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乙女椿の卒業

おっと。
おおっと!?
9日間も間があいてしまった。

春だね、なんて思う気持ちの穏やかさだとか、丁寧に季節を感じているふうもまったくないままに、気づいたら3月が終わろうとしている。

なんてこった!

でも、桜はまだ咲かないね。
だから今年の春は、まだだよ。

3月下旬は気持ちの調子がなんだか低空飛行で(超・低空飛行で)、なんだか、一日一日をゼイゼイ言いながら何とか生きてるみたいな感じなのだ。
上品先生には相談しているけれど、もはや、なにか原因があってこうなっているのか、薬を飲んでるからこうなってるのかよくわからなくなってきた(あるあるではないでしょうか)。

職場や友人、周りの人にはそんなふうに思われてないと思う。普通のののっつさんに見えてるだろう。仕事もしている。
そんなふうに見せていないから、分からないだろう。
でも、実際は毎日が精神的な自転車操業だ。
必死、必死。

家族にはバレてる。バレてるというより、家でもきちっとしてるなんて無理じゃん。
夫はわたしの良き相談相手というか愚痴り相手になってくれており、毎週日曜に長い散歩と長いお茶に付き合ってくれる。
娘には、いまの心の状況をモロ出しにはしてないけど、「お母さんよく寝てるな」とか「元気ない時があるな」くらいは思ってると思う。でも娘は良い意味で人に干渉しないのでそっと心配しつつ洗い物をしてくれたり、洗濯物を畳んだりしてくれる。干渉せず、押し付けがましくなく、手伝いだけしてくれる。なんていい子なのだ 。
(わたしの中学時代なんか、実家の母の手伝いなんてろくにしてなかった!)

苦しい苦しいわたしの胸の内を、ぜんぜん知らずに笑い合う人が隣にいるとき、そうなんだよね、と思う。
人は、どんなに近い距離にいても、どんなに慮っていても、いま自分の隣にいる人がどんなことに苦しみ、何を支えに生きているかも分からないのだと。
分からなくても仕方がないのだと思う。
人の心の内をを分かりきることなんてできない。できると思うことはおそらくかなり傲慢だ。

でも、せめて、その悲しみや苦しみのほんの少しのかけらを感じたときには、それをわたくしのものとして懐かしむくらいの共感者でありたい。
人は、懐かしみあうことならできるのだと。

・・・

ふと、仕事の帰り道、夜のベランダで風に吹かれている時、このままいなくなっちゃってもいいかな、と思う時がある。
どん底につらい時よりも、そこからすこし持ち直して、ふっとつらさが抜けた「すこしいい気分」の時に思う。
いま、終わりでもいいかななんて。
この世に未練はないかな、この毎日の苦しさが無くなるのであればいまが終わりでもいいかな。なんて、春のにおいがする風に呟いてみたりする。

でもそれは嘘です。
嘘だよ嘘。未練あります、大ありです。
大きな未練がある。わたしは娘が大好きだ。娘の悲しむ姿は一秒でも見たくない。
娘のいちばんの味方でいてあげたい。
だから意地でもいなくなりません。
娘の存在がわたしをいつも生かしてくれている。そんの変だな、変だよ、って思うけど、本当にそうなんだから仕方がない。

・・・

娘の中等科卒業式があった。
中高一貫校なので卒業という感じもないのだが、一応、卒業式も入学式もあるのだそうだ。
春風にセーラー服をたなびかせて笑う娘を見て、大きくなったな、と思う。
大きくなったけど、変わらない。わたしの中では娘は娘のまんまだ。かわいいかわいい大事なたったひとりの女の子。これからもきっとそうだろう。

そしてわたしはいつまでも弱っちいダメ母なんだよなー。
そこがなんともはや。

・・・

祝日、幼なじみのこまちゃんに会って丸の内の紅茶屋さんでおしゃべり。

こまちゃんも息子さんの中学受験を終えてさぞホッとしているだろうと思ったら、「なんだか落ち込んでいて心療内科の受診も考えてる」なんて暗い顔していうのでびっくりしてしまう。
そんな、愛されOLみたいなオシャレな見た目で何を言うか!と思ったが、本人はまじめだ。
よくよく話を聞くと、長きに渡る中学受験という闘いの「荷降ろし鬱」的な感じもありそうだったが、「そんなことくよくよ考えていても仕方が無いのにずっと考えてしまう。人に言われたこととか、やだなと思ったこととか」と。
同じだわー。分かるよー。

考えても仕方がないのにね。
でも、やめられないんだよね。
せめて人にこうして聴いてもらうだけで、すこし救われた気持ちになるよね。なんて頷きあった。

・・・

あらまぁ、春なのに暗いことばかり書いている。
すみませんねどうも、と、どなたかに対して、自分に対しても謝りたい。

せめて綺麗なお花を。

これは、乙女椿というお花です。

まるで和菓子みたい。
強く、可憐で、とても静かだ。
そんな風でありたいものだな。