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【第2回カロク・リーディング・クラブ】@名古屋会場を振り返って

この記事では、2023年4月15日[土]に開催された「第2回カロク・リーディング・クラブ」の名古屋会場の様子をレポートします。執筆は名古屋会場のファシリテーションを担当した青山です。

名古屋での会場となった「ON READING」は「感じる、考える人のための本屋」を掲げる書店であり、小規模ながらも日本全国にファンがいる、名古屋を代表する文化拠点です。今回はそのギャラリースペースをお借りし、年齢も性別もさまざまな8名の参加者の方と「カロク・リーディング・クラブ」を開きました。

2つの資料を並べて読み比べる

今回題材に取り上げたのは、1923年の関東大震災についての作文集『震災記念文集』(東京市学務課編、1924年)と、1959年に発生した伊勢湾台風についての作文集『台風記』(名古屋市博物館編、2019年)でした。これらはその当時の小学生が書いたものを編纂したもので、作文そのものの制作経緯については以下のサイトに記されていますので、そちらをご覧ください。

『震災記念文集』の序文(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1716300/1/5

「伊勢湾台風資料」(名古屋市博物館資料紹介)
https://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_40/index.html

ここではこれらの資料を取り上げた経緯を少しだけ説明します。

伊勢湾台風は、直接経験した世代でなくとも、東海地方で小学校時代を過ごした人ならば授業などで一度ならず耳にする出来事であり、日本の災害史のなかでもきわめて甚大な被害を記録した災害です。また、この台風災害をきっかけに災害対策基本法や、現在の「防災の日」が制定されました。関東大震災が発生した日である9月1日は、それまで「慰霊の日」と位置づけられていたのですが、これを契機に「防災訓練を行う日」として認識されるようになったと言われています。
ところで、それほどの大災害であるにもかかわらず、全国的にはじつはそれほど知られていないということは、少なくとも東海地方に育った私にはにわかには信じがたいことで、後述するとおり、実際に当日のディスカッションの中でも話題になりました。
一方の関東大震災は今年2023年で発災100年を迎える、まさしく史上稀にみる大災害であると言えます。とはいえ、もはやほとんど歴史化されつつあるこの出来事を具体的に想像し直すということは容易なことではないと感じられました。
そうしたなかで、それぞれに小学生の作文集が存在し、かつそれらにアクセスできることを知った私たち企画者は、これらを照らし合わせて読むことで、何か考えるヒントを得られるのではないかと思ったわけです。とりわけ『台風記』については、2019年の翻刻を担われた名古屋市博物館の学芸員瀬川貴文さんにもご助言をいただき、6年生の手による作文4本、3年生の作文3本、『震災記念文集』6年生の巻の作文3本、3年生の作文3本を抜粋し、今回のテクストとしました。

1つのテーブルを囲んで

当日、名古屋会場では、ギャラリースペースの一方の壁面にホワイトボードシートを設置し、もう一方の壁面に東京会場の様子をプロジェクターで投影していました。本格的に降り始めた雨のなか集まってこられた参加者は、スペースの中央に置かれた1つのテーブルを囲み、それぞれがお茶とテクストとを手にした状態で今回のイベントをスタートさせました。



最初にオンラインで東京会場と挨拶を交わした後、名古屋では手を挙げていただいた方を私が指名するというかたちで、企画者があらかじめセレクトした4本の作文を順に朗読していただき、それを全員で声として聞くという時間をもちました。他人の声で読み上げられるテクストに耳を傾けるというのは不思議なもので、当然のこととはいえ、それぞれの声は個性的で、企画者のひとりとして準備段階で繰り返し読んでいたはずの私も、文字と目から連想されるイメージとは異なる新しい響きを感じていました。
そのうえで、20分ほど時間をとり、参加者各自でテクストを読み込むという作業をおこないました。ここでも、1本1本じっくり時間をかけて読む人もいれば、さっと最後まで目を通してから紙を捲ってページを行ったり来たりする人もいて、人それぞれの「読む」カタチが垣間見えました。

当時の子どもたちの言語化力、「震災記念文集」への違和感

その後、休憩時間をはさんで「てつがくカフェ」形式での対話をおこないました。以下、その中で出たトピックとキーワードについて簡単にふりかえります。

「バラックの生活」(梶原一雄、震災記念文集)
その世界にグッと引き込まれるほどの映像的描写力があり、小学生が書いているとは思えないほどの文章力を感じる。
発災から時間が経過し、出来事そのものから少し引いた視点から描写をしている印象がある。
一方で、我が身に降りかかった災禍についての気持ちの整理が十分には追いついていないような印象も与える。

「おそろしかった台風」(相根美弥子、台風記)
文章構成が巧みで、特に前半に「お母さんが頭がいたいといってねていました」と書かれている箇所は台風による気圧の変化の大きさを示唆している。
同じく前半で「弟は、トランプをポケットに入れ、「たいくつするとこまるから、トランプを持っていこうな。」と言っていました」という記述は台風の脅威を理解していなかったときの、避難という非日常のウキウキ感を表現している。
台風災害の単なる概要ではなく、きわめて個人的な出来事として、自分の身に起こった状況や状態の変化が、時間の記述と合わせてはっきりと書かれている。
それゆえに読み取り方が多様に開かれており、文章として引き込まれていくものだった。
冒頭の「悲しい日といっていいのか、恐ろしい日といっていいのか、わからない日でした」は、そのように書くことで自分の気持ちを整理しようとした方法の結果なのではないかと感じられた。

「学校がはじまった日」(宮本英世、台風記)
目に映った事実がそのまま書かれているが、平凡な光景から恐怖を覚える事柄までが淡々と並置されており、かえって一連の出来事の「消化されてなさ」が表現されているように感じられた。
それは小学校3年生のリアルな状況なのではないか。
物語的というよりも映像的な描写であるように感じられた。

「伊勢湾台風を省みて」(川窪巧、台風記)
出来事の迫真性や本人の感情の機微が読み取りにくいほど、気持ちが全面に打ち出されている文章だった。

「なくなったお友だち」(山口英子、台風記)
短い文章で説明も少ないが、人気者だった友だちの死という出来事、またそれに直面した本人の感情がダイレクトに伝わってくる。

「新しい学校」(畔野榮子、震災記念文集)
「わたしもいつしやうけんめいべんきやうして九月中あそんだ分を取かへすともりです」という最後の一文に見られるように、全体に明るく前向きなトーンで、被害の程度が小さったのか、あるいは震災という出来事をうまく消化できていないのか、いずれにしても、ある意味で子どもの感覚のリアルが感じられた。

「大地震大火事」(澁澤亨、震災記念文集)
「こういう所をしゃしんにうつすといゝ紀念になるよ」という言葉が出てくるように、非日常であるところの災害を写真に撮っておこうとする姿勢は、迂闊とも言えるが、現代でも変わらない性質のように思われた。

「伊勢湾台風に思う」(亀井玉美、台風記)
「台風にあっていない所へ行くと、みんながじろじろ見る」とあり、被害の程度の違いによって子どものあいだで差別があったことが分かる。それもまた現代(特に東日本大震災にともなう原発事故の問題)に通じている事柄であるように思った。

以上のように、名古屋会場では総じて、大災害を子どもたちがいかに言語化しているかという方法論的な関心からの意見交換がなされました。たとえば、物語的に展開しているか、あるいは映像的に記述しているか、心情を描写するのに形容詞を用いているか、などといった視点なのですが、いずれにしてもそこには、作文の主体である子どもたちが自身と災害とをどのように結びつけようとしているかが現れているのではないか、という議論に発展しました。

また『台風記』と『震災記念文集』を比較するという視点では、たとえば、遺体の描写の頻度が異なるため、「死」という事柄についての感覚の時代的違いがあるのではないか、といった意見や、台風記のほうが地名や人名といった固有名が頻繁に出てくる、震災記念文集は9月1日という日付のもつ意味(夏休みが明け、学校が再開する日)への言及が多い、といった意見が出されました。

特に議論が集中したのは『震災記念文集』の背後にある当時の思想の特殊性でした。「帝都」「国威」「大東京」といった言葉が当たり前のように使われていることにみられるように、天皇を頂点とする当時の中央集権的な国家体制を意識的にか無意識的にか子どもたちが肯定しているため、その後の歴史を知っている現代の私たちはそのことについての違和感を拭えない、というものでした。なかでも「震災後の流行」(岩田榮夫、震災記念文集)のなかにある「此際さうゆう物はぜいたくだ」という言葉は、戦時中の「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」といったスローガンを彷彿とさせるという指摘がありました。
ただし、一方でその言葉はCOVID-19が世界的に流行しはじめたときに「こういうご時世だから」とさまざまなことが自粛あるいは規制されたこととも類似しているという意見が出ました。そこから、災禍が権力にとって都合よく利用されうるということは現代でも変わらないのではないか、という議論も展開しました。


東京会場と再会する

対面でのディスカッションを経たあと、オンラインでの東京会場との意見交換に移りました。そこでのやりとりのなかで、特に名古屋サイドで印象的だったのは、現代の私たちの災害経験の違いと、伊勢湾台風についてのイメージの違いでした。

巨大な災害が頻発する今日にあって、近年の東海地方では、共通の記憶と呼べるほどの災害経験を必ずしも人々はもっていないのではないか、ということが浮き彫りになりました。2011年に発生した東日本大震災にあっても、東北地方あるいは関東地方ほどの直接的被害や社会的混乱はなかったように私自身感じています。それが、今回の作文の読み方のような距離感を生んでいたのかもしれません。

一方で、冒頭でも少し触れた通り、東海地方では伊勢湾台風は直接経験した世代でなくとも、義務教育のなかで一度は必ず触れる事柄で、少なくともその名前は常識として知られています。それが他の地方では必ずしも「常識」として位置付けられていないということはいささか衝撃的なことでした。

そこからの議論で見えてきたことは、災害をめぐる記憶というものには二つの傾向があるということでした。一方は、関東大震災や東日本大震災のように、「国家の歴史」という大きな枠組みに回収され、そのなかにある無数の個別性や特殊性、地域性のようなものが捨象されてしまうという傾向。他方は、伊勢湾台風のように、日本全国に無数にある「郷土史」のひとつとして極端に周縁化され、歴史の中心線から排除されていくという傾向。翻って、そうした偏った記憶の継承のあり方を避けるためにも、さまざまな記録を残すことや、それを読み返すことの重要性が今回のカロク・リーディング・クラブでは確認されたように思います。

なお、今回の名古屋会場でのてつがくカフェにあたっては、美術教育を専門として活動してこられた松村敦子さん(名古屋芸術大学)にグラフィックレコーディングを担っていただき、ファシリテーションは災害についての映像記録の研究をおこなってきた青山太郎(名古屋文理大学)が務めました。また、会場を提供してくださったON READINGさん、会場設営や映像配信の協力をしてくれた名古屋文理大学の学生スタッフのおふたり、そして参加してくださった皆さまに、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。


レポート:青山太郎(映像学者・名古屋会場ファシリテーター)

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