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この感覚のことをそう呼ぶのか

定期的にやってくるこの感覚にまた今もさらされている。全てが遠くて、世間からつまはじきにされているような、誰かが私を陥れるとかそういうんじゃなく、ただ届かない。家族の中にいても、保育園の中にいても、いつも私はあの輪の中にいなかった。身体は近いのに、いつも少しのズレがあって、みんなと同じものをみても同じようには笑えなかった。愛想笑いを覚えてタイミングを図るほど、遠くなって行く。ライフステージが進むほど焦燥感みたいなものは薄れて、それでも時々その事実が重い。

決定的な何かやきっかけがあったわけではない。いつも中心にはこの感覚があって、いちいち怒ったり、それでも良いことがあって笑ったり、そういうもので覆われてかすんでいるだけ。諦めるしかない状況で、冷静になればなるほど、付加されていたものが削ぎ落とされていく。そして露わになったこの感覚に、何度も押しつぶされそうになってきた。崩れてしまわないように、感じる機能をオフする。すると楽しいこともわからなくなる。楽しいと思っていたことが単なる逃げだったことを思い出す。

本や漫画や歌に救われることもあるけれど、結局は表現できない自分が浮き彫りになるだけで、虚しさばかりが拡がっていく。ずっと、外に求めてきた。中学生になれば、高校生になれば、上京すれば、社会人になれば、大人になれば、私はみんなみたいになれると思っていた。問題は自分の中にあるのかと勘付いて、流行りの場所に行ってみても、限界を超えて働いてみても、たいした感動もなかった。ただ、疲れただけ。

私にはできない。

何をしても誰といても、夏のあの日に、とても家にはいられなくてそっと外に出て見た、空の色と緑の濃さにはっとした、あの景色を超えるものを見ることはできない。形を変えて動く雲、降ってくる銀杏の葉っぱ、風に揺れる竹林の音と陰、真っ暗な夜の雪の青さ。焼付いた景色は、いつもそこにあったものの呼吸が見えた瞬間だ。そしてまた人の息遣いが強くなるとそれらは無機質となる。

あの感覚。そうだ、私は、どんなに近くにいても、血のつながりがあっても、私はひとりだ。なんとなく急に寂しくなって誰かのそばに行っても、満たされることはなく、寂しさが増すばかりだった。家族の一員になれなくて、友達の言葉が分からなくて、それでもここにいるしかない。

これを、孤独というのだろうか。

私は孤独だ、などと思ったことはない。でもこの感覚は定期的にやってくる。共に生きると決めた人がいても、この感覚は中心にありつづける。どんな手段を使っても、きっと人は誰かと分かり合うことなどできはしない。同じ空間にいても同じものを見ることはできない。知っているのに、時々それを忘れて、理解して欲しくなるのかもしれない。理解したくなるのかもしれない。そうやってまた色んな感覚を付加して、諦めて、また押しつぶされそうになる。繰り返しだ。繰り返すことを無意味だと思いたくないから、何かを知ることができるかもしれないと、いわれのない可能性を引き合いに出す。人生に意味などないと、証明できないということだけを希望にして、必死に関連付ける。あの青と緑を思いながら。

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