スイミングスクール

ゆっくり体をほぐしながら、寝る。腹をさする。ゆっくり鼻から吸って口から息を吐く。ずっと繰り返す。少し骨盤が整うらしい、ストレッチのようなものもする。明日は、夕方からプールに行きたい。金曜日は、すごく混んでいた。新しい水着が買いたいけど、今使っているものは、サイズがすごくちょうどいい。高校のプールの授業で買ったフィラの水着。水から上がると、すごく重たい。

小学校3年生になるとき、母にSPEEDO社の水着を買ってもらった。黒地で、ヒモの通っているすぐ下にSPEEDOと白いロゴが小さく入っていた。まだ高速水着云々で、いろいろと騒ぎになる前だった。ブーメラン型の水着で、僕は、それがすごく恥ずかしかった。単純に布で覆われている部分が少なすぎたし、周りの子たちは、みんなスパッツタイプというか、太ももが覆われている水着を履いていたから、自分だけブーメランなのが恥ずかしくて仕方なかった。自分だけが、太ももを丸出しだった。

その時、僕は、幼稚園から通っていたスイミングスクールの選手コースに移ったばかりだった。母は、張り切ってスズランデパートのスポーツ館に僕を連れて行き、そのSPEEDO社の水着を買った。いくらくらいだったんだろう。子どもが、選手コースに入って、さぞ鼻高々だったんだろう。しかし、あのSPEEDO社のブーメランの水着はすごく恥ずかしかった。結局、一年と続かずに選手コースをやめているから、あの水着自体は、大した期間履いていないはず。

スイミングスクールが嫌いだった。今でも、塩素のにおいを嗅ぐと、あの時のスイミングに行きたくないという気持ちが、よみがえる。

競技会に参加するメンバーを選ぶために、記録を測ったことがあった。僕は、自分が泳ぐ直前、お腹が痛いと言って、そのまま逃げかえった。コーチにめちゃくちゃ怒られたような気がする。それまで普通に泳いでたやつが、お腹痛いわけないもん。とにかく帰りたかった。その時、僕はもっぱら剣道の道場ばかり行っていて、ほかの子たちが、週3とか4とか泳ぎに来ているところを、週2しか練習に参加できていなかった。週2日だと、練習についていくだけで精いっぱいで、そもそも学年的に僕が、下から2番目くらいだったから、体力の問題はあるにせよ、練習をこなすだけで、毎回息絶え絶えだった。あっという間に、僕より後に入った子たちにも抜かれてしまった。全然、追いつけなくなってしまった。水の中で、泳いでも泳いでも全然追いつけない感覚は、すごくこわかった。単純に悔しくもあった。あとから来た子たちに抜かれていって、置いていかれるのは、恥ずかしかった。僕の高いプライドが、それを許さなかった。後から来た人にまで抜かれるのは、嫌で嫌で、僕は棄権することで、何とかプライドを保った。母には、コーチが嫌だとか適当なことを言った。もともと母もあのコーチのことをよく思っていなかったから、ちょうどよかった。そう言えばやめられるだろうと僕は思っていた。僕は、もう水泳自体をやりたくなかった。もう十分だと思っていた。水の中で苦しい思いをするのは嫌だった。

結局、僕は、すぐ別のスクールに移った。選手ではない、普通のクラスでそのまま6年生の秋まで泳いだ。週に1回。一度始めたことはやめてはいけない、と母に厳しく言われていた。どうしてもスイミングスクールをやめさせてもらえなかった。毎週月曜日、嫌だ嫌だと言いながら、通い続けた。何の目標もなく、ただ泳いでいた。大会に出るわけでもなく、ただ泳いでいた。新しいスクールに移ったとき、水着はスクール指定のものに変わったような気がする。そんなものなかったかもしれない。覚えていないけど、別の水着になったんじゃないだろうか。

6年生の秋、急遽中学受験をすることになった僕は、気が付いたらスイミングスクールをやめていた。塾の帰り、剣道の道場に向かう車の中で、スイミングはやめてきたからね、と母に言われた。あの時の母の後頭部と夕焼けを今でもよく覚えている。僕は、ああ、そう、とだけ言った。拳の一つでも握りしめていたかもしれない。思えば、あの頃から、全部がなくなっていったんだ。僕は、完全な空の器になるための道を走り始めた。外見だけが人間の、ただの空洞になるため、一生懸命、受験勉強を始めた。

今でもプールは好き。

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