首が妙に疲れ、だるくて仕方ありません。なにぶん進行性の筋萎縮症と言われていますので、とうとう首の筋肉まで萎縮してきたのかと恐ろしくなりました。そこで大学病院の担当の先生にそのことを訴えましたが、医師は、この病気は普通そういうことはありませんというつれない答えです。

 患者の訴えを聞いて考えようというものではありません、確定した病名ではそういう症状は起こらないはずだと医学書のほうに重きを置かれたのです。
 実は担当の先生というのはつい最近変わったばっかりで、私はまったく面識がありません。先生もカルテを見て私のことを知ったに過ぎません。
 
 この病院は有名な大学病院で、大学病院というところは病気の学術的な研究が主となっている感じがします。ですから私のような珍しい患者がやってくると、ややもすると学術的な興味が先行し、病名が確定してしまうとどうも熱意が冷めてしまうように感じます。
 結局この病院には一年足らずしか通院しませんでしたが、その間に三人も担当の先生が変わり、どういうわけかその都度、年若い先生になりました。ですので私がリハビリのことをすがるように聞いても、その答えには、どうにかしてこの患者を良くしようというような気持ちが伝わってこず、置き去りにされたような気持ちになったのです。

 今回もまた、首の筋肉はどうもないでしょうか?と真剣に聞いた割には答えは、医学書の知識を披瀝したに過ぎませんでした。私はだんだん、この病院に見切りをつけようと考え始めました。それになんと言っても、サプリだものなぁという気持ちでした。
 学術的には病名を確定することや原因を解明することは、大変意義あることですが、患者にとって大切なのは治るか直らないかです。この病院の場合、病名の確定がすんでしまうと、一件落着という態度がどことなく感じられました。



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