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亡くなった祖母を見た話 +α

2009年の夏、長年同居していた祖母が急性骨髄性白血病で亡くなりました。
大正生まれの91歳、大往生でした。

90歳近くなってから、たびたびボヤいていました。
「もういつ逝ってもいいわ〜。疲れたわ。」

ウソやなと見抜き、「ほんとかいね。いつ死んでもいいんか?」
と訊くとニヤリと笑って、

「やっぱりイヤや。まだおりたい。
と言っていたお茶目な祖母でした。

いわゆる痴呆もなく、立派な言い訳をしたことも。

ある日洗面所で、
コップに浸けておいた上下の総入れ歯をシンクに落としてしまったとき、
あっ、入れ歯落としたじ。」と意地悪く指摘したら、

「落としたんやない。落ちたんや!」
と言ってイラっとしたことがありました。
うわ〜、ばあちゃん、まだまだ達者やわと思ったのが懐かしいです。

最期の祖母

さて、話を本題に戻します。祖母が異状を父に伝えたのは亡くなるたった2週間前。訴えた症状以外にも、私が見たときは指に突起状の異物があったり、明らかに何かがあると思えました。

それから、すぐに近医に受診。海の日の後、血液検査結果が出ました。白血球の増殖や幾つもの異常値が指摘され、すぐに大病院に受診するよう勧められ紹介状を書くと医師に言われました。

紹介先を当時の私の勤務先にしてほしい旨、家族が依頼しましたが、病床に空きがなく、私の勤務先は受け入れを断り、ここで数日過ぎました。祖母は寝込むようになり、異状を訴えたときにはなかった症状も出てきて、とにかくどんな料金の個室でもいいからと勤務先にお願いし入院させました。

医師に言われたのは、あと2、3日という命の期限。もう数日の命。心配で、一緒にいたいと私や家族が交代に泊まり込み病室で過ごしました。

亡くなる前日の午後から大きないびきをかくようになり、その後昏睡状態となり、日付が変わった後すぐ、静かに息を引き取りました。

看病はたった5日間。入院後数日で逝った祖母に、父も、叔母も、叔父も口を揃えて、子ども孝行やったなと、しみじみ言ったのが思い出されます。

祖母が一緒に帰ってきた

退院手続き、葬儀屋の手配をすべて終え、私は横たわったままの祖母と一緒に帰宅。言葉は覚えていないけれど、ずっと帰路につくまで祖母に手を掛けて、話しかけていたように思います。

帰宅後、手前の大きめの部屋に祖母を寝かせ、私は家族と居間で話をしていました。祖母の部屋はその居間のちょうど横にあって、引き戸は開けたまま。電気も点けたままでした。

そのとき、泣いている家族は誰もいなくて、私も会話に入りながら、ふと振り向き祖母の部屋に目を向けたそのとき、部屋にいる祖母を見たのです。

部屋の手前にあるベッドには手すり、いわゆるベッドガードがありました。その手すりに右手を掛けて、いつものように、ヨイショ、ヨイショとのんびり歩いている祖母。着ていた服は入院時に着ていた白黒のボーダーのシャツでした。

「あ、ばあちゃん、一緒に帰ってきたんや。」

その瞬間の私は、祖母が亡くなった感覚がなく、お出かけ先から一緒に帰ってきたそんな感覚だったのです。その不思議な感覚のまま、3歩ほど歩く祖母を見ていたのです。

顔、表情、頭の角度、髪の毛、体つき、服、右手を手すりにかける仕草もすべてその動きがはっきりと見えるのに、すべてが白黒で、薄いのです。固体ではないとわかるくらいの薄さ。まるで、映写機から映し出された白黒の映画を見ているような姿。

そこで、ハッとしました。
えっ、まさか!ばあちゃん、亡くなったんやった!

えっ!!!!!!! ちょっと、もしかしてワタシ、”見ちゃった”?

すぐに家族に言った。
「ねぇちょっと、今、部屋で歩くばあちゃん見えたんやけど。」

家族は表情も変えずに、
「ばあちゃん、あんたと一緒に帰ってきたんやわいね。」

すげぇ。驚かないのか。

もう一回振り返った。恐る恐る・・・
でももう、のんびり、ヨイショ、ヨイショと歩く祖母はいませんでした。

13年を経て

あの日から13年経った2022年の祖母の命日、私は結婚しました。
そう、私の入籍日は、祖母の月命日です。

暦もよく、語呂合わせもよく、その日にしたいと思いました。
だけど家族が天国に行った日、やっぱり不謹慎かなと悩みました。10円ハゲになるかと思うほど考えて、両親や叔母、叔父にも相談したら、皆んなあっけなく同じことを言って同意してくれました。

「ばあちゃん、喜ぶと思うよ。その日がいいんなら、その日にしまっし。

消臭力のコマーシャルの西川貴教さんもお母様の3回目の命日に再婚されています。命日を選んだ理由は、「命日が来るたびに寂しい気持ちになっていたけど、それが別の思い出に変わるから、いいんじゃないか。」と敢えてその日にしたと。

これを読んだとき、入籍日にしよう、思い出して感謝する日にしようと決めました。

故人は思い出してもらえることが線香代わり、成仏になると聞いたことがあります。だから、ばあちゃんには、「たくさん可愛がってくれてありがとう。いつも思っています。」という感謝の気持ちと、

これから人生を一緒に過ごし思い出をつくる夫には、「私と出会ってくれてありがとう。結婚してくれてありがとう。これからもよろしく。」
という感謝の気持ちを、

両方を思う日しています。

会いたいな

ばあちゃん、あの世でどうしているかな。
お化けでもいいから、会いたいなと今でも時々思うのです。お化けって失礼かな?

うらめしや〜とか言って、急に出てこられても困るけど。
まあ、それはないか。恨めしくはないもんね。マイペースに楽しんでたもんね。

「まあ、ばあちゃん、まかせるわ。
ののこ アメリカにおるけど、ピューッと飛んで、どこでも来れるやろ?」

声、届いたかな・・・ん?

「ばーあちゃん、聞こえたけ? 

ののこの声、聞こえたかいね?」


まぁ、ちょっと、返事が来ないのでわかりませんけれど、
皆さん、ばあちゃんが本当に来てくれたら、noteでご報告します。
一応、自由意思は尊重したいので、本人の意思も確認してOKなら。

猛暑?残暑?の怪談話になるかと思いきや、思い出話になってしまいました。

お読みいただき、ありがとうございます。

ベイビーの私。10円ハゲを恐れる以前に、薄かったです!


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後記

たびたびの金沢弁、大丈夫でしたか?

ご参考まで文中太字で示した方言の解説です。
「ほんとかいね。」→「それほんと?」
「まだおりたい。」→「まだ居たい。」
「あっ、入れ歯落としたじ。」→「あっ、入れ歯落としたよ。」
「その日にしまっし。」→「その日にしたらいいよ。」

てな感じです。

"まっし"は典型的な金沢弁。

ばあちゃん、よく言ってくれたな。
「ほら、たくさん、たんまっし!」

「たんまっし」は「食べなさい」の意味。
よく美味しいもの、作ってくれました。

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