見出し画像

終わり良ければ総て良しなのかな。という話

これって日本の諺(ことわざ)じゃないらしい

日常的に使う言葉じゃないかもしれないけれど、誰もが一度は耳にしたことがあるんじゃないでしょうか。

「終わり良ければ総て良し」

これは『物事の結末が大事で過程は問題にない』という意味の諺です。
実は私は知らなかったんですが、これはシェイクスピアの戯曲にも『All's Well That Ends Well』という名前であり、むしろここから取られた日本や中国発祥の諺ではないみたいです。
知らんかった。

そして、インターネットでこの言葉を検索すると、「ピークエンドの法則」というのを見つけました。

ピーク・エンドの法則とは、「人はある出来事に対し、感情が最も高まったとき(ピーク)の印象と、最後の印象(エンド)だけで全体的な印象を判断する」という法則です。

この法則は、心理学・行動経済学者のダニエル・カーネマン氏によって1999年に発表された論文の中で提唱されました。

ピーク・エンドの法則 - 一般社団法人日本経営心理士協会 (keiei-shinri.or.jp)

と、このような法則だそうです。

私はこれを見たときに思いました。
「これって本当にそうなのかな?」って。

確かに分かるんです。
ピークエンドの法則と調べた時に出てくる例を読むと納得はできるんです。特に行列の話。

行列に並ぶと、特にディズニーに行くと強く感じると思います。というか私は感じます。
ソアリンやトイマニに乗るためにめちゃくちゃ並んで、その並んでいる時は「長いなー」とか「最悪だ」とか思うのに、いざアトラクションに乗ってみると「最高!!!」になります。
そしてこの記憶を思い返した時に、「並んだなー」って記憶も残るけど「楽しかったな」っていう記憶の方が残っていて、するとソアリンやトイマニに抱いている印象はってなると、「最高」になると思います。

けれど、これを人生とか学校生活とか、あるいは就職活動といったものに対して考えてみた時にすこし疑問を感じてしまう部分がありました。

そして、「終わり良ければ総て良しって本当に?」というような、あるいはどうしたらそう思えるのかな?と考えるようになりました。

どうしたら「終わり良ければ総て良し」って思えるのか

私が考えた結論を先に記させていただくと、その物事に対して 良いことの数>悪いことの数 といった時にこの理論が自分で納得できるのではないかと感じました。

ここからは例え話をしてみましょう。
私の学校生活(ここでは高校としましょう)は楽しい記憶として残っているんですよ。けれど、全てが順風満帆だったかと聞かれるとそんなことは全くなくて、嫌で思い出したくない記憶とかたくさんあります。
友達との人間関係に悩んだ時期だってあるし、先生とのトラブルに巻き込まれたりとか、本当に今思い出しただけでも当時と同じくらい怒りがこみあげてくる思い出も持っています。
そしてその中には高校三年生の年が明けて、あとは卒業するだけ。っていう時期まで長引いていたものもあります。

けれど私の高校生活は、それ以上に楽しかった思い出の方がいっぱいあるんです。教室で友達とバカやってた時とか、文化祭とか修学旅行の思い出とか。

先に挙げた悪いことも卒業の時までにはなんとか全部解決していて私の代はトラブルなく全員卒業できたし、高校の卒業式というイベントの時に私は不安とか、心残りとかはなく卒業ができました。

なので、総合的に私の高校生活を見た時に私の学生生活は「楽しい」というものになっていてつまり、「終わり良ければ総て良し」状態でした。

でもこれは、それぞれの数で見た時に明らかに「嫌なことよりも良いことのイベントの数が多かったからそう思えているだけなんじゃない?」と思いました。

例えば同じ不安とか何もない状態で卒業出来ていたとしても、良いことと悪いことの数があの時の私と逆だったら、本当に終わり良ければ総て良しだったのでしょうか。

皆さんはこの終わり良ければ総て良しについてどう感じているでしょうか?

例えば大学受験。
志望校に落ちて、行きたい大学に全滅して、最後まで行き先が決まらなくて、三月入試どうするか。今まで全く調べた事の無い大学、なんとなく自分が興味がありそうな学科がある。
オーキャンとか行ったこと無いし、入試の時に初めて大学構内に足を踏み入れたこの大学だけ合格した。
みたいな状況の時に、「でもまあ大学には行けるんだし少しでも興味を持てそうな学科なんでしょ?いいじゃん、終わり良ければ総て良しだよ」って思うのでしょうか?

例えば就活。
行きたかった企業に行けなくて、最終的には業界は全然違うし、給料もいいか悪いかで言えば悪い部類にはいっていて。
でもまあ自分がやる職種としては同じだし、勤務地が近いから。それにほら、就職できたんだから。いいじゃん、終わり良ければ総て良しだよ。って思うのでしょうか?

私はこうしたパターンに疑問を持ちました。
確かに大学には行けてる、確かに就職は出来ている。という大きい枠組みで見たら当初の目的は達成されていると思うんです。けれどもこの場合、終わり良ければ総て良し!とはなりにくいんじゃないかと思うんです。

人にではなく自分に言いたいこの言葉

そしてこの言葉に対して強く思ったのは、人に終わり良ければ総て良しとは言えない。ということです。

この言葉は自分を肯定してあげるためにいう言葉なんじゃないかと感じました。ここまでよくできたね。というような自分に足してのねぎらいの言葉というような立ち位置です。

まず…!私みたいに物事に対して起きた量みたいなもので判断している人にとって「終わり良ければ総て良し」って相手に言われても「全然良くないからぁ!!!」と思ってしまう時があります。
確かに、有終の美を飾ったのかもしれませんが、私の脳内でその物事に対する印象は「良しで終わってません!悪しですから!!!」となってしまうと思います。(面倒くさい、この人)

確かにこの諺の本来の意味である過程じゃなくて結果が大事という部分、そしてあなたはその結果を出しているんだから自信もちなよ。という意味で使おうとしても、他の言葉の方が誰も傷つけないのかな。と感じました。

そして同時に、この言葉は自分で自分にかけてあげる類の言葉なんじゃないかと感じました。

自己肯定の為の言葉、確かに過程は大事だけれどあなたは結果を出して、あなた自身がその終わりを良くしたんだからそんなに気落ちしないで。とか、その物事に対して悪いことだけじゃなくていいこともあっただろうに全てを受けつけないみたいなことはしないで。っていう自分を守るための言葉
そうした言葉なんじゃないかと考えています。

私のスタンス、今は過程で未来は結果

この言葉について記していた時に、私のスタンスはこうでありたいと思うようになりました。
それが、「今は過程を大事にして、未来で結果を大事にしたい」ということです。

私は結果が良ければそれはそれは大いに喜びたいですが、それだけに着目するのではなくて過程も大切だと感じるのです。
それに、最近起こった事象に対して過程を気にせず結果を大事にしろ。というのもなかなかできないのでやっぱり今は過程を大事にしたいです。だってそうすることで、何が良くて何が悪かったのか。それを理解すること、学習することが出来て次に繋がると思うから。

そして、そうして過ごしていく中で昔のことを考える時に、終わりが良かったものに対して「でも過程がな」と思ったとしても、その時に自分がその時の過程を顧みて次につなげてくれているので、今=未来の私は「まああれは終わりがよかったからいいんだよ」くらいのノリで生きていければいいのかな。と感じました。

今回は「終わり良ければ総て良し」、それに付随した過程と結果についての思考を記してみました。