見出し画像

つーさんへの手紙

つーさん、こんにちは。
8月5日に書いています。

コロナになって2週間ほど経ちました。体調はだんだんと元通りになってきたけど、咳がまだかなり残っていて困ったなと思っています。

7月25日から仕事に復帰したのだけど、なにしろ5日間ずっと寝込んでいたので体力が戻らず、めまいも少しあったのでその週はほぼ在宅ワークにしてもらいました。
来週後半から仕事が夏休みになるので、とりあえずそこまでなんとか乗り切ろうと思っています。

心配して手紙を送ってくれて本当にありがとう。うれしく読みました。
この暑さでつーさんがどんな思いで苦しく過ごしているかと想像して、わたしもとても心配しています。
先月末までで請願作業ができなくなってしまったとのこと、飲んでいるお薬の影響なのかな?
焦らずに、まずは心や身体を落ち着けて、つーさんが健康を取り戻すことを祈っています。
本当に、しんどいよね。

もらったお手紙に「なぜ生き続けようと思うのか」という質問があったので、わたしなりに真剣に考えてみたのだけど、これが答え!というはっきりした答えは見つかりませんでした。

ふりかえってみると、わたしが「もう生き続けたくない」と思ったことは一度だけあって、それは三年前に目の病気になった時です。
あの時は本当につらくて、絶望してしまい、死んでしまいたいと思いました。
その時のことを思い返してみると、それでもとにかく生きなくてはと思ったのは、娘の存在があったからです。
娘が大人になるまでは一緒にいてあげたい(いてあげなくては)という思いと、でももうしんどくて生きていたくないという思いが同じくらいあって、すごく苦しかった。

わたしはもともと、昔から、長生きしたいとか、将来これをしたいあれをしたいということは思っていなかったし、今も、自分のために長く生きたいとは思っていません。
ただ、自分が母親であるという意味において、娘にとっては替わりのきかない存在なんじゃないかと思うと、娘を悲しませたくないので今は絶対死ねないし、信号無視は決してしないし、危険な場所にも近寄らないようにしています。
そういう思いを「生き続けようという思い」と言うのかは分からないけど、人は、誰かのために生きようと思うことが案外と自分を支えているものなんじゃないかと思います。 

それから、六年前の春に父が亡くなった時、ああ、もう父とは会うことも話すことも絶対にできなくなってしまったんだなと思いました。
人はいつかかならず命を終える時がくるので、「お互いに生きて会うことができている」ということは、実はとても奇跡的なことなんじゃないかと思います。
わたしがもし明日いなくなったらつーさんはきっと悲しむだろうし、つーさんがいなくなったとしたら、もちろんわたしは悲しいです。

つーさんは、いま、きっと生き続けることの意味とか原動力を見失って辛い時を過ごしているのではないかと想像しています。それはとても苦しくて心細い時間なのではないかとも。

でも、いま、ふと思ったのだけど、お花ってなんで咲くのでしょうね。
実をつけて、種を作って、また次の花を咲かせるため?
でも、もしこの先強い風が吹いたりして、実がつかず種も作れなくなるとしても、花は今日の日を綺麗に咲くのではないでしょうか。
どういう理由があってそこに咲き、この先どういう運命をたどるのであっても、花はやはり綺麗だと思うし、わたしは花が咲いているのを見るのが好きです。
わたしたちが生きていることは、いろいろな場所にいろいろの思いを持って花が咲いているようなものなのかもしれないと思います。

少なくともわたしはつーさんのことを一輪の花のように思うし、それは他にひとつとして同じもののない、美しい花です。

花が風にゆれるように、生きていると色んな気持ちになるけれど、そこに咲いている限りはわたしもきちっと花としてがんばろうかなと思うのです。
がんばれと、なにかから言われているような気もします。

素直に思ったことを書こうと思って、つらつらと書いてしまいました。こんな答えになったけど、つーさんはどう思いますか?

元気になっていたら、夏休みに面会に行きます。
暑いけどお互いに元気でいようね。

2023.8.5