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変換人と遊び人(18)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く①
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

本論の冒頭部で、私はこう記した(序②)。

――奥深い根源叡智としてのヌーソロジーは、それだけにきわめて多様な側面を有する。それはまるで、筒とその中にある多数の色付きピース自体はなにも変わらないにも関わらず、ひと振りするごとにまったく異なる模様が現れる万華鏡に似ている。
―­―そう、この筒体と内部ピースで構成されたヌーソロジーという万華鏡を振るのはあなたであり、一人ひとりのヌーソロジスト(スピナーズ)にほかならない。振り方は人それぞれ。

ヌーソロジー万華鏡(カレイドスコープ)にたとえたわけだが、この拙い比喩に沿っていえば、すでに多くの方々が独自のスタイルで万華鏡を振っていることだろう。そして、まだ振るには至らなくとも、「ちょっと振ってみようかなー」と思いはじめた方も少なからずいらっしゃるに違いない。

ここでいう「万華鏡を振る」は「ヌーソロジーを自らの人生に応用する方向を見出し、現実生活に適用運用する」こととご理解願いたいが、これはまた、ヌーソロジーというOS(Operating System)上で機能する独自アプリを開発し、実際にそれを用いることだとハイカラに(←死語だろっ!)表現してもいいだろう(アプリと言ったって、所詮は応用または適用運用などを本義とする application の和製略語にすぎないのだ)。

おなじみの Excel や Word は OS の Windows や Mac があってはじめて機能し、Twitter や LINE も同じく、iOS や Android などのOSなしでは動作しない。逆にOSは、それを用いる様々なアプリが出現することでその裾野は拡大し、基盤としての地固めが進もうというもの。したがってOSアプリの関係には相補的な面があると言えるだろうし、ヌーソロジーOSもおそらく、多様なアプリ開発を促す要素を内包しているに違いない(それこそ本来的つまりアプリオリに、かもw)。

いずれにしても私は、先に「ヌーソロジーほど実生活の役に立つものはない」と述べたように(序①)、この叡智はきわめて有用な思想体系だと考えている。有用であるということは、なにか具体的な事柄、事象や目的に対して有効(あるいは有益)であったり実用的であったり、ということとはまったく違う。要は、いかなる条件にも左右されず、それこそ無限(limitless)かつ広汎(universal)に利用可能な基盤たり得ることを指して有用というのだ。というわけで上記の我が感慨は、このヌーソロジーという次元を跨ぐ高次元OS基盤として、その上で実生活を営むことを通して得られたものだ。

私が「ヌーソロジーを自らの人生に応用する方向を見出し、それを現実生活に適用運用する」姿勢に重きをおくのは、ヌース奥深い根源叡智だからにほかならない。叡智は用いられなければ、ただの知識に堕してしまう。たんなる知識として格納されたままで実際に用いられなければ叡智は真に叡智たり得ないし、その「有用」性も検証されずにオシマイどころか、「無用」の烙印さえ押されかねない・・・・・・。そう考えて私はこの叡智を現実生活に応用(適用運用)してきたというと大袈裟だが、率直に言えば、「実生活にこの叡智を用いなければ、なんの顔(かんばせ)あってヌースに接しているのか?」という心の奥底からの自問的な思いに駆られたのである。そして、意識的に日常的思考のベースに位置づけるように努めてきたということだ。

「それ、具体的にはどういうこと?」と訊かれるに違いないが、その問いに対する答はこの「面白きこともなき世を面白く」という新チャプタータイトル(由来については稿を改めて述べる)の下でクドクド述べていくつもりゆえ、引き続きよろしくお付き合い願えればありがたい。

しかしその前に、とりあえず以下のことを記しておきたい。

ヌーソロジーは、上に記したとおり、次元を跨ぐ高次元OSだ。よって、その上で展開される営為すなわち実生活(日常的思考)の態様は、それを踏まえたものにならざるを得ない。だからこのOSは、たとえばなにかを「引き寄せ」たり、なんらかの「成功」や「願望」を「実現」させたり(意味不明の「自己実現」とやらも含めて)・・・・・・といった時空限定のお花畑的な目的に紐づくアプリ/応用(適用運用)には、必ずしも適さない(ハッキリ言って不適かもw)。したがって、その種の目的をお持ちのいわゆる「意識高い系」(←最近よく見かける語だが、なぜだか妙にウケるw)の方々や芳香に満ちたお花畑に住み続けたいと願う方々は、やはり時空限定的な既存の基盤上で営みを継続されるのがベターではないかと私は思う(序①でも触れた「ヌーソロジーが実生活の役に立つことはありません(笑)」という半田さんのひと言は、主としてそんな方々に向けたメッセージに相違ない)。

さて、ヌーソロジーという高次元OSをどのように現実生活に応用(適用運用)してきたかの詳細は次稿以降で述べていくが、本稿を締めるにあたって、その結論をあらかじめ記しておこう(←えええーっ?いきなり結論かよー!)。

ひと言で表現すれば、私はなんと、ほかならぬ「死」が、「死」こそが思考を含む日常的全営為の根幹となる方向において、この高次元OS応用してきたということだ。言い換えれば、日常的な「死」の意識化という目的の下にヌース適用運用してきたのだ。さらに冒頭の万華鏡の比喩に戻っていうなら、一人ひとりのヌーソロジスト(スピナーズ)のうちの一人たる私はこれを振るに際して、筐体としてのヌーソロジーが内部に擁する多数の色付きピースとしてのキモ要素のうち、オコツトのメッセージ(※)が示す「半死半生」の認識/メメントモリ認識とも呼べる要素にフォーカスしてきたということになる。なぜなら、「死」“遊び”に不可欠できわめて重要な要素でもあるのだから・・・・・・。

(※)「生きながらにして死後の世界に入る」(『人神』より ー“digital edition”版ではp.89ー)

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