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君の誕生日に思うこと

君っていうのはもちろん、今からこれを読む君のことだ。

21回目

「誕生日って、そんなにおめでたいもんかな」

帰り道。だって大人になんかなりたくないし~、と笑う友達のその一言が妙に心に引っかかった。たしかにーと返しつつ、万国共通で”うれしい日”なんだと相場が決まっている年に一度の誕生日の正体を、私は分からずにいた。

たしかに、私たちは大人になることに、私たちを大人へと押しやってしまう時間の流れに、抗うことを夢に見た。朝は迎えたくなくて、遮光カーテンの隙間からさしこむ朝日を無意味に無視し続けた。夜は明かしたくなくて、暗い街を横目にコーヒーを啜ったり、終電が過ぎ去って開きっぱなしになった踏切を見に出かけたりした。子供っぽい無駄をこよなく愛し、そんな日々が続くことを形だけでも祈っていた。

そんな些細な行為のうちのどれをとっても、時の流れに抗うことにすら成り得ない。私たちは流されるように、着実に現実に大人になってゆく。見たくないものは沢山あるけれど、それらは大体、目を背けてはならないものであることを知った。社会は密やかに私たちをその中へ組み込んでいく。その中では、人はまるで部品であるかのように、「どれだけ役に立つか」だけがその人の評価となる。私たちは、いつでも代替可能な存在なのだと宣告される。“私”が居なくても、この世界はなんら変わらずに回り続ける。静かで凶暴で至極当たり前のことだった。実を言うと、そんな当たり前から逃れられるとは誰も思っていないし、抗うことなど微塵も考えたことはないのだと思う。大人になるということは、静かで凶暴な当たり前を受け入れるということなのかもしれない。同じように大人を拒みたかった同期の何人かは、少し苦い顔をしながらすでに「20歳」を迎え、私も梅雨が過ぎればもれなく「20歳」になる。

そう、私たちは大人になる。

2000年生まれの私たち

私は2000年生まれだ。たまたま滞りなく進学したので、この春は大学2年生になるけれど、例の新型ウイルスによって私たちの春はおろか、当たり前にあったはずの学生らしい日常が、まるっと全部消え失せてどこにも見当たらないものだから、2年生になっただなんて今でもちょっと信じがたい。
世界ではたくさんの人が苦しみ、あるいは死んでしまった。経済はがたつき、あらゆる所に窮乏した人がいる。誰もが不安に包まれた今日を生き、明日は我が身と怯え、焦り、翻弄されている。パンデミックが世界から、私たちの「当たり前」の生活を現在進行形で奪い去っていくさまを、為す術なく呆然と眺めている。

私たちは絶望的に無力であった。

世界がこんなにも大変なのに、今年度のどこにもハレの日なんてなかったのに、誕生日だけはしれっといつもの顔でやってくるようで、それはなんだかとても腹立たしい。あんなにたくさんの「当たり前」を奪っていったというのに、パンデミックは毎年やってくる誕生日を奪い損ねていった。疫病を前にしてあまりにも無力である私たちの誕生日を、祝う気にはあまりなれない。よりによって世間が陰鬱で大変なこの年に、20歳という節目を迎える私たちはあまりに可哀想じゃないだろうか、と思う。今年は余計に、「誕生日って、そんなにおめでたいもんかな」と言った友達の気持ちがよくわかる。誰にも会えないし、誕生日どころではないくらいに生活のあちこちがおかしくって、誕生日そのものがいわゆる”不要不急”だとされたとしても、誰も文句ひとつ言わないように思われた。

しかし意外にも、今年度に入ってからの私の同期たちは、誰かの誕生日が来る度にライングループでたくさんのお誕生日おめでとうスタンプを送りあい、時には10人を超える人数で電話をしてお祝いをした。そうしてにぎわうオンライン上のやり取りを眺めながら私は一人、彼らと連なって歩く綺麗でもない駅までの坂道がやけに愛しかったり、子供っぽい無駄を愛してしまうようなこの時代が永遠に続けばいいと思ったりする理由と、それでもやはり大人になる彼らをお祝いしたくて堪らなくなるその理由とを、かわりばんこに見比べていた。彼らが大人になってしまうのも私が大人になってしまうのも、痛いくらいさみしいのに、彼らの誕生日には彼らの嬉しそうな笑顔が見たかった。さみしいのに、見比べた理由のそれぞれの根っこに、おんなじ暖かさが見えた。

星の王子さま を見送るような気持ちで

つい昨日のこと。2ヶ月ぶりに幼馴染ふたりに会った。アルバイト帰りであったにも関わらず、人に会うことを目的に自転車をかっとばす時間が、疲れを感じないくらい本当に気持ちの良いもので、そのことがとても嬉しかった。話したことはなんら普段通りで、その普段通りが心地よく、弱っていたこころが治っていくのが分かった。ついこの間までの「当たり前」がほんの少し帰ってきただけで、こんなにも気持ちが救われ、安心して、健やかになる。「当たり前」のように横にふたりがいる。

同じことを考えていたのかもしれない。ひとりがふと、「ねえ、言おうと思ってたんだけどさ、生きていてくれてありがとうね。」と呟いた。誰が疫病に罹ってもおかしくはない、家の外の誰かに会うことが当たり前でなくなったこの世界で、私たちは生きているのだった。

生きていてくれてありがとう

それは、私の存在に対する全肯定だった。

生きているだけで感謝されてしまうくらい、大変な世界になってしまった、と思ってから、その全肯定に泣いてしまいそうなくらい救われている自分に気が付いて、やっぱりそうじゃない、と思い直した。

私は自分のことを、こころの弱い人間だと思っている。気持ちのどこかでつい、私が私として生きることの意味を求めてしまう。意味が無くては成り立たない衝動は、ある種脆くて弱い。生きる上でそういった弱さが私にはあって、そのことを自覚しながらも、未だそれに支配されているように思う。私は私のことしか分からないけれど、けれどももしかすると、人間誰しも、君も、私と同じように脆くて弱いのではないですか?

2人を見送ってから、しばらく夜の街を歩いていた。ぼんやりと光る街並みを眺めていると、はたと『星の王子さま』を思い出した。
王子さまを見送った後に“僕”が見上げる夜空の星々が、もうただの星空ではなくて、王子さまをどこかに隠した“僕だけの”星空であるように、私が歩く東京の光る街並みも、同じように私の愛するひとたちの暮らしを密やかに隠しながら、私にだけそっと微笑みかけている。私はその微笑みを、その日の夜の街並みのなかに確かに見たのだった。これは確信だ。
私がこの目で見渡す「私の世界」は、ただそこにある世界などではなく、私が私以外の誰かや何かと、繋がったりほどけたりしながら編み上げてきた「私の世界」である。どんなに恐ろしいウイルスが蔓延ろうとも、変わらずそこに「私の世界」が美しく在るのは、その編み目のそこかしこに愛すべきものを隠しているからだ。

私は君に出会えたから、今ここにある「私の世界」を編み上げることが出来た。編み目ひとつ変わっただけで、クロッシェレースの仕上がりが変わってくるように、君は私にとってかけがえのない人で、そして今ここから君が居なくなってしまえばそれは、「私の世界」から編み目がひとつ“欠ける”ことを指す。編み目の欠けた私の世界はもう、これまで生きてきた「私の世界」ではなくなってしまう。たとえ君がりっぱな大人として社会に組み込まれていて、社会にとっては代替可能なちいさな部品のような人間であったとしても、「私の世界」には絶対に、君の替えなど居ないから。だから、私は君に、生きていてくれてありがとうと伝えるべきなのだ。もちろん、パンデミックなどが無い、すっかり平穏な世界に生きているのだとしても。

そして誰だって、「誰かの世界」の編み目でありたいと思うのではなかろうか。
それは人間の弱さである反面、強くありたいと願う根源的な力でもあるように私は思う。

はじまりの日

誕生日の正体はたぶん、私が君へ「おめでとう」じゃなくて「ありがとう」と伝える日だ。君が生まれ落ちたその先に生まれた「私の世界」に、今の私は生きている。恐ろしいウイルスも、殺伐とした世の中も、時折残酷さを見せる生活も、どんな罵詈雑言も、君が「私の世界」を成している編み目のひとつであるということを、否定することなど決して出来やしない。本当のことなんだ。

私は君の生まれた日に、君が過ごした今までの時間のすべてを、全力で肯定する。何も間違いはなかったよ。この世界で、今日まで生きていてくれてありがとう。

私たちが大人になって、社会が私たちに求める静かで凶暴な当たり前を受け入れてからも、このことはきっと思い出せるはずだ。

私たちはみんな等しく、子どもだったのだから。

「ねえ今日も、生きていてくれてありがとう」

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