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『波の行く末』

人物を見つめ、その思想を描き、物語をつづる
やりたかったことにようやく向き合えるようになりました。まだ、自分の中の様々な恐怖とともに、書いています。もしかしたら恐怖は恐怖のまま、このままなのかもしれません。5000字ほどのごく短い小説です。読んでくれる方がいれば、うれしい限りです。

冬の寒さは足元からやってくる。足先が冷えた感覚は、冷えと言うよりも麻痺に近い。肌に染み込んできた冷気が薄い膜をつくったかのように足先の感覚が鈍る。その膜の下のジンとした痺れに気が付いた時に、毎年、冬が来たことを実感する。今年のその瞬間は、まだ革の硬いパンプスを履き、慣れない街の大きな交差点で、信号待ちをしていた時。信号の赤に歩みを止めつつ、夕焼けが眩しくって思わず足元に視線を落とすと、ストッキングに覆われているのに、凍りついたかのように青白くなった足の甲が目に入ったのだ。その瞬間に、足先に居座っていた鈍い痺れが履き慣れない革靴によるものではなく、冷えによるそれだと自覚した。

パンプスを履くようになったのは初秋、とある出版社にバイトとして通うようになってからのことだ。三年生も終盤に入り、就職のことを考えて焦った私は、一日で終わるインターンよりも、現場で長期的に働いた方が今後の糧となるのでは、と短絡的にそう思ったのだ。幸い単位はこれまでの二年半の間で取れるだけ取っていて、この三年生後期は空けようと思えば、平日でもなんとか週三日空けることが出来る。そこで私は、週三日から日勤フルタイムで募集をかけていた「編集進行業務補助」という名のアルバイトに思い切って応募した。出版業界に憧れていたこともあり、初めこそその仕事内容の「編集」の二文字に浮足立ったが、働き始めてみればその内容は、例えばコピー取りだとか発送業務、ゲラの仕分けなど、ほとんど雑用係といって良い。バイトなのだから冷静に考えれば当たり前のことなのだけれど、焦っていた私は出版社で働けるという事実だけに飛びついてしまったのだった。契約期間は短くて半年。就活を控えた学生にとっては貴重な半年を、有効に使えているのかと問われれば、些か自信がなかった。ため息が、白く曇る。
信号が青になり、私は冷えきった足でぎこちなく歩き出した。まだこの仕事を辞めることは出来ないし、とにかく今は、目の前のことをこなしながら進むしかなかった。きっとこの職場から学べることが無いわけではない、編集の現場であることは確かなのだから、と言い聞かせながら、駅までの道を歩く。

 午後九時、すこし前。自宅最寄りの駅に私が乗った電車が滑り込み、扉が開いて、車内の淀んだ空気とともに冷え切った外気のなかへ押し出される。改札に向かう人の波に乗り切れず、私は少しよろめいて、硬いヒールはそんな私を咎めるように耳障りな音を鳴らした。
――なんか私、みっともない。
情けなさに、少しの心細さが混ざり合う。人の波が、改札を抜けたその先で散り散りになるのを眺めながら、私は携帯を取り出して、あまり期待はせずに彼に電話を掛けた。
「どしたの」
「あ。出た」
「出たってなんだよ、掛けてきたのは君でしょ」
 彼は、直弘は、いつも私のことを名前では呼ばずに「君」と呼ぶ。
「ねえ、直弘はご飯食べた?」
「食べた。けど、付き合うよ」
「そういう話の早いとこ」
好き、と言いかけて、やめた。普通の大学生は多分、他意がなくとも不用意に異性の友人に「好き」などとは言わない。
「ん。あそこでいいよね? 店の前で待ってるから」
 直弘はすべてを分かっているみたいな口の利き方をして、行きつけの安い大衆居酒屋の名前をあげた。
「あんがと、急ぐね」
と電話を切る。その店は各駅停車で数駅先の、直弘の下宿先の近くにある。何度も二人で行ったことのある店だ。

 直弘とは、中学生の時に同じクラスだった。もっとも、直弘がいたのは彼が母方の実家のある地方に引っ越していくまでの一年ほどだ。どこで見かけても、必ず手元に本があるような少年だった直弘と、同じく読書が大好きだった私は、時折本を貸し借りするくらいには仲良くなったけれど、それだけだった。引っ越してから再会するまでの数年間、連絡を取り合ったことは一度も無い。
 大学に通い始めてから少し経った頃、キャンパスで直弘と私は再会した。直弘は大学入学を機に、生まれ育った東京に帰ってきて一人暮らしを始めており、その大学がたまたま私と同じだったというわけだ。同じ日本文学科に所属していることもあり、けっこうな頻度で顔を合わせるうちに、今までの空白の期間を取り戻すかのような勢いで仲良くなった。授業のこと、ゼミのこと、今読んでいる本のこと、最近観た映画、お互いの友人や、あるいは恋人のこと、よく聴く音楽のこと、将来、あるいは過去のこと、行きたいところや学びたいこと。話すことはいくらでもあった。直弘との会話は、心地が良い。言葉を使っているのだということを実感する。夕焼けがじんわり煮詰まったところから夜になって、それが安心しきった眠りへと人を誘うように、交わした会話は煮詰まった先で、安心と充足感をもたらした。

「それで君は、そのアルバイトを始めたこと、後悔してるわけ?」
「や、そういうわけではない、と思いたい。事実編集の現場にいれるのは結構面白いし。忙しなくて、デスクはいつも何かしらの紙が広がっててさ、キリキリ働くってこういうことか、と見てて思う」
 私はウーロンハイのジョッキを、飲むでもなくもてあそぶ。
「でも?」
「でも、やっぱり私自身のスキルアップには繋がらない気がして、焦ってる」
「そっか……。んー、焦りってさ」
 直弘がそこで言葉を切ったので、何の気なしに顔を上げると、思いのほかしっかり目が合った。
「焦る気持ちってさ、どこから来てるの?」
 グイっとハイボールを飲む直弘を眺めつつ、私は少し考えこむ。直弘が無言でこちらに押しやってきた皿から砂肝を選んでひとくち齧り、ウーロンハイで流し込んだ。
「不安、かな。不安だと思う、このまま社会に置いて行かれそうな、そんな心地になって、焦る」
「社会は君を置いて行くのか。どこに行くんだろうね、社会は」
 直弘はいつも、愚直なくらいに真正面から言葉を受け取る。その愚直さは、時に私をイラつかせるけれど、真意を捉えるのもその愚直さだった。残りの砂肝を、半ば無意識に咀嚼する。私が食べきったのを見計らって、串入れが差し出される。そこに串を入れながら、私はさっきの発言を訂正した。
「社会が置いて行くんじゃなくて、私が、社会の中の当たり前とか常識とか普通みたいなものを落としながら進んでるような、そんな気がする。別に社会の行く末に付いて行きたいわけでもないし」
「落としものは何ですか? 見つけにくいものですか?」
「それ、出だしは探しもの」
「そうだっけ」
「そうだよ。井上陽水ね。あーもう、嫌だなホント。社会人になんかなりたくなーい、社会に組み込まれたくなーい、ずっと学生でいたーい!」
「君は学生が向いてると思うよ、読んでいる本の中に知らない言葉を見つけた時の君、なぜか嬉しそうだから」
「そんなこと言われたって! 世間一般的に私たちは就活生なの!」
やけになってウーロンハイを飲み干す私を見て笑いながら、直弘は店員を呼び止めハイボールを二杯頼んだ。
「あっ、濃いめのほうで!」
と、私はその店員の背中に叫ぶ。

 そのまま私たちは、真夜中の閉店までその店に居座った。顔なじみの店主に、またおいで、とにこやかに送り出される。外に出ると、店内との温度差と、思いのほか回っていた酔いと、そのどちらにもちょっと怯んで、私はまた少しよろけて、直弘とぶつかって、それが何だかおかしくてけらけら笑った。
「君はなんでよりによって、ヒールのあるきれいめの靴なんか履いちゃってるわけ?」
「あー、パンプス履いてたら私も少しは、大人に見えるかなーって、思ったんだよねー」
「理由が子供だなあ」
 呆れたように笑った直弘とふたり、刺すように冷たい冬の冷気の中をくっつきあう様にして、縮こまりながら歩き出す。冷たい風が追い抜いてゆく。
「夜中はもうこんなに冷えるんだね」
「寒い、寒い」
と言い合う私たちの、冬の風とこすれ合う肌にはもう、冷気が染み込み、薄い膜が張るように感覚が麻痺していくのが分かる。でも、一人で歩くよりずっと暖かい。
向かうのはいつも通り、直弘の家だった。本が多い割に整頓されたワンルームは、居心地が良くて結構好きだ。三階の部屋の窓は駅の方を向いていて、そこから小さく踏切が見える。終電が過ぎ、開きっぱなしになった踏切はなんだかバカっぽくて、それを少し高い直弘の部屋から眺めるのも結構好きだ。
「それをぼーっと眺める君も、大概バカっぽいけどね」
 とからかわれるのも。
 私たちは時折こうやって、お酒を飲んだ後の残りの夜をふたりで持て余すけれど、決して間違いを犯したことは無かった。それぞれに恋人が居た時期はそもそもふたりだけでは会わなかったし、居なかった時期も、私たちはいつだって健全な友達のまま、ぽつぽつと会話をしたり、うとうとと居眠りをしたりしながら、窓の外の踏切がまた仕事をするようになるまでの時間を過ごす。もちろん今晩だって例外ではなかった。

 夜の裾の方がほんのかすかに淡くなった頃、直弘が唐突に口を開いた。
「もし君が落としものをしたんならさ、落としたのはたぶん、当たり前とか常識とか普通とか、そういうもんじゃないよ」
「井上陽水の続き?」
 こくん、と直弘はうなずいて、また口を開く。
「落としたものはさ、君が本当にやりたいこととか、そういうことだよ、きっと。それは君に関するもので、社会なんか関係ないよ」
 虚を突かれた私は、思わず直弘の顔をじっと見つめてしまった。
「別に社会の行く末に、付いて行きたくはないんでしょ?」
 今度は私がこくんとうなずく。
「だったら、探しものは、社会には無いってことじゃない?」
 私は少しのあいだ、その言葉を一人で反芻していた。
かんかん、とくぐもった踏切の音が窓の向こうから聞こえてくる。始発だった。
「始発の次の次の電車は、小田原行きの急行なんだ」
 直弘は、思い出したかのように呟いた。
「ねえ僕さ、いまから海まで朝日を見に行こうと思うんだけど。良いでしょ子供っぽくて。なんか急に無駄なこと、したくなったんだよね」
 君も付いて来る? と聞く直弘の顔はちょっとぎこちなくて、私は少しおかしくなって笑った。笑いながら、もちろん、と答えた。

 私たちが乗り込んだ車両には初め、私たちしかいなくて寒かった。駅を離れ、電車は次第に加速していく。流れる街並みが、夜の中からぼんやり浮かび上がってくる。
 小田原の少し手前、車窓から朝日が昇り始めるのが見えた。並んで座った直弘と私を、強い橙色の光が照らす。肌の表面がほんのり溶けるような、じんわりとした暖かさが広がる。
「もう少し、子供でいたいや」
 朝日に紛れてぽろっと零れたそれは、本音だった。
「社会に出る前にもう少しだけ、自由に本を読んで勉強をして、知らなかった言葉を知って、世界を言葉でなぞるみたいに、文章を書くことを学んで……」
 そこで言い淀んだ私を、直弘は急かすことなく、横でじっと待っている。
「そして、出来ることなら、文章を書くことを仕事に出来たら良いな、と思う」
「君は、どんなことを書きたいの?」
「明確には言えない。だから……、それを探しに、大学院に行きたい」
 と言った時、電車は終点に着いた。
 改札を出て、駅へ向かう人の波と反対のほうへ向かって歩き出す。吹く風は冷たいが、心細くさせるような凶暴さはなかった。その風に徐々に潮の香りが混ざってくる。

 海岸線、砂浜に面した堤防に腰掛け、昇りきった朝日をふたりで眺める。波は、寄せては返すたびに暖かな朝日を反射してきらきらと光る、そこからは澄みきった透明な音がしそうだった。ふと横を見ると、その光を写し込んだ直弘の目が息をのむほど綺麗で、それをこの世界のどんな言葉で例えようかと考えていたら、私の視線に気付いた彼と目が合う。その時初めて私たちは友人であることをやめ、ごく自然にキスをした。お互いがお互いにそっと近付いた瞬間、私のつま先に引っかかっていたパンプスが砂に落ちる。時がふっと、止まる。
唇が離れた時、ふたりの間をひゅっと冷やかすような風が吹いた。私はその風に励まされて、靴を履かないまま砂の上にとび降り、直弘を見上げる。
「直弘の探しものは、なに?」
「僕は、それが分からないから、分かるまで、美波と一緒にいてもいいかな」
「二人でならなんとかなるよ、きっとその先も」
笑う私の足元で、転がったパンプスが砂にまみれている。裸足のまま、私たちはどこまでも行ける。

探しものはなんですか?
まだまだ探す気ですか?
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?


※引用
『夢の中へ』 作詞・作曲/井上陽水

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