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身の丈にあった、次の10年に向けて

10年前、私は都内のオフィスビルで仕事をしていた。計算したら25歳になる直前だったらしい、もう少し大人だと思っていたのだが。新卒3年目になる目前だったようで、当時はまだまだひよっこ。

確かに強く揺れたが、都内でも有名な高層ビルにオフィスがあったせいか、続く余震の中でも仕事ができるくらいではあった。別フロアにいた同期いわく、すごく揺れて仕事どころではなかったらしいので、たまたま自分のいたエリアはそこまでではなくて恵まれていたのだと思う。しっかりしたビルだったので、壁が薄くて隣の家の生活音が聞こえる自宅にいるよりは安心ではあった。

オフィスビル目の前の高層マンションでは、窓拭きをしていたらしき人がぶら下がったままなのが見えたのを覚えている。度重なる余震で、ゴンドラがぐらぐら揺れていた。

当時いた部署で貸与されていた共有PCにて、「勝手にNHKの映像を視聴者が流している中継」を見ていた(当時はまだNHKニュースのインターネット同時中継の仕組みがなく、著作権の問題があったが、この事例限りで倫理のもとに後ほどゆるされていた)。立派で頑丈なオフィスビルというあんなに「安全」な場所にいたのに、明らかに日常ではないことへの不安で情報を欲していた。中継画面に映っていた、あの茶色い濁流が忘れられない。

自分の生活圏内で最も安全なのがオフィスのビル、とはいえ夜になってこの後どうなるのか、会社に泊まることになるのかと不安に思いつつ待機していたら、電車が深夜になって動いてくれて、終電くらいの時間に奇跡的に自宅に帰れた。本当に偶然で、終点でもない自宅最寄り駅ぴったりまで電車が走ったのだ。隣駅だったら、帰れていなかった。
JRが早々に止まったことで帰れなくなっていた同期と一緒に帰宅。最寄り駅に着くと、じきにその先まで電車が走ってくれないかと期待して来た人たちでごった返していた。

翌日にかけて、twitterのオープンなリプライで、同期や後輩に連絡していたし、Facebookの友達はほぼいなかったくせに電車の運行情報とかを流していた形跡が。
電話帳などではなく、SNSでつながっておくことの重要性を感じた原体験になった。

たまたまだったが、その前日である3/10には父が広島から出張で上京していた。3/10は帰る日だったがギリギリまで知人を訪ね、最終の新幹線に走って滑り込んだと聞いていたので、あの時に帰れてよかったなと今でも思っている(土地勘のないところで災害に遭うのは、とても大変だと思うからだ)。
関係ないが、その数日前は耳にピアスを空けた日。もう10年も経つ。地震後、数日前(ピアスを空けて飲み会に参加した)がなんだか呑気だったなと感じた記憶。未だに、時々その気持ちを思い出す。

東京にいて身体的に安全であっても、当たり前が当たり前ではなくなった。当たり前なんて保証は本当はないはずなのに、無意識に当たり前であることを期待して、かつないものねだりで凹むばかりだった日常。そんな贅沢が一瞬で消えた衝撃。

あれから10年も経ってしまった。当時の記憶が鮮明すぎて、その事実に驚く。20代、「私どんどんいける!」という有能感のようなものがずっと続く気がして、夢が溢れて、まだまだいろいろなことができると思っていたのにすっかり歳をとってしまい、自分の人生のサイズがなんだか推し量れるようになってしまった。
この10年間、震災もそうだし、台風でも、コロナでも、自分は自然の中に居させていただいているにすぎず、しかもたまたま快適な生活を送れているにすぎず、地球の中のいち生命体でしかなく、なんだかちっぽけだなだと思うことも増えた。地球の上にスペースが奇跡的に空いているから、生かされているだけなのかもしれない。

さて次の10年、ちっぽけなりにどう生きようか。もはや、ちっぽけを楽しむしかないのではないか。

10年後の2031年にはもしかしたら覚えていないかもしれないこの気持ち、残しておきたくて。壮絶だったとかでもなく、ただのお気持ちだけれど。
ちっぽけでも、私は私にオーナーシップを持ち、生きていかなければいけないのだ。これからの10年も、小さいけど大事なものを抱えて、できるだけサステナブルに自分のできることで貢献しながら、できるだけ長く楽しく生きていければいいなと思う。

#あれから10年 #それぞれの10年

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