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時間という概念を排除すると…

時間という概念を排除して残るものはなにか?

小学校で習う「み•は•じ」で考えてみる。その答えは「道のり」➗「速さ」。つまり「時間」を構成する概念は「物質の移動」と考えられる。

さらにミクロな単位で考えると、この世に起こっている事象はすべて「物資を構成する最小単位の移動」に過ぎない。そう考えると、人の人生も「物質の移動」なのである。

究極人間の営みは、「飯をくって、外に出す」。

「所詮人間なんて上から入れて下から出すだけの生き物だ」
大学の社会学の授業で見た映画『K•T』のセリフが思い起こされる。

そう考えると、いま私を構成するこの身体の存在は、突然発生したものではなく、恐竜が居たあの頃の地球にもバラバラに散らばって存在していたし生きている間も新陳代謝を繰り返す訳だから、一年後には今の身体を構成する要素はまたバラバラになり、死んだ後も、この世界によりバラバラに散らばって未来永劫存在しつづけるのだろう。

そうなると何が「わたし」というアイデンティティを構成しているのか?という疑問もあるがいったん今回は置いておく。
(犬の足や、しっぽ、胴体、あたま、などをそれぞれを隠しても犬と認識できるという基礎心理の教科書にあったイラストを思い出す)

何が言いたいのか。つまるところ人間やこの世の存在は、一定の形を保ちつつも、仮初でしかなく、よく分からん固形物としてのカタチを必死に保とうとするナゾの「意志」によって成り立っているにすぎないのではないかということを思う。そう思うと、自分という存在はどこにでも存在しているし、この世に存在する全てが自分がであり、また他者や他の固形物であると思えてくる。

エントロピーが増大し続けているならやはりこの世の中は移動こそ絶対原理なのかもしれない。よく分からんが移動とすることが時間が存在する世界における本能なのだ。ハイダーとジンメルが提唱した幾何学模様の運動に情動を感じるように、移動に我々は「意志」という「神」を感じるのがおもしろい。

しかし、この地球においては生命には「産めよ増せよ大地に満ちよ」という基本原理がプログラミングされている。一見すると物質の「移動」には何かのカタチ必要としており、それは単純に「物質の最小単位はカタチを変えて、調和し移動し続ける」ための何かあるべき姿を作っているようにも感じるし、偶然の産物のようにも思える。

さらに人間は二足歩行で頭(脳みそ)を支えながら道具を使う事で、”余計な”まで思考を手にした。しかしこの余計な思考とやらは、単純な物質がなぜだか動き回る世界を、より複雑化させ、より非合理的にし、そしてより美しいと感じるようにもさせている。

人間は「生きる意味」という存在の理由を求める。それは、ある種大それた崇高な思考だ。「よく生きる」という自分の生を肯定するための考え方が、「物質の最小単位の移動」以上の甘美なエクスタシーなのかもしれない。

例えば、この世界は「物質を構成する最小単位の気まぐれな?ナゾな移動」に、思考を手にした人間は何かのカタチに美しさを見出した。

水のカタチを変える噴水や、必要以上に輝くイルミネーションように。我々が有史以来の短い期間で培った美的快感が、あらゆる存在にカタチを与え、そのあり方を固定させようとしているのではないか。

けれども、その美しさの根底に何があるのか?

もしかする時、単純化な移動の合理性(「産めよ増せよ〜」のプログラミングがそうであるなら)がそうさせているのかもしれないし、移動の合理性ではない、何かの「意志」に迫ろうとする途方もない試みなのかもしれない。

「意志」なくおこる(ようにみえる)地殻変動に翻弄されるように。私たちは壮大な偶然と気まぐれの中に、何か意味を見出そうとするように。

そこに本当に意味が存在するのかはわからない。

まるで原罪のように、私たちの思考はその美しさに気づき追い求めながら苦しんでいる。でもそれは決して、不幸なことだけではないと信じている。

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