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場はどうひらかれる?

2022年5月13日 カロク採訪紀 磯崎未菜

開催中の展覧会をまわってみよう

東京を歩き始めて5日目の今日は、NOOKの表現手法の一つである展覧会という形式について改めて考えてみようということになって、開催中の美術展をいくつかまわることにした。

昨日まで一緒だった中村くんは用事があったので、朝、瀬尾さんと二人で清澄白河駅待ち合わせ。ぱらぱらと雨が降っていて少し肌寒かった。

半蔵門線の改札を出て、道路の隅の方で瀬尾さんを待っている間、両手を広げてぐるぐると回りながら何度も寄ってくる男性がいて、景色的には笑えるけど、わりと怖くって、東京の生活ってこういうのだったな・・・となんとなく思い出した。

まずは東京都現代美術館へGO

瀬尾さんと合流。歩いて東京都現代美術館へ向かい、アーティストの藤井光さんと山城知佳子さんが参加している『Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展』を観に行った。

エントランスに入ると、がらんとしていて人影が少ない。コロナ禍のあいだ、全国の美術館は一定期間閉館したり、人数制限を行なったりしていたし、ワクチンの3回目接種が進んで、なんとなく落ち着いてきたかのように思われる今も、人が集まる場所にはなかなか足が向かないという人が多いのかもしれない。

藤井光さんの作品と「はだかの王さま」

藤井さんの作品から観た。1946年に上野の東京都美術館で開催された「日本の戦争美術展」をモチーフにしたインスタレーションで、戦争画についての作品だ。作家がかき集めたという美術の施工業者や運送会社が廃棄した資材や梱包材で、当時の展示されていた戦争画が実寸大で「再現」されている。
(藤井さんのこの作品に関する詳しいインタビューがあったので載せておきます。https://artexhibition.jp/topics/news/20220420-AEJ763245/

こんな感じ。肝心の戦争画をイメージとして見ることはできない。
その絵がどんなものだったかを想像するヒントは、そのサイズと、キャプションで提示された文字情報のみだ。

続く廊下に当時の資料などを写した映像の展示。これは瀬尾さんが撮ってくれてた写真

アンデルセンの「はだかの王さま」という物語について、私の先生がメールをくれたことがあった。
それは、ある時、先生が台湾出身のお知り合いとおしゃべりしていて、「アーティストは王様の裸を指摘した子どもの側に立つべきだ」という意見を伝えたら、その人は「街じゅうの人を見事に騙した詐欺師こそが、素晴らしいアーティストだと思うんですけど……」と言った、という内容だった。

私はこのメールを読んでとても楽しくなってしまった。
自分にはどうしても見えない、けれどみんなは信じている。これは単なる嘘のお話ではなくて、フィクションについて、ひいては表現についての話なのだなと感心したから。

詐欺師は無い糸を通して、無い機械ではた織りをして、一生懸命に働いているような完璧な身振りで、その動きはなんと王様自身や召使いにまで伝播してしまう。たしかにすごい。めちゃくちゃ優れたパフォーマーだ。そして、そもそもその詐欺師が一人ではなく二人組であることも大事なヒントだと先生は言った。

自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布なのです。

「はだかの王さま」より

長々と回り道をしてしまったが、ここで藤井さんの作品に戻るとすると、私にはどうも、藤井さんの今回の作品にはこのお話に出てくる詐欺師たちの細やかな手つきや配慮が無いように思われた。

人々がどうしても見たかったのは、見たことがないくらい“美しい”服(本当に見えないわけだけど)だったんだなと気づいてから、私は「はだかの王さま」のお話がより好きになった。それがたとえ見栄やプライドや意地や、なにか悪そうなものに支えられたものだったとしても、新たな美しさ(希望と言ってもいい)(それらはもちろん、視覚的なものだけを指すのではない)を知りたいという願いは、私たちがなにかを鑑賞するときに切っては切り離せない欲望なのだろう。そういう見方をすると、この展覧会の美しさって一体なんだろうな、と考えながら歩いた。

「はだかの王さま」全文はこちらから読めます。ぜひどうぞ。http://www.alz.jp/221b/aozora/the_emperors_new_suit.html

Chim↑Pom from Smappa!Groupのハッピースプリング展に行ってみよう

次に向かったのは六本木。森美術館で開催中の『Chim↑Pom展:ハッピースプリング』を観た。

入り口近くから

先ほどとはうってかわって、展覧会はとても賑わっており、10代から20代前半くらいの身なりがかわいい人たちが多かった。Chim↑Pom(今年の4月に本展覧会をきっかけに改名してからは、Chim↑Pom from Smappa!Group)のこれまでの活動網羅展!という感じで、彼らが2005年に結成してから17年間の日本の空気感というのがよくわかる、あるいは勉強できるような展覧会だった。私は相変わらず最初の作品である《ERIGERO(エリゲロ)》が面白くて、かなり長い間眺めた。メンバーのエリイさんが、男性の一気コールに体を揺らしながらピンク色の液体を飲み込んでは吐きまくる映像だ。

NOOKも2011年の東日本大震災をきっかけにして結成されたわけだけど、ハッピースプリング展を鑑賞していても、やはりその時期を境にしてなにか作品の雰囲気が変わっているような気がした。きっと世間も変わったのかもしれない。対立とか、秘密とかが無くなって、アイロニーが無効化されていくような感じ。
福島第一原発事故直後の福島県相馬でつくられた《気合い100連発》で青年と肩を組み彼らを励ましている(ように見える、というか映っているのが女性一人だけなのでそうにしか見えない)、それから《Non-Burnable》で広島に寄せられた大量の折り鶴に囲まれながら、それらを四角い紙に戻していくエリイさんを観て、これはもう観客の母体としての役割を全うされているのだなぁと思い、女性が年を重ねていくのって大変だな…とか思ってしまった。

《ウィー・ドンド・ノウ・ゴッド》
広島に投下された原爆の残り火を展示している。今後、世界中の美術館に分火されることが目指されているらしい。素敵な作品。

《道》とそこにいる人たち

NOOKで展覧会を開くとき、その基礎にあるのは「場はどうひらかれるか」という思考であるように思う。それを改めて考えるきっかけになったのが《道》という作品だ。人々が集い、出会い、賑わいやデモの舞台にもなる西洋にとっての「広場」は日本には存在せず、それを補完するのが「道」であるということはよく聞く話だが(参考図書:『都市の自由空間―街路から広がるまちづくり』鳴海邦碩著など)、Chim↑Pomはその道を美術館の中に出現させている。

この《道》はChim↑Pomにとって三本目となるそう。2017年に高円寺のキタコレビルで24時間解放していた《Chim↑Pom通り》は観に行った。関連して、その前年に歌舞伎町のビル一棟を会場として開催された「また明日も観てくれるかな?」展で展開されていたアンダーグラウンドな場も、Chim↑Pomがテーマとしても掲げている「公共性」が広く観客それぞれの身体に浸透した素晴らしい試みだったと記憶している。

それらに対して、今回の《道》はいささか居心地が悪く、閉鎖的であるように感じた。そもそも、わりと高めの入場料を払って入る公共施設の中のストリート的な「公共性」とはなんぞや…という気持ちにもならなくなかったが、もちろん今回の展覧会は回顧展なので、前者とは作品の位置付けが大きく異なることは理解している。そう考えると、「公共性」というのは、先ほど話に上がった「秘密」とかと関係があるっぽい・・・?

安心について

私たちがこれから場所を作るなら、やっぱり「公共性」については考えざるを得ないだろう。自分が家のほかにいて良い場所、居られる場所だと思えること。「公共性」を成立させるには当然、そこは安心できなければならない。今の時代の安心ってなんなんだろう、意外と安心できる場所って本当に少ないよなーって、帰り道で考えた。受動的な安心じゃなくて、積極的な安心ってあり得るのだろうか。しかも、その場所はみんなに開かれているという難問付きで。

おまけ:近辺のギャラリーつまみ食い

夜は近辺のギャラリーを行けるだけ全部回った。やっぱりAnish Kapoorの作品は現物を観ると視界が混乱してアガった。あと、小山登美夫ギャラリーで観たPaulo Monteiroさんの作品がかわいくて撮った。
一日中観まくって、めちゃくちゃ疲れた。美術観るのって超大変。

磯崎未菜(アーティスト・映像作家)

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