見出し画像

考察 生きる意味とは

的確な表現のできないこの感覚。消えたいわけでもない、死にたいわけでもない、何かを見つけたいわけでもない、誰かにすがりたいわけでもない。ひとつだけあるとすれば、眠りたい。夢も見ずに、明日のことも考えずに、時間を逆算せずに、ただ眠りたい。

私の身体に違いないのに、違和感がある。関節のひとつひとつが軋んで、内蔵が詰まったような音がする。自分の手すら遠い。動かしているのが自分じゃないようだ。

遮断したはずの感情が働いている。何に対してこみ上げてくるのか、眼の奥からにじむのか。あかく縁の光る雲が、いつの間にか夏が暮れ始めていることを知らせる。お線香の匂いがしてもおかしくないような色だ。そういえば、あれは夏だったろうか。窓から入る陽の光が、私の伸びた前髪を透かして七色を見せた。この世のすべてを原子で表すような発見だった。虹が七色である理りを知ったようだった。

私は今何をしているのだろう。どこへ向かえばいいのだろう。働いて、帰ってご飯を作って、寝る準備をして、明日のために寝る。すべては働くために設計されている。私はなんのために働いているのだろう。生きるため?なんのために生きるの?果物は子孫を残すために実る。種を守るために甘くなる。子孫を残した先に何があるの?自身の種族を未来へ繋げたら何を見ることができるの?たった一つの種を守るために熟れた実が鳥に食べられて、そしてその鳥はさらに大きな獣に食べられるだろう。その先に何があるの?

私は生きるために生きることに納得できない。意味が欲しい。目的が欲しい。でなければ、耐えることができる自信がない。今にもくずおれてしまいそうなのに。

自分の無力を知っている。でも無力なだけではないことも知っている。わずかな影響の連鎖で、きっと私がここにいる跡は残る。それでも、私がここにいる理由は分からない。ここにい続けることを選んだ。昨日も、今日も選んだ。耐えた先に何かがなければ耐えられないのなら、私は何があると思って耐えることを選んでいるのだろう。漠然とした未来への不安と楽観を抑圧して、今日をやり過ごす意味。大きな歯車の一部分としての役割も分かる。でも歯車が壊れた時の結果を知らないのなら、継続に意味はない。世の中は便利だ。便利になって、どうしたいのかは分からない。

私は、生きる意味を知るために生きるのか。苦しい道だ。

生きる意味などない。人生に意味などない。それに意味を見出したり後付けしたりするのは本人の都合だ。それでも欲しいのだから、自分の腑に落ちるまで生きるしかない。闇雲に走ったり、考えに固執したり、その中の出会いに感激したり、時に呆けたり、そうやって時間に添うしかない。肉体の存続のために食べ、寝て、排出する。残された時間を意識しなくても、終わりはいつも隣にある。

なんとなく感じている。私の生きる意味。外に向けられたものじゃなくて、使命とかじゃなくて、きっと私は、それができたら考え抜くこともなくなって、意味を求めなくなる、そういうひとつの生命体に戻れること。何かを遺すなんて大義名分に固執しない、外からの評価に起因しない、私のためだけの生をみつめること。誰に影響しなくても、何かを変えることができなくても、ただ、いること。ここにいるという事実だけ。生まれたから生きるだけの、なんの役にも立たない存在が、なんの罪悪感もなしに純粋に自分に許されること。そしてそこからやっと、自分が何者かを知るために生きる。きっと現在進行形では知ることができない、過去からしか気付きは得られないと分かっているから、今が過去になった時のことを想像しながら生きていく。老いを受け入れた時に統合できる何かのために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?