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ワークショップ第01回『オリエンテーション』【哲学部】[20210503-0509]

みなさんこんにちは。今年度よりJ LABの哲学部の部長をさせていただいております、コバと申します。

J LABの活動をコミュニティに入っていない方向けに、コミュニティ内の活動を記事として共有させていただきたく思い、筆をとっております。

題名にある通り、この回が第1回目の今年度哲学部のWSだったのでオリエンテーションを行いました。

部長として、その内容に関する記事を書かせていただきます。

なお、他の方の発言に対して私が返答を行う形でWSを進めており、他の方の文章のその部分に対して私が答えている時は、その文章は抜粋しているという意味で<>で、その文章を囲っています。

コバ 
オリエンテーションということで、皆さんにいくつか質問を投げかけますので、双方向のコミュニケーションを取れればと思います。
Q1,哲学に興味がありますか?あるとしたら、どのようなきっかけで興味を持つようになりましたか?
Q2,哲学に興味がありませんか?なぜ興味が無いですか?
Q3,哲学とはなんだと思いますか?
Q4,哲学は役に立つと思いますか?それとも役に立たないですか?なぜ役に立ちますか?なぜ役に立ちませんか?そもそも役に立つってなんだと思いますか?
以上、どれか1つでも全然構わないので、WSルーム内でお答えいただけると幸いです!

という内容で、これらの質問に答えていただきながら、双方向での意見交換を行いました。

第1回のWSなので、なるべくコミュニティ内の方の思考が聞けるように少し抽象的な質問にし、アンサーの自由度を上げました。

下記、WS内のやり取りをいくつかピックアップしていきます。

コバ 
私がなぜ哲学に興味があるのか、最初に話しておこうと思います。
私が哲学を強く意識し始めたのは、大学生の時です。
特に何かきっかけがあったかどうかは覚えていませんが、当時の私は自分の生きる意味が全く分からなくなっていました。
ニヒリズムに陥っていたと思います。
自分がなんのために今生きていて、これから先なんのために生きていくのか本当に分からなくなり、その時の私は相当フワフワしていたと思います。
その時に人生に意味など無く、ただ生きて行くしかない。ただ生きてい行くことを覚悟すること。人生に意味が無いということを受け入れること、そういったことを部屋の中で一人で考える時間の中で、哲学というものを意識するようになりました。
結果的に哲学することで私はニヒリズムから免れ、なんとかこうして今、社会の中で生きています。
といっても私は、哲学が私をニヒリズムから救ってくれた素晴らしいものだ、と言いたいわけではありません。
むしろ、生きる意味が分からなくなってしまった時点で私は哲学に囚われていたのかもしれず、そうであればそれは哲学のマッチポンプに私は翻弄されていただけなのかもしれません。
ニヒリズムから救ってくれたのが哲学であるものの、ニヒリズムそのものが哲学から生まれてくるものであるならば、いずれにしても私の人生に哲学はべったりはりついていくことになります。
そういうわけで、私は今日も今日とて元気に哲学しています!
にしむらもとい
Q1,哲学に興味がありますか?あるとしたら、どのようなきっかけで興味を持つようになりましたか?

Q2,哲学に興味がありませんか?なぜ興味が無いですか?
興味があるのかないのかという観点で哲学を眺めることが僕にはできないのでその問いに答えることは叶いませんが、「哲学的なもの」は物心ついた時から僕の人生にもべったりと貼り付いています。

Q3,哲学とはなんだと思いますか?
哲学とは何か。その問いと、歴史上最も真摯に向き合った人として僕はウィトゲンシュタイン氏を皆さんに紹介していますが、そもそものもっと素朴な意味での哲学は「愛」を追い求めることだと僕は考えています。物事の本質を見抜く、意味を考える、いろいろな表現ができると思いますが、そのいずれもが「人間」に対する想いであり、「人間」のない哲学は存在しないと思います。仮にそんなものがあったとするならそれは哲学とは言えないとも思います。本質とは何か。意味とは何か。「とは何か」と問う行為とは何か。その全てが「人間とは何か」という問いとほぼ同値であろうと思います。もっと言うと、「宇宙とは何か」という外へ向けた問いすら、実は「人間とは何か」という内へ向けた問いに過ぎないのかもしれない。そんな、厨二病的なアイデアが頭から離れない人が世の中には一定数います笑 そういう人達が哲学という沼にはまって今日も元気に生きています。

Q4,哲学は役に立つと思いますか?それとも役に立たないですか?なぜ役に立ちますか?なぜ役に立ちませんか?そもそも役に立つってなんだと思いますか?
哲学が役に立つか。この問いの答は文脈に依存すると思います。皆の共通意識、共同幻想に基づいている社会を運営するという状況における一般論においては、ほとんど役に立ちません。むしろ一般大衆からは哲学なんてものは取り上げた方が社会は効率よく運営されるかと思います。その一方で、個としての人間が人生について意味を見出す、モチベーションを見つける、そういう特殊な状況において「助けになる」ということを「役に立つ」と解釈するなら、哲学は「役に立つ」と言えると思います。つまり、哲学が役に立つかを判断するには、いまここで問われている通り、そもそも皆さんが「役に立つ」という言葉をどう定義しているかを明確にする必要がありますね。僕自身の話をするなら、いまの定義に基づけば、教養としての哲学は確かに一定レベルまでは役には立ちました。しかし、教養知識としての哲学が根本的に僕自身の生きるモチベーションの「救い」になることはありませんでした。
哲学とは、「現代語」で表現するなら、究極のゼロベース思考だと思います。そして、名詞ではなく動詞です。静的なものではなく動的なものです。万物は流転するなんて言ったりしますが、不変的価値というのは変わりゆくものを見つめてこそ見出せるものです。僕はよくノスタルジーの話をしますが、変わらないものにしがみつくことで不変を保とうとするのは、とても愚かな行ないです。この激動の時代、先が見えぬほど変わりゆく世の中の、まさにその中にこそ、変わらない本質を見出すヒントがあるのだと思います。統計データ、実験データ、ビッグデータ、データが人間を塗りつぶす時代に、「愛」を追い求める哲学という行ないに一体いかほどの意味があるのか。もう皆さんにはご理解いただけたかと思います。静的な思考では本質を捕まえることは、おそらくできません。何故? ご自身で「哲学」してみてください。
※ちょっと質問が重たそうだったので笑 率先して重めにコメントしておきました。もっと素朴な、何なら小学生の作文レベルの文章でも構わないと思います。哲学に全く興味がない人は興味がないということをはっきり表現するのもひとつの哲学です。哲学とは「行ない」です。この場は閉じた人間関係しかない、恥をかいても恥ずかしくない空間です。パッと文章が書けないなら、じっくり時間をかけて考えを練ってもらっても構わないと思います。拙くても自分なりに感じたこと考えたことを、是非出力して皆の目に「晒す」ことに慣れていきましょう。 
コバ 
<そもそものもっと素朴な意味での哲学は「愛」を追い求めることだと僕は考えています。>
哲学に限らず、私の場合何かを学ぶというのことには世の中を良くしたいというモチベーションが内在しています。世の中とは他者であり、他者とはまた、自分でもあるので。

<教養知識としての哲学が根本的に僕自身の生きるモチベーションの「救い」になることはありませんでした。>
私も同じですね。なので哲学の分かりやすい話をしたりすることや、あるいはアカデミックな世界で哲学を学ぶことにはあまり興味がありません。
Hiroto 
Q1, Q2
「先人たちの営んできた哲学」に興味はあります。明確にいつからかと問われるとわかりませんが、「大学に入ると数学は哲学になるよww」的な言説をしたり顔で言う人間に対しての静かな怒りが原動力になっていることは確かだと思います。少なくとも哲学が何たるかを知らなければこの言説へのアンサーは不可能であるため、哲学が何たるかを知ることが「できるか」はさておき、知ろうとする意欲はあります。
「自らが哲学をする」ことへの興味はあることにはありますが、非常に距離の隔たった興味だと認識しています。
頭をこねくり回すのは好きです。
わかりやすく役に立たないものに頭をこねくり回すのはもっと好きです。
しかし、これらはあくまでもファッション的な趣向であり、別段人生に対して大きな悩みのない自分にとって、「哲学をすること」は「生きること」と全く同値でないことははっきりしています。生まれたときから哲学をせざるを得ない「哲学者」とは異なり、それに似た思考の形式をなぞることで距離をとりつつ哲学と向き合う「思想家」であると自己を認識しているので、今後もこのような距離感で哲学を「しようとする」のだろうと思います。決して「せざるを得ない」のではなく。

Q3
極論、誰かが何らかの動作やその表出を哲学と呼んだとして、他者がどのようにその真偽を断ずることができるでしょうか。個々人には個々人の、哲学と呼ぶべき行為があり、それらの中で目立った表出を、僕らは客観的に学ぶ対象としての哲学として扱っているのではないでしょうか。ここではわかりやすさのため他者の存在を仮定しましたが、もっと極論を言えば、私が哲学と呼称する行為こそが私にとっては哲学です。

Q4.
役に立つものとは、目的に向かって、他と比べて(主観で)少ない苦痛で辿り着くための手段のこととここでは定義します。
ファッション的な哲学を学ぶことは私にとって役に立ちます。周りに教養人だと思われることで楽に立ち回ることができますし、頭のいい人が言っていることを楽になぞることができるようになるのは非常に都合がよいです。そして何よりも、哲学的なものをなぞるために頭をこねくり回している時点で私は快感を感じることができるので、それ自体が自己目的的に役に立つとも言えるでしょうか。
しかし、自ら哲学をすることは今の凪のように平和な私にとって全く意味をなしません。その解決法として哲学を採用せざるを得ない類の悩みを今抱えていないため、哲学をしようとしても、借り物の問題意識に対して借り物の思考形式をなぞる哲学もどきへと一瞬で姿を変えます。なんなら元から哲学もどきだったのでしょう。そうなった瞬間に私にとってその哲学もどきは先程の意味で「役に立つ」ものですが、私が哲学と呼称している行為をしようと試みることが、特別に何らかの目的を達成する助けにはならないと思います。
思想家タイプの人間として、これから精一杯自慰的に役に立つ哲学もどきに邁進したいと思います。そして、これからのWSをその手段として活用できればと思います。
コバ
<生まれたときから哲学をせざるを得ない「哲学者」とは異なり、それに似た思考の形式をなぞることで距離をとりつつ哲学と向き合う「思想家」であると自己を認識している>
私にとっての哲学は背中にべったり貼りついているものなので、距離が取れないんですよね笑
「たまには、この背中に貼りついているモノと向き合ってみるか〜(絶句)」という感じで哲学してます笑
イヤープラグさざなみ
Q1,哲学に興味がありますか?あるとしたら、どのようなきっかけで興味を持つようになりましたか?

Q2,哲学に興味がありませんか?なぜ興味が無いですか?

Q3,哲学とはなんだと思いますか?
浪人生活中にふと自分の過去と現在、そして将来のことをぼんやりと考えているうちに、哲学というものに興味を持ちはじめました。自分が所属のない浪人の身であることへの不安と、ある種の開放感を感じていたのを覚えています。現役で大学に進学し、忙しい生活を送っていたならば至れなかった境地です。一度レールから外れた私(二年間の宅浪生活で、家族以外との交流がほとんどない)は半ば自暴自棄気味になっていたというか、行き着く先はいつも虚無主義でしたが、現実生活を充実させたいという欲求と、そんなものは全て無意味であるという考えの間で葛藤していました。自分でも気づいていましたが、私が陥っていた虚無主義思考は全て思考放棄です。先人の哲学に触れ、自分の頭の中でそれを再構築して理解し、それでもそんなものに意味はないと言い切れれば、それこそ本当の虚無主義と呼べるのでしょう。そういう過程を経て達したニヒリズムの境地には、どこか清々しく、どちらかと言うとポジティブな印象がありますが、無勉強の浪人生が至るそれは、真逆のものです。そこで私は、大学にも合格し、心に余裕ができた今こそ、もう一度哲学に触れてみたいと思いました。所属があり、そして浪人生活時代のあの心境も覚えている今、何か新しい進展を生むかもしれないと思ったからです。
「哲学」という言葉は、私の中では「生きる上での指針」のような意味を持っています。生きる上での指針とはつまり、自分の価値判断の大元の根拠であり、思考の源泉です。「哲学する」とはすなわち自分の土台を作る作業なので、簡単にいくものではないだろうし、一生かかっても完成しないかもしれません。実際、完成しなくても生活する上では大した問題ではないような気がします。社会の歯車になって忙しく働いているうちに、生活の全てがオートメーション化されていって、自分の判断の大元の拠り所など、改めて考える機会などないだろうからです。
本を読むことは重要だと思います。判断するとき、思考するときに言葉を使うからです。言葉はコンテクストの中で意味が決定されるものなので、同じ言葉が様々なコンテクストの中で使用されている例にたくさん触れることで、自分の中で言葉のイメージを熟成(?)させることができます。そしてこのイメージは他人と共有もできません。なぜならその人にはその人が構築した言葉のイメージがあり、それはその人の読んだ本であったり、生活体験の中で形成されたものであって、自分のイメージとは違うからです。辞書に書いてある言葉通りに話し合えば通じ合うと思っても、辞書もまた言葉で書かれているため、解決しません。これはどうしようもない事です。哲学は一人でするしかないのです。ただ、自分以外の人との対話を通してしか得られない境地も必ずあると信じたい。そこで交わされる言葉について、参加者全員が完全に共有することは不可能であるにしろ、それぞれが構築してきた言葉のイメージに照らし合わせて各々考えを深めることは可能だと思います。ただし最後はいつも一人です。

Q4,哲学は役に立つと思いますか?それとも役に立たないですか?なぜ役に立ちますか?なぜ役に立ちませんか?そもそも役に立つってなんだと思いますか?
「役に立つ」というと、何らかの目的を達成するための効率化を促す、というような意味で使われることが多いと思いますが、その意味に対してだと役に立ちません。私にとっての哲学はそれとは対極に位置します。哲学は生産性度外視で、時間はいくらでも取られるのに、それによって得られるものの保証がありません。ただし思考した末に自分にとっての哲学の結果が出たならば、それは自分の心の拠り所になるという意味で、役に立つと言えるでしょう。何を以て結果が出たと判断されるのかは自分でもよくわかりません。思考を続けているうちにふと自分を客観視し、以前の自分との考え方の違いを見つける、というようなことでしょうか。(書いていて思いましたが、「哲学の結果」とは何だ。そんなものはないような気もしてきました。)自分の哲学は人と共有できないため、自分にとっての価値が生まれれば、他は関係ありません。
思いついたことをだらだらと書いてしましました。もし共有できる部分があったら、何か話したいです。他にも何か書きたいことがあるような気がしますが、また思いついたら何か書かせてください。
コバ
<私が陥っていた虚無主義思考は全て思考放棄です。先人の哲学に触れ、自分の頭の中でそれを再構築して理解し、それでもそんなものに意味はないと言い切れれば、それこそ本当の虚無主義と呼べるのでしょう。そういう過程を経て達したニヒリズムの境地には、どこか清々しく、どちらかと言うとポジティブな印象がありますが、無勉強の浪人生が至るそれは、真逆のものです。>
思考しきった先のニヒリズムの先には、「仕方ねぇ、生きてやるか〜、よっこらしょ」的な開き直りがありました笑

<「哲学の結果」とは何だ。そんなものはないような気もしてきました。>
<「哲学」という言葉は、私の中では「生きる上での指針」のような意味を持っています。>
結果という言葉を、「ある物事・行為から生じた状態(になること)。」と定義し、哲学の定義をさざなみ君の言葉から借りると、哲学の結果とは、「生きる指針の行き着く先の状態」ということになると思います。
そうなってくると、「哲学の結果」というのはあるか無いかというよりは、自分で到達するしかない地点なので、少なくとも他者に広く共有されるものでは全くないでしょうね。
さかぼう ver.抹茶
説明のため,Qの順番が前後します.
長い補足が付く予定なので, その際はこのスレッドに追加します.

Q3 哲学とはなにか?
0. 大昔,屁理屈おっさんが偉い人や知識人とレスバしたら恨みを買って死刑にされたが,そのおっさんの追随者にレスバ文化が残こり,それが現代まで哲学と呼ばれている.(という冗談はさておき)
1. 科学革命以降は,科学が対象としない問題を,科学が用いない方法論で考えること. あるいは科学の余り物の思弁.

2. 現在のアカデミックとしての哲学は, 文献を正確に読み,また,読み替え, 新しい問いや概念を発明すること.

3. 自分なりの定義としては, 自然言語による解釈についての正しい解釈(によって思考停止に陥りがちな相対主義から逃れ,思考を更に掘るあるいは上塗りすること). (解釈についての解釈という言葉で,哲学を含む文学の動的性格が説明できると思っています. 言語の身体性との関わりも含めて説明を追加します)

4. (1)一般的には,「哲学を学ぶ」と言う場合は,哲学者が説いた思想,またはそれら数々の思想の流れを知識体系として身につけるために,哲学(史)書や哲学の古典,必要があれば解説書を読解することを指し,

4. (2) 「哲学する」と行為性を強調する場合は, 自分の持つ疑問や悩みを突き詰めて考えざるをえず,結果,抽象的な思考を通して, 普遍的な疑問とそれに対する答えあるいは納得を得ることができるかもしれないし,できないかもしれないような思考を意味すると思う.
※4-(1)では,古典教養と格闘する(〇〇(任意の哲学者名)を読む)という意味合いが強いように感じられるが,数十年前であればフランス現代思想,現代であれば思弁的実在論などが時代時代の現代の哲学として受容されている.

Q4 哲学は役に立つか?
・社会的観点から,一つの例として,消費者教育として役に立つ.(消費行動を通して駆動される社会においてその動力である消費者が哲学の成果物である思考方法や概念のパッケージを知ることで,より賢い消費ができるようになる.そしてそれは(商品の中の疑似科学を直接的に見抜くための)特定の科学知識に優先する)
・個人的観点からは, Q3であげた, 1かつ3の形式の思考をすることが多く,それらは楽しいことが多い. 最近は,悩みながら苦しんでやらざるを得ないという4-(2)の形式よりは, 思考のリソースの5~15%が常に割かれているような思考が多い.
専門にしようとしている情報科学系の分野が哲学的思考と相性がよい(と個人的に考えている)のもあり, 哲学的な問答形式で情報科学系の問題を見てみたり, 情報科学系の知識で哲学の問題が再解釈できないか遊んでいる.
思考の方法論は哲学の領分でもあると思うが,特定の分野の問題を解こうとするなかでも深められるものなので, 分野未分類の抽象思考を直ちに哲学と呼び,哲学としての有用性と見るかどうかは,思考形式をどれほどメソッドとして言語化して確立しているか,そしてそれが特定の分野によらない方法論に抽象化できているかによると思う. ( 哲学のハウツー的あるいは人生訓的側面と形式科学との関連も後々追加します)

Q1 哲学に興味があるならばそれはなぜか
昔から気になることが,2つあり,
・考えることを考えることでうまく考えられるようになるのではないか? これはお得だ!!
というのと,
・同じことと違うことはどう違うのか, 具体的には,死体が死んでいると言えることはなぜか? 加えて,なぜ同じ文章が違って読めるのか,つまり,テキストが読み替え可能なのはなぜか
ということ.
これらの疑問に対し,理論的基礎があやふやだが,正しく考えようとするモチベーションはあるという意味でとりあえず哲学的疑問と言っている.
要は,学問的基盤があれば,その課題をあつかう整った方法論があるのかもしれないが, 自分の怠惰,あるいは学問分野として未発達な問題かもしれないのでそれについて考えることをひとまず哲学と呼んでいる事になる.
別の言葉で言えば, 自分の疑問に直接的に答える学問を見つけられなかったので,分類されるとするならば哲学であろうという消極的理由.
(哲学せざるをえないということを職業としての学問・学者と関連付けて追加説明します)
コバ
<考えることを考えることでうまく考えられるようになるのではないか? これはお得だ!!>
うまく考えられるようになること、これをどう捉えるかですね。
パスカルは「人間は考える葦である」という言葉を残しましたが、考える葦と考えない葦、どちらが幸福度が高いかというと、正直どちらもそこまで変わらないと思います。
なので上手く考えられるようになることは、私は一概に良いこととは思えないですね。。。
さかぼう ver.抹茶
リアクションありがとうございます.
問題が,考えすぎではなく,考えなさすぎで発生しているうちは,考える能力を高めることが幸福に近づきやすいと思っています.考えようが考えまいが葦は葦なのですが,考えない葦は考えることで解決できることにも悩まなければいけないので.
身近な悩みが解決された後に,考える能力が向く先が必ずしも哲学的な疑問になるかといえば,平均的には案外そうでもない気がしています.
補足が遅れて申し訳ありません.分量が膨れ上がって本日中にまとまる気がしないので,ワークショップ後にはなりますが,体裁を整えて公開します.
コバ
思考力が上がるに伴い、一般的に問題解決能力も上がるので、思考力が上がることで生きていく上で必要な問題を解決しやすくなるという効用はあると思います。
皆さん、その一般的な問題解決能力を高めるための思考法を習得しようとメンタリストさんの動画等を見られるんだと思います。
なので、社会に上手く適合できる方向で思考力を伸ばす(考える能力を高める)ことは人生の幸福度を上げることに寄与してくれることは私も同意します。
思考を極限まで深掘りする人間を「考える葦」、思考を放棄している人間を「考えない葦」という形で表現したので、極端な例になってしまい、さかぼうさんの仰られている文脈から少しズレた返答をしてしまったかもしれません。
失礼致しました。
WS外でも、ご返信お待ちしておりますので、どしどし思考をぶつけていただけたらと思います。
さかぼう ver.抹茶
「考える葦」という表現について,僕の用法は原意をかなり損ねているようです.申し訳ありません.
知識や思考力があれば悩まなくていいことで悩まなくなるという程度の意味で,「幸福に近づき」と書いたのですが,人生という長期的なスパンでみた場合の幸福についてはよくわかりません.不幸でないということぐらいしか,幸福のとりあえずの定義が思いつかないです.これはそもそも幸福というものが感覚的に把握できるものではないからだと考えています.あるいは幸福という言葉にあまり慣れていないのかもしれません.
僕は,言語に関する思考力自体に,哲学的な思考力と,社会に適合的な思考力という分類があるように思えないので,考えるのが上手ければうまいほどいい.と思ってしまいます.この上で,思考というよりも,その思考を向ける対象である疑問が浮世離れしているかどうかが,「哲学的」かどうかの決め手の一つであるように思います.
補筆では思考の深堀りは言語の上塗りとして表現される,ということを中心に追加しようと思います.個人的には,思考と言語の関係は,言語で(=によって)考えるのではなく,言語を(=を対象として)考えるものだと思っています.言語の操作は言語的ではないということです.

以上は一部抜粋ですが、その他アンケート等を用いることで、コミュニティ内の方々の思考等が知れてとても良いWSになりました。

またコミュニティ内のアンサーに対しては全レスしたので、会話のキャッチボールが1度はできたのもとても良かったです。

哲学の話をできる空間が意外と需要がありそうだったので、普段周りの人とは話せない哲学の話ができる空間を提供できれば社会的に何か役に立てる、というような哲学部の今後の可能性を少し感じられました。

この記事を読んで、少しでもJ  LABの活動に興味を持っていただけたら幸いです。

そして興味を持っていただけたなら、ぜひWSでお会いしましょう。
皆さんとお話しできるのを、心より楽しみにしています。


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