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『待合の丘にて虹を聞く』


プロローグ

 特別ピアノ曲が好きなわけでも、ピアノを弾くことに憧れがあったわけでもなかったと思う。ただある日を境に、それまでは多目的室の中の景色でしかなかったピアノが、幾度となく目に留まるようになったのだった。そこには似た者同士にしか分からない引力が働いていた。幼かった私の目にはそれが、誰かが弾いてくれるのをじっと一人で待っているかのように見えたのだ。
   私が初めてピアノの前に座り、人差し指でそっと鍵盤に触れた時、ピアノは定められた音をひとつ、私に向かって真っ直ぐに返してくれた。ひたむきな音だった。その瞬間に私の心は、ピアノを弾くという行為にたまらなく惹かれていった。私の指先を介し、ピアノは私の思うままに鳴る。集中すればするほど、あたりの雑音――子供が走り回って遊ぶ声、幼児のぐずって泣く声、窓の向こうを風や車やそれ以外が通り過ぎる音、どこかの扉が開いて閉まるときの軋み、大人の話し声――の一切がすうっと遠のいていき、ピアノの音と私の小さな息遣いだけがそこに残る。私とピアノだけの空間で、拙い演奏が反響する。ピアノの音は私の内側でだけ、熱く力を持っていた。
 かつてはどこまでも黒くつややかであったろうそのピアノは、今や無数の細かい傷が付いてぼんやりとくすみ、ちょっと独特の古ぼけた匂いがした。それでも、いつだって変わらずそこにあっていつだって変わらず同じ音を返してくれるピアノが、私は好きだった。ここで育ったことを良かったと思うことはなくても、ピアノがあるところで暮らせるのは良かったな、と思うことはあった。
 きちんとしたお教室に通って誰かに習ったことはない。学校の音楽の先生がピアニカを教えてくれた時、「手は卵を持つ時みたいに優しくまあるくして、爪は立てずに指の腹で弾くんですよ」と言っていたのを、それだけを頼りになんとなく弾いていた。楽譜は音楽室に放ったらかしになっていた校歌とか、「蛍の光」とか、「荒城の月」とか、音楽の教科書に載っていた音符の数が少なそうな、簡単そうなものから。楽譜の読み方は、これも学校の音楽の授業で教わった。クラスはもう楽譜がすらすら読める子か、音楽に全く興味のない子に二分され、そのどちらでもない私だけがその授業を真面目に聞いていた。
 そういえば、ずっとそんな感じだった。浮いていたとか孤立していたとかいじめられていたとか嫌われていたとか、そんなんじゃない。ただ、周りの同級生と私はどこかが明らかに違っていて、私以外の者にとってその違いは、私が私であること以上に私を私たらしめる重要な要素であり、かつそれに気付いた者が皆、いやに私に優しく気を遣ってくれる。それだけのことだった。私はいつも、不思議な心地がしていた。それがすごく嫌だとか、孤独だとか、つらいだとか、そんな単純な気持ちじゃないことはずっと前から分かっている。例えるなら、温かく甘い紅茶の中でひとり、溶けきれないでいる砂糖の粒のような気持ちだった。
 しかし、そういう気持ちを共有出来る人がいなかったから、そういう点では私はやっぱり寂しい子どもだったのだと思う。寂しさをどうにも出来なくなった時、目を逸らすようにピアノを弾いた。押せば鳴る、練習すればそれだけ滑らかに音が連なってゆく、そのシンプルな交流が私を慰めた。

 一

   私のいちばん好きな仕事は、朝一番に「ラジオ体操第一」を弾くことだった。

 丘をぐるりと巡る坂道を上りきったところで、そのまま真っ直ぐ行けば別の町に続くその道から、右に逸れる。大きなシラカシの木の下に、さらに登る小径があることに気付く人はそうそういない。常緑樹と落葉樹が鬱蒼と並ぶ間、辛うじて舗装はされている細い坂道を進む。足元にドングリが転がる小さな林を抜けると、空が急にふわっと開けて三角屋根の古い洋風建築が目に入る。
   建物は全体が白く塗られているが、窓枠や軒、二階に小さくせり出したバルコニーはペールブルーで縁どられていて、まるでその建物だけがこの世界から切り取られたかのような佇まいだった。屋根は曇り空が染み込んだような暗いブルーグレー。
昔は「ホテルコリーヌ」という瀟洒なホテルであったここは、建物はそのままに今は小さな老人ホームとしてひっそりとそこにある。
   その日も私は少し早めの五時半に出勤した。
   入居者の老人たちは決まってもう起きていて、私たちのことを待っている気配があたりに漂っている。それでも、早朝のまっさらで皺の無い空気を無神経な足音で乱す気にはならず、私はそろそろと廊下を歩く。
高校生の頃は苦手だった朝が、ここで働き始めてからはあまり苦痛ではない。
   私は靴を履き替え、二階のプレイ・ルームに向かう。私たちはその部屋を職員用の控室として使っているが、誰ひとりとして部屋の中央に並ぶ卓球台やビリヤード台に荷物を置く者はいなかった。どちらも木製の、どっしりと重そうな立派な面構えのテーブルで、それぞれ二つずつあった。卓球台はセンターやサイドの白線が剥げかけ、ビリヤード台は表面を覆う柔らかい布がところどころ擦り切れたり毛羽立ったりしていたが、それでもその四台が立派であることに何ら変わりはなかった。そして今も、誰かがプレーしにこの部屋を訪れる、その軽快な足音が聞こえてくるのを、耳を澄ませてじっと静かに待っている。
   しかしコリーヌには、もう卓球をする者もビリヤードをする者も居なかった。
   私はプレイ・ルームの隅の、かつてはドリンクサーバーが並んでいただろうバーカウンターの中に荷物を置くと、コートの下に着ていた仕事着に「岸明里」とフルネームが書かれた名札を付けた。
それから控室をそっと出て、早朝の薄暗くて冷え切った廊下の雨戸を開けて回る。開ける度、薄曇りの空から届いた控えめな光が、足元に溶け残っていた秋の長い夜を溶かしてゆく。その白っぽく光る朝が廊下に満ちた頃には早番の他の職員たちも出揃って、私たちは各々が担当している老人たちの部屋へ彼らを迎えに行った。着替えや洗面が一人で出来ない者も多い。職員の助けを借りながら、それぞれが朝の支度を済ませる。
   七時。車いすや歩行器で、あるいは杖をついて、職員に連れられて食堂に集まってきた老人たちは、四人掛けのダイニングテーブルの決められた場所に座る。テーブルは全部で四台。
テーブルごとの担当職員が四人分の体温、血圧を測っては記録し、薬の管理をしている職員がピルケースを配って歩く。水差しを持った私は、その後ろを付き従うようにして、ピルケースを渡された老人たちの前のグラスに水を注いでゆく。その間、あたりには血圧計がブーンと膨らむ音と、体温計のさえずりと、職員の足が床を擦る音だけが響いている。皆が決まりきった動きをする。
   それが済めばいよいよ、私はピアノの前に座る。少し冷えていた手を温めるように揉んでから、鍵盤に手を添える。少し離れたところに立つ施設長と目が合うと、彼は今日もゆっくりと頷く。それが毎日の演奏開始の合図だった。私はフッと息を吸って最初の一音に触れる。
   弾くのは「ラジオ体操第一」と決まっている。それ以外の曲を望む者はいなかったし、古ぼけてくすんだアップライトピアノが奏でるに最もふさわしい曲がこれだった。
   老人たちの中に、立ち上がって体操が出来る者などはもうひとりもいない。辛うじて小さく腕を振ってみたり、つまさきでそっと床を撫でてみたり、じっと目を閉じてみたりして、伴奏だけの「ラジオ体操第一」に聞き入るのが彼らのやり方だった。私はこれまでに、自分の弾くピアノにこんなにも耳を傾けてくれる人々に出会ったことはない。私のピアノを今日も聞いてくれる人がいる、それだけで私は光に照らされているような思いがする。かつて一人で弾くだけだったピアノが今、聞く人にとって意味のあるものになるだなんて、過去の私はきっと思いもしなかっただろう。
   しかし、老人たちが聴いているのは「私の演奏」そのものではないことも十分承知している。
   老人たちが聴いているのは記憶だった。彼らは私の演奏のさらに奥で響く、遠い昔の日々に聞いたあの「ラジオ体操第一」を、若かった身体から湧き出たあの掛け声を、聴いていた。普段老人たちの耳がどんなに職員の声を捉えることが出来なくとも、それを聞き逃すことは決してない。老人たちは皆、古いピアノが奏でる「ラジオ体操第一」を聞けば一瞬にして、自分たちに若く瑞々しかった日々があったことを思い出すことができるのだった。
――腕を前から上にあげて 大きく背伸びの運動
――一、二、三、四
   老人たちは整列して体操に励んだかつての自分の、力に溢れたその輪郭をなぞる。古い記憶の中にあるその生命力を頼りに、彼らは目の前にある一日を生き延びる。

   こうして「ラジオ体操第一」から始まるコリーヌでの一日は、乱れの一切無い正しいものであった。
   「ラジオ体操第一」の後は皆で朝食を摂る。栄養士が立てたであろうメニューは、豪華ではないが、そして人によっては細かく柔らかく薄味でまるで離乳食のようだったが、健康的でさえあれば文句を言う者は誰もいなかった。
   体力の要ることを午前中に済ませてしまうのは世の老人たちの決まり事であって、それはコリーヌに住む者も例外ではない。朝食の後の予定は、月曜日と水曜日と木曜日がリハビリテーション、火曜日と金曜日は入浴と決まっていた。
   リハビリテーションの日は、理学療法士たちが四人、九時までにコリーヌを訪れる。皆等しくしなやかな筋肉で覆われた体格の良い身体に、糊がきいて真っ白なお揃いのスクラブを纏い、静かにリハビリテーションルーム(そこはかつてティー・ルームだったところだ)で老人たちが来るのを待っているのだ。
   コリーヌでは基本、食堂で同じテーブルに座る者同士を中心にして生活が回っていく。老人たちには一番から四番までの通し番号が振られていて、各テーブルの一番の者からリハビリテーションルームを訪れる、という訳だ。理学療法士たちもどのテーブルの老人たちを担当するのかが決まっていて、毎時間必ず同じペアでリハビリがスタートする。
   私は、彼らの名前を一切知らなかったが、彼らがとても良い仕事をするのを知っていた。老人たちを迎えに行けば、皆満足げな表情をして部屋から出てきたし、扉までを支えていた理学療法士と代わって皺だらけの乾いた手を取れば、その手はいつもより温かだった。
   リハビリ中の部屋の前を通り過ぎると、理学療法士たちが静かに数を数えながら、老人たちの固くなった関節や細くなった筋肉を柔らかにほぐしている様子を見ることが出来た。理学療法士たちは無駄なことを言わない。世間話もしなかったし、ゆっくりと衰えていく老人たちの身体について、言葉にして本人に説明することもなかった。老人たちがそんなことを望んでいないということを十分承知していて、彼らの肉体の苦痛を和らげることだけに全神経を集中させ、動きに合わせて「一、二、三、四、」とただゆっくりと数を数えるのだった。
   誠実な彼らと老人たちとの間で築かれた信頼関係は、老人たちに確かな安寧をもたらした。反面その緊密な関係性は、何か一つの目的に向かって秘密裏に粛々と物事を進めているような、静かな緊張感を孕んでいた。
   入浴の日は外部の業者から、入浴介助を専門に請け負う介護福祉士が同じように四人、やって来る。彼らは理学療法士たちとは異なる撥水加工の施されたユニフォームを着て、その上からエプロンを付けている。ポケットには水温を正確に測る温度計と、湯の中で働き続け皮脂の落ちきった手を守るためのクリームが入っていた。手荒れを防ぐのは自分たちの為ではなく、彼らが触れる弱った老人たちの皮膚を傷つけない為であった。
   彼らは理学療法士たちと同じく、紛うことなきプロだった。もちろんコリーヌにだって介護福祉士はいるが、入浴に際しては彼らに任せるのが一番であると誰もが認めていた。それを生業とする者たちの入浴介助は手順がすっきりと整っている。浴場に老人を迎え入れてから、次にやってくる老人が滑って怪我をしないよう浴場を拭きあげるまで、彼らの動きは洗練され無駄のそぎ落とされた美しさを湛え、付け入る隙は無い。その働きは全て浴場の中で完結し、浴場をもろとも完璧な空間に仕立て上げてしまう。傍らでそれを見守りサポートするコリーヌの職員をも内側から清潔にしていくような、浄化していくような、そんな力がある。
   彼らの手が老人たちのかさついた皮膚を柔らかく洗い清めれば、老人たちの内側のどこか奥深くにこびりついていた汚れもが浮き、湯に溶け出し流れていく。私は傍らで入浴のサポートをしながら、シャンプーの匂いが鼻腔を通り抜ける度にその瞬間を思い描いては、彼らの働きぶりに惚れ惚れとした。湯上りの老人たちは、顔に深く刻まれた皺から厳しさが消えて、さらさらと温かな表情をしていた。
   リハビリテーションも入浴も、必ず午前中の間に終わるようにスケジューリングされている。私が働き始めてから、それが破られることはほとんど無かった。
十二時半、昼食の時間。老人たちはまた同じように食堂に集まってきて、同じ席に座る。老人たちの間に、不思議と会話が少ないのは昼食時も変わらない。彼らは出された食事をゆっくりと咀嚼し、茶を啜り、時折口を拭ったり、拭われたりした。
   薬も飲み終えた老人たちは、十三時半には食堂を出る。平日の午後は基本的に自由時間となっている。とはいえ、老人たちの中にはやはり決まりきった行動様式があって、各々がそれを守って動いているようだった。自分の部屋で読書や編み物、大河ドラマ鑑賞や数独に勤しむ者、あるいは談話室でチェスや将棋や碁を打ったり、その一画の新聞コーナーで虫眼鏡片手に新聞を読んだりする。衰弱が進み寝付いている老人たちにも、テレビやラジオの決まったチャンネルを聞き続ける者や、決まって三十分に一度枕元のナースコール(ここにナースはいないが)を押して体位を変えさせる者などがいる。皆、決まった過ごし方があるのだ。職員はそれを完璧に把握していて、時計を見れば誰がどこにいて何をしているのかが分かっていた。
   昼食が終わって片付けも落ち着いた頃、建物の外をバイクのブーンという音がする。カタン! とそれが停められる音がすると、程なくして私とそう歳が離れていなさそうな若い郵便局員が玄関チャイムを鳴らす。局員は非常に感じの良い青年で、にこっと笑うとその横で鈴の音が鳴りそうな愛嬌がある。歳が近いからだろうか、いつからか郵便物を受け取るのは、私の役目になっていた。
   彼から荷物や手紙を受け取って礼を言うと、彼は帽子を取ってそれに応える。そして、じゃ、と短い挨拶をしてバイクにまたがる。軽快な彼の仕草は、見慣れた老人たちのそれとは違って大きく力強く、私はその鮮やかさに少し目がくらみそうに思う。彼のバイクは玄関前の開けた広場を抜け小径に入ると、スピードを緩めて少しバウンドしながら器用に下り、町へ消えていく。あの小径をバイクにまたがったまま行き来できるのは、少なくとも私の知る限りでは彼だけだった。その後ろ姿を見送れば、私の一日の仕事はもうほとんど終わりに近い。郵便物を抱えてそのまま職員控室であるプレイ・ルームに向かう。届けられる荷物は、腕がちぎれそうに重いときもあれば封筒に入った手紙だけの日もあった。コリーヌ宛てのものもあるが、やはり老人たち宛てのものも少なくない。いずれにしても仕分けのために一度プレイ・ルームに持っていくのだ。
  そうして私がプレイ・ルームの扉を開ければ大体十四時で、私の到着が確認されたときがたいてい、早番から遅番の職員への仕事の引継ぎが始まる時間になる。引継ぎの内容は、入居者の健康状態、今日の様子、普段のスケジュールから変更された点、外部スタッフからの伝言など、様々だ。
   そのあと、先ほど配達されてきた郵便物の仕分けをしてから、私は十四時半に退勤する。平日の早番が私に振られているシフトだ。
   コリーヌで働く者たちは、入居希望者やその家族とのやり取りを一手に担う施設長を筆頭に、主だった職員として介護福祉士が六人、資格は持たない補助員が十人、夜間勤務専門の者が五人。その他、洗濯なども請け負う日勤の清掃員が二人、非常勤の医師が一人。食事は近隣の介護食センターから届けられるので、栄養士や調理師はいない。
   職員は誰もが自分の仕事に対して責任と誇りを持って働いているが、仕事自体に情熱だとか強い意志があるわけでも、職員同士で鼓舞し合うような関係性があるわけでもなかった。老人たちと同じように、コリーヌでの一日一日を無事に繰り返してゆくことがこの世界で生きるための唯一の方法なのだ、と信じ切っているかのような、老人たちとの結託した思いから沸き起こるたったひとつの使命感を共有している、ただそれだけであった。
   コリーヌは朝と夜の回転の中に、ただひっそりと佇んでいる。私たちは古い記憶を糧に生きる人々と共に、繰り返しの日々を積み重ねていく器官だった。

   私は高校を卒業してすぐ、ここで補助員として働き始めた。若くても二十代後半の職員たちの中で、唯一の十代、まだ一年目である。通っていたのが単位制の総合高校であったため福祉系の授業を取ったこともあったが、それは単なる気まぐれで、資格を取ろうだとか介護職に就こうだとか、そんなことを考えたことは一度も無かった。
   同級生がやれ受験だ就活だと忙しそうに立ち回り始めた頃、私は自分の進路に対して何も考えられないまま、ぼんやりと惰性の高校生活を過ごしていた。就職せねばならないことだけは決まっていて、私はそれを頭ではきちんと理解していて、形だけでも校内の掲示板に貼り出されている求人情報を眺めるが、それはまさしく言葉の通り、眺めているだけに過ぎないのだった。私は掲示板を埋め尽くす文字から、それがどこか遠くの知らない国のものであるかのようなよそよそしさを感じていた。書かれていることが自分の身に関わりのあることだとは、まるで思えなかったのだ。未来に向かってあわただしく荷造りを始める同級生たちの中で、私は一人ぽつねんと空っぽの鞄を抱きしめて途方に暮れている。未来へ持っていけるような――夢や目標、意欲、あるいはお金とか財産と呼べる――ものが私には無いということが、世間という明るみについに出てしまった、そんな感じがした。
   それはおそらく無気力とか、諦念とか、そういった言葉で言い表せる感覚だと思うけれど、ではそれが湧いてくるのは一体どこからなのだろうか。自分の普通じゃない出自からなのか、それとも自分の性格にその源流があるのか。私の靄のかかったような頭では、その流れを遡っていくことが出来なかった。
   停滞していた私がようやっと動き出したのは、秋も深まり肌寒くなってきた日のことだ。いつものように掲示板を眺めていると、養老院コリーヌ、と書かれた求人が目に入ってきた。養老院とはまた古い言い回しだな、などと思いながら何の気なしに読み進めたその下の文言に、私は強く心を惹かれたのである。
『繰り返される穏やかな日々に、静かに寄り添う仕事です。』
   これだ、と思った。将来の夢も目標もやりたいことも無ければ、世間に通ずる肩書も大金もいらない。鞄は空っぽのままでいい。ただ私が願うのは、ひたすらな安寧の中にある静かな日々だった。コリーヌの求人に書かれていたその文言は、私にそれが叶うと言ってくれているように思えてならなかった。
   街路樹の葉も枯れ落ちた冬。コリーヌの採用面接を受けた日は、白く分厚い雲が低く垂れ込めたひどく寒い日だった。
   面接日は平日で、終われば高校に戻って授業を受けなければならなかったので、私は履歴書や卒業見込証明書などの他にお弁当や水筒、教科書やノートも持ってそこへ向かった。いつもは重たく肩に食い込むリュックサックが、その日は全く気にならなかったことを覚えている。私は暗い曇天の下であっても、駅からの冬枯れの並木道を颯爽と軽やかな気持ちで歩いてゆけた。この面接で落とされる訳がないと思っていたし、コリーヌは私を、私はコリーヌを求めていると思った。それは自信というよりも、確信だった。
   募集要項に、面接会場は「養老院コリーヌ二階プレイ・ルーム横バー(現事務室)」と記されていた。私はそこで初めて施設概要を詳しく読み直し、コリーヌが元はホテルだったことを知った。要項にはコリーヌ周辺の地図が添えられていたが、上から「分かりにくいので面接当日はここまでお迎えに行きます。採用担当田辺」と几帳面そうな右上がりの文字で書かれた付箋紙が貼られてあった。そこには駅から銀杏並木を北西方向に歩いた先の、小さな児童公園が示されていた。
   公園に着くと、誰に声を掛ければ良いかはすぐに分かったし、ほぼ同時に相手もこちらに気が付いたようだった。
   太陽も上がりきらない午前中の公園で、制服姿の女子高生と初老の男性がかしこまって頭を下げ合う。辺りの景色からこの二人はものすごく浮いているだろうな、と思った。
「初めまして、施設長で一応採用担当の、田辺と言います。今日はよろしくお願いします」
「初めまして、県立宮下総合高校の岸明里と申します。わざわざこちらまで迎えに来ていただき、ありがとうございます」
 施設長はこざっぱりとした白髪まじりの短髪に黒縁眼鏡、細身のズボンに仕立ての良いジャケットを着ている。その上にさらに施設のものだろうか、ウインドブレーカーを着ていた。年相応にお腹が出ているが、嫌な感じのする太り方ではない。何よりも、その声音がとても柔らかであるのが私を安心させた。
「では、行きましょうか」
 施設長について公園からもと来た道に出て、駅を背に左折して住宅街に入る。真っ直ぐ行ってしばらくすると、道は道なりに緩く曲線を描いて坂道になる。その坂を上りきった右手には、こんもりとした小さな森が茂っていた。この先にコリーヌが建っているという。
「神社の鎮守の森みたいでしょう」
 と、施設長は言った。
確かに、何かから守られているような、あるいは隔たれているような、そんな雰囲気がする森だった。この先に養老院があるとは露程も思えない。
「迎えにきていただけて良かったです」
 と返すと、施設長は小さく笑った。
 林の中も傾斜は続いていて、私はそこでやっとこれまで登って来たのが椀を伏せたような丘であることに気が付いた。その丘をぐるりと巡るようにして続く道をさらに上ると、三角屋根の白い洋風建築が目に入ってくる。林が開けたところで後ろを振り返れば、駅の方まで見渡すことが出来た。
 丘の上では、空を覆いつくす雲に手が届いてしまいそうだった。コリーヌのブルーグレーに塗られた三角屋根は今にも、雲の中に飲み込まれていきそうだと思った。森に囲まれているからか、ここには街の騒めきは届かない。空の近さも相まって、コリーヌはまるでこの世のものではないような気がした。
 かつてバーだった現事務室は、思っていたよりずっと普通の部屋だった。バーをバーたらしめるあの長いカウンターは取り払われ、酒瓶が並んでいたらしき棚には入居者のカルテやその他書類が詰まったファイルが並べられていた。テーブル席もあったのだろうか、思ったより広い空間にいくつか事務机が置かれている。その上に転がるボールペンやホチキスやゼムクリップのいっぱい入った箱なんかに、私はなんだか安心した。窓辺の仕切られた一画には、施設長の机と来客用の小さなソファセットが据えられている。飴色に使い込まれた棚の重厚感と、その横にシンクがあることだけが、この部屋がホテルのバーだった頃の面影を微かに留めている。
 ソファに施設長と向かい合うと、やっと面接らしくなった。いくつか簡単なやり取りを交わしたあと、施設長は「では、拝見します」と、私が持参した書類一式を丁寧に検分し始めた。一行ずつ追っていくその指先をじっと見つめていると、私の心拍数が少し上がっていくのが分かった。
「そうか、岸さんは、児童養護施設で暮らしていらっしゃるんですね」
   とくん、と心臓が跳ねた。しかし、それを機にむしろ心拍は落ち着いていった。私は口を開く。
「はい、乳児の時に養護施設前に置き去りにされたので、親の顔も名前も知らずに育ちました。この名前も養護施設で付けてもらったものですし、一九八九年四月十六日という生年月日も、本当の誕生日ではなくて私が施設に保護された日です。施設では親を亡くしたり、親元から引き離された人がいましたが、親が誰なのかも分からないのは私くらいでした。私には生まれた時から、身寄り、というものがありません」
   皆がたいてい触れようとはしないこの手の話題を、面と向かって人に話したことがかつてあっただろうか。思いがけず言葉がつるつると出てきてしまったことに焦りながらも、同時に私は目の前がパッと明るく照らされたような心地がしていた。それは多分、ささやかな解放感だった。
   施設長は私の話を聞いても、少しも動揺するような素振りを見せなかった。書類から顔を上げ、ただ静かにじっと聞いてくれていた。その姿勢が、ありきたりな同情だとか、もの珍しさからくる好奇心ではないことは、はっきりと分かった。
「そうでしたか」
 返された言葉はただそれだけで、しかしその柔らかな声音は、底冷えのする事務室でほかほかと温かなまま、私の胸にすとんと届いた。施設長は何を言うでもなく書類に目を戻し、そのページを丁寧にめくる。
「志望動機を、もちろんここに書いてくださってはいますが、もう一度あなたの言葉で聞かせてくれますか」
 真っ直ぐに私を捉える施設長を前にして、私は急に自信が無くなってしまっていた。なぜかは分からなかった、これまでに味わったことの無い類の緊張が急におしよせてきた。
「先ほども述べたように、私は児童養護施設で大勢の他の子供たちと、いつも誰とでも上手くやれたわけではありませんが、一緒に暮らしてきました。高校生に上がってからは特に、自分より幼い子供たちの些細な変化、体調だとか、精神的な不調だとか悩み、あるいは嬉しいことがあったとか、そういう変化に気付けるようになって、すると途端に、施設の中で自分を上手く……なんて言うんでしょう、機能、させることが出来るようになったと感じています。上手く、立ち回れるようになったんです。その経験を、活かせるのではないかと思い、応募しました……」
 話しながら私の声は次第に小さくなり、自信なさげに足元に落ちた。ここまでは、履歴書の志望動機欄に書いたこととほとんど変わらない。学校の先生からの添削を経て形にした、養護施設出身というアイデンティティを前向きに捉える生徒としての、表向きの理由だった。私は冷えた指先をぎゅっと握って、深く呼吸をして、前に向き直る。
 施設長と目が合うと、彼はゆっくりと頷いた。
「こちらでは、単身の、身寄りのない高齢の方が入居されていると伺っています。私は、自分と同じ身寄りのない方々にどこか親近感を抱いているのだと、それも動機のひとつだと、思います」
 施設長の表情は柔らかだった。
「親近感を抱くというのは、お互いに分かりあうための第一歩でもあります。そして、分かろうとすることは、寄り添う、ことに繋がります」
 その言葉を聞いて、私はきつく握っていた手を緩める。指先にじんわりと血が巡っていくのが分かった。
 コリーヌを出ると、分厚かった雲はいくらか薄くなって陽の光を滲ませ、空が全体にほんのり光っていた。私はその白く鈍い光が満ちた街を、来た時と同じ道を辿って歩く。丘を下りきり住宅街を抜け、駅へと向かう通りへ出る。色の少ない冬の並木道に真っ赤なポストが立っているのを横目に捉えて、私は眩しくもないのに目を細めた。

   その日も私は、一度もミスタッチをすることなく「ラジオ体操第一」を弾ききった。すると程なくして、一人の老女が唯一ぱちぱちと手を叩く。
「すごいわ、やっぱりあかりちゃんのピアノは上手! 今度教えてもらおうかしら、ねえ、あんなふうに弾けたらすてきだと思わない?」
 ねえ、と同意を求められた彼女の左隣の老女は、曖昧に「そうねえ」などと呟いている。
   私自身も未だ拍手に慣れずに、ぎこちなく笑って会釈することでしか彼女の賛辞に応えることが出来ない。
しかし彼女はすぐに表情を曇らせて言った。
「でも、このピアノは古すぎるのかしら、音がときどき濁る気がするの」
   それは私も以前から気になっていたことだった。このピアノはおそらく何年も調律されておらず、時々不協和音が鳴るのだ。私が思わず施設長の方を向くと、彼は思いの外朗らかに
「調律でしたら近隣に心当たりがあります。検討してみましょう」
 と答える。彼女が「それならよかった!」と嬉しそうにしているのを、私はこれからも彼女の拍手が聞けることに内心安堵しながら眺めていた。
   彼女が拍手をくれるようになる最近まで、毎朝の演奏に拍手をもらったことは無かった。そもそも私が就職する前から続くこの習慣は、以前はよく音が飛ぶ古いラジカセで流していたのだ。私の毎朝の演奏は、そのラジカセが壊れた際に代打で弾いたことがきっかけでそのまま習慣になったに過ぎなかった。老人たちにとって意味をなすのは「私の演奏」ではなく、「ラジオ体操第一」であって、よって「私の演奏」に拍手は起こらない。これまで食堂にただあるだけだったピアノが演奏される機会を得た、と素直に喜んだのは施設長くらいだった。
 拍手をくれるその人は、中川あや子さんという。二週間前に亡くなった人と入れ替わりで入所してきた、認知症を患う八十一歳の女性だ。認知症の症状が出ていないときの彼女は穏やかで静かで、コリーヌの規則正しい生活にあっという間に馴染んでしまえる人だった。他の老人たちと同じように、コリーヌに来る前の生活も、無駄のない習慣だけが残り、洗練された生活をしていたのだろう。しかし、症状が出ている時の彼女は打って変って、おしゃべりで明るく、そして少しわがままな少女「あやちゃん」になってしまう。厳密にいえば、今日も拍手をくれているのは「あやちゃん」だ。
 中川さんがやってきてから、乱れの一切無かったコリーヌのタイムスケジュールが時折ずれ込むことが増えた。中川さんがもたらすその些細なずれは、さざ波が広がるようにして、コリーヌ全体の空気をなんだか落ち着きのないものにしていた。

「中川さん、今日もやっぱりお風呂は嫌ですか」
 今日は金曜日で、いつものように午前中は入浴の時間だった。私は三番テーブルの四番目、最後に入浴する中川さんを迎えに来ている。
「あかりちゃん、苗字で呼ばれるのは嫌って何度も言ってるじゃない」
「あや子さん、おふ……」
「あや子さんも嫌、よそよそしいんだもの」
 中川さんはどうも私のことを、同じ年の頃だと思っているようだった。しかし私はどうしても、目の前の老女のことを同世代として扱うのは気が引けてしまう。
「あやちゃん……、一緒にお風呂、行きましょう? 入ったら気持ちいいですから、ほら、最近冷えますし」
   私の問いかけに、中川さんは首を頑なに頷かない。ベッドに腰掛けて、ベッドをぐるりと囲む手すりを握りしめたまま。その手は皺だらけで血管がぼこんと浮き出ている。
   朝までのご機嫌が嘘のようだ。
   中川さんは火曜日の入浴の時も「あやちゃん」で、断固として入浴したがらなかった。火曜日は渋々清拭させてくれたとはいえ、今日の入浴を逃せば十日以上入浴しないことになってしまう。
   入浴を楽しみにしている老人たちも多く、これまで入浴前の段取りで困ったことがなかった私は、もうすっかり弱ってしまった。
   私は中川さんの扱いに、もとい「あやちゃん」の扱いに正解がまだ見いだせていない。
「だってあかりちゃんは一緒にお風呂に入ってくれるわけじゃないでしょ」
「……すぐそばにはいますよ」
 私の曖昧な答えに中川さんはぷいっと顔を背けてしまった。
「嫌よ、あかりちゃんは私の裸を見るのに、あかりちゃんはお洋服を着たままなんて変だわ。だったら一人で入るから、一人にしてほしいの」
 足腰が立たなくなってきている中川さんを介助無しで入浴させるわけにもいかなければ、ましてや私が一緒に入るわけにもいかず、私は返事に窮する。
 例えば私が五体満足でなくて、入浴に介助が必要だったとしたら、それは確かに嫌だ。けれども「介助が必要」だということが理解できるから、ここまで拒めないような気がする。「あやちゃん」は自分の身体が老いていることを知らない、それが一番の問題だ。四人目で後ろを待たせることがないからいいものの、これでは外部スタッフの帰社が遅れてしまう、私ではなく年上の別の職員を呼んだ方が素直に応じてくれるだろうか――などと考えていると、私の後ろでコンコンと控えめなノックが聞こえた。
「お客さん……? 珍しいわ」
 とドアに目をやりながら中川さんは独り言ちる。
「開けますね」
 中川さんにそう声をかけてドアを開ける。
「あれ、岩波さん……?」
 彼女はさっきまで一緒に入浴を担当していた、外部の介護福祉士のうちの一人だった。三十代だと思う、いつも長い髪をひとつに束ねた、化粧っ気のない質素な感じのする女の人だ。コリーヌで働く人の中でも一段と物静かで、明らかに年下の私にも丁寧な言葉遣いをする。そして、白い手首や血管の透けて見える腕、とがった顎や薄い肩、どこを見ても身体の線がとても細い。
 普段、入浴介助の四人が老人たちを部屋に迎えに来ることはない。それはペアを組んでいるコリーヌの職員の仕事で、その間彼らは浴場を拭きあげたり新しいタオルを用意したりして、準備を整えながら待っているのだ。
「こんにちは、お邪魔しますね」
 彼女は思ったより通る声で挨拶をした。そして私と目が合うと、ちょいちょいっと手招きをする。近寄ると
「浴場は拭きあげてあります。今日は必ず、中川さんにお風呂に入っていただきましょう。」
 と低く囁かれた。言われるがまま私は頷いて、その場を岩波さんに託す。
   ベッドサイドに歩み寄る彼女から、いつものシャンプーの香りがふわっと漂う。浴場以外にそれが香ると、なぜだか少しどきりとした。
「中川さん、私のこと覚えていらっしゃいますか?」
 岩波さんは目線を中川さんに合わせ、ベッドサイドに膝をつく。
   岩波さんと中川さんは以前の入浴で顔を合わせているが、「あやちゃん」である時に会ったことはない。この場合、「あやちゃん」の記憶の中に岩波さんはいないはずだ。
「ごめんなさい、私、覚えてない……」
 中川さんは至極申し訳なさそうに答える。その声音は自信なさげな少女そのものだった。
「あら、ほんとうに? でもこないだ会った時、私に昔のことを色々教えてくださったじゃないですか! 思い出せませんか?」
 岩波さんは「あやちゃん」の弱気な様子に一切気を遣うことなく、いつもの物静かな岩波さんからは考えられないような明るさで話し出した。私は呆気にとられるばかりである。
「昔のこと……?」
「ほら、娘が癇癪持ちなんですって私が言ったら、中川さんが昔保母さんだったっておっしゃって」
 二人が会えるのは入浴の時間しかないと思うのだが、前回の入浴で二人がそんな話をしていた記憶はない。私はますます口が出せないでいる。
「保母さん……」
 中川さんは何かを思い出そうとしているような、眉間に皺を寄せた真剣な表情になっている。岩波さんの声が優しく、記憶を取り戻そうとする中川さんの背中を押す。
「そうそう、どんな癇癪持ちの子も私の手にかかればニコニコになったのよって」
 中川さんの眉間がふっと緩んだかと思うと、
「そんなことも言ったかしらねえ、そうそう、私幼稚園では人気者だったのよ」
 と、「あやちゃん」ではない中川さんが照れながらも嬉しそうに語りだした。
「ずうっとただの保母さんだったのに、急に副園長先生にならないかって言われたこともあったの」
「えっ、中川さんすごい! ほんとうに慕われていたんですね、いいなあ幼稚園に中川さんみたいな方が居たら安心だなあ」
「やぁねぇ、昔の話よ。それに今思えば、私には子供がいなかったし、長く働いていたから、そんな話が出ただけのような気がするわ」
 中川さんはすっかり、謙遜しながらも昔を懐かしむおばあちゃんになっていた。その様子を呆然と見守っていた私に、岩波さんが目配せをする。私はなんとなく意図を汲み取って、棚から静かに中川さんのお風呂セットを取り出しておく。
「あっ、中川さん今日寒くないですか?」
「言われてみれば、少し底冷えするわ」
「関節、痛みません? どうですか、お風呂が沸いているのですが」
「そうね、お風呂であったまった方がいいかもしれない。またあなたが入れてくれるのね?」
 すっかり正気に戻った中川さんは、目の前に差し出された岩波さんの手を素直に取った。

 中川さんの入浴後。私が彼女を部屋まで無事に送り届けて浴場に戻ると、岩波さんもすっかり物静かな岩波さんに戻っていた。拭きあげられた足元のタイルは淡く清潔な光を照り返し、水分を抱えてしっとりした空気が辺りに満ちている。浴場はいつも通り、完璧な空間としてそこにある。
   私がマニュアルに則って入浴業務後の最終点検を終えたのを見て取ると、岩波さんは
「では、私はこれで失礼いたします」
 と、いつものように去ろうとした。普段の私ならここで、「今日もありがとうございました。お疲れ様です」と礼をして、余計な言葉は交わさずに昼食の準備に向かうだろう。しかし今日は思わず声をかけた。
「あの!」
 振り返った岩波さんがあまりに無表情で、私は少し怯む。
「どうかされました?」
「先ほどは、中川さんのこと、ありがとうございました。それで、その、中川さんとはいつ昔の話をされたのかな、と気になって……」
  岩波さんはそこまで聞くと、ああそれか、と納得したような顔をした。そして理路整然と説明してくれる。
「私は毎回新しい方を担当する度、施設長にはその方の病歴・病状だけでなく、経歴や性格などを伺っておくようにしています。中川さんは火曜日も症状が出ている時に入浴を拒否されていたので、入浴していただくには中川さんに戻ってもらう必要があると判断しました。中川さんの場合は、まだあやちゃんと中川さんの境界がはっきりしていると聞いていたので、ご自身の経歴のなかで印象の強いものをきっかけにすれば、きっと中川さんに戻ってくれるのでは、と考えたんです。うまくいったのはたまたまですよ」
 岩波さんの口調は乱れることなく丁寧なまま続く。
「以前私と中川さんが話をしたっていうのは、方便というやつです。つまり、嘘をつきました。すみません、混乱させてしまいましたか?」
「いや、そんなことは……」
 混乱した、というよりも。「繰り返し」の中には無い行動を落ち着き払ってやってのける岩波さんを、浴場の外にいる岩波さんを見て私は、ここに岩波さんがいる、と思ったのだった。介護福祉士というコリーヌの器官ではなく、一人の人間として。
 というようなことを喋ってしまってから、失言であったと気が付いた。これではまるで、今まで岩波さんのことを人間だと思っていなかったような口ぶりである。
「すみません、とても失礼な言い方をしました」
 と、同時に私は「あっ」と思った。気付き、あるいは予感かもしれない。それが何に対するものなのかは分からなくても、私は明確に「あっ」と思ったのだ。
「いえ、おっしゃっている意味はなんとなく、理解できます」
 そう返してくれた彼女は、ほんの少し笑っていた気がする。私の中にじんわりと広がる、他人に触れたような感覚。
 しかし、岩波さんがいつものように「ではこれで」と踵を返した時、私はすべてを掴み損ねた。
彼女の線の細い後ろ姿が、等間隔に響く足音と共に遠ざかっていく。

 それ以来、中川さんの入浴前は二人で部屋まで迎えに行くようになった。部屋で待つ中川さんは「あやちゃん」である時もままあったが、岩波さんの顔を見て声を聞いてしばらく会話を交わせば、不思議なことに中川さんに戻れるのだった。
 岩波さんはたいてい、あの癇癪持ちの娘さんの話をする。
――生まれたばっかりの頃から、びっくりするほど大きな声で泣いてばっかりでした、泣きだしたら止まらなくて、だんだんヒートアップしていって……
――黄緑色が大好きで他の色の衣服を着たがらなかったんです。そして気付いたら、あの子の持ち物は全部黄緑色になってたの
――本当によく転ぶ子なんですよ、何も無い所でもね。今もどこかに痣をつくってるんじゃないかって思うと、はらはらしてきます
――言葉がなかなか出てこない子だったんです、やっぱり中川さんが保母さんだった頃もそういう子はいましたか?
――あの子、今思うとあんまり人の顔の見分けが付いていなかったかもしれません。人見知りが一切無い代わりに、私の顔を見てもニコリともしないの、母親のこと、分かってたのかしら
――あの子のそばに、中川さんみたいな保母さんがいてくれたら何か違ったんでしょうか
 娘さんの話をするときの岩波さんは、驚くほど饒舌で、不自然なくらい明るい声でくるくると話し続ける。明るい声音のその奥に、彼女が抱いてきた後悔が透けて見えるようだった。血の繋がった我が子の全てを受け止めきれなかった母の、行き場のないやるせない痛々しい感情が、コリーヌの中で反響している。その反響音が私にぶつかった時、それは私の奥深くにあった悲しみと呼応して大きな波紋を生んだ。それは私たちをすっぽりと包み込んでしまう、大きな力の円だった。私はその中で、ただただ立ち尽くすことしか出来ない。何もしようがなかった、ままならなくてやるせない、そして誰も悪くはなかった。生きづらさを抱えて生まれてきたのだろうその娘さんも、それを抱きとめていられなかった岩波さんも、そんな岩波さんに顔も名前も知らない母を重ね、私の母も後悔に苛まれていればいいのにと祈ってしまう私も、誰も悪くなかった。
   私たちは皆、見えない力を前にしてひたすらに無力だった。
 そういう時の中川さんは、いつも「あやちゃん」との狭間にいて、話を聞いているのかいないのか曖昧な返事をするばかりだった。
 それでも時折調子が良いときにはするっと中川さんに戻っていて、岩波さんの言うことに保母さんとしての言葉を返した。
――こだわりの強い子はいつの時代だっているわ、色に限らずね。そういう子はとっても面白い、反対にみんなが興味を示すようなことには一切興味がなかったりして
――きっとその子なりの世界の捉え方に、言葉っていう道具がそぐわなかっただけよ。心配することは何にもないわ
――大丈夫よ、大丈夫。どんなに小さな赤ん坊でも、保育園にいた子供たちはみんな母親のことを分かっていたし、みんな母親のことを待っているのよ
 そういった言葉が返ってくる度に、岩波さんからは憑き物が落ちていき、力みのない清々しい顔つきになっていくような気がした。反面、そんな瞬間に彼女の手元を見ればたいてい、普段は老人たちの肌を洗い清めていくその手を、強く握りしめている。関節が白く浮き出た細い手は空っぽで、けれども何かを掴んで離すまいとしているように見えた。
 そんな二人の交流を、私は静かに見つめている。中川さんの不規則に震える老いた声。同心円状に広がる波紋は、その外縁にぶつかるものを確かに揺るがす。人と人が繋がること、それはなんて難解な化学反応なんだろうと私は思う。

 冬も深まったある火曜日、その日の朝の「ラジオ体操第一」には老人たちとは別の客がいた。
 彼は施設長の横で私の演奏を聞いていたが、弾き始めた瞬間から弾き終わるその時まで、始終顔を悲痛に歪ませていた。これほど悲しいことは他にない、というように。
 私はその顔を知っていて、コリーヌに彼がいることに少し驚いたものの、不思議には思わなかった。
 彼はこのあたり一帯の幼稚園や保育園、学校、児童養護施設、公民館の小さなホール、児童館など、小さな施設にひっそりと佇むピアノに出向いていく調律師である。もっとも、普段はピアノ工場で音の最終整備をしていて、調律師は副業であるらしかった。
 老人たちが朝食を摂っている間、その場を別の職員に託して私はそっと食堂の外に出る。施設長と何やら話していた彼は、後ろから近付く足音に気が付くと大げさに驚いてこちらを振り返った。その挙動が少し懐かしい。相変わらず、後頭部のところで黒い短髪がはねている。フランネルのシャツを着ているのも、ベージュのチノパンを履いているのも、なんにも変わらない。
「やはり、あなたはご存じでしたか」
 先に口を開いたのは施設長だった。
「ええ。私が育った所のピアノも、ヨハンさんにお世話になっていましたから」
 ヨハンさん、というのは彼の呼称である。昔から彼は本名を聞いても頑なに教えてはくれず、ヨハンと名乗った。いつだったか、まだ子供の頃、ヨハンと言う名前はドイツのピアノ製造技師であるヨハン・アンドレアス・シュタインという人物から取ったのだということを教えてくれた。ヨハンさんの鞄にはいつも、ヨハン・アンドレアス・シュタインの伝記や『ピアノの発明と発達』とかいう分厚い本が入っていて重そうだった。
 施設長は私に軽く微笑むと、ヨハンさんには
「では、もう少しすれば食堂から人がいなくなりますので。どうぞよろしくお願いしますね」
 と声をかけて事務室に帰っていった。ヨハンさんは落ち着きなくきょときょとと辺りを見渡しながらも、小さな声で
「はい、お任せください」
   と、言い切るのだった。施設長を見送るヨハンさんに、私は改めて声をかける。
「ヨハンさん、お久しぶりですね」
「ええ、一年四ヶ月と十一日ぶりです」
 ヨハンさんは口の動きは小さくもごもごと喋るのに、その間手は元気にパタパタひらひらと動くので、まるで手が喋っているような感じがする。
「わざわざ朝早く来てくださったんですか」
「朝は毎日五時十二分に起きます。よって何の問題もなくここに来ることができます」
 ヨハンさんはここでまた、顔を悲痛に歪めた。
「あのピアノはとても乱れています、ミが黄色ではありません。そしてソはひどく青ざめています。私は早く仕事がしたいと思っています」
 ヨハンさんは少し変わった人で、そして少し変わった調律師である。
 彼は音を聞くと、色を感じることが出来る人だった。彼の中で音はそれぞれに色が与えられる、らしい。ヨハンさんは音の色、その明度や彩度を見てピアノを調律している、という訳である。この特性は、当事者以外が一度話に聞いただけでは到底理解しきれるものではない。けれども、ヨハンさんの調律の腕と、もごもごとした口ぶりでもきっぱりと言い切るその言葉遣いに、誰もが「こういうふうに世界を捉える人もいるのかもしれない」と納得させられてしまう力があった。

 ヨハンさんは、私が暮らしていた児童養護施設へ定期的にピアノを調律しにやって来た。
 彼と初めて出会ったのがいつだったのか、もう定かではない。一番古い記憶は確か四、五歳くらいの頃。誰もいない多目的室で、ピアノの中を覗き込み何やら作業しているヨハンさんを見た記憶がある。ある程度の防音性を備えた多目的室に、外の雑音は少し遠くにくぐもって聞こえてくる。彼の周りはさらにもう一層、薄いヴェールでふんわりと覆われているような、優しく、かつほんの少しの緊張感を抱いた静けさに満ちていた。次に会ったのは小学校に上がった後で、その時に初めて話すようになった。
――ねえ、なにをしているの?
――ピアノの音の色を、正しい色に揃えています
ヨハンさんは言葉を言葉の意味のままに使う。言い回しには一切の含みが無い。目の前の物事を、投げかけられた言葉を、見たまま聞いたままに捉えて、それに対して真っ直ぐに打ち返すような人だった。ヨハンさんは私がここで暮らしている理由を知らなかったし、もちろん知ろうとすることもなく、目の前に居る私だけをその目で捉えた。当時の私にとって、そんな大人はヨハンさんただ一人だった。
 ヨハンさんと初めて話したあの日から、私は多目的室の隅のピアノに何か強く心惹かれるようになったのだ。もしもピアノに目があるのなら、こちらをじっと見つめられているような、そんな気がした。吸い寄せられるようにして私がピアノの前に座り、初めて鍵盤に触れたその瞬間に、ピアノは私の中で絶大な意味を持ち始めた。それは私を映す鏡となった。ピアノは私が弾いた通りに音を鳴らす、私が笑えばピアノも笑い、私が楽譜を読み落とせばピアノも不協和音を響かせ、私が泣けばピアノも泣いた。私は私とピアノだけの空間で、自分の心の輪郭を繰り返しなぞっていた。毎朝鏡の前で身だしなみを整えるのと同じことだった。私がちゃんと私であるかを、私は鏡に映して確かめている。
   自分の弾くピアノを誰にも聞かれたくなくて、私は人の少ない時間にこっそりと練習した。皆が遊びに出掛けた日曜日の昼下がり、学校から飛んで帰った夕方になりきる前の放課後、皆が多目的室から離れた食堂に集まるおやつの時間。年齢が上がるにしたがって、早朝や深夜にそっと部屋を抜け出してピアノを弾いていることもあった。独学では遅々として上達しなかったが、ピアノが上手く弾けるようになりたいわけではない私には、何の問題もなかった。それでも、毎日弾き続けるうちに、音は滑らかに連なるようになり、やがて一本の曲を成す。そのレパートリーがじわじわと増える度、私のなかで反響する音は多彩な感情を帯び、熱く力を持つようになった。
 コリーヌで「ラジオ体操第一」を弾くようになるまで、私が弾くピアノを聞いたことのある人物はヨハンさんただ一人だった。初めてヨハンさんの前でピアノを弾いたのは、十歳の時。たどたどしいエステンの「人形の夢と目覚め」を聞いたヨハンさんは、手をパタパタとさせながらこう言った。
「この曲は聞いたことがあります。その時の速さよりも、とても遅いと感じました」
 私はあまりに素直なその発言に、思わず吹き出してしまった。
「そうね、もう少し練習しないとダメだね」
 そう返すと、ヨハンさんの手のパタパタが一層激しくなって、彼は不器用に何度も首を横に振った。
「だめ、だめという言葉は違います。さっき僕が全ての音を揃えましたから、ミはきちんと黄色で、ソは綺麗な桃色です。あなたの出した音はひとつもだめではありません、よってあかりさんもだめではありません」
 それを聞いて私は、なんだかとても安心したのだった。ヨハンさんによって調律されたピアノは、いついかなる時も触れた鍵盤の通りに、必ず正しい音を返してくれる。
「ヨハンさんは、やっぱりピアノが上手なの?」
 ふと気になって私が尋ねると、ヨハンさんは困ったような悲しいような顔をした。
「お父さんや弟は、僕の演奏を聞くとよく、下手くそだ、と言いました。弟はとてもピアノが上手で、お父さんは弟のことばかりを褒めました。だから僕は……僕は、誰かに僕の演奏を聞いてもらいたいとは、思いません。あかりさんにも、聞いてもらえないと、で、出来ないと思います」
 話しながらヨハンさんの身体は強張り、もともとはっきりしているわけではない口の動きがさらにぎこちなく、不安げになっていった。
「そっか、ごめんね。じゃあ、弾かなくて大丈夫。無理しないで」
 私の言葉にヨハンさんはいつもの調子を取り戻し、手をパタパタとはためかせることで応えた。それは、彼がまだ何かを話そうとしていて、言葉を選んでいる合図でもあった。
「僕は音を見ることが出来ました。お母さんが、音を見ることは誰にでも出来ることではない、と言いました。お母さんは僕に、調律師という仕事を教えてくれました」
「お母さんが……」
 私はその時に初めて、人が自分の母親の話をするのを聞いたような気がする。少なくとも当時の私の周りでは、見えない手が私の耳を塞いでいるのかと思うほどに、私の持ち得ないものに関する話題は一切私の耳に入ってこなかったのだ。
「僕はピアノを弾くことが得意ではありませんが、ピアノの音を揃えることは得意です。ピアノの音を揃えることは、お父さんや弟には出来ないことです。お母さんは僕によく、ヨハンはヨハンのままでいて良いのよ、と言いました。だから僕は、ずっとピアノが下手くそです」
 こんなにたくさん喋るヨハンさんを見たのは後にも先にもこの時くらいで、ヨハンさん自身も少しくたびれたようにそこでひと呼吸おいた。そして、手のパタパタがふわっと優しくなったかと思うと
「でも、もうお父さんも弟も僕を下手くそと言いません。それはお母さんのおかげです。お父さんも弟も、僕がピアノを調律すると喜んでくれます。僕は調律師になることが出来て良かったと思っています」
 嬉しそうにそう言った。ヨハンさんは真っ直ぐに私を見ている。私はその真っ直ぐさを前にして、十歳の私は何も言えなくなってしまった。

 食堂の片づけが済んで、ヨハンさんがピアノのもとで作業し始めたのを見届けると、私はその日の業務に戻り、午前中いっぱいをいつも通り入浴介助のサポートをして過ごした。岩波さんの仕事ぶりも変わることなく完璧で、時間ぴったりに最後の入浴を終えることが出来た。私はほかほかと温まった中川さんが湯冷めしないよう厚着をさせ、彼女を部屋まで送り届ける。ゆっくりと一歩ずつ足を踏み出すその歩き方は、中川さんの足腰がまた少しずつ弱ってきていることを示していた。手を取り腰を支え、彼女の歩調に合わせてゆっくりと進む。部屋へ歩いて戻るのも、もうそろそろ限界かもしれないと思った。中川さんだけではない、老人たちは何か些細な一瞬を境に加速度的に衰えていくことがある。
 最近、中川さんは「あやちゃん」との境界が不明瞭になってきていた。目に入るあらゆるものが時に引き金となって、気付いた時にはそこに「あやちゃん」がいる。私は「あやちゃん」と接する時間が増えれば増えるほど、彼女がおしゃべりで明るいだけの少女ではないことに気付かされた。
 ある時は窓の外を飛んでいく飛行機を見て
――あの人が行ってしまう、知らない外国で戦わされて米軍に殺されてしまうんだわ
 と、ぽろぽろと涙をこぼした。
 またある時は私の弾く「ラジオ体操第一」を聞くと、それに合わせて
――一、二、三、四
 と大きな声で数を数えながら、体操をしようと立ち上がった。ぐらりと身体が傾いたのを、そばにいた職員が咄嗟に支えて転倒は免れたものの、それでも体操を続けようとする気迫に押された私は演奏をやめることが出来ず、結局その職員も曲が終わるまで「あやちゃん」を支え続けなければなかった。「あやちゃん」は最後、正面の虚空に向かって敬礼をした。
 あるいは、保母さんだった頃に戻ってしまうことも増えてきていた。食堂で他の老人たちといつものように食事をしていた時、やはり急にハッと息を呑んだかと思うと、あたふたと慌ててこう言った。
――いけない、自分だけ食べている場合じゃないわ、子供たちの分も用意しなくちゃ。あら私……どうしてこんな大事なことを忘れていたのかしら。待ちぼうけの子供たちはお腹を空かせちゃいけないのに、お母さんがお迎えに来るのを私も一緒に待っていてあげないといけないのに……
 そう言いながら、彼女は風船が一気にしぼむみたいにしゅーっと落ち着いて、
――いや、いいんだわ、子供たちにはきちんと迎えが来る、来たのよ、そうよ。これで大丈夫
 自分を諭すように静かに呟くと、またもそもそと食事に戻っていった。
 私は、中川さんの過去が垣間見える度に、ただ彼女の手を握り、肩を抱いてさすった。彼女の、「あやちゃん」の、抱えるものを理解できるとは到底思えなかった。それでも、私は今、そばにいるのだと伝えたかった。

 今日の中川さんは、入浴前からずっと落ち着いていてこのまま何事もなく部屋へ帰れるだろうと思われた。しかし、カタン! とバイクを停める音がして、郵便局員の青年がやって来たのを窓の外に捉えた瞬間、状況は一変した。
「あかりちゃん! 郵便が来たわ!」
 中川さんは私の手を放して駆け出そうとして、大きく転倒してしまう。
「なっ、中川さん!」
 思わず出た大きな声にあの人の良い郵便局員もこちらに気付いて、あわてて建物に駆け寄るのが見えた。
転んだ「あやちゃん」は自分の足が思うように動かないことに苛つきながら、泣き叫ぶようにして訴える。
「あの人からの手紙が、手紙が来るのを、待っていたの! 私宛の手紙は今日も無いの?」
   ああそうか、彼女はこれまでの間、帰って来ない大切な人をずっと待っていたのだ。
叫ぶ「あやちゃん」はほとんどパニックを起こしていて息も荒く、顔は涙やそれ以外の水分でぐしゃぐしゃだった。身体の右側を強く打ったからだろう、左半身だけで起き上がろうと必死にもがいている。その姿は確かに老婆なのに、私の耳に届く声は悲痛な少女の訴えであり、そのことが私をひどく混乱させた。
「大丈夫落ち着いて、あやちゃん、お手紙は来るよ、大丈夫、今郵便が来たんですからね」
 私は「大丈夫」と繰り返しながら中川さんの肩を抱き起し、いつものようにさすることしか出来なかった。そして、これまでの郵便物の中に中川さん宛てのものが一通も無かったことを思い出して、胸がきゅうっと痛くなった。私は、人間は、いつだって過去に対して無力だ。
 騒ぎを聞きつけた職員たちが集まって来る。いち早く駆け寄ってきた職員に私があらましを説明し終わった頃、横から岩波さんがやって来て私に代わって中川さんの背をスッと支えると、その深く皺の刻まれた手を包み込むように握った。来てくれた、と私は思った。混乱の中で、中川さんを支えるいつもと変わらないその細い手に、私が安心したのだった。誰かが救急車を呼んでいる声が聞こえる。私はまだ息も絶え絶えに「手紙」と訴え続ける中川さんをそのまま岩波さんに託すと、玄関へ走っていって扉を開けた。
「すみません! お願いが!」
 彼は玄関前で心配そうに待ってくれていた。
「だ、大丈夫ですか⁈ おばあちゃんが転ぶのが窓から見えたから……」
「あ、あの、何が何だか分からないと思うのですが、そのおばあちゃんに何かお手紙を、渡してあげてもらえませんか。誰か大切な人からの手紙を待っているみたいなんです、あなたの制服を見てそれを突然思い出してしまったみたいで、今パニックに……」
 郵便局員の青年はとても物分かりの良い人だった。それを聞くやいなや、停めていたバイクから未使用の年賀はがきを取ってくると、
「こんにちはー!」
 と中に声を掛けた。明るい青年の声に、辺りはしんと静かになった。彼は岩波さんに抱えられて床にへたり込んでいる中川さんのもとへ、真っ直ぐに歩いていった。そしてはがきを差し出す。
「おばあちゃん宛てにおはがきが来ています、どうぞ」
 中川さんは郵便局員を見上げて、
「ほんとうに?」
   と、聞き返した。彼はそれには答えず、ただ穏やかに微笑み返した。中川さんは宛名もなにも書かれていない、真っ白なはがきを読み終えて、今度は静かにつうっと涙を流す。それは頬を伝い、透明な線を引いて真っ直ぐに地面に吸い込まれていった。

 郵便局員は私の再三のお礼に、
「年賀はがきを売っている時期で良かったです、配達員も少しだけ見本を持っているんですよ」
 などと明るく朗らかに答える。そしていつも通り、コリーヌに届けられた郵便物を私に手渡した。
「今日は午後から雪の予報が出ているから、ここまでバイクで登れなくなる前にと思って、先に伺ったんです。いつもの時間に来れなくてすみません」
   帽子を軽く持ち上げるいつもの挨拶をすると、彼は小径を下っていく。
   その後、入れ代わるように救急車のサイレンが聞こえてくる。車椅子に乗せられコリーヌから出てきた「あやちゃん」は、何も書かれていないはがきを大切そうに胸に抱いていた。男性職員の手によって支えられながら、車椅子は丘を下っていく。救急車の前でいよいよ救急隊員に引き渡される、というときに彼女はふと思い出したかのように
「手紙を書くわ」
 と言った。誰に対してかは聞かなかった。私は「はい」と返事をし、岩波さんはその横で頷いた。
   彼女を載せた救急車は、サイレンを辺りに響かせながらあっという間に行ってしまい、あとには私たちが残された。
   コリーヌまでの道を戻りながら私は、あの真っ白なはがきを受け取った「あやちゃん」はもう待たなくて済むのだろうか、解放されたのだろうか、と考えた。そうだ、彼女はきっと――。
「頭を打っていなくて、良かったです。何もなくここに帰って来られると良いのですが」
 坂を上りきったあたりで、岩波さんがぽつりと言った。ただただ心配そうな声音だった。丘の上はやっぱり、空がぐっと近かった。ここは空に近い、そういう場所なのだ。
「いや、彼女は、ここに帰って来なくても大丈夫なのだと思います。あやちゃんはきっと、待っていた人がもういないということを、自分を迎えに来ることなどないということを、受け入れたんです。あやちゃんには最初から、ラジオ体操なんて必要なかったのかもしれません」
 私はそう答えた。「あやちゃん」がくれた拍手が、今も耳の奥でぱちぱちと鳴っていた。彼女はいつだって、私の演奏を聞いてくれていたのだ。
 岩波さんは一瞬歩みを止めて、何かを考えているようだった。私はそれを見て、また「あっ」と思った。一人の人間としての岩波さんが、目の前にいた。
「私は……」
 話し始めた岩波さんの声は、少し揺れていた。いつもの、浴室にくっきりと響くような声音じゃなかった。
「中川さんの言うことなら、信じられたんです。」
 一体何のことか分からないでいる私に、岩波さんは「ほら私、中川さんに癇癪持ちの手のかかる娘の話をよくしていたでしょう?」と、まるで自分を困った子だとでも言うように、苦笑いを浮かべる。
「その娘が生まれた時には、もう父親がいなくて、私は一人で娘を育てなきゃいけなかったんです。でもそれがまた、何ひとつ上手くいかなくって。二歳になる頃まではね、それでも何とかやってたんですけど、保育園の先生たちに発達が遅れているかもしれないと言われるようになって、言われてみれば確かに私ですら思うように意思疎通がとれないし、娘が何を求めてるのか二年母親をやってみても分からない、何がきっかけで癇癪を起すのかも分からなくって。でも身体は大きくなるから、泣き叫ぶ声はどんどん大きくなるし、癇癪のたびに暴れて痣を作って」
 大雨で増水した川が限界に達して溢れるように、中川さんは滔々と語った。彼女の言葉は私に向けられているようで、実は彼女の中の、例えば感情とか意思なんかが湧いてくるところに蓋をしている何かに向かって、壁打ちするかのように見えた。
「それで、とうとう児童相談所がうちのアパートにやって来てね、連れて行ってしまったんです、娘を。虐待されているんじゃないかって、ご近所に通報されてしまって……。私だって、虐待なんかしていないって、そう言ったけれど、娘の身体は痣だらけだし、証拠なんてどこにも無いじゃないですか。私は娘にとってちゃんとした母親なんだろうか、だとか、本当に私は虐待してないと言い切れる育児をしていたんだろうか、とか思うようになってしまって、そんなこと言い出す母親に、児相も子供を返せないでしょう。もういっそこのまま、迎えに行かない方が娘の為なんじゃないか、とかね、思っていたんです。」
   岩波さんの顔つきは、話すうちにさっぱりとしてきたようだった。私は、今の彼女は未来を見つめているのだと思った。
「そんな時に、中川さんとお話するようになったんです。中川さんはね、娘のことを聞いても知恵遅れだなんて言わなかった。中川さんは娘に会ったことは無いけれど、中川さんなら娘を何も言わずに抱きしめるだろうなって思ったんです。中川さんが、子供はみんな母親のことを待っている、と言うのなら、それは本当のことなんだろうって、思うことが出来たんです。自然と」
   岩波さんと中川さんの間に確かな化学反応があったことを、私は知っている。
「ええ、子供はいつまでも待っています。本当なんです」
   岩波さんの目が私を、私という人間を、今しっかりと捉えたことが分かる。
   それぞれの過去、そのやるせなさの中を歩いてきて、私たちはこの丘で出会った。私は向き合おうと思った、岩波さんとの出会いを単なる偶然にしてはならないと、強く信じた。
「私は、いつまでも待っていた子供でした。ピアノを弾きながら、強く意識せずとも心の奥底の方ではずっと、母親が迎えに来てくれるのを待っていたんだと思います。私は――」
 その時食堂の方から、ピアノの音色が聞こえてきた。時折次の音を探るように途切れるが、それは確かにひとつの旋律だった。ヨハンさんが曲を弾いているのだ。彼が調律を終えたピアノの音が、冬の冷え切って澄んだ空気を震わせて、私たちの間を通り抜けてゆく。
   ヨハンさんの目にはこの旋律がどんな風に映るのだろうか、と考えた。虹のように美しいものが見えていて欲しい。私は祈る。
「人形の夢と目覚め、エステンの」
 それを静かに聞いていた岩波さんが、ぽつんと呟いた。思わず顔を見ると、彼女はほんのりと笑っていた。温かい、と思った。
「この曲、知っているんですね」
「ええ。子供の頃、少しだけピアノを習っていました。岸さんほどじゃないとは思いますが」
 耳の奥では、まだ拍手が聞こえている。私はもう一度、口を開いた。
「――私は、施設で育ったんです。施設で、ピアノに出会って、誰かと会話をするように、ピアノをずっと弾いていた子供だったんです」
   私の中でもまた、川が決壊したらしかった。岩波さんは何も言わなかった。それでもやっぱり、私という人間と向き合ってくれていることが私には分かった。
「あの、私がピアノを弾くようになった理由、聞いてもらえませんか」
   私の声は波紋になって広がった。岩波さんは優しく、力強く、「聞かせてください」と頷いてくれた。

 その日の夜から降り始めた雪は、翌朝にはこの街ごとすっぽりと、何もかもを真っ白に塗りつぶした。雪に降り込められたこの街の住人は皆、温かな行く先を信じて雪解けの春を待つことが出来る。


エピローグ

 中川さんが亡くなったという報せが届いたのはコリーヌが閉鎖される前日、コリーヌに最後まで残っていた二人の老人が、それぞれ別の新しい介護福祉施設に移った日のことだった。病院からの電話を取ったのは施設長で、彼は私に、その柔らかな声音で「中川さんが、逝かれたそうです」とだけ言った。私は、ああ本当に中川さんという人は、ここに風穴を開けに来たのだなと思った。
 中川さんがコリーヌを去ってから三年、中川さんのいた席はずっと空席のまま埋められることはなかった。むしろその空席へ吸い込まれていくように、養老院コリーヌは収斂していった、と言える。施設長は、そういう時期が来たのです、と言った。事実入居希望者はそれ以降一人も現れなかったし、職員たちも順当に新たな働き口を見つけてコリーヌを離れていった。
 コリーヌで営まれていた乱れのない生活は、その風穴から少しずつ綻んでいった。「ラジオ体操第一」を聴く必要のなくなった者から、この丘の上を去っていく。それは必然だった。「ラジオ体操第一」から覗き見た古い記憶の、その隅々にまで光が当たったとき、彼らは記憶を腕に抱きその先を見ることが出来たのだ。

 最後までコリーヌで働く、と決めていた私も、明日はここへ出勤することは無い。私はその日の夕方、荷物をまとめてから、最後にあの食堂のピアノの前に座った。コリーヌの食堂は、最後を締めくくるに相応しい空間だった。施設長が、やっぱり少し離れたところでゆっくりと頷いてくれる。私は息を深く吸って、その日初めてコリーヌで、ラジオ体操第一ではないそれを弾き始めた。緩やかで軽やかな旋律は、私と施設長の間を通り抜け、窓の外、春先の霞んだような夕陽の中へ流れてゆく。丘に、虹がかかる。
   施設長は、その時初めて私に拍手を送ってくれた。それは温かい温度を持ってがらんとした食堂で響き、私を祝福した。それが合図となって、私は本当に大人になれたような気がした。
   コリーヌを出た時、私は思いがけない人物がそこにいるのを目にした。彼はやっぱり、帽子を軽く持ち上げるいつもの挨拶をした。
「良かった、今日が最後だと聞いていたので、本当は明日の朝の配達分なんですが、もう会えないんじゃないかと思って無理言って持ってきたんです。これ、ここへの郵便ではなく貴方宛のはがきです」
   彼が差し出したはがきには、震えた薄い字でコリーヌの住所と「あかりちゃん」と書いてあった。それを見た瞬間に、誰からのはがきなのかが分かった。
『あかりちゃんに、会えてよかった』
   受け取ったはがきの表には、たったそれだけが書かれていた。私はそれを胸に抱いて、ただただ静かに泣いた。まるで、春先に山からふもとへ注ぐ雪解け水みたいに、静かに私の頬を伝って涙が流れていった。初めて自分の涙が、あったかいと思った。
   郵便局員の青年は、私の涙が落ち切るのを何も言わずに待っていた。そして私が落ち着いたとき、
「下りましょうか」
   とだけ言った。優しい声音だった。私はまだ声が出せないまま、力強く頷いた。
   もうこの丘へ来ることもないだろう。私はそう確信した。

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