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信ずるべくして光る

まず、この文章は思わぬ所に着地すると思います。思っているよりも面白くなるかもしれないし、面白くないかもしれません。ただ、私らしくない一日を記録しておきたかったがためのエッセイです。
なお、ライトではありますが性的な描写があります。苦手な方はご自衛下さい。
7月4日 月嶋真昼

その日、近頃では珍しく調子があまり良くなかったのかもしれない。起き抜けのふわふわとした頭で、寝ぼけてるのかなぁ、なんて思いながら大学へ向かう。二限を受けてもお昼を食べても、ゼミが始まっても何となくふわふわふわふわふわ、現実味のない感覚が私の輪郭線をぼわぼわと乱していた。

あの時少しおかしかったな、調子が悪かったな、と思うのはいつだって、その波が過ぎ去ってからである。現実感の無い水っぽい時間の中をその日、私は流されるがままに漂っていた。

ところで我がゼミは、こればかりは自信を持って言えるが、とても珍妙で変なゼミである。まず、意欲のある学生ばかりが来る。とだけ書けば良いゼミのような気がするが、この意欲は自己表現、ひいては自己主張の塊みたいなそういう意味合いのものであり、特段研究熱心な者や学問的な知識欲のある者ばかりが来る訳ではない。ただ自分の中に蟠るもの、感情を表現したい者、つまるところ小説を書きたい者が、まんまるの――これはビジュアルの話をしている――小説家の先生のもとにわらわらと集まってきたゼミである。
ただ自分の中に蟠るもの、感情を表現したい
そう強く思う者は皆、心のどこかに変に暗いところがある。不思議なエネルギーの根源は仄暗いし、他人からはよく見えない。
そういう者が集まるゼミにいる。私も、あの子も、あの先輩も、教授も、なぜかうちのゼミの飲み会にしれっと紛れ込んでいるあの先生も皆、変。

その日は理由もなく、例によって先生が飲みたいから、先生のお供みたいな博士の先輩とか、よく目をかけてもらっている院生とか研究生とか私みたいな学部生の何人かで飲んでいて、その中になぜかゼミにだけは休まず必ず出席していたらしい所謂「チャラい」先輩が混ざっていた。
「チャラい」先輩、とはゼミで顔を合わせたことはない、つまりいくつか留年しているのだが、ゼミだけは必ず出席していたとかで、なぜかこのゼミに懐いていてよく飲み会にふらりと現れる。細身の体躯に黒ずくめのゆるりとした服装、財布とiPhoneしか入らないようなカバンや着ているシャツがブランド物だったりして、髪はマッシュショートをオレンジ系に染めている。先輩――この際性別はどっちでもいい、バイセクシャルだからだ――は、とにかく性に奔放な人だった。性とか恋とかそういうものに疎んじたままここまで来た私にだって、目に見えて分かる。まず、ぺたぺたとまとわり付いてくる。私の腕をグッとつかんで引き寄せたかと思えばするりとひと撫で、「細いなあ。つるつるだ、処理してるの偉いね」と言い、じっと見つめた後に「ねえ、いーってして。あ、やっぱり歯並び綺麗だ、横顔綺麗だったもん」。極めつけに耳元で「LINE、交換しよ? ねえ」と幾度も囁く。私だって、愛嬌は損なわずに何かを断る術を持っていたが、私がごねても意に介さず、動じず、拗ねない。けれども先輩はさらさらとした変なしつこさを持ってして、私から連絡先を奪い取っていったのだ。ただのやり手である。すると帰った頃に、「チャラ男bot」みたいなLINEがくる。これはこれで人間観察の対象としては面白いかもしれないが、いかんせんめんどくさい。ただ、既読無視するとLINEが立て続けにくる、みたいなことはなくて、そのあたりがやっぱり「チャラい」のだ。
その「チャラい」先輩がその日もいて、その日の私は話の流れにただ流されていて、先生に「性愛が書けないのは私の一つのコンプレックスであり、小説を書く者として弱みである」みたいな、まさしく、な相談をする羽目になっていて、そして私は先生と飲む時はたいてい、どうしても生まれてしまう会話の空白すら居た堪れなくて飲みすぎてしまう。まさしく、である。
へろへろと酔っ払った私は、その先輩の家に見事持ち帰られていた。
水を買ってから電車に乗ります、と先生や他の学生と別れコンビニに入った時、気付いたら後ろに先輩がいて、私が水を手にセルフレジに着いたところで、先輩は覆いかぶさるようにして後ろからお酒の缶を二本勝手にスキャンし、勝手に精算を終えていた。
その瞬間に私は既に、「もうどうとでもなれ」と思っていた。先輩がどんな人なのか、噂はとうに聞いていた。ヤケだった。翌日早くに予定はないし、死ぬわけじゃないし、今後しばらく恋人を作る気もないし、そういうことが知れて小説の糧になるならまあいいか、できれば終電は逃したくないな、位の気持ち。小説の糧になるなら、と思うあたりが私もいかんせんこのゼミに所属しているだけあるなと思う。
「あれ先輩、どうしたんですか」
「飲み直すでしょ、いいよね?」
「仕方ないですね、いいですよ」
コンビニを出たときにはもう、腕をがっちりホールドされている。
「へえ、先輩は誰でもいいんですか」
「そういうわけじゃないよ、お気に入りなの、君が」
「ふ~ん、信用しませんよ」
先輩の家は、これまた期待を裏切らないような、まさしく、な1kだった。こざっぱりとリフォームされた学生アパート、玄関には靴がいくつか放置され、5,6本のビニール傘が立てかけられていた。靴箱の上にはお酒の缶やら、ペットボトルやらが立ち並び、まるで副都心のようだと思った。小さなキッチンや水回りのあるところを抜けた扉の向こう、1kの「1」の部分には、端っこに簡易なパイプベッドとコート掛け、反対の端っこにデスクとノートパソコン――このデスクにもBOSSのコーヒーの缶が立ち並んでいた、これは立川くらいの規模感――があるだけ。
買ってきたお酒の缶をぷしゅりと開けて、乾杯して、一口二口。気付いたら目の前に先輩の端正な顔があった。先輩は「ねえ、おいでよ」と小さく呟いて、その言葉に反して先輩のほうが私ににじり寄りながら、私がそれを私に対する申し入れであると認識する前に、唇を重ねてきた。私は既に壁際に押しやられている。
思った以上に早いな、としか思わなかった。その日、私は私を大切に思えない日だった。そういえばお昼だってカロリーメイトだった。
手のひらが私の顔を包み込む。光の宿らぬよそよそしい目が、私の顔を見て「かわいい」と言った。本当に誰にでも言っているんだろうな、と思う。そのまま何度かキスをされて、動悸は単に慣れない状況とお酒の回りによるもので別に心が動くこともなく、むしろ唇が重なるたび、どうしてこの人は大して知らない人の体すら求めることが出来るのだろう、という疑問とともに私の心は冴え冴えとしていった。
服に手がかかる。ほら、と急かされて私はパイプベッドの上に座らせられる。私はその日小さめのボタンの付いたシャツを着ていて、それを外すのがめんどくさそうなことだけは分かった。反してゴムタイプのテロンとしたズボンはあっという間に脱がされて、押し倒される。
「誰にでもこういう事、しちゃうんですか」
「だから〇〇さんが好きだからだよ」
「私の下の名前も知らないくせに」
「知ってるよ、えーと、もえかな。いや違う、これは●●さんだ、〇〇さんは△△」
一回間違えるあたり、やっぱりやり手という感じがして、なるほどこういうところを可愛いとか思ってしまう人も居るんだろか、なんて思った。
「先輩は今、何を考えているんですか?」
「ん?」
気付いたら先輩は服を脱ぎ捨てていて、全裸だった。
「先輩は何を思って色んな人とこういうこと、するんですか?」
「〇〇さんだけだって」
「建前はいいですって、だって身体売ってるでしょ」
「バイの人は皆こんなもんだよ」
よくわからない返しをそのまま飲み込んでみて、それに納得がいかないままで、先輩みたいな人間が何を考えているのか分かるはずもなかった。こんな意味のないやり取りを幾度か繰り返しているうちに、私はすべてがどうでも良くなってきていた。なんとなく
「私、鬱病なんですよねー」と呟いてみて
「なんだ、僕と一緒じゃん」と言われる。
「薬のんでんの?」
「ええ」
「お酒飲んじゃダメなんじゃないの、僕は薬使わなかったから知らないけど」
「ほっといて下さい」
先輩の細っこい手が私の首を掴む。性器が私のそれに、布の上からあてがわれている。あとは、脱がせるだけ、と目が言っていた。
最後の理性が貞操観念を私の眼前に引っ張り出してきて、私は「挿れられるのはイヤだ」と言った。でも無意識的な何かの欲求が「首を絞めて」と後を追うように続けて、首を絞められている間だけ、その事実と程よい圧力に安心を得て、その日初めて見る天井を無表情で眺めながら相手が満足するまで手だけを動かしていた。
「そろそろ終電なんじゃない」の一言を合図に、服を着た私は、アパートの外にぽんと出される。別に平気だった。今日私の輪郭線をぼわぼわと乱していた、そのふわふわとした感覚が「死にてえ」の一言に集約されたに過ぎなかった。かつ、そういえばその日の昼間は雨が降っていて、雨の残り香がぷんと鼻をついた時に少し、少しだけ惨めさを演出したくらいだ。

と、強がっていた。
先輩のアパートから駅までの道は、街頭も少なく街路樹だか林だかが生い茂り、とかく暗かった。てらりと湿った道を踏みしめるたび、じわっとにじみ出るみたいに眼球が濡れてくる。つい先ほど、雨の残り香を感じ取った鼻があっという間にツーンとしてきて、それがまた、涙を誘ったりした。自分が馬鹿みたいで情けなかった。ただただ、馬鹿だと思った。意味のないことをした。先輩のよそよそしい暗い目が私を見た時、そこに私はいなかった、ただ女としての私の抜け殻があるだけだった。それでも体温があって、私は生きていて、生物としてはそれで正しいのだから、尚更「私」が否定されているような気持ちになった。
これを自業自得と言わずしてなんと言おう。

この時、私は頗る卑しかった。卑しくて、それを分かっていながら、誰かに「私」の輪郭をなぞって書き直してもらいたくて、iPhoneを取り出す。ふわっと画面が暗い夜道の中で光る。私は光る画面をトントンとタップして、目的の人物の連絡先にたどり着くと電話をかけた。その相手が私に好意を寄せてくれているだろうことを理解していて尚、電話をかけた。そう、だから自分は本当に卑しかった。
後日、あの時電話をかけた私はとても卑しかったよ、ごめんねと彼に伝えたら、「いや、私だってあなたに好いてもらえるチャンスだと思ったよ。お互い様でしょ」と笑ってくれた彼のことを、本当にありがたく思っている。
そしてその日私が深夜に突然かけた電話に、嫌な声音を一切漏らすことなく、長い時間、終電を逃した私が帰り着くまで付き合ってくれた彼は、私が歩きながら稚拙に話した事の顛末を聞いた末にこう言った。
「それは△△さんも軽率だったね、もっと自分を大事にするべきだったよね、でもあなたそれを今ちゃんと反省出来ているでしょう。もうこういうこと、やらないでいてくれる? 約束してくれる? だったらそれで良いんじゃないかな」
「どっちが悪いとかは私が言うことじゃないけれど、いや、一般的には相手が悪いんだろうと思っているけど、それはともかく怖い思いをしたでしょう、気持ち悪かったよね、嫌だったよね。それをあなたの中で消化するのに誰か話し相手が必要だったら、また私を使って?」
私は、あり得ないと思った。突然電話をかけてきた相手に対して、こんなに誠実でひたむきな優しさを言葉にしてくれる人がいたんだ、と。かけてくれた言葉が、言葉を縁取るその声が、その音節ひとつひとつが、暗い夜道に灯る唯一の光だと思った。
それから彼は、話を自然とその日の一件から離して、私をけらけらと笑わせてくれた。それからまた、きちんと彼と約束をした。彼の前ではもう、自分をぞんざいに扱うようなことはしたくない、そう思った。

私は自分が鬱病であることを踏まえてみても、他人と親密になることを恐れていた。それでいて私は、きっと彼になら自分の全てを話すことが出来るし、たとえ彼の理解を得られなくとも彼は否定せずにまず受け止めてくれるだろう、と思った。そしてそういう人は信頼における誠実な人だ、この人となら、と思った。信じることが出来た。それは確信だった。
私も、彼のことを理解するためならひたむきに言葉を尽くしたい。どんな関係性に落ち着いたとしても、私はこの人を大切にせねばならないと強く感じていた。

その約二週間後、私と彼はお付き合いを始めることとなる。
最低な一件がきっかけになってしまった、それ故に私たちは最初からお互いに程よく寄りかかり合っている、気がする。まず初めにあの日、私がこの身を預け、弱音を吐くことを許してくれた彼にずっと感謝をしている。
当たり前だけれど私たちはお互いに抱える過去があって、その過去を少しずつ理解していくために、言葉を尽くし合い、対話をし、一人で居るより二人で居る方が心地よい関係にいる。その上に未来を築いていけるだろうとも、勝手ながら思っている。この身勝手な予感が当たれば良い。

信じるべくして私は、あなたの声を信じた。信じたことに今後一切悔いることは無い。
たったひとつの光へ、愛をこめて。


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