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頑張らない理由より、頑張る理由を探したい

こんなタイトルだけの記事が下書きに眠っていた。いつ書いたものだろう。
もしかしたらここに綴る言葉達は、このタイトルを書いた時の気持ちとずれているかもしれないけれど。そしたらごめんよ過去のわたし。


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「20代の頃はがむしゃらに頑張っていたけど落ち着いた」とか、
「必死に何者かになろうとしていたけれど、無理しない、いまは何者でもない私がいいと思ってる」という言葉を、
ここ最近、というより30代にはいってよく聞くようになった。
よく言えば周りが落ち着いてきたのだ。
友人たちの、赤や黄色や真っ青に染めあげた頭や、奇抜で挑戦的なへんてこりんな色や形をした愉快でカラフルな服たちは、真っ黒に切りそろえられたヘアスタイルに、ニットのロングワンピースに変わった。

「このくらいの歳になると、なんか等身大の自分をそのまま受け入れることが幸せなんだなって思うようになったよねえ」
そんな友の、カフェで珈琲をすすりながら幸せそうに呟くセリフを、表面上と頭では理解できても、何故だか心が全くそれを受け入れられない。

等身大って、なんだ。

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なんだかあの頃は必死だったよねえ、何者かにならないと、みたいなさあ。
と笑う友に、わたしも「そうだね」と微笑み返す。

一生懸命頑張って、自分を表現して、傷だらけになりながら全身で叫び続けていたあの頃の方がよっぽど”等身大の自分”だった、のではないかと、ゆらゆらと心が揺れ動く。

人生は一度きり。

なんのために生まれて、なんのために生きるのか。
何故今世は人として生をうけて、ここにこうして存在しているのか。
わたしは何者で、なにがしたくて、生きているのか。
そんな事にひたむきに、必死に自分の居場所を探していたあの頃の方が、私たちよっぽど”生きていた”のではないの?


わたしはやっぱり多分今もまだ、”何者か”になりたい。
別にそんなのならなくたって生きていけるのだけれど。
それでも、何者かになりたい。無理したい。
必死でそれを追い求めていたい。

その姿が滑稽だったとしても。
頑張らない理由を探すより、頑張る理由を探す人生でいたいんだ、今世は。

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