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ワークショップ第06回『野矢 茂樹「はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内」』【哲学部】[20210607-0620]

皆さんこんにちは。JLAB哲学部部長のコバです。
今回の記事は、哲学部担当のWSで野矢 茂樹「はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内」を扱ったので、その内容の共有となります。

バックグランドとしては、JLAB哲学部では日常の部活動としてDiscord内で課題図書を用いて読書会を行っています。
その内容の発表、ディスカッションを今回のWSで行いました。

今回の部活動、WSの大きな目的の一つは今回の課題図書の論の中心でもある、「考える」について考える、でした。

どうでしょうか?皆さんは「考える」について考えたことはありますか?
そもそも「考える」とはどういうことだと定義できますか?

ほとんどの人は、今までそんなこと真剣に考えたことがないでしょうし、私がここで「考える、について考えてみましょう!」と言ったところで、ほとんどの人はそれについて考えもしないと思います。あるいは少し考えて、「こんなこと考えても、時間の無駄だよ」と、そこで止めてしまうと思います。

そう、それが真実なのです。

物事を考えてそれを効率良く、効果的にアウトプットする方法を考える、あるいは問題の答えを効率良く導き出す方法を考えるといったことは多くの人が行っていることですし、その方法をこの記事で書けば少なくとも「考えることについて考える記事」よりは、より多くの反響が貰えるはずです。

「考えることについて考えることが、一体なんの役に立つのか?」という疑問に対して、私は「ほとんどの人には役に立たないと思います」というアンサーしかできません。
「考える」ことについて考える時に、そこに取り組んでいくモチベーションとしては、それについて「知りたい、考えたい」ということしか無いと思います。

そして私は、その「知りたい、考えたい」という方々と一緒に考えていく、それしかできないと思っています。

もし私が仮に、抽象的、難解な概念について教えて”あげる”(私なんかがおこがましい話ですが)という構造になってしまったら、もうそこには己の思考、人生をかけて問題に取り組んでいく、真実に向かっていくという哲学的な態度が失われてしまいます。
そして、そんな態度では哲学の答えに辿り着くのは構造的に不可能なのです。

それでは、下記からWSの内容を記していきます。
なお、前回までは一部抜粋を上げていましたが今回は不要箇所だけ編集し、ほぼ全文投稿しようと思います。(抜粋して投稿する意味があまり感じられなかったので)

なお、返答者が特定の文章に対して答えているという抜粋がある場合は、<>でその抜粋の文章を囲っています。
下記にどの章の議論か、目次も設定しておきます。

第1,2章

コバ
お疲れ様です。
本日より、第二回哲学部のWSのスタートです。夜に文章投下していきます。
よろしくお願いします。
コバ 
ビジネスには役に立たない世界へようこそ。
哲学部WSのお時間です。
現在、哲学部はディスコード内で野矢 茂樹「はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内」の読書会を行っており、日にちごとに担当を分け、章の要約、質問の提起を各担当が行い、意見交換を行っています。
この2週間は、本の要約や部活動での議論の内容の発表、哲学部部員が投下する質問等を用いて皆さんと一緒に思考していきたいと思います。
私6/7~10日、谷本君11~13日,さざなみくん14~16日,GZさん17~20日で、WSは回して行くので、WS2週間の間はどのタイミングで誰のどの質問に答えていただいてもOKです。
専門的な内容はほぼ無いので、皆さんにも積極的にWS参加していただきたいです。
まずは私の担当から哲学部WSスタートなので、下記に第1章まとめ、質問投下します。
それでは、よろしくお願い致します! 
コバ 
はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内
第1章まとめ
考えることは、そもそもどうすることなのか?
筆者はなぞなぞと、形の不思議なコップを例に出して私たちにその時の頭の動きを意識させてくるというなかなか面白い書き出し、読者への「考える事を考える」という体験への招待をしてくれている。
また、筆者は「考えてる」と「考えてない」の違いもなぞなぞのストーリーから、問題提起してくれている。
筆者と、筆者の奥さんが文中のなぞなぞと対面したのはその日の朝で、スタート地点は同じだ。しかし筆者はその問題を思考し続けていたのに対して、奥さんはその問題を脳内から捨て去っていたものと、文中からは読み取れる。
つまり、「考えてる」と「考えてない」の違いをこの二人の違いを例として表現してくれている。
次に、アルキメデスが「ヘウレーカ!」と叫んだエピソードを挙げ、考えるとはどういうことかということの1例としている。人間がアイデアを思いつきやすいシチュエーションを三上(馬上、枕上、厠上)三中(無我夢中・散歩中・入浴中)とも言ったりする。
考えることを止められないなら(そういう性にあるならば)、せめて上手に考えられるようになろう。という内容でこの1章は締めくくられている。
第1章 Q1
皆さんにとって、初めて「考える」ということを意識したのはどんな時ですか?
マッキー 
“考える”という行為そのものを意識的に捉えた時・・・という認識で良いでしょうか?
中学生の時にthinkの訳を「と思う、と考える」のどっちでもいいと教わった際に、考えると思うの違いって何だよと悩んだことを思い出しました。当時は単純に“深さ”の問題として処理しましたが、よく“考える”と深さってなんだよって感じですね。
大学1年生の時に生協御用達の外山滋比古『思考の整理学』を読みました。自分の思考を外部に置いてその作用を効率化させる為のTipsを取り入れる、ということ自体が新鮮でした。
“考える”自分を見つめようとする行為は、論理哲学論考の入門の入門をかじった身としては笑、自分自身である世界(論理空間)を見つめようとする行為に等しく、不可能な試みなのかなという気がしています。ただ無理を承知で突き詰めることで新たな気づきがあれば面白いなとも期待しています!
コバ 
マッキーさん、いつも積極的なご参加ありがとうございます。
“考える”という行為そのものを意識的に捉えた時、という認識で大丈夫です。
確かに、私もthinkの訳が「考える、思う」だったのはめちゃくちゃ違和感ありました!私の場合は「考えると、思うって全然違うやん!」と笑笑
今は、thinkを英語圏の方は、漫画とかでよくある、ホワホワ〜んと頭の上に浮かんでる「アレ」の状況をthinkという単語で示しているんだと勝手に理解しています笑笑
外山滋比古『思考の整理学』、私も読みましたよ。笑
本の中で出てきたカード式として私は京大式カードを結構重宝しました。笑
『思考の整理学』の外部装置を用いながら思考していくスタンスは、全くその通りで「はじめて考えるときのように」でも、考えるというのは、頭の中でう〜んと唸るだけではなく、紙の上で考えるというのも考えるということだ。という一説が出てきます。
仰られる通り、この「考える」という行為は一般論では語りにくいといいますか、自分自身の「考える」という行為に向き合わなくては「考える」を考えることはできないので、なかなか難しい試みではあると私も思います。
しかしこのWSでは、「考える」ということを考えるということに対して、一定の結論は提示しようとは思っているのでどうぞご期待ください! 
Hiroto
第1章 Q1
私もコバさんと同じく、算術に触れたときかなと思います。
最小公倍数という概念を明確に知らない状態で干支の周期などを考えていたとき(幼稚園か小学校低学年)が、一番何のしがらみもなく思考していたような気がします笑。
小学校3年あたりのとき、サッカークラブに入っていたのですが、試合中も常に算数のことを考えており、親に真剣に相談したことがあります。今思えばそれが思考するという行為を外から捉えた瞬間かもしれません(サッカーをする行為と分けるために)。 
ていりふびに
第1章 Q1
「考える」ということを初めて意識したのはおそらく中学生の時です。きっかけは塾の先生から挑戦問題として出題された難しい図形の問題です(ちなみにフランクリンの凧に近い問題)。寝る時間を削ってこの問題を解こうとしていたのですが、何度も同じような解き方を試してしまいました。この時、自分がこの問題を解くためにはこの思考のループから抜けて非連続な考えをしなくてはならないと思いました。これが「考える」ということ自体を意識し、制御しようとした最初の経験です。今でも謎解きをしている時は意識的に自分の思考のループを自覚して抜け出そうとします。
(余談ですがこの問題を解いたのが数学科に入ったきっかけになっています)
コバ
@Hiroto
試合中も算数のことを考えていらっしゃったという体験談は、驚きました。
試験中に遊ぶことばかり頭に浮かんできてしまうことが私はありますが、それの逆として考えれば、サッカー中に算数のことを常に考えてしまうことはありえますね。
コバ
@ていりふびに
意識的に自分の思考のループを自覚して抜け出そうとします。というのは、メタ思考というやつでしょうか?
自分の思考のクセを自覚して抜け出すというのは、謎解きでは大事なテクニックになってきそうですね。
「考える」ということを制御することは、よく考えると結構難しいですよね。
「考える」を制御することを考えることを制御することを考える、ことを制御する。。。。ここら辺で制御しなくては。。。。
蜆一朗
第 1 回 Q1 幼稚園のころ, 自由に絵をかきましょうと言われたのに葉っぱを青で塗ったら「ちゃんと考えなさい」と怒られました. じゃあ葉っぱはなんで緑なんですか? と聞いたら「そういうものなんだ反抗するな」と言われてしまいました. そのときに「考えるとは大人のいうことや世の中の多数派の意見に合わせることなのだなぁ」と感じたのをはっきりと覚えています.
第 2 回 Q1 数学書を読んでいるときがまさにそうです. 勉強すればするほど勉強しないといけなくなります. わかった気がしても, またあとで見返したときに全然わかっていなかったことに気づくものです. おかげで未だに高校数学や算数すら何もわかっていないと思っています(T^T)
第 2 回 Q2 一般的な意味の「考える」とは「自分で操作しているという感覚を持てるものを道具に, ある基準に沿いながら手順を踏んで物事を組み立てること」であり, 多くの場合, 基準には「多くの人が納得できるもの」が採用されることが多いと思います. たとえば, 数学では論理や公理を基準として話が進み, これらの手続きを踏まえて問題ないとされたものだけが数学として認められます. オリンピックに関する政策に対して多くの人が「頭を使って考えていたらそんな結論にはならない」と感じるのは, ごく少数の人間にとってしか合理的でない基準に沿って作られたものだからでしょう. 彼らの基準からすれば十分に「考え」抜かれたものだと思います.
  「自分で操作しているという感覚」が「考える」の重要な要素であるというのは, 数学をやっていると痛感します. たとえば僕は大学院生として論文を読んでいますが, 論文に引用されている過去の結果や, わからない箇所を調べるために引いた書物にある結果の証明をすべてさかのぼって読んでいると, 上の問でも答えたように余計にわからないことが増えてしまってセミナーどころではなくなってしまいます. なので基本的には認めることにしているのですが, そのときは「考えている」という気がまったくしません. 数学を勉強する目的として論理的思考力を挙げる方は多いですが, それは, 論理や数学的事実に対してこの感覚を持つことができ,「こうすればこうなる」という流れが見えるということだと思います. 勉強の苦手な子が「考える」と称してやっていることがただボーっとすることにしかなっていないのは, この感覚を持ち合わせていないからでしょう. 童貞に必要なのは方法論ではなく経験だと所長が配信でおっしゃっていましたが, 経験を積まないと方法論を感覚に落としこむことができず, 逆にこのインプットを経ない経験は血肉にならないということが, いろんなことに当てはまるなぁと感じます.
コバ 
絵といえば、私は昔から絵が苦手なのですが、小学生の頃に自称絵が上手い同級生に、小林君の絵は下手だな〜と絡まれ「僕の絵と君の絵、どっちが上手いかはどうやって証明するの?証明できないなら、君がばかにしてる僕の絵と、君の絵はどちらも下手ということになるよ?」と得意の屁理屈をこね回して、その子を結果泣かしてしまったという思い出があります。
そして、先生に私だけ怒られるという。。。理不尽だ。。。
「考える」とは「自分で操作しているという感覚を持てるものを道具に, ある基準に沿いながら手順を踏んで物事を組み立てること」というのは、見事な定義だと思います。
「自分で操作している感覚を持てる道具」というのは言語も入りますもんね。
「考えずにはいられない」ことでも、「自分で操作している感覚を持てる道具」である「言語」を用いて考えているわけで、自分の中の一定の基準には沿って考えが進んでいくはずだ、ということでしょうか?
確かにそのような気がします。
コバ
繰り返しになりますが、このWS中はどのタイミングでどの質問に答えていただいてもOKです。
私も引き続き質問のアンサーに対してレスしていきます。
それでは、谷本君に第3章の進行をバトンタッチしたいと思います。
せきと
第一回 Q1
幼稚園児のころポケモンやレゴブロックを駒にして、「闘いごっこ」をする趣味があったのですが、それが尾を引いて暇なときに脳内妄想でストーリーを構成する趣味に変容しました笑。ある時ふと「俺なんでこんなことしてんだろ」(第一次思春期)と思い、その時初めて、自分が脳内で物語を構成する異様さを認識した気がします。それが覚えている限りでは最古の「考える」ことを認識した時です。
第二回Q1
いわゆる「ライフハック」的なものが学べば学ぶほど問題が増える最たる例だと思います笑。効率的なものを全て自分のライフスタイルに落とし込めると考える(情報よわもの)が沼にはまってしまうようです... 自分はそうならないようにしたいですね
第二回Q2
材料(経験、知識)をもとに、不可視を可視に変えるための試みのことだと考えます。問いを視認した時点で全容がつかめない(不可視)のものを、可視にすべく、我々は考えるという行為をするのだと思います。 問いから目を背け、最初から見ようともしないで問題解決を図るのは考えるという行為から逸脱していると思います。全容がつかめなくても結論だけ導出できる、かつその結論以上に過程が意味をなさない(パターン問題)ならばその限りではありません。
コバ
せきとさんも、脳内でキャラクター戦わせる勢でしたか笑
男子はほぼ皆やってると、今回の部活動がスタートするまでは思っていたのですが、そんなに一般的でもないみたいでびっくりしています笑笑
ライフハックは確かにそうかもしれません。
人生を良くするためのライフハックが、気づいたらライフハックのためのライフハックになってしまっている人は結構いそうですよね。
本末転倒というか、悲しい話です。。。
考えることによって、不可視を可視にしたいというのは間違いなく「考える」ということの一要素だと私も思います。
ナゾナゾの答えを考える、とかが分かりやすい例でしょうか。
私の場合、どこまで考えても不可視なんだろうな、と分かっていることでも考えてしまいます。
不可視であるということを、可視化する試みはしてしまいますね。
Hiroto
第2章Q1Q2
考えるとは、言語的手続きの運用そのもの、としたいです。線引きしたかったのですが、いい線引きができなかったのでこのような定義にさせてください。
私の考えれば考えるほど分からなくなった(ている)経験は「初等幾何学」に関してあります。
初めは「初等幾何学」を受けいれた上で補助線やらなんやらを考えるフェーズの中で、疑問と答えの繰り返しだったのですが、その中で初等幾何学の公理的構成(いわゆる議論している世界そのもの)に疑問を持つようになり、メタな視点で疑問が止まらない状態になってしまっています笑。認知科学的な部分とは別個に、なんか掴めてない感がずっとあります。認知科学的な疑問も含めるともっとメタな視点で疑問が噴出してしまうので今は放置しています。
コバ
私は数学の高度な教育は受けていませんが、数学の公理がどこから来ているのか?というようなことばかり考えてしまうので、数学の勉強はあまり進みませんでした笑
一度前提を受け入れてしまって、そこから先の話を進めて行く態度は時には重要ですよね。
勉強を進めて行くことで、結果的に放置していた疑問の確信に迫れることもあるはずです。

第3章

谷本
第3章「論理的に考えるだって?」 まとめ
この章の主役は、論理の概念です。 「論理とはなんなのか」 「論理と考えることとの間にはどんな関係があるのか」 といったことが中心的なテーマになります。
論理というものの輪郭をつかむために、筆者は具体例としてシンプルな推論をいくつか提示します。次に示す【推論1】はそのうちの一つです。
【推論1】
魚は水中を泳ぐ。(前提)
イワシは水中を泳ぐ。(前提)
だから、イワシは魚だ。(結論)
この推論の前提も結論も文それ自体としては正しいですが、これは論理的に正しい推論ではありません。なぜなら、 “論理というのは、前提と結論をつなぐ道筋の正しさにかかわってい” て、 “前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別” だからだと筆者は言います。筆者は続けて次のような推論を提示します。
【推論2】
魚は水中を泳ぐ。
ラッコは水中を泳ぐ。
だから、ラッコは魚だ。
この推論は、【推論1】の「イワシ」を「ラッコ」に置き換えたものです。【推論2】の結論は明らかに誤りだから、【推論1】は論理としては正しくなかったのだ。と、筆者は結論付けています。(このくだりでは、結論が誤っていることから推論の論理的な誤りが明らかにされていますが、前提と結論それ自体の正しさと論理の正しさは関係がないのではなかったの?と僕は思いました。)
ひとまず【推論1】が正しくないことがわかったわけですが、では【推論1】を正しいと感じる人が存在する理由は何なのか。それは、前提の意味がはっきりしていないからではないか。そう筆者は言います。この例で言えば、「魚は水中を泳ぐ。」は「{魚}は{水中を泳ぐもの}に属する」とも、「{魚}={水中を泳ぐもの}」とも解釈できます。つまり、{魚}という集合と{水中を泳ぐもの}という集合の間の関係がはっきりしていないのです。後者の解釈なら、【推論1】も【推論2】も論理的に正しいことになります。
このように、はっきりしていない前提がある限り推論の正しさは断定できないので、きちんとことばの意味を問いただすことが重要です。逆に、前提の意味をはっきりさせられれば、適切に結論が導き出せます。筆者は、 “論理的な結論というのは、つまり、前提で言われていることを取り出してくることにほかならない” と言います。 “「ことばの意味をきちんととらえる」というのが、論理というやつの正体だ。” これが、「論理とはなんなのか」に対する筆者の答えです。
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カッコ内の太字で示した箇所は部内でちょっとした議論になりました。論点は以下の2つだったかなと思います。
①筆者は【推論2】の結論が誤っていることから【推論1】が論理的に間違っていると判断したが、これは「前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別」という原則と反しているのではないか?
②そもそも、本当に「前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別」なのか?
この2つの疑問は、「前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別」という文の意味が取り違えられたために発生したものだと思います。僕は「論理の正しさ」と聞いて、正しい(妥当な)推論の定義が「全ての前提が真ならば、必ず結論も真である」であることを(おそらく)想起していました。このように、正しい推論の定義の中に前提や結論の真偽への言及があるのだから、それとこれとが別な訳がないじゃないか、という。
一方で、本書においてこの文が本当に表現したいことは、多分、「【推論1】が持つ『AはB。CはB。だから、CはA。』という構造は、A ,B ,Cの内容がなんであれ論理的に誤っている」というようなことです。この意味なら、確かに「前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別」と言えそうです。また、①は見かけ上の矛盾だったと言えるでしょう。
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まだ要約はちょっと残っているのですが、一旦質問を投げさせてもらいます。
第3章 Q1
皆さんが初めて論理を意識したのはどんな時ですか?
僕は数学の証明を書くなかでじわじわ意識したかなと思います。証明を書くときの頭の使い方が結構いろんな方面に応用されているという自覚があって、数学の学習を通してもっとも役に立っているのが証明を読み書きした経験なのではないかと思うくらいです。
質問への回答の他、上の要約などに関して何かあればそれについて書いてくださって結構です。
要約の続きは明日投下します。
Hiroto
初めてしっかり論理を意識したのは、数学IIの軌跡についてだと思います。教科書や問題集の答えに全く納得がいかなかったため、納得できるまで半年から1年かけたような気がします。
納得できたとき、風呂でのアルキメデス的な感じになったのを覚えてます。本当に突発的に全てがつながり、興奮を覚えました。
谷本
軌跡の単元は確かになんかややこしかった記憶があります。僕は細かい部分はなあなあにして乗り切ってしまいました。何か納得がいかず引っかかるものがあったとき、それに関して、風呂などで「つい考えてしまう」という状態になれるかどうかって結構重要なんでしょうね。
半年から1年間も頭の中にあった問題が一気に解けるという体験、してみたいです。さぞ爽快なんだろうな。
ていりふびに
Q3 初めて論理を意識したのはどんな時ですか?(すいませんかなり遅れました)
私が論理を初めて意識したのは中学二年生で、「うそつきパズル」を解いたときだと思います。「うそつきパズル」とは「正直者は必ずほんとうのことをいい、うそつきは必ずうそをつく」という設定の下、登場人物の発言から誰が嘘つきかを特定するものです。この手のパズルは登場人物に仮定をおいて矛盾が生じない場合が答えになります。つまり、これさえ分かっていると考える必要はなく、論理的な手続きを実行するだけで正解が導けるのです。
私は何問かこのパズルを解くと、当時は「こんなんちゃんと考えればわかるからつまらん」と思いました。今思うと「ちゃんと考えれば」というよりは「純粋に論理だけで導けば」という方が正しかったです。
言葉遣いは間違っていたかもしれませんがこの時初めて論理を意識したと思います。
谷本
回答ありがとうございます。論理パズル的なものから論理を意識し始めた人は多いかもしれませんね。僕が小学生の頃好んでやっていた「レイトン教授」というゲームのシリーズには、うそつきパズルに類するものを含んだいろいろなパズルが収録されていました。言われてみれば、それが論理を意識した初めての体験だったような気もします。
問題を解く方法が一度確立されてしまうと、問題を解くことが単純作業になるのでつまらなくなってしまいますよね。「なーんだ、こういうことだったのね」って感じで。
さかぼう ver.抹茶
論理というかはわかりませんが, 幼稚園の昼寝の時間に騒いでいて, 外でやれと言われたので, 外に遊びに行ったということがありました. 外でやれ(できないのだから静かにしろ) という意味だったと思うのですが, 字面を言葉通りに捉えて(言外の意味を意図的に無視して)嫌がらせするのは小さい頃から好んでやっていたと思います.
本文の要約についてですが, 「論理の正しさ」という言葉が, (個別の)推論が正しいか
もっともらしいかどうか,と推論(形式)が正しいかどうか, ということで混同されているのかなと思いました.
A,B,C といった変数で表された推論(の形式)があったときに, それに具体的な値(言葉)を代入したときに, 前提がすべて正しいかどうかと結論が正しいかどうかで4通りありますが, 本文中で「論理の正しさ」という言葉は1~6の中で5のことを指していると思います.
1. ある個別の推論についてすべての前提○→結論○: イワシ構文
2. ある個別の推論についてすべての前提○→結論✕: ラッコ構文
3. ある個別の推論についてすべての前提✕→結論○: (屁理屈?)
4. ある個別の推論についてすべての前提✕→結論✕:
5. ある推論形式を用いたとき, すべての個別の推論について前提○→結論○: その推論形式を用いた推論は常に(←追加)正しい推論である = 論理が正しい
6. ある推論形式を用いたとき, ある個別の推論について前提○→結論✕ : その推論形式は正しくない推論である = (1,2どちらの推論も生産するかもしれない)
つまり, 「結論が誤っていることから推論の論理的な誤りが明らかにされていますが、前提と結論それ自体の正しさと論理の正しさは関係がないのではなかったの?と僕は思いました」 の部分に関しては,イワシ構文のような妥当な →もっともらしい推論がつくれる推論形式でも,ラッコ構文のような推論も可能なので, 推論形式としては間違っているのだ, という文章展開上の比較の意図があるのだと思います.
紛らわしい表現があったので編集しました.
谷本
言葉をそのまま受け取って行動するの、割とあるあるなんですかね。僕もそんな感じのことをしてた記憶があります。論理は常識を考慮せずに形式によって正しさが決まる部分があるので、そういう意味では文脈を考慮せず言葉をそのまま受け取るのは論理的といえる…気もします。
<(個別の)推論が正しいかどうか,と推論(形式)が正しいかどうか, ということで混同されている>
ここは「『前提と結論がともに正しいこと』と『推論形式が正しいこと』を混同されている」と捉えて大丈夫でしょうか。そのことなら、混同していないつもりです(多分)。それと、僕が「推論が正しい」とか「正しい推論」とか表現したとき、それは「推論の形式が正しい」ということを意味しているので、そういう意味では、「(個別の)推論の正しさ」と「推論形式の正しさ」は同一視しています。(こういう風に表現の意味を適宜に確認しないといけないので大変ですね。)
イワシとラッコの推論には文章展開上の比較の意図があった、というところはその通りだと思います。僕が引っかかったのは、「【推論2】の結論が誤っていることから【推論1】の論理的な誤りが説明されていた」ことです。これは僕には「結論の正しさと推論の論理的な正しさが関係している」ように見えて、直前に書かれていた「前提と結論それ自体の正しさと論理の正しさは関係がない」と矛盾しているのではないかと思っていたんですよね。
さかぼう ver.抹茶
ミスリーディングな表現で申し訳ないのですが, 「混同されているのかな」という表現は,日常語としての「論理的な正しさ」という言葉が個別の推論に付随して用いられることが大半なので, 本文中では「論理的」という言葉が推論形式のみを対象に限って用いるものであるということが明示的に書かれていないのかな, という意味でした (受け身表現). にしては混同という表現は強すぎました.
>>>そういう意味では、「(個別の)推論の正しさ」と「推論形式の正しさ」は同一視しています。
個別の推論に対して「正しい」という言葉を使ったので更に僕がややこしくしてしまいましたが,1~6の「論理の正しさ」についての比較では, 個別の推論の「正しさ」と推論形式の正しさは別の抽象度の概念であることを言いたかったです.
同一視という言葉が具体的にどういう意味かはわかりませんが, 個別の推論(ある推論)が「正しい」ことは, 推論形式が正しいことの必要条件でしかないと思います. 別の言い方をすると, 推論形式の正しさは,個別の「正しい」推論をいくら重ねても証明できないということです. ただし, 推論形式に代入できるA,B,Cなどの内容が限られていれば, 個別の推論を積み重ねることで,その範囲の中で個別の推論の「正しさ」を調べきった結果として推論形式の正しさを得ることができますが,そもそも代入の中身が何でも良いことが形式のみを考えることのありがたみという点を踏まえると,代入を制限することは微妙な気がします.
何が言いたいかというと, 推論形式が正しいかどうかを確かめる手段は, 前提○→結論✕(あるいは前提○→結論○)を仮定しA,B,Cを代入したときに矛盾が出るかどうかを調べること(だけでよい)なので, 「結論の正しさと推論の論理的な正しさが関係している」という表現は, 前提○→結論✕という反例推論があったときに, 推論形式が正しくない事がわかるという意味で, 「正しさ」という言葉を「正しい状態であること」ではなく,「正しいか正しくないか」と捉えて, 「(個別の)結論が正しくないときは推論(形式)は論理的に正しくない関係だ」と解釈するのが適切だと思います.
この点から,「この推論の前提も結論も文それ自体としては正しいですが、これは論理的に正しい推論ではありません。なぜなら、 “論理というのは、前提と結論をつなぐ道筋の正しさにかかわってい” て、 “前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別” だからだと筆者は言います。」 の2文は「なぜなら」という言葉で繋がれていますが, イワシ構文だけを見た段階ではこの推論が正しくない理由と言えない (のでラッコで前提○→結論✕となったことで, 推論形式の誤りが判明する. ) つまり, 「推論2の結論が間違っていることから推論1の論理的な誤りが説明されていた」. とは, 「反例推論が見つかったので,一見正しい1は正しい推論形式ためにもっともらしい推論になったのではない」 という意味ではないかと思います.
谷本
あ、(本文において)混同されている、という意味でしたか。。失礼しました。
しかし、僕が混同していたとしてもあながち間違いではないのかなと思い始めました。次の二つの命題をはっきり区別することが大事ですね。
命題1:「個別の推論の正しさ(妥当性)は、その推論が持つ形式の正しさと同値である」
命題2:「推論の形式の正しさは、その形式をもつ全ての個別の推論に関して『全ての前提が真ならば結論が真である』が成り立つことと同値である」
(妥当性という言葉は次の意味で使っています。「論証」は「推論」と読み替えてください。「ある論証が、前提が全て真であれば結論も必ず真となるような形になっている時、その論証を妥当である(英: Validity)という。より厳密に表現すると、『全ての前提が真である』ことと『結論が偽である』ことが決して両立しない論証を妥当であるという。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/妥当性 より。)
「正しい」の意味を曖昧にしたまま使っていたのが良くなかったのですが、僕が「推論が正しい」と表現するとき、それは「推論が妥当である」という意味でした。このことを踏まえれば、「個別の推論の正しさ(妥当性)」と「推論形式の正しさ」を同一視することが可能だと思います。
そして、「前提と結論それ自体の正しさと論理の正しさは関係がない」とは、上の命題1の言い換えなのではないかと思います。命題1によれば、個別の推論の正しさは推論が持つ形式と関係しますが、推論が持つ形式に前提や結論それ自体の正しさは含まれないので、「前提と結論それ自体の正しさと論理の正しさ(個別の推論の論理的な正しさ)は関係がない」という。
しかし、命題2に照らせば太字の部分は怪しいです。推論の形式の正しさは前提と結論の正しさを使って定義される概念なので、間接的に個別の推論の正しさと前提と結論の正しさが関係してしまっているじゃないか、ということです。そこが僕の違和感の根っこだったかなと思っています。
イワシとラッコの推論のくだりで起こったことは、さかぼうさんの言うように、反例を示して推論の形式の正しさを否定したということですね。「ラッコの推論において、前提が真で結論が偽」⇔「(命題2より)ラッコ(とイワシ)の推論の形式が誤り」⇔「(命題1より)イワシの推論が正しくない(妥当でない)」という感じでしょうか。
さかぼう ver.抹茶
○✕が機種依存文字であることを忘れていました.
○:命題の真偽が真
✕:命題の真偽が偽
と読み替えていただきたいです.m(__)m
ただし, 真と偽という言い方をすると, 個別の推論において各命題の内容の現実としての真実性が吟味されているような印象を受けるので(ラッコは魚ではない等), 他によい言い方を知ったら言い直します.
推論の正しさを考えるにあたって, 前提と結論の関係として注目すべきことは, 真と偽という言葉から受けるような意味内容についての判断ではなく, 前提の一つ以上を組み合わせることで, 結論の否定が作れるかの一点であるということを表したいです.
個別の推論について, 「(論理的な)正しさ, 妥当性」は定義されていないと思います.「妥当性」という術語はあくまで, 推論(論証)形式についての概念であって, 個別の推論に対して使う言葉ではない気がします.
そのため命題1を解釈しかねるのですが, 個別の推論が「正しい」あるいは「妥当である」とは具体的にどんな状況なのでしょうか?
できれば「すべての~」と「ある~」を補って,教えていただきたいです. また,「正しさ」という言葉だと, 命題の真実性という意味なのか, 正しい状態を仮定するということなのか, 正しいか正しくないかどちらの状態を取るということなのか, 操作の結果正しいとわかる(わかった)ということなのかの区別がつかないので,そちらも明確にしていただきたいです.
うまい言い方が思いつかないので, わかりにくい点, 間違っている点があれば数学ガチ勢の方からもそうでない方からもご指摘お待ちしております. m(__)m
谷本 
<前提と結論の関係として注目すべきことは, 真と偽という言葉から受けるような意味内容についての判断ではなく, 前提の一つ以上を組み合わせることで, 結論の否定が作れるかの一点である>
その通りだと思います。推論の形を維持したまま真なる前提を色々当てはめてみて、偽なる結論が導かれたらその推論は妥当ではないとわかる、ということですかね。
<「妥当性」という術語はあくまで, 推論(論証)形式についての概念であって, 個別の推論に対して使う言葉ではない気がします>
「推論(論証)形式についての概念である」という理解は間違いではないですが、妥当性は個別の推論が持つ性質で、「妥当な推論」や、「この推論は妥当である」という表現は存在します。妥当性の定義は上に示したとおり、「ある論証が、前提が全て真であれば結論も必ず真となるような形になっている時、その論証を妥当である(英: Validity)という。」です。そして、推論は論証の一種(推論⊂論証)なので、「ある推論が妥当である」と言うことは可能です。
<個別の推論が「正しい」あるいは「妥当である」とは具体的にどんな状況なのでしょうか?>
「ある推論が、前提が全て真であれば結論も必ず真となるような形になっている」という状況です。
例えば、イワシの推論の妥当性を考えてみると次のようになります:
イワシの推論の形は
「AはB。CはB。だから、CはAである。」
です。
この形の推論のうち、
「魚は水中を泳ぐ。ラッコは水中を泳ぐ。だから、ラッコは魚である。」
という推論が存在します。
この推論の前提は2つとも真ですが、結論は偽です。
従って、イワシの推論の形では、前提が全て真であっても結論が偽となる場合があるので、イワシの推論は妥当ではありません。(終わり)
もう一つ例を挙げると、妥当な推論のうちには、結論が偽であるようなものも存在します。
「ラクダは鳥である。鳥は空を飛ぶ。従って、ラクダは空を飛ぶ。」
これは妥当な推論です。
(ちなみに、妥当性の他に健全性という概念もあります。健全な推論とは、妥当な推論のうち、前提が全て真であるような推論のことです。妥当性の定義から、健全な推論の結論は必ず真になります。例えば、上のラクダの推論は、妥当ではあるが健全ではないということになります。)
<「正しさ」という言葉だと, 命題の真実性という意味なのか, 正しい状態を仮定するということなのか, 正しいか正しくないかどちらの状態を取るということなのか, 操作の結果正しいとわかる(わかった)ということなのかの区別がつかない>
「推論の正しさ」という表現は、「推論が正しいか正しくないか」あるいは「推論の妥当性」という意味で使っています。「前提(結論)の正しさ」という表現は、「前提(結論)の真偽」を意味しています。
さかぼう ver.抹茶
「個別の推論」という言葉を推論形式に何らかの言葉を代入した一つの推論と捉えていたのですが,谷本さんの認識は,個別の推論のいくつかの妥当性を吟味すると, 推論形式の正しさがわかる,という意味なのでしょうか.その意味でなら,個別の推論の妥当性という言葉の意味はわからなくもないです.
ですが,「推論の形を維持したまま真なる前提を色々当てはめてみて、偽なる結論が導かれたらその推論は妥当ではないとわかる、」というところに関しては,このやり方だと推論の妥当性を証明することは難しいと思います.
推論が正しくないことを証明するのは反例推論1つでできますが, イワシ推論にイワシを代入したような推論がありえるので,個別のもっともらしい推論をたくさん見つけることが推論の正しさの証明にならないからです.
前提に代入して偽となる結論を導くのではなく,あくまで,結論の否定がつくれるかどうかだと思います
また, 個別の推論の妥当性という言葉使いについては, Wikipediaなどでもソクラテスの三段論法が妥当である, といった書き方がされていましたが, あくまで, (三段論法の推論形式が妥当であるので, その推論形式を用いた)ソクラテスの三段論法もであるという演繹的な使われかただと思います.
谷本
要約の続きです。↓
論理と考えることの関係について、筆者は「論理は考えないためにある」と主張します。考えることが “分かれ道に立つこと。あるいは道が見えない藪の中に立つこと” であるのに対して、論理の道筋をたどることは一本道であり、考えることではありません。 論理が考えるうえでどれだけ役に立って、役に立たないかを示すために、「サイコロ問題」が出題されます。(画像)
普通に解こうとするなら、一例として、次のように解けます。
(1),(2)から、白に隣り合うのは赤、黒、青、黄だから、白の裏は緑。 (1),(3)から、黒に隣り合うのは白、赤、緑、青だから、黒の裏は黄。 赤の裏は、残った青。
(向きを考えれば(1),(2)だけで解くこともできますね。)
これを純粋に論理だけで解こうとしてみます。(1)の図からはこんなことが「論理的に」わかります。
・見えていない面は三つある。
・白の裏は青か黄か緑だ。
・黒の裏は青か黄か緑だ。
・赤の裏は青か黄か緑だ。
・白の隣は青か黄か緑だ。
・黒の隣は青か黄か緑だ。
・赤の隣は青か黄か緑だ。
すでにたくさんの情報が出ましたが、それに加えて次のようなことも論理的に導かれます。
・白の裏は紫ではない。(紫の面などそもそも存在しないけれど、論理的には正しい)
・白の隣は赤またはピンクだ。(白の隣は赤なので、「赤またはピンク」と言っても論理的には正しい)
このように純粋に論理的な解き方をしようとすると、たとえ考える色を白、黒、赤、青、黄、緑に制限しても、問題を解くうえで役に立たないものがたくさん出てきてしまいます。実際、コンピュータなどがこの問題を解こうとすると、とにかく全部わかることを書き出して、解けた時点でストップする、という解き方になるそうです。しかし、これでは「考える」とは言えないので、 “「純粋に論理だけ」というのは、むしろ「考える」ことを放棄している」” と言えます。
問題を解く道筋は観察と論理から成り立っていますが、一口に観察といっても、上の図から私たちは問題を解くのに役に立たない様々なことを読み取ることができますし、さきほど見たように、論理もたくさんの役に立たない情報を生み出します。問題を解くうえで、どの観察と推論が役に立つかを判断して、それらをどのようにつなげるかを決めるのは、もう論理の仕事ではありません。そこに、「考える」ということが現れてきます。
できあがった解答では観察と論理的推論がきちんとつながっていて、回答者が「論理的に考えた」ように見えますが、“できあがった解答というのは、たんに、考えた結果を論理的に再構成して表現したものにすぎない” のです。論理的な推論や計算は、それ自体は考えることではありません。 “考えるというのは、そうした推論や計算、あるいは様々な観察を、問題解決のもとに取捨選択してうまくつなげること” です。第3章の要約は以上になります。要約を読んで不明な点や気になったことがあればなんでも書いてもらって大丈夫です。

第4章

イヤープラグさざなみ
第4章 ことばがなければ考えられない
まとめ前半部分
「ないもの」は「ある」のだろうか?という問いかけからこの章は始まる。
書斎に入ったときにいつもある机がなかったとき、私は机が「ない」ことを見ることができる。しかし、その「机がない」部屋を写真にとって他人に見せたとしても、それを見せられた人にとってそれは「机がない」写真ではない。「この部屋、机ないだろ」とことばが添えられることで初めて、写真を見せられた人にとっても「机がない」写真となる。
このように、「ない」、すなわち否定が表現できるのはことばがあるからであり、更に、ことばがなければ否定はない、というのが筆者の主張である。(このことには章の最後で再び触れる。)
「人間以外の動物でも考えるのだろうか」という問を考えるために、いくつかのサンプルが紹介されている。
①チンパンジー、高所のバナナ、バナナとは離れたところに箱を用意する。お腹をすかせたチンパンジーはバナナが食べたいが、高所にあるため手が届かない。はじめはむなしくジャンプを繰り返すだけだが、やがて離れた場所にある箱を見つけ、それらを積み重ねたりして上に乗っかり、バナナをgetした。
②バナナの真下に箱をセッティングする。チンパンジーはその箱に乗ってバナナをgetした。
③匂いにつられて食べ物を発見したり、インクに含まれるフェロモンに似た成分に誘われてペンで引かれた線を辿ったりした。
③が「考えている」と言われないのは、ただ刺戟に反応しているだけだからだという。(自動ドアがセンサで通行者を察知しドアを開けるのと同じ。)「考えている」と言えるためには、刺戟への反応とは異なる何かがなくてはならない。
②が「考えている」とあまり思われないのも、ただその状況が与える刺戟に反応している印象が強いからである。(チンパンジーにとってはバナナしか眼中になく、自分が箱に乗ったことにさえ気づいていないかもしれない。)
①はどうだろうか。②と違うのは箱が離れた場所にあるということだけである。チンパンジーが箱を見て長考しているように見えたとしても、それは刺戟への反応が鈍いことによるものであるかもしれないし、反応が鈍いことが「考えている」を意味するわけではない。実際にチンパンジーが刺激に反射しただけなのか「考え」たのかは確かめようがないことである。
仮に①のチンパンジーが「考えている」としたとき、その「考えている」という言葉を、私達はどういう意味で使っているか。
バナナを手にすることのできないチンパンジーが箱を見つけたとき、日本語でいうところの「もしかして(あの箱を使えばバナナを取れるかもしれない)」に相当するものを思いついていたとしたら、それは「考えている」とみなせるのではないだろうか。
イヤープラグさざなみ
第4章 ことばがなければ考えられない
まとめ後半部分
「もしかして」と考えることは、現実世界から一歩離れて可能性の世界で思考することを意味する。現実性と可能性の世界の往復運動によって「考える」は可能となる。その運動ができるのは、ことばがあるからである。
ことばによって私達は目の前の状況(現実)をいくつかのパーツに分けて捉えることができる。例えばブタが小屋の中で寝ている状況だったら、「ブタ」「小屋の中」「寝ている」のように。可能性の世界で思考する際、現物の代わりをするのがこれらのパーツ、すなわちことばである。
可能性の世界で思考するというのは、そうして切り分けたパーツの、色々な組み合わせ方を試すということである。(ことばは、***自在に組み合せできる世界のパーツ***(本文より引用))そうしてあらゆる論理的な可能性が生まれる。
ことばによって生まれた論理的な可能性は、その「否定」を可能にする。***否定というのは、可能性と現実のギャップに生じる。***(本文より引用)冒頭の「机のない」写真が成立するのは、そこに机があってもいいという論理的な可能性があるからである。「もしかして」(=可能性の世界)があるからその否定が成り立つ。「現実ベッタリ」でそこに可能性が開けていないなら、全てがあるがままで、否定は存在しないし、「考える」もあり得ない。
イヤープラグさざなみ
第4章Q
元々は
「『知識を持っている』と『教養が身についている』は何が違いますか?」
という質問でしたが、2つの言葉の違いを明確にするためにはまずは2つの言葉の定義を明確にする必要があるという指摘を受けました。上の質問に出てくる言葉は「知識」「持っている」「教養」「身についている」の4つです。「持っている」と「身についている」という2つの言葉にも違いがあるのですが、それよりも「知識」と「教養」の比較にスポットを当てることが私の意図でした。よって、
「知識と教養の違いはなんですか?」
とした方が私の意図を反映した質問になっていると思います。
どちらの質問に答えていただいても構いません。「持っている」と「身についている」に焦点を当てていただいても、質問の設定の仕方についてでも、なんでもOKです。もちろん本文まとめの内容についても、何かあれば言ってください。
今のところ私の中で知識と教養はそれぞれ次のようなものです
・知識とは単なるデータであり、ネット検索や本を読むことで手に入る
・教養とは、知識と、それらが持つつながりの総体 (情報をそれ自体としてだけでなく、他の情報と関連させたり、抽象的に捉える色が強い)、調べても出てこない→自分で生み出す
・教養には「身につける」という動詞がよく当てられるので、机上の空論でなくて、自分の身をもって経験した何か、という側面がありそう(「自分で生み出す」とつながる)
ていりふびに
Q4 知識と教養の違い
知識とは人間が意味があると主観的に感じた事実、教養とは自分で知識を結び付けて考える能力だと考えました。
大学には教養科目というのがあります。大学生の時はただ広く浅い知識を身に付けるための科目だと考えていましたが、今は様々な分野の知識を結び付けるための科目だと思います。
イヤープラグさざなみ
返信ありがとうございます!
教養となりうるには、自分で知識を結びつけて考える過程を経ることが必要であるという点に同意します。教養科目については、それ自体を学んでいるときには知識を結びつけるために学んでいるという実感はありませんが、あとになって自分の持つ知識が教養を介してネットワークを構成していることに気づくのかもしれません。ネットワーク構成作業が意識的なものか、そうでないのかはわかりませんが、おそらくどちらもだと思います。

第5,6章 

GZ 
今日から6月20日までの間、5章と6章を担当させていただきます。
5章の要約と質問は今日、6章の要約と質問は明日投下予定です。
それではよろしくお願いします。

第5章 見えない枠
【要約】
この章では、ロボットと全てを懐疑する哲学者に着目し、フレーム問題、常識、疑うについて述べることで、考えるとは何かを説明している。
フレーム問題とは、人間が無意識に持つ枠組み(常識など)が、あらゆる論理的可能性を考慮するロボットには見えず、行動できないという問題である。
常識とは、ある範囲の人たちにとって当たり前とされる知識のことであり、限定的かつ複数存在するものである。常識はあくまでも目安であり、問題に応じて柔軟に使い分ける必要がある。
フレーム問題の例を通じて、現実に出会う問題の多くは論理的思考だけでは解決できないことが示されている。
疑うとは、疑いをまぬかれたものと疑う対象を比較することである。疑うには枠組みが必要であり、全てを懐疑する哲学者のように、全てを一挙に疑うことはできない。
全てを懐疑する哲学者の例を通じて、枠組みなしで全てを疑うことはロボットと同じ結果になることが示されている。
考えるとは、自分の足場(枠組み)を確保した上で、それを絶対視せずに別の足場から確かめ、融通無碍にステップを変えていくようなことである。

【第5章の質問】
これまでに見えない枠を感じた経験がありますか。
それはどのような場面でしたか。 
私が見えない枠(自分が常識としていること)を感じる場面はいくつかありましたが、2つほど挙げたいと思います。
・機械に対して感じた経験
 関係データベースの性能改善業務の補助を行ったときに感じることがありました。
 関係データベースでは、開発者がデータアクセスの具体的な手続きを記述することができません。
 そのため、システム側が理想のアクセス手段を実行してくれるように誘導する必要があるのですが、これが思ったよりも大変そうでした。
 開発者が解決のためにindexを追加しても、システム側に不要と判断されてしまい解決できなかったのです。
 性能問題があることをシステム側に共有できれば、追加されたindexの意味も伝わると思いますが、中々難しいと感じました。
・人(本)に対して感じた経験
 ある本で食べログなどをつかう人に対する意見を見たときに感じることがありました。
 その本では、「評価の星の数が多いところで食べて美味しい気持ちになってしまうこと自体、生き物としておかしい」といったことが書かれていました。
 それを見たときに、「評価が高いから美味しいと感じる訳ないだろう。そもそも、料理よりも接客態度等を確認しているのではないか。」と思いました。
 このときに、この方と私の間にも見えない枠があるのかなと感じました。
GZ 
部活では、今回の質問とは違う質問でスレッド内のような意見交換をしました。
部活内での意見交換も見えない枠を感じた場面の一つでした。
GZ
質問:5章で気になった点(同意できる箇所、同意できない箇所、ハイライトした箇所)はどこですか
Aさん
 「疑いは局地的なものであり、すべてを疑うということは不可能であること」という箇所に納得できない部分がある。
 りんごと区別ができないパイナップルが存在した場合、「すべてのりんごはりんごではない」と疑えるのではないだろうか。(言語の使用に罠がある?)
私→Aさん
 りんごと区別がつかないパイナップルがあると想定すれば、疑うことは可能だと思います。
 ただ、リンゴとパイナップルのどちらなのか疑うときも、自分がリンゴと確信する条件(対象から知覚した内容)と比較する必要があるかと思います。
 この確信する条件レベルでは、全てを疑うことはできないと言いたいのだと思いました。
 (本書では、リンゴであることを確信する条件に仮定したのだと思います)
Aさん→私
 確信する条件が重要そうですね。
Aさん
 りんごであるか疑うためには、りんごと称されるものが存在し、その意味を知っていることが前提である。
 「すべてのりんごはりんごではない」が真だとこれに矛盾してしまうから、このような疑い方はできないということだろうか。
Bさん
 「たとえば内科医の常識と外科医の常識は違う。」という箇所をハイライトしました。
 ここから私はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の「論理空間」という概念を連想しました。
 内科医の例に限らず、職場によって常識が変わることから、その場面、場所ごとに「論理空間」があると解釈しています。
 法律⇨ルール⇨常識⇨空気、というような順番で(左に行くほど制約度が高い)その場所ごとに論理空間が存在しているんだと、私はこの「論理空間」という概念を理解しています。
私→Bさん
 「論理空間」という概念は初めて知りました。私は、現象学の「内在」「超越」を連想しました。
 「論理空間」の考えで行くと、「すべてのりんごはりんごではない」は論理的におかしいから可能性の世界に含まれないということでしょうか。
Bさん→私
 成立していることがらでは無いため、論考ベースで考えると論理空間には存在しないということになると思います。
Aさん
 この章に限らずウィトゲンシュタインっぽいところはいろいろありましたね。
 4章で言葉が模型に例えられてましたが、言語が現実を写しとるものであることは『論考』で中心的に言われてることですし。
 5章の「すべてを一度に疑うことはできない」というところも、ウィトゲンシュタインが『確実性の問題』で比喩を交えて示していたことに似てます。
Hiroto
第4章のQについて
知識とはインプット量である。
教養とは脳内グルグル&アウトプット作法の巧みさである。
と定義したら少しすっきりしました。教養を「身につける」ためには、アウトプットの材料であるところのインプット(知識)が必要であるため、教養は知識の上位互換ぽく振舞っているのではないでしょうか。
ある程度までインプットを入れてアウトプット訓練をおこなえば、知識それ自身の詳細を忘れても教養人たりえるのかなと思います。実際そのような方も想定できる気がします
イヤープラグさざなみ
返信ありがとうございます!
教養が知識の上位互換的に振る舞っているという点に共感します。教養がアウトプットに重点を置いた概念であるというのも納得できました。「脳内グルグル」の過程ではインプットした知識の反芻、相互の関連付けなどによって、再体系化がなされているのだと思いました。これは得られた知識を元にして、自分で新しく本を編纂することと似ているように思います。
GZ
第6章 自分の頭で考える
【要約】
この章では、これまでの内容をまとめ、考えるとは何か、考える技術について説明をしている。
考えるには、問題とことばが必要である。問題を抱えて自分を外に開いていれば、「考えられない」ことはない。「頭の中が空っぽ」とは、「思いつかない」であり「考えられない」ではない。
ことばとは、頭の内部ではなく外部に存在している。また、コミュニケーションを必要とする集団によって作られるものであり、複数の人の力が作用している。
自分の持っていることばによって、私たちは気づかぬうちに見えない枠に縛られている。他者(のことば)と出会うことで、自分の見えない枠が浮き彫りになり、考える機会を得ることができる。
問いを巡り、いろんなものをつめこんだり、他者と出会うことでゆさぶりをかけた後は、新しいものを入れるためにつめこんだものを空っぽにする必要がある。空っぽにしても問題を忘れてはいけない。
考えるとは、ヘウレーカの声を待ちながら、「つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする」を諦めずに続けていくことである。
【考える技術のまとめ】
 ①問題そのものを問う
  問いを問い直すことと答えを試みることが螺旋のように動く
  問題には背景があり、背景によって意味も異なり、問題でなくなる可能性もある
 ②論理を有効に使う
  論理とは、ことばの意味を引き出すものであり、手持ちの情報を最大限に活用するものである
  論理的には正しくても直感でおかしいと感じる場合は、直感を大事にする
 ③ことばを鍛える
  ことばは考えるための唯一の翼である
  新しいことばが新しい可能性を持っている
 ④頭の外へ
  問題のまなざしをもってよく観察する
  頭の中の考えを外部に書き出し、その内容を見ることで、自分を外に開いていく
 ⑤話し合う
  人に問題を伝えることは、問いの形をはっきりさせるのに役に立つ
  様々な意見、新しい見方、新しいことば、新しい意味の広がりに出会える
  違和感や反感が大事である
※「考える技術」は重要だと感じたので、要約とは別にまとめました。
GZ 
【第6章の質問】
勇気をくれたもの、諦めない気持ちにさせてくれたものは何ですか。
私の回答は以下になります。
「勇気をくれたもの」
頑張っている人の姿から勇気をもらうことが多いです。具体的には、一人で頑張っている方、ご高齢の方が懸命に生きる姿から、よく勇気をもらっています。
言葉で伝えてもらう場面もありますが、映像から自分で受け取ってしまうことが多いです。
「諦めない気持ちにさせてくれたもの」
一緒に頑張る存在が諦めない気持ちにさせてくれました。具体的には、中学の時の野球部のメンバー、大学の時の化学の先生などです。
ただ、そのような存在がいないと頑張る動機を持てないという点で、これは少々危険でした。
やはり、自分の中に確固たるものを築く必要があると感じています。
Hiroto
第5章のQ
いつも数学のことばかり言っていて、レパートリーが少なく申し訳ないのですが、私の感じたことのある見えない枠は「1+1=2」(もしくは「実数の連続性」)だと思います。
どちらも疑わずにある程度まで過ごせていたのですが、家庭教師などでいざ教えようと思った際に、掘れば掘るほどそんなに頑健な足場ではないことに気づいたという経験があります。「リンゴが1つあってもう1つ増えるとリンゴは2つ」であるとか、「実数とは数直線上の点」であるとか、そういったことに頼らず根元から問いただすためには、意識的に枠を放棄しなければならず、非常に脳に負荷がかかりました。
GZ
回答ありがとうございます。
数学のことで全然いいですよ。以前のWSの「実数ナメるな」やネイピア数の理解に対するマスハラ、面白かったです笑。
「1+1=2」について疑問に思うだけでなく、実際に掘り下げ続けるというのがすごいですね。
問いただすために枠を放棄することが重要だと分かっていても、実際に行うのは中々できることではないと思います。
勇気と根性がないと難しいと思います。
Hiroto
第6章のQ
「勇気をくれたもの」
私はジョジョの奇妙な冒険を挙げたいです。馬鹿にされるかもしれませんが(というか冷静に思うとイタくはあるのですが)、中学生のころの私はほぼ聖書感覚でジョジョと接しており、全ての行動規範はジョジョのキャラクターたちでした。多感な中学生時代、周りと違うということへの怖さを払拭するのに役立ったといえます。
「諦めない気持ちにさせてくれたもの」
シャトルランで限界だと思って辞めようと思った際に、「(当時の)彼女のこと妄想しろ!」というアホな友達の声援のおかげで復帰し、記録が爆伸びした経験があります。
また、グラップラー刃牙シリーズに「柴千春」というキャラがいます。そのキャラはただのヤンキーなのですが、根性のみでヘビー級ボクサーに勝利してしまうような「我慢の象徴」のようなキャラで、長距離走や肉体的労働の際には千春のことを思い浮かべて頑張るケースが多いです。
書いていて思いましたが、私は「自分の中で象徴的な存在(モデル)を想起する」ことで行動を決定する傾向がありそうです。最近はそのような極端な依存は減ったとはいえ、今でも内なる厨二心が僕を突き動かしているような、そんな気がします。GZさんも仰っているように、自分の中に確固たるものがないといった捉え方もできるため、少し危険かなとも感じました。
Hiroto
媚びる訳では無いですが笑、所長も自分にとって象徴的な存在であると思います。高3のときは受験にとどまらず、少なくない影響を受けました。ある言動が、というよりも、所長のような人間が所長として存在していることそのものが、うまく説明できませんが内なる勇気を与えてくれるような気がしています。
GZ
漫画やアニメなどのキャラから勇気をもらうことは私もあります。
現実だと恥ずかしさで実行できないことも、漫画などであればストレートに表現されているので、そういった部分から勇気をもらっています。
GZ
恋人、家族といった自分以外の誰かの存在は、確かに大きいですね。自分一人の場合だと、余程の熱量がないと諦めてしまうと思います。
「自分の中で象徴的な存在(モデル)を想起する」ことで行動を決定するというのは、私はそこまで危険ではないかなと思いました。
象徴としている存在を忘れずに、しっかりと自分の中に保持できているのであれば問題ないと思います。
むしろ、自分以外のモデルになりきろうとしている点で、「考える」うえで重要なことだと思いました。
コバ
それでは、第二回哲学部WSはここまでといたしましょう。
まずは皆様2週間お疲れ様でした。
私は今回のWSを、哲学部の部活動の活動内容の発表と共に、それをもとにしながらJLAB内のコミュニティーの皆さんとの接続、意見交換の場にしたいと思ってこのような内容にしました。
しかし、実際WSを行なってみるとあまりレスポンスの数としてはいただけませんでした。(もちろん参加してくれた方、ありがとうございます!)
もともと今期のJLABのWSに参加義務はないので、よく考えてみたらそれもそのはずかもしれませんね。
WSの場を部活動の内容の発表会だけに留まらず、皆さんとの接続を図ろうと風呂敷を広げすぎてしまったのは単純に私のミスです。
今回のWSで、WS時のリソースは部活動時の活動内容だということが分かったので、次回以降のWSの進行は今回とは違った形にしようとは思います。
皆さんがJLABに入られた理由はなんですか?
JLABという空間で、JLABがなければこのメンバーが出会うことは恐らく一生なかったはずなので、私はすごくその理由に興味があります。
そんなお話も皆さんといつかできたらと思います。
最後に、まだまだ哲学部は部員大募集中!
次回の内容はソクラテス!哲学の父に出会う旅へ出掛けます。
WSはまだまだ続きます。
次回の数学部へバトンタッチ。
2週間、ありがとうございました!

最後に、私なりの「考える」の定義を記しておきます。

「考える」とは、道具(論理、知識、紙とペン等)を用いて、対象を操作し、自分が思う解、あるいは結論、もしくは操作自体のフローが目的であることもある、を導いていくこと。

WSの内容をほぼ全て記述し、その最後に私なりの「考える」を置いておきました。

その理由はここまで読んでいただけたあなたなら、それこそ「考えれば、解る」はずです。




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