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変換人と遊び人(21)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く④
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

多くの方々と同じく、私も幼少時には、「人は死ぬとどうなるの?」という問いを抱いていた。この問いは祖父母をはじめとする家族、親類縁者の葬儀や墓参などに際して否応なく意識されたものだが、似たような経験はみなさんにもおありだろう。

しかしそんな問いは、長じるにしたがって徐々に薄れていく。この時空には、「死」を意識の外に追いやろうとする作用があるのだ。ここで話はそれるが、以前 NOOS WAVE ご出演をお願いした(エキスパートのひとりでいらっしゃる)岡崎直子さんは、番組(のチャプター2)で、「時空にうつつを抜かす」という表現を用いられた。

なぜか私は、この表現がいたく気に入った。「毎日毎日、遊びにうつつを抜かしてばかりっ!」という𠮟責とそんな視線を浴びせかけてくる身辺の者に向かって、「あなたの方こそっ!」といつかお返しするリベンジフレーズに使えると思ったのは事実だが(^^_)、それはさておき、私たち人間が無意識裡に「死」を畏怖・忌避しがちな点(人間型ゲシュタルトの代表的態様のひとつか)は、まさに「時空にうつつを抜かす」ことがもたらす罪過の最たるものだと気づかせてくれたのも事実。

さて、「死とはなにか」という問いの答に繋がりそうなヌーソロジーのピースをフォーカスポイント前稿参照)に定めたことで、90年代から抱いていた関心事項とそれに関連する疑問が氷解するに至った我が「目からウロコ」感(同上)の詳細を記しておこう。

じつはヌーソロジーのヌの字も知らず、半田広宣さんという方のお名前さえ耳にしたことがなかった私をヌースに導いてくれたのは、ほかならぬ川瀬統心さんのご著書『ワンネスは2つある』(以下、『ワンネス』)だった。最近は為替投信という源氏名(笑)をお使いの川瀬さんはその意味で私の大恩人なのだが、同書の刊行は2018年初頭。したがって我がヌース歴は、約5年ということになる。多くのエキスパートに比べれば短いが、長さを鼻にかける方などいないので、それを恥じることもないだろう。とはいえ前稿で触れたφさんのご見解による「1年たらずのエキスパート」の方々からは、「えっ?5年もやっているのに、理解度はまだそんなに半端なレベルなの?」という声が挙がってもおかしくない(;´Д`) 。しかしまあ、理解度の高さを鼻や耳にかける方もやはりいないとみて、今後とも半端者(ハンパモノ)を続けていく所存(←開き直りかよ!)。

閑話休題。

川瀬さんの『ワンネス』には深い感銘を受けただけでなく、大いに感服させられもした。その具体的な例を挙げればキリがないが、本稿に関連する点をひとつ挙げれば、私自身もいろいろ思うところがあったウィトゲンシュタイン「眼が視野に属さないように、主体は世界に属さない」という言葉が引用されたうえで、「人間の外面」「人間の内面」に関するオコツト情報が紹介された箇所(第8章)になろうか。というのも、私は同書を読み終えると同時にこんな思いに捉われたからだ。

――この本にある「人間の外面」や「奥行き」って、もしかすると、ボームの「暗在系」みたいなもの?だとすれば、90年代当時はわかったような気もしたけど、でも明瞭に把握できたともいえない「明在系」との関係性は、ヌーソロジーという理論でクリアになるかも!ともかく、とりあえずは「人間の内面」と「幅」が「明在系」にあたると思うことにすっぺー。

ボームとは、本論(12)でも少し触れたデヴィッド・ボーム(David Bohm)博士のこと。遊び人の分際で、量子力学の発展に貢献した理論物理学者に触れるのは気が引けるけれど、この人はクリシュナムルティとも深い親交があったことが示すとおり、(いかにも学者然とした)ありきたりの学者ではなく、私たちの意識そのもの(または精神、霊)をはじめて量子力学に持ち込んだ異端の物理学者なのだ(注1)。その意味でボームは、分野こそまったく違うが、「聖事といえども、その本質は“遊び”にほかならない」と主張したホイジンガ(本論()参照)と同様、敬愛されて然るべき“非常識”性を有する学者だったといえるかもしれない(注2)。

そして「暗在系」とは、もともと内在秩序/内蔵秩序などという小難しい訳語が使われていた“implicate order”(インプリケート・オーダー)という概念に対して竹本忠雄さん(筑波大学名誉教授)が用意されたわかりやすい訳語であり、(後でハッキリしたことだが)これはやはりヌースでいう「奥行き」に相当する。「明在系」外在秩序/顕前秩序というややこしい用語が定着していた対義概念“explicate order” (エクスプリケート・オーダー)に与えられた訳語であって、こちらもヌース的には「幅」にあたる。

つまり、『ワンネス』経由でヌースに接した私が覚えた上述の感慨は、90年代に知って衝撃を受けたボームの暗在系/明在系という概念を踏まえたものだった。当時は彼のホログラム論に基づく暗在系が宇宙のすべてを内包・内蔵(implicate)する基盤的秩序(order)であることを理解したうえで、それは必然的に「死」をも内包・内蔵するというより、むしろ“死の世界”そのものではないかと直観していた。しかしその一方、「だからどうした?“生の世界”である明在系との関係や絡み合いのしくみ、機序(メカニズム)が鮮明にイメージできなければハナシにならんだろ?」という自問を拭い去ることはできなかった。いまにして思えば、いくらボームの概念をベースに私たちの意識(精神、霊)は生死を超えたものだとアタマで理解したつもりでも、四次元空間認識が欠落していたために、それを具体的に描像するには至らなかったのである。

ところがそれから約25年(四半世紀かよ!)を経てヌーソロジーに接し、その四次元空間認識をデフォルト化することによって、それが実際に描像できるようになったというわけだ。この経験に基づく「目からウロコ」感はじつに大きなものだった・・・・・・。おーっと、少し先走ってしまった。話を『ワンネス』読了時に戻そう。

2018年の時点ではすでに中古しかなかった『人神』を直ちにゲットした私は、なんとなんと、著者の半田さんが初っ端の第1章において「最も敬愛する物理学者の一人」としてボームの名を挙げつつ暗在系/明在系に言及され、またこれも彼のキモ概念である「ホロムーブメント(=holomovement)」(注3)に触れられていることを見出して、「げげげっ!」と驚愕した次第。そしてさらに最終章に至っては、(12)に記したボーム絡みの“ヌーソロジーにとっては「意味のある偶然」”エピソードが披露されていたものだから、私はその時点で「よっしゃー!」とばかりに、ヌースにキメ打ちすることにしたのだった。ヌーソロジーがボームの理論をそれこそ内包・内蔵(implicate)しているだけでなく、それを大胆かつ精緻に発展させていくような有機的体系であることを確信したのである。遊び人が世間に向かって自慢できることなどないが、あえてひとつ挙げるとすれば、キメ打ちするまではフラフラしてばかりでも、いったんキメ打ちすれば、その後はけっして揺らいだりブレたりすることがない点だ(キメ打ちしてもブレるような輩は、真の遊び人ではないw)。

その後、私が『シリ革』をはじめとする他のヌース関連書籍をむさぼり読んだのは言うまでもないが、念頭にはつねに「死とはなにか」という問いがあった・・・・・・。

注1:ニールス・ボーアハイゼンベルクのいわゆるコペンハーゲン解釈も“観測者=observer”という概念を伴うが、この場合の“observer”は、たとえば受信行為を行う限りは“receiver”が受信者(人間)と受信デバイス(装置)のいずれでもあり得るのと同じく、観測という行為・機能を果たしさえすれば、人間でも装置でもいい。すなわち“観測者=observer”は、私たちの意識そのものをダイレクトに指しているわけではない。

注2:デヴィッド・ボームの主要な著書には、『断片と全体』(工作舎刊)、『全体性と内蔵秩序』(青土社刊)、『ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ――』(英治出版刊)などがある。

注3:ホロムーブメント(=holomovement)は「全体の流動的運動」のような意味、ニュアンスをもつボーム自身による造語であり、彼は宇宙全体の流動的運動をこう呼んだ。部分的、断片的、局所的で固定化された世界観を嫌うボームらしさが垣間みえる語だといえる。


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