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ワークショップ第11回『今後の哲学部の活動方針について話し合う』【哲学部】[20210816-0829]

皆様こんにちは。ジェイラボ哲学部部長のコバです。

今回の記事は、哲学部担当のジェイラボWSで行なった「今後の哲学部の活動方針について話し合う」について共有したいと思います。

今回のWSの内容のバックグラウンドとしては、ジェイラボ哲学部の活動の話になるのですが、当初哲学部は活動の主軸として、課題図書を決めその本の一定の範囲ごとに担当者を割り振り、担当範囲の内容をベースにDiscord内で文章で意見のやり取りを行うという「読書会」を行っていました。
最初は各自それなりの文章量をアウトプットしながらの意見交換ができていたのですが、日が経つにつれ、文章量や意見交換の頻度、それらが減っていきました。

そういった状況を改善するため、WSという場を借りて、ジェイラボメンバーの皆さんに見ていただき、時にはご意見いただきながら「今後の哲学部の活動方針について話し合う」という議題でWSを行いました。

コミュニティ内の1活動の活動方針の話し合いをnote記事として発表するのは、一般的にはナンセンスだと思われる可能性が高いですが、ジェイラボの活動理念と相反する試みでは無いと判断し、ほぼ内容そのままで貼り付けしたいと思います。

それでは、以下WS時の議論の内容となります。

※正確には「現状の哲学部の状況を皆さんに見ていただきながら、今後の哲学部の活動方針について(皆さんの意見も頂戴しながら)意見をぶつけ合ってみる」という議題名でしたが、議題名が長いのと、外部の方が読む際に分かりにくいと判断し「今後の哲学部の活動方針について話し合う」という議題名で、私のnote記事、タイトル等は統一させていただきます。
また、WS時の議論の文字数は3万字を超えており、WSの2週間の間はどの内容に返答いただいてもOKな議論形式を採用していたため、時系列に完全に忠実にnote記事を作成してしまうと、読むのが困難であると判断し、文章の内容はそのままで各議論が初めから終わりまで一連の流れで追えるように、時系列を一部編集している箇所があります。ご了承ください。

1日目

コバ 
おはようございます。
本日より哲学部WSのスタートです。
今回の哲学部WSは責任者が私コバ、私含め、谷本君、さざなみ君の3人でのローテーションで司会進行させていただきます。
本日私が仕事のため、帰宅後文章投下させていただきます。
それでは、皆様2週間よろしくお願い致します。

コバ 
それでは、第3回哲学部WSの文章を投稿していきます。
今回の哲学部WSのテーマは「現状の哲学部の状況を皆さんに見ていただきながら、今後の哲学部の活動方針について(皆さんの意見も頂戴しながら)意見をぶつけ合ってみる」です。
今回なぜこのテーマにしたか、その理由ですが、当初哲学部は活動の主軸として、課題図書を決めその本の一定の範囲ごとに担当者を割り振り、担当範囲の内容をベースにDiscord内で文章で意見のやり取りを行うという「読書会」を行っていました。
最初は各自それなりの文章量をアウトプットしながらの意見交換ができていたのですが、日が経つにつれ、文章量や意見交換の頻度、それらが減っていきました。
これは哲学部の活動が直接の原因ではないのですが、哲学部部員の1人だったGZさんも哲学部、ジェイラボを退会され(私はGZさんから哲学部の活動内容がジェイラボを退会された直接の原因では無いと確認は取っています。本人不在の場で憶測での議論を避けるため、その点については前提の情報として共有させていただきます)、そういった状況を含め、今後の哲学部の活動方針について一度話し合う機会が必要だと思い、私がDiscordで発信し、そこから哲学部の今後の活動方針の話し合いが始まりました。
そして、私の感じていること、谷本君の感じていること、さざなみ君の感じていることを話し合い(第三者の意見として、所長のご意見もいただきながら)ました。
そこから見えてきた改善が必要な点は
①コミュニケーション不足
②意見をとことんぶつけ合うこと、それを避けている雰囲気があった
の2点でした。
それに対しての改善案として
①ビデオ通話等を取り入れ、コミュニケーションを取る機会を増やす
②一度読書会を止めてでも、今後の哲学部の活動方針をまずはとことん話し合ってみる。現状から目を背けずに、WS期間でもとことん話あってみる。
をやってみるということで部員間の意見は合致しています。
そして今に至ります。
内々の意見の衝突をWSという公の場で開示するのは一般的には「あり得ない」という意見も出てくるような試みだと思います。
しかし、私はWSという場で現状の哲学部の状況や、意見の交換を、皆さんに見ていただくこと(時には参加していただくこと)には意味があると思っています。
また、アンケートを取らせていただくこともありますが、そのアンケートの票数や意見をエビデンスとして今後の哲学部の方針を決めるという意図のアンケートではないので、ご了承ください。
なので、実社会では日常茶飯事のポジション取りのアンケートではないため、ゼロベース思考でのアンケート参加をしていただけますと、より実りあるWSになると思います。
また、WSの内容は基本的にはnote記事として発表する予定なのでその点はご了承ください。
お見苦しい場面もあるかとは思いますが、何卒よろしくお願い致します。

哲学的な議論をする上で、その議論をするメンバー間でコミュニケーションを普段から取っておくことは大事である
:1: 非常にそう思う    2
@にしむらもとい, @コバ
:2: 少しそう思う    9
@ていりふびに, @Tsubo, @YY 12, @いんげん侍, @谷本, @Takuma Kogawa, @Yujin Yonehara, @バックれ, @ほうむたろう
:3: あまりそう思わない    3
@Hiroto, @yuuma, @萌やし
:4: そう思わない    2
@マッキー, @西住
:5: 分からない
Created by @コバ with /poll
コバ 
上記、1つ目のアンケートとなります。なぜその選択肢を選んだかまで書いていただいても構いません。
また、哲学部の現状、今後の方針について感想、ご意見ございましたらこのWS期間はご自由にご記入ください。 

2日目

イヤープラグさざなみ 
そもそも「普段のコミュニケーション」と「哲学的な議論」は明確に分けられるものではないし、分けようとするべきではないと思います。そこを分けようとすると哲学が内輪での「ごっこ」になってしまう気がします。本来議論は初対面の者同士でも成立するはずです。
コミュニケーション不足は原因ではなくて結果です。
他にも書きたいことがあるのですが、考えを箇条書きにしてバラバラの状態で投下することになってしまいそうなので、もう少しまとめようとしてみます。 
マッキー 
「そう思わない」を押しましたが、ちょっと補足しますね。
「哲学的な」議論とは何かということもありますが、私は哲学っぽい議論をする上で関心があるのはお互いの距離です。同じ言葉でも全然違う印象を持っていたり、出てくるアナロジーが全然理解不能だったり笑
そうした人間の距離感って実社会で生きる中ではリスクでしかないので、極力見えないように振る舞うのがマナーですよね。だからこそ、利害関係なく、お互いの距離感を出し合える場ってすごく貴重で、普段経験できない思考体験が潜んでいる気がするんです。
ですので、メンバー間の思想や経験等の距離は遠くてもいいんじゃない?仲良しこよしじゃなくていいんじゃない?と言う意味で「そう思わない」を押しました。
ただ、コミュニケーション密度が無いとそもそも議論にすらならないというジレンマもありますよね
そこがまさにコバさんも問題意識持たれている部分かも知れませんね。
僕の中に明確な解決案はまだないですが、ここでの議論を通して何か思うことがあれば随時書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。
コバ 
@イヤープラグさざなみ
<<そもそも「普段のコミュニケーション」と「哲学的な議論」は明確に分けられるものではないし

確かに、普段の(日常の何気ない)コミュニケーションから、哲学的な議論に発展する場合もありますし、その線引きは明確にはできないと私も思います。

<<本来議論は初対面の者同士でも成立するはずです。

それはそうなのですが、こと「哲学的な議論」となった時に、議論の相手がその言葉一つ一つをどのような意味で使っているか、ある程度相互理解を深めながら、つまり初対面では不可能な次元(ある程度の相互理解を前提とした状態)での議論の展開をしなければ、相手の言っていることをそもそも理解するのが困難だなとも私は感じています。

<<コミュニケーション不足は原因ではなくて結果です。

以下、上記が哲学部の現状に対しての、さざなみ君の文章であると文脈から判断し
ての私の意見となります。
コミュニケーション不足は「結果」として、確かに哲学部の現状、そこに存在すると思います。
しかし、原因では“ない“かというと、私はそうは思いません。
今の哲学部の状況の「原因」として、コミュニケーション不足は挙げられると思います。 
コバ
@マッキー
「哲学的な議論」ここへの早速のツッコミ、ありがとうございます。
「哲学的な議論」とは何か。というのを最初に定義するべきなのでしょうが、アンケート形式なので各自の「哲学的な議論」を思い浮かべてもらって、そこからアンケートに答えてもらおうかと考えたのですが、逆にアンケートだからこそ、言葉の定義を予め私の方で定義しておいた方が良かったかもしれません。
アンケートの運用方法は、今後私自身意識していきたいと思います。

<<そうした人間の距離感って実社会で生きる中ではリスクでしかないので、極力見えないように振る舞うのがマナーですよね。

少し前に流行った「忖度」や、本音と建前、「会社」という組織は本当にそういった価値観の中にどっぷり浸かりながら回っているのだな、と新卒の時にすごく驚いたのを思い出しました笑

<<メンバー間の思想や経験等の距離は遠くてもいいんじゃない?仲良しこよしじゃなくていいんじゃない?と言う意味で「そう思わない」を押しました。

思想や経験に距離があってもいいこと、仲良しこよしじゃなくても良いこと、同意です。
なので思想や経験に距離があることは全く構わないのですが、そもそもある程度のコミュニケーションが無いと、思想や経験に距離があることもお互い認識できない、という事態が発生してしまうとは思います。

<<ただ、コミュニケーション密度が無いとそもそも議論にすらならないというジレンマもありますよね。そこがまさにコバさんも問題意識持たれている部分かも知れませんね。

マッキーさんに既に汲み取っていただいていますが、改めて私の言葉で述べさせていただくと、議論に積極的に参加できる空間作りというのも少しは意識しておかないと、そもそも議論にならないという事態になってしまうのではないか、そういった問題意識はあります。
こちらこそ、引き続きよろしくお願い致します。 
YY 12
私は,哲学を(大雑把にですが)「人生と世界についての根本的な考察、またはこれを行う態度」と定義しています。
この「考察」を行ううえで本を読むなど「人との関わりあい」はとても重要なものになってくると思いますが、最終的には自分で理解する・突き詰めるしかないので(私の定義に従えば)哲学はそもそもかなりの部分で自己完結的なものと考えられます。
哲学的議論がどういったものかイマイチ掴みきれていないのですが、何らかの哲学的テーマ(「幸福」とは何かといった類)に関して意見を交換していく行為なら、それは自分の中にある「閉じた考え」を人に伝えなくてはいけないので大変骨の折れる作業だと思います。
私は「少しそう思う」に投票しましたが、それは普段からコミュニケーションをとった方が良いというよりも「その閉じた自分の中にある考えを人に(完璧でなくても)伝える根気や覚悟があるか」といったことが前提としてあります。
つまり、「この根気や覚悟」を付けるあるいは「そういったことをとことん言い合える雰囲気」をつくるための過程として、コミュニケーションをとったりするのは有効だと思いますが、そういった過程を飛ばせるのならコミュニケーションをとること自体はさして重要ではないと思います。
(しかし、実際問題、素性も良く分からない相手に対して大っぴらに語るというのは難しいので、「少しそう思う」にしました。)
にしむらもとい
:1: 非常にそう思う
あまり僕の色をつけたくないので自分で進行しないWSは基本的に遠目に見守るようにしてるんですが、今回の議論は僕も少し発端にいっちょ噛みしましたんで議論がスムーズに進行することを願って多少の意見は投下しようと思います。
哲学的な(日常の具体的政治的なポジションから離れた純粋思考の)議論を行なうのに、本質的に求められるのは話者の素養だけであり、当事者同士の日常的な親交など関わらない。それは間違いなくそうだと思います。ただ、この状況、互いの素性を知らぬままテキストベースで情報をやり取りするという場において、本当に適切に哲学的な議論ができるかと言うと、やはりそれは難しいという話になってくるとも思います。
たとえば、数学や物理学というのはそれを自分の人格とは切り離した外的な自然空間として取り扱うことができますが、哲学というのは自分の人格に自然言語でべっとりと密着しているので、人格と切り離した議論ができません。つまり、哲学的な議論というのは、必然的に自分の人格を晒すこととつながっていきます。そこで、「人格を晒す」というある種の覚悟を念頭に置いた時に、どういう場、どういう相手ならそれができるかを考えてもらったら良いヒントになるのではないかなと思います。
互いの身分がわかった上で、リアルに顔を突き合わせて議論をするのであれば、初対面でも哲学的議論は(常に成立するとは言い切れませんが)まあ成立し得るとは思います。ですが、極端な逆パターンを考えますと、たとえば匿名の掲示板ではたして哲学的な議論の進行を担保できるでしょうか。そこに多少の哲学的エッセンスが生まれることはあっても、まともな議論の進行など期待できるはずがありません。
ここで行なっている部活動は基本的に僕が面接した皆さんによって営まれてますので、もちろん純粋な匿名空間ではありませんが、かと言って相手に対して人格を晒す覚悟を持てるほどのメンバー間の信頼もまだないと思います。いずれはそういう場にしたいという気持ちはありますが、まだそうはなっていません。
そういう、この場がまだ人格を晒し得る場になり切っていないという意味において、この場で哲学的な議論をぶつけ合うにはある程度互いの素性を知り信頼する(人格を好きになるということだけを意味しない)ことを別な部分で前提として共有しておく必要はあるだろうと感じます。
YY君の意見が僕の感じていることにわりと近いかなと思います。
そして、これは哲学部に先陣を切って議論していただく形になり負担をかけてしまっていますが、この空間全体の問題でもあります。この場を準備した僕の問題でもあります。僕もこの議論は注意しながら見ていきたいと思います。
コバ 
@YY 12
<<最終的には自分で理解する・突き詰めるしかないので(私の定義に従えば)哲学はそもそもかなりの部分で自己完結的なものと考えられます。

私にとっての「哲学する」の定義は「突き詰めて抽象思考すること」なのですが、その主語は「私」です。
私が哲学する際「自分」という存在をもって、対象にぶつかって行きますが、それは結局は自分に返ってきます。
自分自身を見つめ、それを言語化し、他者に開示、伝えようとすることは仰られる通り、根気と覚悟のいる行為です。
素性がよく分からない相手に、そもそもそれを“する“かどうか、その問題は私もあると思います。
コバ
@にしむらもとい
ご意見ありがとうございます。
「哲学」という営みをオンラインの空間で行うという困難さに私自身もう少し想像力を働かせて、先手を打ちながら動くべきだったと反省しています。
このジェイラボという空間がオンラインの空間であるからこそ、私も日常の生活では絶対に出会えなかった方々とこうやって出会えています。
それは素晴らしいことなのですが、やはりオンラインであるがゆえの距離感と言いますか、うまく表現できませんがそういうモノは存在すると思います。
しかしそれを完全にではなくとも、部分的にでも乗り越えることができれば、そこに大きな意味はあると思います。
引き続きご意見いただけますと幸いです。
  
アンケート#02 ジェイラボの活動の中で、自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考、を開示すること(それを開示をしながら作成した文章を投稿すること等)に抵抗があるか
:1: 抵抗が無い    3
@Takuma Kogawa, @イヤープラグさざなみ, @にしむらもとい
:2: 抵抗があまり無い    4
@バックれ, @コバ, @シト, @Yujin Yonehara
:3: 抵抗が少しある    5
@YY 12, @いいだ, @Hiroto, @マッキー, @ほうむたろう
:4: 抵抗がある
:5: その他  
YY 12
質問に質問をしてしまうかたちで大変申し訳ないのですが、「自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考」はどう解釈したら良いのでしょうか?
この3つは思考からは切っても切り離せない関係にあると思うので、それを省いた「思考」がどのようなものか良く分かりません。
極端な話、どんな賢人だって「来週の食料も確保出来ていないような状況」や「親しい人間が亡くなった直後」で思考することと、それと反対の状況(全てが上手くいっている場合)で思考したこととでは多少なりとも変化してしまうと思います。
コバ
<<質問に質問をしてしまうかたちで大変申し訳ないのですが、「自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考」はどう解釈したら良いのでしょうか?
私のアンケートの書き方が分かりづらく申し訳ないです。
「自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考、を開示すること」
⇨「自分の思想、自分の心情、自分のポジションから離れた純粋な思考、これらを開示すること」
の意味でした。
なので、3つを切り離すというよりはこの3つを同次元のモノとしてアンケートを作りました。
これは補足に追加致します。
ご指摘ありがとうございました。
YY 12
分かりました。ありがとうございます。
コバ
※※※重要補足※※※
「自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考、を開示すること」
アンケート文のこの部分の意味ですが、
「自分の思想、自分の心情、自分のポジションから離れた純粋な思考、これらを開示すること」
という意味で私は表現しています。分かりづらく申し訳ありません。
なので、アンケート文ですが
アンケート#02 ジェイラボの活動の中で、「自分の思想、自分の心情、自分のポジションから離れた純粋な思考」これらを開示すること(“開示すること“とは、それらを開示しながら作成した文章を投稿すること等のことです)に抵抗があるか
と訂正させていただきます。
↑↑↑追加文章でした↑↑↑
上記、2つ目のアンケートです。
引き続き、なぜその選択肢を選んだかまで書いていただいても構いません。
また、今回は選択肢を増やせる設定にしていますので、既存の選択肢以外で答えていただく際にご利用ください。
哲学部というよりは、ジェイラボ一般の活動に関するアンケートとなっていますが、哲学部の活動はジェイラボという空間内の1活動であり、ジェイラボの空気感とは切っても切り離せないという側面(逆も然りです)は私はあると思いますので、アンケートをご利用いただきながら、皆さんの考え、感じている事等を教えていただけますと幸いです。
YY 12
恥ずかしながら、私には「これが私の思想だ」と言えるほどの「思考の体系」がまだほとんど備わっていないので、思想に関しては「抵抗」という感覚も良く分かりません。(止めるものが最初からないので抗うこともない。)
しかし、思考(思想ほど体系化はされておらず、その場で考える程度のこと)を開示することに関しては「抵抗」のようなものはあるかもしれません。やはり、オンライン上という薄暗く靄がかかった空間に、「思考」という多少なりとも「自分が人生で培ってきた様々な思考体験や経験」が入っているものを開示することは勇気がいるものだと思います。
自分の心情に関しては、心情というのが(多くの場合)刹那的なものだと思うので、それを開示することに抵抗は感じていません。実際、Discordの娯楽室や配信などでは「こんな出来事があって今こういう精神状態です」程度のことは(誰に言われずとも)しばしば発信します。
Hiroto
「抵抗が少しある」に投票いたしました。
ジェイラボでない開けたコミュニティ等であれば、「抵抗がある」に迷わず投稿します。
インターネット上に自らを曝け出すことは、別に何かやましいことがあるわけでないにせよ一定量の悪意を受け入れる隙を作るということであり、制御できない不確定性が自分には怖いため、プライベートに踏み込んだ情報発信を無思慮にはできないなぁという感じです。(数学的な話など、ある程度個人から離れた話なら全く問題なし)
また、思想や心情は正解がないため、延々と"レスバ"が可能となってしまうというのもあります。曝け出すなら「覚悟」をして曝け出さなければならないため、覚悟という名の抵抗が生じます。
このジェイラボに限ると、ある程度自分の手の届く範囲での「情報発信訓練所」的な側面があると思うため、上のような抵抗感はかなり薄まっています。しかし、まだ癖として、自己防衛の意識が抜けきっていない感もあるので、「抵抗が少しある」に投票いたしました。
コバ
@YY 12
私は今回のアンケートで「自分の心情」と「自分のポジションから離れた純粋な思考」を同じレイヤーでアンケートを作りましたが、確かに「心情」よりも「思考」を発信する際の方が、より覚悟がいるかもしれません。
私はというと、ジェイラボの空間、あるいは活動の中で、「自分の思想、自分の心情、自分のポジションから離れた純粋な思考」これらを開示することに、抵抗はあまりありません。
というのも、私の場合、小学生の時から屁理屈、変わってる、と周りから言い続けられてきたので、実生活ではいつしかありのままの自分の思考を他者に伝えようとすることを封印していました。
なのでジェイラボという空間、活動で自分の思考をさらけ出すことは新鮮で、誤解を恐れずに言うと、楽しいです笑
もちろんそれ相応の負担(時間やある程度の精神力を必要とする等)はありますが、それを含めて私は現在のジェイラボの活動に参加することに同意しています。
ただ、やはり社会人になって空気を読んだり気を遣う価値観を刷り込まれているので、その価値観に引きずられ(その価値観が必ずしも悪いわけではない)、ある程度のストッパーをかけている自覚はあるので「抵抗があまり無い」としました。 
コバ
@Hiroto
確かに、インターネット上に自分の意見を表明することは、一定の悪意を受ける可能性を引き受けることにはなりますよね。
直近の私の例で言うと、基礎教養部の私のnote記事で「今の私にとって自己啓発は役に立たない」と明確に記述しましたが、それに反感買う方はいらっしゃるでしょうし、私のポジション(営業職、社会人)を考えると、「自己啓発」に対しては「明確に肯定するでも否定するでもなく、話のタネとして流行りは抑えとく」というポジションが一番コスパは良いと分かってはいますが、あえてあの題材でnote記事を作成しました。
私にとって「生きる」とはそういうことだと思うので。 
ちなみに私の1つ目のアンケートの回答は、:1:非常にそう思う でした。
マッキー
僕はわりと気にします。
僕の場合、思想だとかの内面性はそもそも自分の中に不定形のまま渦巻いているものが多いので、まず文字に起こすこと自体がかなり大変です。チョイスするワードによってニュアンスは変わりますし、受け手が自分の感覚をどこまで感知してくれるのかも分からないので、やはり不安になります。加えて、ジェイラボの活動は現段階ではまだリアル対面無しでお互いのことをほとんど知らない状況ですのでなおさらです。逆(受け手となる場合)もまた然りです。僕が一昨日くらいに関心があると述べた“距離”についてですが、お互いの距離を知るには長い時間をかけてやり取りを行うことは必ず必要であると思います。むしろ、長い時間をかけてお互いの距離を知り、その過程でよく考えること自体が僕にとっての“哲学っぽいこと”と言えるかもしれません。
“人となり”というのは意図的に曝け出せる部分もあるかもしれませんが、基本的には“出ちゃってる”ものだと思います。口ぐせとか、好きな話題とか、語気の強さとか表情とか・・・。これを文章に置き換えると、よく使うフレーズや文体そのものになるでしょうか。いずれにしても文章のみから相手の人となりをつかむのは大変だなと思う次第です。
コバ
@マッキー
以下マッキーさんの文章に対するレスポンスになっているかかなり不安なのですが
私は、思考①「ジェイラボという空間の中で自分の思考を曝け出すことに最近は抵抗があまり無く」
思考②「自分の思考、自分の思想、そういったモノが伝わるため、また相手の思考、相手の思想が自分に伝わるために、コミュニケーションが必要」
と考えています。
なので、私の思考の流れとアンケートの投下順は逆で、私の思考の流れは①⇨②で、アンケートは、アンケート♯2⇨アンケート♯1の順番になります(これは今気付きました)
なので、哲学部の部長をするにあたって、伝えたいから、伝えて欲しいから、顔面まで晒して活動しているのかもしれません。
Takuma Kogawa
ジェイラボの活動の中で、自分の、思想、心情、ポジションから離れた純粋な思考、を開示すること(それを開示をしながら作成した文章を投稿すること等)に抵抗があるか?
「抵抗が無い」に投票しました。秩序が保たれる範囲では、自分の考えはそのまま発信していますし、ジェイラボ以外の生活においても心は常に裸でいるつもりです(服を着飾るほど器用でない)。みなさまに対して何をギブできるかが私にとっては重要であり、あまりにも意図とずれていた場合を除いてギブしたものについてどのような受け止めをされてもいいと思っています。私のSNSのアカウント名はハンドルネームですが、何かを宣伝する際に本名や写真をバンバン公開していたことで自然とそういうふうになったのか、生まれつき抵抗がないのかはわかりません。
コバ
@Takuma Kogawa
covid19対策室でKogawaさんが積極的に発言されているのは、Kogawaさんなりのギブの1つの形でしょうか。
covid19対策室でKogawaさんが発信し続けられている理由が、少し分かったような気がします。(ズレてたらすいません。。。)
Takuma Kogawa
@コバ
そうですね、ギブの1つの形ととらえて差し支えありません。
あとは、他の人がやらないことをやりたいという気持ち、薬剤師免許を持っている者として医療関係の発信をすべきという使命感も背景にあります。

3日目

マッキー 
初日の問い
「哲学的な議論をする上で、その議論をするメンバー間でコミュニケーションを普段から取っておくことは大事である」
は割と大事な論点だと思うので、他にご意見がある方がいらっしゃれば個人的にお聞きしたいです。
僕は、同じ席につきゆっくり時間をかけて話し合う場があれば、それ以前に普段から無理やり仲良しごっこをする必要はないのでは?という意見でした。ですがこれは放っておいても顔を合わすリアル生活を前提とした意見だったかも知れないと今は感じてます。人となりを知る、という行為が特に現状しづらいジェイラボというネット空間において、お互いにとってよりよい会話をしていくためには何が必要でしょうか?そもそも人となりを知る必要はあるのか?
ここら辺は『コミュニケーション不足は原因か結果か?』という哲学部で発生中の哲学論争にもつながりませんでしょうか?笑
ご意見聞いてみたいです。
Takuma Kogawa
哲学的な議論をする上で、その議論をするメンバー間でコミュニケーションを普段から取っておくことは大事であるか?
「少しそう思う」に投票しました。哲学的議論は、自分の背景等をふまえて一人の発言が長くなりやすいように思いますが、長い内容を他の人が正しく解釈するには、人となりを知っていることが必要ではないでしょうか。ジェイラボで哲学的議論をするのは「〇〇さんの哲学」というものを交換・共有するのが目的と思っていましたが、もしかしたら違うのかもしれません。私は、こたえのない議論において人となりを切り離して文面だけを追っても「〇〇さんの哲学」を解釈しきれないと思いますし、相手を想った愛のある返答もできないと思います。
プライベートで自分が重要と思っている悩みや考えを他の人に聞いてもらうとき、ある程度は普段からコミュニケーションをとっていて信頼できる人を相手に選ぶことが多いのではないでしょうか。哲学もこれに近いと思っています。大昔に哲学の話をしようとしたらそこらへんの知らない人に質問をぶつけまくることもありえたかと思いますが、現代でやるならコミュニケーション不足の人どうしだとうまくいかないのでしょうか。
コバ
@Takuma Kogawa
<<ジェイラボで哲学的議論をするのは「〇〇さんの哲学」というものを交換・共有するのが目的と思っていましたが、もしかしたら違うのかもしれません。
「〇〇さんの哲学」というものを交換・共有するのが目的というわけではないのですが、「いじめとは何か」という議論を行なっていく中で、自ずと「部員間の哲学」は共有されていく、そんな空間をイメージしていました。
<<大昔に哲学の話をしようとしたらそこらへんの知らない人に質問をぶつけまくることもありえたかと思いますが、現代でやるならコミュニケーション不足の人どうしだとうまくいかないのでしょうか。
大昔の哲学者といえば、それこそソクラテスが代表的だと思いますが、ソクラテスも知らない人に質問をぶつけまくって、うまくいかないことだらけだったと思います。
一方で、深い仲の人間とは深い議論(見ず知らずの人と議論した時とは辿り着ける地点が違った議論)ができていたのは、今も昔も本質的には同じだと私は思います。 
イヤープラグさざなみ
皆さんの意見も聞いていると、確かにコミュニケーション不足は原因でもあるなと感じました。議論の中で相手がなぜその言葉を使ったのか、その選択の意図を汲み取れるようにするためにも、日頃からその人が書く文章にたくさん触れておく必要があるのだと思います。
マッキー
あと、僕はジェイラボ活動では意識的に論理的厳密性とか、文章の美麗さにはこだわらないようにしています。あまりこだわるとフットワークが重くなってそれこそ熱量自体が下がってしまうので。。。それに仕事終わりの夜にまたビジネス文書を書いているような気持ちになってしんどくなっちゃうので笑
今回の議論は答えが無いタイプのものかと思いますので、発言の熱量自体を増やすことで見えてくるものもあったりする気がします。
コバ
文章投下していると日付が変わってしまいましたが、今日から司会は谷本君にバトンタッチです。
とはいえ、昨日までのアンケートや、コメントにも引き続き答えていただければと思います。今回の哲学部WSの期間内は、アンケートや意見のレスポンスの期限は設けませんので。
私の発言に対するツッコミや、哲学部の活動についての意見をいただいても大丈夫です。私も積極的にレスポンスしていきます。
それでは、引き続きよろしくお願い致します。 

5,6日目

谷本
哲学的な議論においては参加者の各々がその人格や思考を曝すことが必要不可欠だから、コミュニケーションを通じて部員同士が人格や思考を曝すことへの躊躇を軽減することがひとまずは大切である、という大まかな流れが、これまでのWSには見受けられると思います。これを受けて論点を提示するので意見を募りたいです。
・コミュニケーションを増やすための工夫としてどういうものが考えられるか
一つの工夫としてビデオ通話を取り入れることはすでに決定していますが、主な活動はチャットで行われるので、チャットでなにか参加者間の距離を縮められる工夫はあるでしょうか。(交換日記的な…?)個人的には、部員間の距離を縮めるという目的が露骨すぎてもそれはそれでなんとなく奇妙な雰囲気になってしまうような気もします。この人間的な問題を「工夫」に訴えて解決しようとしてしまうのも良くないのかもしれません。また、哲学的な議論が発生する場を作る上で、そもそもコミュニケーションを増やす必要があるかという論点もやはり重要ではあると思います。このような、上の論点が適切かどうかというところについての意見も歓迎します。
この論点のほか、このwsですでに交わされている議論に関して意見して頂いても結構です。よろしくお願いします。
Hiroto
思いつきですが、「交換」は置いておいてひとまず「日記」を哲学部内で各々書いてみるというのを思いつきました。忙しければ週記とかでもいいと思いますが。
もし気になる点がその日記にあれば、ツッコミを入れることで「交換」もできるため、ライトでありながら少しプライベートな感じのコミュニケーションができる気もします。
思いつきなので、システムとして機能するかはわかりません笑。
谷本
ありがとうございます。僕もなんとなくそんなのを想像していました。日記は試してみてもよさそうですね。
コバ
@Hiroto
提案ありがとうございます。
確かに「日記」面白そうですね!
私が思ったのは、部員間のコミュニケーションにももちろんなりますし、日にちを決めて(例えば○月△日、スケジュールの兼ね合いもあるので、週記でも全然問題無いと思います)、その日にちの日記を部員皆で書いて、Discord内で発表しあえば、同じ時の中で各部員がどういった視点で世界を見ているのかの対比ができるので、試みとして単純に面白そうと感じました。
にしむらもとい
お節介っぽいですが、一応このタイミングでも僕の個人的な考えを投下しておきます。
おそらく、現状のジェイラボのコミュニティメンバーとの(ちょっと遠い)デフォルトの距離感のままで哲学的な議論をやり取りしようとすると、全てを論理に依拠するしかなくなるため、部分的にでも論理の破綻に対する許容度が大きく下がり、結果として議論が硬直しやすくなるという側面は確実にあると思います。そんな中、マッキーさんのように多少のアラは目を瞑って放り出すという境地になれればかなりラクに意見を出せるようになると思いますが、なかなかそこまで大人になりきれない人も多いと思います。Takumaさんのようにそもそも抵抗がないという人は、すごいと思いますが、たぶん特殊な人ですね笑 僕はめちゃめちゃ他人の目を気にする人間でしたが、一定の訓練の上で覚悟を決めてから抵抗がなくなりました。多くの皆さんは、テキストの文面のみで判断される環境だと、どうしても人からのツッコミを恐れて慎重になってしまいがちにはなっていると思います。もちろん、ツッコまれることがあったとしても、ここは多少なり場を整えているのでTwitterほど民度の低いことにはならないはずですが、それでも基本的には書かれていることを論理的に汲み取るしか手段がありませんので、前提で噛み合わない部分が出てくると絶望的な嚙み合わなさが生まれるので、そこに対する不安は拭えません。その不安は、十分に論理的にテキストを読み取る(および読み取られることへの)訓練がなされている者同士であれば避けられる問題と思いますが、一般的に期待して良いものではない気がします。
つまり、少々の論理の破綻は許容しながらそれでもできるだけ論理的に論を進めたいという、ある意味ここが不完全を許容しながら前に進もうという場であるからこそ、コミュニケーションが必要だと僕は感じてます。もっとはっきりと宣言するなら、議論をするのに日頃のコミュニケーションなど本来全く不要ですが、議論にならなかった時にそれでも許容して流れを議論に戻そうとする気持ちを保つために日頃のコミュニケーションが活きるというのが僕の言いたいことです。なので、ぶっちゃけ工夫も何もないと感じてます笑 うまいやり方で効率的にコミュニケーションの効果を高めるというようなものではなく、単純な接触時間と回数を高めるというロジックではない純粋なコミュニケーション量が必要なんじゃないでしょうか。たとえば、僕は現在ジェイラボの活動の一環でマインクラフトを一部のメンバーと行なってますが、そのきっかけでボイスチャット量が増えた人間に対しては、確実に意見をぶつける心理障壁も下がっていると思います。何もゲームをしなくても良いとは思いますが、何らかポジティブな心理状態を共有できる場があると良い気がします。身構えながら機械的にビデオ通話してもものすごい収まりが悪そうです笑 その辺の具体的な方法は他の皆さんの知恵も借りたいところです。それでも、ビデオ通話を定期的にする以上のものはないとは思いますが、時間が合わず非同期のコミュニケーションも併用したいということなら、何か負担の少ない共同作業を分担することでしょうね。
日記という案はなかなか良いかもしれません。まぁ、部活動との兼ね合いを考えるなら、WSの準備そのものを利用するのが一番ではあろうと思います。結局、負担の大きい難解な哲学書に手を出す前に、まだまだ準備運動としてもっと身の丈の自分の言葉で語ることを続ける必要があるのかなぁと感じたりします。自殺についてどう思うかとか、いじめについてどう思うかとか、何でもいいですが、Twitterなんかだとすぐにマウントの取り合いになって不毛化しそうな議論をちゃんと「自分の言葉で」噛み締めるという訓練をある程度準備運動(コミュニケーション)として続ければ、そのうち「もういいかな」と皆が感じた時に自然にそのまま次の流れ(難解な哲学書を読む)に入っていけるんじゃないかと思ったりします。これまではその意義を意識として共有していなかったため、せっかく導入として準備された『はじめて考えるときのように』も作業的に消化されてしまった(互いにツッコむことを遠慮したまま終わってしまった)ように思います。
僕個人は訓練によってベタベタに感情を込めてコミュニケーションすることも一切の情を切り捨てて非情な結論を伝えることもそれなりにコントロールできる人間にはなった(それが良いことか悪いことかはともかく)と思いますが、皆さんがそんな仙人の境地みたいなものを目指したいのか、僕にはわかりません笑 修羅の道を進んで自分を追い込んで訓練したいならまた別の話もできますが笑、普通に考えて、シンプルに議論の懐を深くして硬直させないことをまず目的意識に持てば方向性が見えるんじゃないでしょうか。
あと、論理的であることと哲学的であることが同一かという点を論点として挙げておきますが、僕は論理的であることと哲学的であることは全く異なる概念であると感じてます。そして、徹底的に論理的であるためには、たぶん一度論理を手放す経験も必要とも感じてます。それは、「哲学」しないとわからない感覚だと思います。
最後にもう一度この哲学部の活動の意義について思うことを話して終わります。教養知識として哲学の素養を身につけることは一人でもやろうと思えばできますし、あるいは本格的にそれを望むなら高等教育機関で体系立てて大いに学ぶことも良いと思います。ただ単純に、哲学のプロになることと哲学をすることはやっぱり別だと思います。強いて言うなら、ここは「アマチュア」哲学者のための訓練場なんだと思います。それゆえ、知識のインプットより基礎的な思考のアウトプットの訓練に重心を置くのが一番良い使い道だと、僕は思ってます。
以上、僕の感じている方向性について少しお話をさせてもらいました。
コバ
<<これまではその意義を意識として共有していなかったため、せっかく導入として準備された『はじめて考えるときのように』も作業的に消化されてしまった(互いにツッコむことを遠慮したまま終わってしまった)ように思います。

仰られる通りだと思います。
「考えるとは何か」よりも先に、哲学部の意義、あるいは部員間のそれぞれの哲学部に入ってくれた思いなどを深掘る、伝え合うことが先だったと思います。

<<ここは「アマチュア」哲学者のための訓練場なんだと思います。それゆえ、知識のインプットより基礎的な思考のアウトプットの訓練に重心を置くのが一番良い使い道だと、僕は思ってます。

自分の言葉をしっかりと他者に伝える訓練をできる場づくりを、部長として意識し
ていきたいと思います。
谷本
十分に推敲しないまま自分の意見を発信するのにはかなり抵抗があります。シンプルにツッコまれるのが嫌だというのもありますし、文章に意味の不明な部分が出来るとそこの意味を確認するための会話が生じて議論が複雑になるのでそれを避けたい気持ちもあります。でも、厳密さを求めて議論が硬直してしまうくらいならこんがらがった方がいいのかもしれません。
コミュニケーションは発言の心理的障壁を下げるのに役立つから重要視されているのだと思っていました。日ごろのコミュニケーションは、議論にならなかった場合に議論を放棄しないためのモチベーション源にもなりうる、ということでしょうか。確かに相手のことを知っていた方が「よくわかんないし、もういいや」となりにくい気はします。
お互いにツッコむべきところにはツッコんでいくことが重要である反面、議論の懐は深くしなければいけない(少々の論理の破綻は許容する)というのはなかなか難しそうですが、議論をするなかでその辺のバランスは見えてくるんですかね。何よりも硬直させないことが大切であるということには賛成です。

7日目

コバ
文章書いていると丁度、日が変わりました。
本日8/22日は、日曜日ということで哲学部の司会からは(司会的としての)新情報は投下致しません。
なので、議論に追いついたり、アンケートポチポチしたり、文章ゆっくり投下してみる日にしてもらいたいと思います。
それでは、よろしくお願い致します。 
コバ
以下、私の個人的な話がかなり混じった文章となります。
今回の哲学部WSのテーマは「現状の哲学部の状況を皆さんに見ていただきながら、今後の哲学部の活動方針について(皆さんの意見も頂戴しながら)意見をぶつけ合ってみる」ですが、この「意見をぶつけ合ってみる」で思い出されるのが、私と父との関係です。
私と父は、私が20歳の頃まで不仲でした。会話もあまりしませんでしたし、はっきり言って私自身、父のことが嫌いでした。
冷戦状態だった私と父でしたが、私が留年したり、自暴自棄になったりするにつれ、当然ですが父との関係は悪化、私と父は目に見える形で衝突するようになりました。
その中で私は父と本音で初めてぶつかり合い、父も、父である前に1人の人間でしかなく、私はいつも「俺には俺の人生がある」というようなことを父に言っていましたが、それと同じように「父には父の人生がある」「俺がこの意味の分からない世界の中で毎日もがいて生きているのと同じように、父も同じようにこの意味の分からない世界の中で毎日もがいて生きているんだ」ということを初めて理解しました。
「人に何かを伝えるなんて無駄」心底そう思っていた私ですが、親子同士で泥臭くぶつかり合って初めて見えた景色が、そこにはありました。
そして今私は、父のことを好きだと思えています。
家族や、親しい身近な人とのぶつかり合いの中の先にやっと見える景色が、このジェイラボという空間でぶつかり合った先にも見えるのであれば、それはすごいことだと私は思います。
以上、自分語り失礼致しました。
マッキー
そもそもなんですが、哲学部は何をする場であったほうがいいんでしょうね。所長は“教養としての哲学体系を学ぶ場”とはちょっと異なるご意見ですよね。コバさんもこれまで古典を扱いつつも、自分の思想を曝け出すことそのものを目的にされているように感じました。全員が同じ目的である必要はないし、今回で固める必要もないとは思うのですが、ここは根幹部分でもあると思うので、しっかり自分の言葉で議論し、納得しておいた方がすっきりするのではと思います。
哲学部が何かしら“哲学的な”ことをやる場だとして、僕自身は哲学的・・という言葉の自分なりの定義は未だ持ってません。何かしら“根本”“ゼロ”から思考を進める印象がありますが、進める上でのツールは間違いなく論理です。でも過去の大哲学者の論理のフットプリントを追う行為は“論理的”とはまた距離がありそうです。
コバ
哲学部が何をする場であったほうがいいかというと、「哲学する場」ということになるのですが、その「哲学する」が各自、大なり小なり違いがあるはずなので、そこが難しいところです。
私が思考を曝け出しているのは、それが目的というよりは「“私”が哲学すること」が私にとっての「哲学すること」なので、それを他者に文章として開示するとなると、それは自ずと、私の思考、思想が曝け出される形になるんですよね。
私が考えている具体的な今後の哲学部の活動としては、所長の案にもありましたが「いじめについてどう思うか?」というような議題を提示し、それをあえて期間を区切らずに部員間で議論してみることを考えています。
この案は4月頃私も考えていたのですが、私が「いじめについてどう思うか?」というような議論を司会進行していくにあたって、意見が広がっていった先に、その議論の風呂敷を畳めるか、その点が不安だったので、直近まで行なっていた読書会という形にしていました。
課題図書を定めそれについて読書会という形で議論を進めていくことのメリットとしては
①要約を取り入れることで、一定量の各自のインプット、アウトプットは担保できる
②課題図書を各部員が議論に入る前に事前に読んでいるので、議論のスタート地点が定まりやすい
主なメリットとしてこの2つがあると私は考えていたのですが、一定量のインプット、アウトプットだけ担保しても、肝心な議論が活発化しなければ機械的な読書発表会となんら変わらないし、「その課題図書を事前に読んでいる」という前提を共有しても、哲学の議論のスタート地点が共有されていることにはならない、ということに気付きました。
私が議論の風呂敷を畳めるかどうかなんて分からないけど、勇気を持ってとことん部員間で意見をぶつけあってみる、この精神でやって行こうと思い始めています。
なので、今後の具体的な活動としては「いじめについてどう思うか?」というような議論を部員間で行うことを考えているのですが、皆さんの意見はいかがでしょうか。 
Takuma Kogawa
理解が誤っていたら申し訳ないのですが、「要約を取り入れることで、一定量の各自のインプット、アウトプットは担保できる」について、その効果に疑問があります。
インプットは担保できるとしても、アウトプットはどうなのでしょうか。哲学者の考えと自分の考えとの同じところ、異なるところを把握し、そこについて自ら論じることで初めてアウトプットになるのではないでしょうか。こうでないと「哲学すること」にならないのではないかと思いました。
コバ
説明不足で申し訳ありません。
哲学部で行なっていた読書会の概要の説明を追加しながら、返答させていただきます。
まず、要約を取り入れていた目的ですが
担当の方の理解を深める、というのが主な目的の1つです。
自身で読んだ内容を再び脳内で再構築、アウトプットすることは本を読んだ内容のより深い理解を促してくれます。
また、哲学部での読書会は各担当を期間、本の範囲ごとに振り分けていたので、発言しない人が発生しないように設計はしていたので、全員が一定の文章を書く、という意味での文章の「量」は担保できると考えていました。
<<アウトプットはどうなのでしょうか。哲学者の考えと自分の考えとの同じところ、異なるところを把握し、そこについて自ら論じることで初めてアウトプットになるのではないでしょうか。こうでないと「哲学すること」にならないのではないかと思いました。
上記の点に関してなのですが、哲学部では読書会の各担当には、要約に加えて質問の提示もお願いしていました。
その質問内容は
①本の内容にとらわれる必要は無い。
②質問の返答のしやすさもあまり気にせずに、抽象的で自分以外こんな疑問を考える人間はいないのではないか?というような質問でも全然OK。
としていました。
なので「その本の著者の考えと自分の考えの同じところ、違うところを把握し論じていく」というよりは「その本の内容を思考のフックにして、部員間で議論を交わしていく」これが主なアウトプットとなるように設計していました。
ただ、「一定」の量を担保さえできていれば建前上部活動としては成り立っている、という考えになっていってしまった、つまり「一定」という地点に甘んじてしまったことも、哲学部の意見交換が減っていってしまった一因であると私は考えています。 
マッキー
あと思うのはコミュニケーションは“応答数”が大事だなと。文字ベースでの発信であって、伝わり方に不安が残る以上、お互いに解釈の仕方、受け止め方が間違ってないか、自分はその意見にどう思うか等を確認しあう機会が多い方が良くないですか。同じ1万文字でも5千文字1往復よりも500文字10往復の方がお互いの人となりを知れる会話になっている気がします。そう考えるとボイチャがベストですけど難しいですよね~。でも、箱庭のボイチャは割と活気ありそうな感じですよね。

8,9日目

コバ
おはようございます。
哲学部WS2週目です。
司会は引き続き谷本君です。
よろしくお願い致します。
谷本
既に提示した「コミュニケーションを増やすための工夫にどんなものがあるか」という論点の他に、
・哲学的であることと論理的であることの関係はなにか
・哲学部は何をする場であるべきか
などの論点が浮上したように思います。そちらに関する意見をお聞きしたいです。もちろん、これらの点に関係ないことでも気づいたこと・感じたことがあればお書きください。
コバ 
・哲学的であることと論理的であることの関係はなにか
このクエスチョンに対して以下の文章は明確なアンサーにはなっていないのですが、私の考えを述べます。
私は「論理」は「哲学」するうえでの基礎であり、足場のようなものだと考えています。
思考を突き詰めていくにあたって、論理がないと突き詰めようがないので、思考を突き詰めていくにあたって論理は重要な要素であると考えています。
しかし、思考を突き詰めていき、その思考の先の解(時には“解のようなもの“)が、論理的かどうかは私はどうでもいいと思っています。
YY 12
・ コミュニケーションを増やすための工夫にどんなものがあるか
・ そもそもなぜコミュニケーションを増やすのか
私は、哲学的議論をするうえで必要なのは、「自分の考え」という「自分の人生や思考経験が大きく入ったものを曝け出せる覚悟や根気」だと考えているので、日頃のコミュニケーションは本質的には必要ないと思っているが、オンライン上でそれができるかと言われると難しいため、(現実的な問題として)コミュニケーションは必要という考えです。
なので、「自分の思想を曝け出せる覚悟や根気をつける」(泥臭い表現ですいません)が大事という私の考えに基づくと、「量」はもちろん「質(深さ)」も重要になってくると思います。これははっきりと二分できるものではないですが、「日記」は少し「量」への意識が強すぎる気がします。(しつこいようですが、だからといってダメと言ってるわけではないです。文章から自然と内面は出てきますし、非常に有効な手段だと思います。)そこで、「質」すなわち自分という内面をより深く出すことができる方法とし、大小に関わらない人生の選択(たとえば、「その部活に参加した理由」「文理の選択」「進学先の選択」など)について各自が発信してみることを思いつきました。
しかし、ここまで書いといてなんですが、これを人工的にやるのだったらいっそ抽象度の低い身近な話題を話しあった方が、質のコミュニケーションも深めながら哲学的議論も行えて、(結果と過程がごっちゃになって奇妙な気もしますが、)結局は最善の方法ではないかなとも思います。
・ 哲学的であることと論理的であることの関係はなにか
「哲学」は論理はたまた哲学そのものすら考察の対象として目を光らせるものだと思いますので、その二つの関係はと聞かれれば、論理は哲学のうちの(小さな)要素にすぎないということでしょうか。
しかし、哲学は自然言語をもとに論理的に組み立てられるものでもありますから、論理は哲学を行ううえでの道具の一つでもあるのかもしれません。
・ 哲学部は何をする場であるべきか
哲学をする理由は、「刹那的な興味、自身の教養や思考力を高めるため」といったものから「やらずにはいられない」というものまで千差万別だと思いますし、哲学そのものの定義も人それぞれだと思います。
しかし、私は「哲学」を行うことをどう定義しようと、それは最終的には「孤独な作業」になると考えます。
もちろん、本を読んだり意見を聞くなどすること(他人との関り)が重要であるのは言うまでもないですが、それは結局のところ自分に知識や刺激を与えてくれるものに過ぎず、自分の中で明確な思想や信念を確立する材料の一つというだけです。
そして、特に高度で抽象的な哲学的テーマを扱おうとすると、この孤独さはより色濃くなってくると思いますから(突き詰めなくてはいけない深さもよりいっそう出てくるため)、こういったテーマに関して議論をかわすと、集団であることと矛盾し(場合によっては)「部」というものの魅力を無くしかねません。
それだったら、(繰り返しになりますが、)抽象度の低い身近な素朴な話題(たとえば、「いじめについて」や「勉強することのモチベーション」、「障がいをもった方たちへの接し方」など)について話し合うほうが、その人の人格などもよりはっきり表れて、論理や知識としては得られないものに接することもでき(個人的にはここがとても重要だと思いますし、本来「孤独な作業」である哲学を集まって行っていくことの最大の魅力な気もしますが、先ほど断った通り、哲学をやる動機や哲学の定義が人それぞれで、「むしろこういったことものこそ不要だ」と感じる人もいるでしょうから、感想に留めておきます)、「哲学を集まって行うこと」のメリットをより強く享受できるような気がします。
以上、長々と書かせて頂きましたが僕は哲学部に参加してきたわけではないので(ログはほとんど読ませて頂きましたが)、もしかしたら実際に皆さんが活動してきて感じてきたこととは大きくズレているかもしれません。
参考の参考程度にでもなれば幸いです。
コバ
@YY 12
哲学部のログまで読んでいただき、積極的なご参加ありがとうございます。
<<私は「哲学」を行うことをどう定義しようと、それは最終的には「孤独な作業」になると考えます。
という点
身近な素朴な話題について話し合うことで「哲学部」として「哲学」をしていく魅力や意義が出てくるという点

いずれもズレているどころか、的を射た意見でその通りだと思います。
今後の活動方針の参考にさせていただきます。
引き続きWSのご参加、哲学部へのご意見いただけますと幸いです。
谷本
@コバ 論理が哲学する上での基礎であるという点には同意できます。時にその基礎が疑われることはあっても、結局のところ多くの議論は論理に従ったものにならざるを得ないと思います。
思考の末に得られた結論が論理的かどうかは気にしない、とのことですが、論理的な手続きを経て得られた結論ならば必然的にそれは論理的なものになるとは思います。
谷本
@YY 12 コミュニケーションの量だけでなく質にも気を配るべきだというのは一つの重要なポイントではあると思いますが、テーマを各々の内面が出やすいものに設定したとて、「自分の思想を曝け出せる覚悟や根気」が未だない状態で話し合うのなら結局そこまで深いコミュニケーションにならない気はします。内面を深く出しましょう、と言って内面が出せたらよいのですが…。ひとまずは量を重視してコミュニケーションを重ねることが発言の心理的障壁を下げ、部員同士のつながりを強めることにつながって、その先で各々のプライベートな内容を含む質の高いコミュニケーションが行われる余裕は生まれるのではないかと思います。
最終的に孤独な活動に行き着く哲学を集団で行おうとしているという矛盾は、哲学部の意義を考える際には避けられないのかもしれませんね。確かに集団であるというメリットを活かすことを考えるなら、抽象的な話題よりも素朴な話題に関して話し合った方がよさそうです。しかし、必ずしもメリットを活かさないといけない訳でもないので、あえてこの矛盾に抗って集団で抽象的な話をしてやろうという試みもまあありっちゃありだと思います。が、前者の方が現実的ですかね。
YY 12
もちろん量があってこそだと思うので、(上でも書きましたが)日記やビデオチャットでコミュニケーションをとっていくというのはとても有効な手段だと思います。そこは疑いようもありませんし、谷本さんがおっしゃる通り、次第にでも「質」に転換されていければと思います。
谷本さんがおっしゃる「抽象的」がどの程度なのか分かりませんが、素朴なテーマからでも話を掘り下げていけば次第に抽象的なものになっていくと思いますし、慣れていけば抽象的なテーマにうつっていけば良いんじゃないのかなとも思います。(簡単に言ってますが)
こんな意見を言っといてなんですが、せっかくこうした整った場や能力があるのですから、この矛盾に抗って集団で抽象的な世界に飛び込んでいくこと自体は大いに魅力的なことだ感じますし、(いづれは)そういったことにも取り組むべきだと思います。
コバ
@谷本
「思考の末に得られた結論が論理的かどうかは気にしない」と「論理的な手続きを経て得られた結論ならば必然的にそれは論理的なものになるとは思います。」
この2つの文章は、それぞれ単純に違う話だと思います。
「論理的な手続きを経て得られた結論ならば必然的にそれは論理的なものになるとは思います。」
上記の文章ですが、論理的な手順に基づいて、論理的に導き出された答えは、論理的には正しい、こういったことを言いたいんだと思います。
それについは私も同感です。
しかし、私が述べている「思考の末に得られた結論が論理的かどうかは気にしない」
は、いくら論理という道具を用いてなるべく論理的に正しい答えを導き出そうとしても、我々が使っている日本語は自然言語なので、そもそも意味に一定の揺らぎがあります。
その揺らぎの中で、どれだけ己の思考を論理という枠の中に完全に収めながら進めていけるのか、甚だ疑問であるという観点が1点。
2点目の観点として、仮に論理の枠の中にギチギチに己の思考を収めながら思考を進めていったとして、その先の答えが論理を超えてしまっている、ということは多々あると思います。
上記のその先の答えの例として、「自分がしたいからやっているんだ」という答えに達したとして、「〜したい」というのは論理的なんでしょうか。
少なくとも私は「〜したい」これは、論理的ではないと思います。
もうそこは論理の枠からはみ出してしまっていると思います。
なので、「思考の末に得られた結論が論理的かどうかは気にしない」と「論理的な手続きを経て得られた結論ならば必然的にそれは論理的なものになるとは思います。」
この2つの文章は違う話だと思います。
イヤープラグさざなみ
@コバ
思考の出発点では論理に従っているけれども、突き詰めていくとそこからどうしても外れてしまうものだ、ということでしょうか。また自然言語ゆえの意味の揺らぎという部分は、私が先に言ったような数学的な論理と日常で使う論理が違うみたいな話ですか?ただ、自然言語の性質上意味の幅が出てくることはどうしようもなく、それでも論理的であることは有り得ると思います。実際に他の人間との会話の成立(成立したような気がしているのかもしれないが)論理のおかげです。論理に完全に閉じ込められるのか、という話ですが、言ってしまえば、理由をつけて何らかの主張を述べればそれはもう論理的であると言えると思うので、形式的には可能なのではないでしょうか。「
したいからやってるんだ」という結論に達した時にその結論が論理的でないという話ですが、自分の選択の根拠を問うてみたときに最終的にはこれ以上深く掘り下げられないところまで来てしまい、もうそれは自分の「好み」としか言いようがないから明確な根拠を与えられません。自分の主張の理由の理由の理由の…と遡っていったときにそこにあるのは他者とは違う前提であるわけですが、その前提を認めてしまえば、そこからの推論の形式はある程度他者とも共有できるものなんだと思います。
コバ
@イヤープラグさざなみ
<<思考の出発点では論理に従っているけれども、突き詰めていくとそこからどうしても外れてしまうものだ、ということでしょうか。

そうですね。突き詰めていく中で、その思考が論理からはみ出してしまうことは私は多々あります。

<<また自然言語ゆえの意味の揺らぎという部分は、私が先に言ったような数学的な論理と日常で使う論理が違うみたいな話ですか?

この点に関してですが、「数学的な論理」に私は明るくないので、現状分からないです。申し訳ないです。

<<ただ、自然言語の性質上意味の幅が出てくることはどうしようもなく、それでも論理的であることは有り得ると思います。

上記、その通りだと思います。
あくまで、私が述べたかったのは、思考を突き詰めた行った先の終着点が論理的かどうかは気にしないということであり、論理の中で自然言語を運用することを放棄したわけではありません。

<<実際に他の人間との会話の成立(成立したような気がしているのかもしれないが)論理のおかげです。

この観点に対してですが、確かに他者との円滑なコミュニケーションを行う上で、論理は非常に有効なモノとなると思います。
しかし「論理的な筋道に沿って行われているコミュニケーション」であれば「他者との会話が成立している」とは、私は思えません。
私は仕事で車を売却する際の書類の案内を毎日、初めて会うお客様に対して行なっています。
そのやりとりは論理的なやりとりだとは思うのですが、それが「会話が成立している」とは違うような気がします。
「会話」というよりは、「手続きの応答」といった方が私にはしっくりきます。
逆に、論理を無視した感情のぶつかり合いが、時にはよりお互い分かり合える「会話」になることもあると思います。
谷本
25日になったので司会をバトンタッチします。ありがとうございました。
さざなみさんが27日までの司会を担当します。みなさん、引き続きよろしくお願いします。

10,11,12日目

イヤープラグさざなみ
コバさんのおっしゃるように、読書会の担当は自分にとって徐々に「こなす」ものになってしまっていました。自分から積極的に挑んでいくというよりかは、割り振られているからやらなくちゃ、というどちらかというと消極的な、宿題やらなきゃみたいな感覚です。要約と質問の投下も一方的になってしまっていて、開かれた対話が実現できるような雰囲気でもなかったと思います。
コミュニケーションの質と量の話については谷本さんの意見に同意します。自分の人格の根幹を成すようなもの、人生の分岐点や選択の意図について(YYさんのおっしゃる「質」の向上を意図したもの)をいきなり話し合おうとしても、部員同士の心理的な障壁があるままだと話し合いが活発になりそうにありません。
「論理」が哲学の根幹にあるという話ですが、数学で扱うような論理ではなく、日常的な会話における論理というのは、かっちりと一つに定まるようなものなのでしょうか。各々が前提にしている(かつ言葉では表現されていない)条件のずれによって、発信者(話者)の論理には従っていても、それが他者の論理にかなわないようなことが想定され得ると思います。
そんな考えもあって、どうせ他人と真にわかり合うことなんてできないんだから対話しても無意味じゃんかと端から諦めていたような部分も自分にはありました。ただ、会話の幾重にも及ぶ往復によって、完全ではなくても、相手の意図するところをできるだけ汲み取り、自分の考えもできるだけ納得してもらうことができるのではないかという希望もあります。
今回のWSの一連の流れを追っている中で、Jラボと哲学部の存在意義が大き重なるような印象を受けました。そんな中でわざわざ哲学部が存在する意味は何なのでしょう。
哲学の営みは個人で完結するものなのに、なぜわざわざ他者との交流をするのか。自分の意見が否定されたり、他の意見と衝突することは、自分にとっては少なからず「痛い」ことであって、独りでいればそれを避けられるのに、どうして。そもそも自分の人格や思想を他人に対して積極的に公開したいわけでもないのに、なぜそれを多少苦しんでまで達成しようとするのか。
ビデオ通話だと瞬発的な応答が求められるが、私はそれが苦手だ。
司会は交代しましたが、昨日までと変わらずになんでも意見をください。今回新しく出た疑問に関しては、
・人によって「論理」は異なって、それはコミュニケーションをする際に問題にならないのか
・なぜ苦しんでまで他者に自分を晒すのか
です。他者に自分を晒すのは、どこかで自分の考えを誰かにぶっ壊してほしいと望んでいるからなのかもしれません。
YY 12
・ 人によって「論理」は異なって、それはコミュニケーションをする際に問題にならないのか
数学などで扱われる人工的言語と日常会話で使われる自然言語によって、論理が変化するということは違和感を覚えます。
というのも、論理的というのは言ってしまえば「推論の正しさ」つまり「前提から結論を正しく導ける」ということだと思いますので、扱う言語や人によってそれがズレてくるということはないような気がします(もしズレてるなら、単にその人が論理を正しく扱えてないと考える)。もし個々人によってズレていくようなものだとしたら、普段私たちが「論理的」と言っているのは、「誰の論理」なのでしょうか。結局そのようなものは存在せず、論理というのは私たちが干渉しえない部分に置いてあるものなのではないでしょうか。
「話がかみ合わない」というのは、論理そのものに問題があるわけではなく、話す・聞く人間側のリテラシーの問題にほとんど行きつくと思います。私はその論理的思考力・表現力をお世辞にも完璧に身につけた人間ではないのに、生意気なことを言うようですが、お互いが十分にそういった力を持っているのなら、少なくとも「論理的な部分」においては分かり合えるはずです。
 
・ 哲学の営みは個人で完結するものなのに、なぜわざわざ他者と(それによってシンドイことも起こるのに)の交流をするのか
これはそれぞれに個人的な理由があると思いますので一般化は難しいと思いますが、例えば「普通はシンドイとされていることだけど、そういったことも含めて交流が楽しい」「それによって思考力などの得られるものがある」といったことが挙げられるでしょうか。
私の個人的な話をさせて頂くと、(哲学部には参加していませんが)哲学部のWSにこうして参加させていただいてるのは、「ジェイラボの皆さんと交流してみたい」という想いが強いです。なので、他の意見と衝突するなどのシンドイことは本来、避けたいもののはずなのに、(ある意味)受け入れているのはそれも交流のうちとして考えているからです。
イヤープラグさざなみ
今回のWSでYYさんの意見にはハッとさせられてばかりです。確かに論理は推論の形式であって、全ての人間が「そりゃ正しいだろ」と思えるような認識の体系であることを考えれば、それが人によって異なることなどないのでしょう。時間をかければ論理を追えても、瞬発力を求められると誤って認識してしまうことがありますが、それは訓練不足なのでしょうね。
論理的に話し合っても分かり合えるとは限らないのは論理の問題ではなくて、それは各個人の思想や信条との衝突が原因だと思います。長いときをかけて形成されたそのようなものは論理によって容易く動じるようなものでもないと思います。ただ皆が同じ思想を持つことが目的ではないため、「あなたの言っていることは理解はした」というところまでいければそれで十分です。
他者との意見の衝突や考えの違いは、「シンドイ」ことのように見えて、それは自分にとって未知との遭遇でもあるから、本来ワクワクするようなものなのかもしれません。得体の知れないものと対峙した時の恐怖と(ポジティブな意味での)興奮は表裏一体な気がします。考え方ひとつの違いで「シンドイ」を「楽しい」に変えられるなら、そうした方がお得だなーと思います。
コバ
哲学の議論が「しんどい」のは、その解を求めようと皆で取り組んでも、各人の解がそれぞれ違うことがほとんどだからだと思います。
数学の問題の答えを皆で考える時の、「皆で1つの答えに向かっていってる」という感覚は、哲学的な答えを皆で考えている時より、かなり得やすいと思います。
哲学的な議論をする際、命題というスタート地点は同じなのに、その答えは各自違ったりするので、そりゃあ意見もぶつかり合うし、しんどいよなぁ。。。と思います。
しかし、解が1つではないこと、ぶつかり合っていく中で1人で辿り着ける解よりもより深い解に辿りつける可能性があること、これは哲学の醍醐味だと私は思います。
・なぜ苦しんでまで他者に自分を晒すのか
他者に自分を曝け出すのは、確かに苦しいです。
ただ、逆に他者に自分を曝け出さないことは苦しくないんでしょうか?
私は自分を取り繕って、能力もないくせに能力があるふりをして、何も知らないくせになんでも知ってるふりをしてた時の方が遥かに苦しかったです。
そもそも、生きるうえで苦しみを減らすこと、そこにどれくらいの労力を割くか、価値を見出すか、楽になることが人生の目的なのか、その問題もあるとは思いますが話が逸れすぎるので、一旦ここまでをさざなみ君の上記のクエスチョンに対する私のアンサーとさせていただきます。
イヤープラグさざなみ
このままだと少し硬直してしまいそうなので、新たな質問を投げかけてみたいと思います。みなさんがJラボに入った理由や期待していたことはなんですか?またそれは実際に入ったあと、満足されていますか?
私はJラボに入る前に所長が配信で、月会費はあくまで場の提供代であって、こちらかはそれに応えるために何か与えるようなつもりはないというようなことをおっしゃっていたのを覚えています。
コバ
・ジェイラボに入った理由はなんですか?
私の場合は、所長の動画等から良い影響をたくさん貰えたので、その恩返しがしたいというのが最初の動機ですね。
ちなみにジェイラボに所属し続けている理由の1つは、多分頭おかしいと思われると思いますが笑、このジェイラボが私が小学生の頃に「こんな空間あったらいいな〜」と漠然と考えていた空間に近いからですね。
・ジェイラボに期待していることはなんですか?
ジェイラボがなくなってほしくないとは常々思っています。答えになってないですかね笑 
Hiroto
・所長と触れ合いたい!!!!!!!!
・秘密基地みたいでかっこいい!!!(規模感的に)
・色んな人がいそう!!!!
といった感じで入りました。これらは今のところ満たされていて、満足しています。リアルな触れ合いがあると、もっと満足するのかもしれません。
イヤープラグさざなみ
@コバ
コバさんがジェイラボがなくなってほしくないと思っていることは普段の言動からも伝わってきます。
イヤープラグさざなみ
@Hiroto
秘密基地みたいでかっこいいというのはめちゃ分かります。ディスコードに最初招待されたときも、こんなワクワク仮想空間が存在するのかと驚きました。
にしむらもとい
長文で流れを切ってしまわないことを祈りながら、僕の意見も投稿しておきます。
・論理的であることと哲学的であること
僕はこの二つは異なるものだと言いましたが、なかなか意図は伝わっていないように感じます。
僕にとって、この違いは動機の問題です。論理的であることの意義を強く主張される方は、それが間違っていると責めたいわけではないので勘違いして欲しくありませんが、動機としては多くのケースにおいて自己目的化しています。それはおそらく、論理的であることそのものが、まだ多くの労力を割かねば維持できない訓練段階の人が多いからなのだと思います。当然、その段階でそもそも論理的であることの定義に疑義を挟む方は、まずいません。他方、哲学的であることの意義について考える時は、哲学とは何かについての定義の議論をとばすことはできません。そこで、たとえば、哲学の目的は思考の論理的明晰化であり、哲学それ自体は学説ではなく活動であるといったwikipediaレベルのウィトゲンシュタインの説明を引けば、皆さんもそれなりに納得はいくかもしれません。ですが、その説明は哲学的であることの根源、すなわち動機に全く触れていません。この「他人の言葉」で納得してしまうかどうかというのが、僕がいま意図していることを想起できるかどうかの境界になっていると思います。
もう少し例を考えてみます。よく、数学も哲学もどちらも論理だなんてことを簡単に言う人がいますが、僕には数学と哲学が同じ論理に依ったものとは全く思えません。少なくとも僕には、哲学的である動機はあっても、数学的であろうとする動機が全くありません。人工言語、自然言語という言葉もよく使いますが、要するに、規約と用法のどちらが先立つのかという点が、大きく異なります。僕はウィトゲンシュタインを敬愛していることを以前から公言していますが、それは彼が論理的であったことが理由では全くありません。限界まで論理的であろうとした時に、確かにそこに「限界」があることに気付き、そこに言及した。徹底的に論理的であろうとした結果、最後に論理を手放さざるを得なくなった。あるいは、そもそも論理を超えた「倫理」に強い関心があった。彼が志願して戦地へ赴いている最中、聖書(の一節に関する解説書)を心の支えにしていたことはよく知られています。僕がウィトゲンシュタインに一定の敬愛を抱いた理由はそういう部分にあります。
つまり、論理的であるとは「論理的である」という規約であり、哲学的であるとは「論理的であろうとする」という用法だということです。閉じた論理思考の中で帰結を導きたいわけではなく、論理思考という体験を丸ごとモニターするという感覚が近いかもしれません。僕にとっては(おそらく彼にとっても)、論理は行動の原理としてただ在るものであって、それ自体は手段でも目的でもないのだと思います。
他の問いにも簡単に触れておこうと思います。
・人によって「論理」は異なって、それはコミュニケーションをする際に問題にならないのか
そもそも「コミュニケーションとは何か」という、また定義の話になってしまいますが、コミュニケーションとは何なんでしょうか。生物学的な意味での情報の伝達までの定義でとどめるのか、人間としてのある程度の相互理解の成立を目指すことまでを含めるのか。たぶん、その辺のことをしっかり言語化しようとすると、結構な言語運用の経験値が要ると思いますんで、そういうことを自分の言葉で言語化する訓練をしてくれれば、僕はそれでいいと思ってます。まあ、真面目な話をするなら、問題になるのかならないのかというより、問題にするのかしないのかという観点だろうなとは思います。問題とは誰のものなのでしょうか。
・なぜ苦しんでまで他者に自分を晒すのか
意志の問題ですが、これも「苦しいとは何か」という定義の話が絡むかと思います。定義の話ばかりを続けてもしんどいと思いますので、たまにはふわっと済ませてしまいますね笑 たとえば、どうしようもなく辛いことがあって、もう生きているのが苦しい、もしも、皆さんがそんな状況になったとしたら、「なぜ苦しんでまで生きるのか」という問いが、自然に湧き上がってくると思います。僕の中では、「自分を晒す」という行ないは、いまとなってはほぼ「生きる」ことに等しいので、そういう動機になっています。苦しいから生きないとか、苦しくないから生きるとか、生きるってそういうことでしょうか。僕の中では、苦しいかどうかは、生きるか生きないかの動機とは無関係です。あとは、自分を曝け出すことが生きることと同レベルと感じているかという問題でしょうね。ほとんどの方はそう感じていないと思います。しかし、僕も後出しで偉そうなことを言っていますが、若かりし頃からずっと自分を曝け出す覚悟を持ち続けて生きてきたわけではありません。どちらかというと、むしろ相互理解の不可能性を理由に自分を曝け出すことから逃げていた時間の方が長かったように思います。そうやって一人で孤独に自分と向き合い続けた時間は、もちろん無駄ではなかったと感じていますが、もっと早くから自分を曝け出すこと(生きる覚悟を持つこと)ができていれば、全く異なった人生を歩んでいたと思います。少し前に、僕はこの騒動のきっかけになった、哲学部部室内の谷本君の発言に、意図があってのことでしたが、かなり上から高圧的な意見をぶつけました。あれは谷本君に対してというより、どちらかというと、若かりし頃の一人で閉じてしまっていた自分に向けた言葉になっていたように思います。だから意図したよりも言葉がきつくなり過ぎてしまったような気がして、ちょっと反省しています。
偉そうにならずに伝える言葉が選びにくいんですが、もし、苦しいから他者に自分を晒したくないと感じるのなら、たぶん晒すべきではないんだと思います。自分を晒すかどうかの線引きは、場の空気などに流されずに自分で決めて欲しいと思います。自分を晒したからと言って、そのまま大きな効果が得られるというものでも、たぶんありません。自分を晒せば、そのリスクの結果として何かが得られるというものではなく、自分を晒すこと自体に意味を感じるかということだと思います。僕に関しては、自分を晒す覚悟を決めたことで、自分の中で不明瞭なままずっと放置されていたアイデアを責任感を持って直視できるようになりました。自分の言葉が「強く」なった実感があります。それは自分を晒した結果得られたものというより、覚悟を決めた瞬間から自分の中に起きた変化であったように思います。
もちろん、この投稿でも僕は自分を晒しています。理解が得にくいだろうと思われる話も躊躇なく書きました。
イヤープラグさざなみ
何回か読み返しても分かった気になれません。定義の話についても、言葉を言い換えたり詳細に説明しようとしてもそれらは言葉の域をどうしても抜けられないし、すぐに行き詰まってしまうし、辛いです。
コバ
分かりました。
私ももう一回、伝え方を考えて自分なりの文章投下します。
イヤープラグさざなみ
@コバすみません、所長の文章に対してのコメントでした。
コバ
@イヤープラグさざなみ
了解です。
ただ、所長の仰られていることと、さざなみ君が行き詰まってしまっているところはなんとなく分かるので(ズレてる可能性もありますが)、私なりの文章も投下してみますね。
コバ
上記の所長の文章を分かりやすく解説するなんていう能力は私にはありませんし、それは所長の本意でもないと思います。
所長の上記の文章が分かりたいなら、分かるまで読むか、あるいは時を改めて読んでみるか、それくらいしか方法は無いと思います。
上記の所長の文章は、所長の「哲学」が記されていると私は思います。
それに対して「所長の言っている、こことここの部分は理解できる。でも、あの部分はさっぱり分からない。その次の箇所は、理解できるけど全然自分とは考えが違う。でも、最後の箇所はすごく共感できる」等、己自身で真正面からぶつかって行った先に、何かが生まれるんだと私は思います。
さざなみ君が、所長の文章を読んだ先に「辛い」という感情が生まれたなら、私はその感情を大切にするべきだと思います。
所長の文章を読んで、自分の言語能力の壁にぶち当たって「辛い」ことと、所長の文章を読んで「分かる」(他者の考えを100%分かることなど、私は土台無理なことだと思っていますが)こと、どちらに価値があるかなんて誰にも分からないと思います。
なので、所長の「哲学」に対してさざなみ君の「哲学」をぶつけてみる(今回であれば、「読む」という行為のことです)その行為自体を大切にしてほしいと、私は思います。

13日目

コバ
おはようございます。
哲学部WSも残り2日となりました。
この土日は司会からの新しい質問等の投下は致しませんので、まとめの期間とさせていただきます。過去のアンケートや質問に答えていただいたり、ご意見をいただきながら、引き続きご参加いただければと思います。
よろしくお願い致します。 
マッキー
自分を曝け出すとはどういうことなのかについて考えてみました。
まず“曝け出す”が何を指すのか。私はこの言葉から、わざわざ陰に隠しているものを陽の下に晒すという行為を連想します。そしてその範囲は、高度な知的操作によって構築された思想から直情的な性的嗜好まで広くに及ぶものであると捉えました。つまり、それがどのようなものであっても他者に伝達した結果、共感をされないであろうという強い信念の下に、内部に隠匿されているものすべてが“曝け出す”対象であると捉えました。ただ、胸に手を当てて考えると、その“対象”となり得そうなものは結果としてほぼすべて高度な知的操作の創作物のみになりそうだということに気づきました。私は良くも悪くも平均的な環境に育ち、おそらく平均的な能力に生まれ落ちてここまで生きてきました。ですから他者に共感されないであろう、先天的に特異な嗜好や性質というものがほぼないんです。少なくとも自覚症状は笑。私が隠匿している(と思われる)のは、これまでの経験の中で少しずつ構築してきた思想の中の一部のみであると思います。
そしてそれを曝け出すという行為に何の意味があるのか。そもそもうまく言語化できるか分からない、言葉のキャッチボールが上手くできるか分からない、こうした不安の中で、曝け出そうとすることに何の意味があるのか。便利なフレーズを借りれば、“思考の明晰化”はあると思います。曝け出そうとするプロセスにおいて自身の思考の構造化・言語化は進みますし、相手方の反論や意見によって、そこに新たな情報が付加されることもあると思います。ただ、こうした作用はあくまで曝け出すという行為の効用の一つであって、いわゆる損得勘定の結果、曝け出した方が自身の知的活動にとって得だから晒そう、と言っているに過ぎません。損得勘定だけでは曝け出す、という全人的なというか骨の折れる営みを肯定するエネルギーにはまだ十分ではない気がします。(所長の仰るように意見表明の訓練期にあるのであれば、それだけでも意味は大きいのかもしれませんが)
所長やコバさんの文を読むと、その行為は何かの手段というよりも目的そのものであると言っているように感じました。その境地には私はいませんが、自分の思考、立場を明確にすべき場面でしっかりと言語化できる自分でありたいという思いは心にありますので、今はその気持ちをガソリンとしてこういった場でアウトプットしていきたいと思います。

14日目

コバ
それでは、本日で最終日となります。
最終日は哲学部の各部員から今回のWSの感想を投下していきたいと思います。
もちろん、過去の質問に対する答えや皆さんの意見も引き続きいただければと思います。
よろしくお願い致します。
にしむらもとい
論理的であれば、意図が伝わるというのは幻想で、行間をとばしてコンパクトな表現にしてしまうと、一気に伝達可能性が下がります。それは、頭の良し悪しではなく、シンプルに前提とされる思考体験(パターンの蓄積)量が原因です。もっとも、一度に扱う情報量が増えてくると、一時的な作業メモリの処理能力も理解力に影響はしてきますので、頭の良し悪しが100%関係ないとは言い切れません。僕個人の経験論では、難しい文章がわからない原因のほとんどは、その文章の意味の広がり、情報のボリュームを、作業メモリが同時並行処理できないことに起因しているように感じます。作業途中でメモリがあふれてしまう人が多いように思います。それは、抽象化して意味を圧縮する訓練によって処理量を増やすことでしか乗り越えることはできません。具体的な短文で訓練してもその能力は得られないと思います。ただ、ひとくちにリテラシーと言って簡単に済ませられるものでもない気はします。なかなか身に付けるのは大変です。たぶん、ネット界隈の論客みたいなタイプの人には僕の文章は全く通じないと思います笑
一応、僕が上で書いた文章は、大筋において丁寧に論理を保つよう書きましたので、単なる自閉的な言葉遊びにはなっていないはずですが、長くなりすぎないよう意図的に行間をとばし、ちょっとした表現の遊び心も含めました。なので、誰にでも簡単に伝わる文章にもなっていないと思います。しかし、他人の意見を聞き、読み、わからなくて、自分で噛み砕こうとしてもうまく言葉にできず、つらく、苦しく感じること、それは、おそらく「哲学」のスタートラインです。だからこそ、「哲学する」には適性があると思います。
つらく苦しくてもその先に進む者だけが哲学をする(している)。考えてしんどくなってつらくなることは哲学の基本です。快適で楽しい哲学など、原理的にあり得ません笑 哲学は情報の処理ではなく、(処理できない)不可能(=自分)との対峙だからです。賢くなりたい、哲学通になりたい、たぶんそんな下心では、本質的な問題に立ち入る前に、浅瀬で溺れてしまいます。僕には、ほとんどの「哲学通」は浅瀬で溺れているようにしか見えません。だから、僕は知識より先に思考体験を積むことを推奨しています。知識から入ると「知識の浅瀬」で満足してしまい、より深い沖へ進む動機が得られません。知識には快楽があるからです。僕自身の経験談でもあります。
話を戻します。僕が書く文章は、基本的に堅くてわかりにくいと思いますが、それは全て意図があってのことで、確か“Think difficult!“のどっかの章で書いたと思います。今回上で書いた文章も、哲学部の活動の一環として投稿した文章なので、敢えて噛み砕かないよう、いつも以上に気をつけて書きました。この文脈で自分を曝け出すとは、「その文章が理解できていっぱしの回答ができる」ことではなく、「何がわかって何がわからないかを自分の中で仕分けしてそれに対する自分の意見を表明する」ことだと思います。もちろん「つらい」という表明もその一つだと思います。上の投稿でも触れましたが、そもそも僕の意見をまともに書き出してしまうと、ほとんどの人に理解されにくいものになるのは自分でもわかってますしT^T まあ、どんな人の意見でもすんなり理解できて当然と思わず、理解できなかった時に、じゃあどういう振る舞いをするのかというのを今回考えてもらえればそれで良いような気はします。
……というわけで、なんか、良かれと思って出した意見でしたが、もしかすると、お節介が過ぎて場を乱してしまったかもしれません。また、WSの締めの段階の邪魔になったとしたら申し訳なく思いますが、まあ、形だけ締めても仕方ないというのがテーマでもあったと思いますので、許してくださいT^T 正直、あまり僕が答めいたものを投稿すると、どんどん僕の色が濃くなってしまうので、この文章も投稿すべきか悩みましたが、哲学部の活動ということで、敢えて投稿させてもらいました。
谷本
WSお疲れさまでした。当初の主旨は哲学部の方針について話し合うということでしたが、割と様々な話題へ派生しましたね。哲学部でなんか軽はずみなことを言ってしまったかなと思っていましたが、こうして対話のきっかけになったのならよかったのかもしれません。参加してくれたみなさん、ありがとうございました。
イヤープラグさざなみ
他人との関わり方について考えさせられました。これから死ぬまでついてくる問題(良いとか悪いとかではない)だなーと。人の書いた文章を読むことは場合によってはキツい体験だけれども、その中で分かることとわからないことの区別をつけ、また分かることの中でも自分がその考えに賛同できるか考えたり、何を以て「分かった」を実感しているのかを考えてみようと思います。
あと小僧はもっと本を読みます。知識も欲しいです。
みなさんWSに参加していただきありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

コバ
皆様2週間、第3回哲学部WSお疲れ様でした。
哲学部の内々の騒動をWSで開示するという内容ゆえ、お見苦しい場面も多々あったかと思いますが、たくさんのご意見をいただき、皆様のおかげで実りあるWSになったと思います。ご理解、ご参加いただき、誠にありがとうございました。
数年前の私なら内々の騒動を、しかも自分が部長をしている部の騒動を公の場にこういった形で開示するなど、絶対にしなかった(正確には、できなかった)だろうと思います。
自分を晒すということは「怖い」ことですが、私は哲学部の現状を皆様に見ていただくという今回のWSを運営し、今は心から「このテーマで運営してよかったな」と思っています。
哲学の知識を持っている自分、哲学的な思考ができる自分、難しい「哲学」という内容を扱っている部活動の部長である自分、私自身“そう“あろうと、知らず知らずのうちに背伸びしてしまっていた節はあったのかもしれないと、自分を省みています。
今回のWSでいただいたご意見を参考にさせていただきながら、また1から哲学部はスタートしていきたいと思います。
ジェイラボの部活動がそもそも今年から始まった試みであり、かつ「哲学部」という部を運営していくとなっては、正直私自身手探りもいいところなのですが、手探りな「今」を大事にしていける、そんな部にしていきたいと思います。
また「哲学部」なので仕方がないのですが、いつも意見がぶつかりあっていますが、私のような大した学も能力も無い人間にこうして付き合ってくださっている谷本君とさざなみ君には感謝しかないです。いつもありがとうございます。
いずれにせよ、今後哲学部をどのような部にしていくかはこれからの私達次第です。
まとまりの無い文章となってしまいましたが、以上を締めの挨拶とさせていただきます。
それでは改めて皆様、2週間お疲れ様でした。

以上、第11回WSの記録でした。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。






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