渋谷

「どいつもこいつもわかってないんだよ」

Tは寝ぼけ眼で宮益坂を下っていく僕の後ろ姿に向かってどなった。もう夜の10時を過ぎていた。

ほかの人に向かってどなったわけではなかったと思う。僕とTは、渋谷のミニシアターで映画を観て、宮益坂から渋谷駅に向かっていた。僕たちは映画館を出て、歩道橋を上って下りた。そこまで僕たちは何も話さず、何となく僕がTの一歩前を歩いていた。僕たちはごくたまに映画館に映画を観に行く。帰るころには、Tはいつもこうやって今観た映画についての文句を怒り混じりに話し始める。今日は、最近観たものの中でも、特にTのお眼鏡にはかなわない作品だったようで、すぐには話し出せないくらいの憤りを抱えていたらしい。

「映画っていうのは、90分の芸術なんだよ、結局。それが今日よくわかった。90分より長い映画を撮る監督ってのは、自分が何やりたいのかわかってもいなし、考えてもいないんだよ」

僕は映画を観る習慣がない。Tと知り合うまでに映画館で観た映画は、多分、頑張ればすべて数えきれるし、そのほとんどは小学生の時に親に連れて行ってもらったアニメ映画だ。映画のことなんてさっぱりわからない。今日観た映画のことも何とも思わなかった。

「今日のなんか、あれで商業デビューしてるなんて信じらんないよ。俺から見たってあいつらが本質的な勉強をしてないのがはっきりわかる。表面的な多様性のことしか見えてないんだよ」

僕は、彼の話に相槌を打ちながら宮益坂を下り続けた。時折、「やっぱりそうなのか」みたいな表情も織り交ぜて、彼の監督批判を聞いていた。彼がどこかの映画監督のことを馬鹿呼ばわりするのはいつものことで、それがわかってここまで来てるんだから、僕として文句はない。いつものことだった。

「やっぱりゴダールなんだよ」

これもいつものことだった。Tにとって、すぐれた映画作品とは、ゴダールの作品のことだった。僕は、未だにゴダールというかっこいい名前とTから漏れ聞いたいくつかの作品名でのみ、ゴダールという監督のことを認識している。それだけの情報で、何となく知ったような気になっている。

Tの話はいつの間にか今日観た映画の話から、ゴダールの話にシフトしていた。もう今日の映画の監督への怒りは、どこかへ行ってしまったんだろうか。僕は、観たこともないゴダールの作品のことを聞きながら、スクランブル交差点の人混みと熱っぽく語る彼の顔を交互に見ていた。映画はとにかく90分間の芸術らしい。


「結局、どいつもこいつも馬鹿なんだよ」

Tは、手に持ったアイスコーヒーのカップに向かってつぶやくみたいに話し始めた。口を開けばTは彼が言うところの馬鹿な人の話をする。

「結局バカが頭いいフリしてるせいで、再開発なんてくだらないことが終わらないんだよ」

僕たちは何年か前に宮下公園を潰して建てられた商業施設内のベンチでコーヒーを飲んでいた。彼はコーヒーには、ミルクも砂糖もいれない。僕は、ミルクだけを入れる。何となく、全く同じ飲み物を男二人で並んで飲んでいることが恥ずかしかったので、僕は同じものを注文したとき、少しずらすようにしていた。

「まあ、宮パきれいだからいいけどね」僕が当たり障りのないことを言う。実際、そうとしか思っていない。僕たちは再開発のおかげで、きれいなベンチに座って一休みできているわけだし。

「タバコは?」

「ああ」と僕が言った。

「な」

そのことを忘れていた。Tは喫煙者だった。彼が一日にどのくらいのタバコを吸うのか知らないし、そもそも何本吸っていると聞いても、非喫煙者の僕にはぴんと来ない話ではあるが、とにかく彼がタバコに依存しているという雰囲気を僕は彼から感じたことがなかった。彼がやけにタバコの話と喫煙所がなくなっていくことを話すことをむしろ不思議に思っていた。それほどタバコは彼にとってエッセンシャルなものなんだろうか。

「まあ、急に吸えるところなくなったら困るよね」僕がまた当たり障りのないことを言う。

僕は、何とも思っていなかった。喫煙者がどうなろうと、いつまでも再開発の工事をやっていようと、映画が90分以上であろうと、どうでもよかった。そのことに関心を持つことができなかった。

「困るよねえ、か」

Tはコーヒーを片手に、通りの方に向かってつぶやいた。ああ、僕も馬鹿なやつだと思われているんだろうと思いながら、僕は、ミルクの入ったコーヒーを飲みほした。