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薬の匂いの手芸店(インタビュー+エッセイシリーズ「フライング・ディスク🥏」Vol.1 石原朋香〈エッセイ〉)

 K野さん、と呼んでいる店があった。駅から東西方向に伸びている本町通りの、真ん中あたり。ローソンの隣。いつも「水曜どうでしょう」のステッカーが貼ってある車が、店舗の右側に停まっていた。店に入ると、ふんわりと薬の匂いがして、オルゴールの音色でJ-POPを演奏する有線が流れている。正面にレジと処方箋のカウンターがあって、「動悸、してませんか?」「お腹の調子を整える」などと、大きくコピーが記された健康食品のポスターが貼ってある。いかにも小さな町の薬局の風景だが、この店の向かって右半分は、完全に手芸屋だった。いろんな長さのファスナーがずらっと並ぶラック。ミシン糸はシャッペスパンしかないが、色のバリエーションは豊富だった。壁際にはコットン生地、プリント生地、キルティングが、巻かれた状態で並んでいる。私は薬を買ったことがなかったが、ここは「K野薬局」という店名で、あくまで「薬局」と言う体裁で町の商店街に馴染んでいた。

 小さな町だった。3年生の時に、いわゆる「平成の大合併」があり、周辺の町がどんどん合併していった。わたしの町は、「隣町」……とは言っても車で1時間ほどかかって峠を通るのであまり隣という感じがしなかったところ、とくっついた。面積だけがめちゃくちゃデカくなった。学校が3期制から2期制に変わり、女子の出席番号も早くなって、石原朋香は3年3組3番になった。
 わたしはその町を、圧倒的にかわいいものや心ときめくものが少ない町だと思っていた。みんなは土日になると家族で函館にドライブに行って、何やらかわいい雑貨やナルミヤ・インターナショナルの服を手に入れてくる。わたしはあまり函館に連れて行ってもらえなかった。行っても、父親と2人で、ユニクロとゼビオ(スポーツ用品店)と大きな本屋を回って、味噌ラーメンを食べてくるコースで決まっていた。だからポンポネットもエンジェルブルーもなかった。みんなのことが少し羨ましかった。
 だから「合併」という言葉は明るく響いた。町が新しくなったら、ボロボロの校舎を建て替えてもらえるんじゃないかと思ったし、本町通りに新しくできたポプラという玩具屋さんも希望の象徴みたいだった。ポンポネットやエンジェルブルーが町にやってきたらいいのにと妄想した。
 その町に住み始めるより少し前、保育園の頃、我が家は東京にあった。子どもごころに新天地での生活に期待してやってきて、田舎での生活をそれなりに楽しんではいたものの、どこか自分のスペシャルなものを置いてきた感覚があった。シルバニアファミリーを買いに行ったデパートの玩具売り場や、自転車の後ろに乗って行く駅ビル、賑わう商店街の一角で回すガチャガチャを、置いてきた。どっちがいいとかじゃないけど、わたしには「置いてきた」ものがある、と自覚していた。それで、町が大きくなることで何かを取り戻せるのではないかと期待したのだった。だけど、特に変わることはなかった。小学生向けのファッション雑誌をめくりながら、自由帳に欲しい服や雑貨を描き込んでいた。

 日々はつつがなく続き、わたしは5年生になった。そこで、少しだけ世界が動いた。家庭科の授業が始まって、ミシンの使い方を覚えたのだ。

 金曜日の放課後、ランドセルを置いたらまず図書館に行った。
 青い鳥文庫の新刊をサッと見たら、手芸本コーナーにまっしぐら。バッグが欲しかった。子供向けの本に載っているのはカラフルすぎてダサいと思ったので、大人向けの方にあるナチュラルなデザインの本を手に取った。ベージュの無地や、ブラックウォッチのリネンの布でできていて、貝ボタンやはしごレースがあしらわれている。たっぷりマチがあって、内側にはポケット。使いやすそうだ。これに決めた。本を借りたら、そのまま自転車を大急ぎで漕いで、K野さんに直行する。店は逃げないのに、大急ぎだった。
 薬の匂いを嗅ぎながら、30分以上かけて(いや、1時間くらいいたかもしれない)どの材料ならば本に載っているものの代用になるか、じっくり考えた。リネンはないけどコットンならばある。裏地に使う白っぽい生地は、うっすら小花柄が入ってるものにしよう。持ち手のリボンはクリーム色で……
 白衣を着た店員さんが、選び終えたわたしににっこり笑いかけて、購入した手芸用品を袋に入れてくれる。

 土曜日、車にミシンを積んで父方の祖父母の家に行った。茶の間に折りたたみ机を置いて、ガタガタと縫った。「ちょっと失敗したけど、ま、いっか」というような、小さな綻びが何点もある仕上がりだったが、理想のトートバッグが完成したことに私は満足だった。図書館に行くたび、違う本を借りて、たくさん縫った。K野さんには死ぬほど通ったし、足りない素材があれば、薄暗い100円ショップにもハシゴした。

 売ってないなら、作ればいい。そのほうが買うよりうれしい。それがわたしの基本姿勢になった。実は両親も、祖父母も、叔父や叔母も、いとこも、我が家はみんな何かしら手を動かすのが好きだ。幼い頃からその影響を受けている面も多分にあると思う。だがそれ以上に、わたしが育ったこの町が、わたしにものを作る必然性を与えた。町を離れても作ることはやめていない。バッグやポーチから発展して、高校生の時は演劇部の衣装を作った。刺繍、ビーズアクセサリー、和装の時の髪飾りにするつまみ細工、粘土で作るスイーツデコ、手製本、編み物……。なんでも作ってみたいと思ってきたし、今も毎日のように何かしら作ることを考えている。あくまで趣味だが、わたしにとってはもはや「生き延びるための手段」のひとつになっていると思う。これを作ろうと決めてから手芸店に急ぐ時の、心拍数が少し上がる感じを、いつも求めている。

 週明け学校に行くと、クラスメイトに声をかけられた。
「朋香、金曜日K野さん行ったしょ」
何もかもが筒抜けである。
「レジ打ってたの、あれうちのかーさんだよ。じーっくり選んでたよって」
恥ずかしいけど、絶対にまた行く。また行った。

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