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表現者のわたし

こんにちは、中村野々花です☺︎
前回の記事で"役者じゃないわたし"の紆余曲折を長文駄文で綴ったのですが、
今回の記事は"表現者のわたし"の紆余曲折を長文駄文で綴ろうと思います。


つまり、"役者になるルーツの整理"をしようかなと。


人生の基盤は紛れもなく、合唱団
岐阜県ののどかな田舎で生まれ育ったわたしは小学1年生から高校3年生まで、約10年もの間地元の少年少女合唱団に在団していました。
この合唱団は"青少年育成の場"として「歌を通して、仲間関係を築いたり自ら考えて行動したり思いやりなどの心を育てたりできる、そんな子どもたちが人間的に成長できる場」として発足された素敵な目的をもった団体でした。
そのおかげでわたしは人として大切なものを学んで成長することができたし、今でも合唱団生活で培ったものが生かされているという場面に遭うと退団した後でも本当に合唱団への感謝は尽きません。

わたしは物心つく前からステージに上がるという経験を積んでいたみたいです。
ただ残念なことに、わたしに歌を上手く歌うセンスや踊りをかっこよく踊るセンスはありませんでした☺︎
10年も続けていたからそれなりにはなりましたが、逆を返せば何も習っていなくても自分と同等スキル・それ以上の方はたくさんいます。また同期や同級生と比較してもわたしのソロ・ソリデビューや初キャストはかなり遅いものでした。
在団年数を重ねるほど努力を続けるほど、自分のセンスのなさに打ちひしがれもするのですが
"憧れのお姉さんのようになりたい!"
"ミュージカルのキャストになりたい!"
"合唱団がすき!"
とにかく自分の中にある思いを胸に先輩に教えていただいたり同級生と一緒に自主練したり必死でしがみつきながらレッスンに臨んでいましたし、家では弾けないピアノでなんとか音を取ったり鏡の前で踊ったりしてどうにか上手くなって自分のやりたいことを叶えたいと思っていました。

舞台・演劇を意識し出した、高校演劇部
高校時代は合唱団を続けたまま演劇部に所属しました。合唱団に役立つなにかを別の角度から得られるのではないかなと思って。
そのため演劇部では裏方、特に照明や舞台監督として舞台に携わっていました。
舞台に立つ表現者たちを裏で支える表現者、
表現者たちを客観的に観られる立ち位置、
そんなイメージで裏方をしながら、表方に自分が立った時にどう還元していくかも考える演劇部時代でした。

でもわたしの高校の演劇部は環境としては恵まれていませんでした。色々と原因はあるのですが、一番辛かったのは先輩方が誰一人おらず一年生の初心者たちだけで0から舞台・演劇・部の基盤をつくらなければならなかったことでした。
今となっては勉強になった経験ではありますが、当時は図書館に行って演劇関係の本を借りて知識を得たり、過去の先輩方が置いていった仕込図やQシートをひたすら読み解いて舞台づくりとはなにかを掴んでみたり、とにかく試行錯誤の日々でした。
基盤づくりからしなければならない環境を全く恨まなかったと言えば嘘になるし、地区大会で他校の演劇部の先輩後輩をみて羨ましかったというのが正直な気持ちです。でも引退とサボりによって先輩が誰も来ず誰にも頼れないという環境は、ある意味で自立心や自主性を育ませてもらったと今はとても感謝しています。そしてそれらを育む中で舞台・演劇への意識を培っていったし、相互的に合唱団のステージとは何が違うのか・ステージとはなにかの意識も培っていきました。
舞台ってステージと違ったおもしろさがあるな、
演劇って合唱団とは違った表現のよさがあるなとそのおもしろさを興味深く感じるようになりました。

演劇部の大会の時に撮影した調光卓
舞台を俯瞰でみられるのが照明のすきポイントだった



やっと努力が実った、合唱ミュージカルキャスト
高校1年生の合唱団の定期演奏会で初キャストを務めました。『不思議の国のアリス』のトランプ兵・ジャック役です。
しかしジャックは、セリフはたった二言で合唱ミュージカルなのにソロもなし。そしてなによりオーディションがおこなわれなかった役でした。
帽子屋の役を受けていたのもあってオーディションをしていない役にどうして選ばれたかもわからなかったし、そもそも何でもって初めてキャストができたのかも不思議でたまりませんでした。
ただパンフレットに"ジャック 中村野々花"の文字を観た時の感動は忘れもしないし、シーンとしてはとても短かったのに観に来てくれた家族や友達の「ジャックよかったよ!」の言葉にこれまで頑張ってきてよかったと思いました。
今はなんとなくあれは実力ではなく努力のおまけ賞だったのではないかなと思っていて。当時わたしが中学3年生の受験期に一度も休団せずにレッスンに参加し続けたことやソロやキャストに選ばれなくても努力し続けたことを踏まえて、チャレンジ枠としてのジャック役に努力のおまけ賞としてのわたしを当てはめてくださったのかなとなんとなく感じています。
でもやっぱり憧れのキャストは楽しかったしまたキャストをやりたいなと思い続けるようになり、より一層身の入った状態でレッスンに臨みました。

『不思議の国のアリス』ジャック
後ろ姿ですがハートの女王様に裁判にかけられています


そしてその次の年、高校2年生の定期演奏会では初めて主役を務めました。『ブレーメンの音楽隊』のロバ・ベルボルト役です。
しかしブレーメンはオーディション自体かなり難航。ベルホルトに立候補したのはわたしのみでも何回もソロを歌ったりセリフを読んだり、ほかのキャストのオーディションを振られることもありました。
基本的に合唱ミュージカルの主役は音域的にソプラノが務めることが多く、わたしは声が低くパートは長年アルトだったので役のソロが自分の音域に合っていませんでした。でもどうしてもベルホルトがやりたくて音域を広げるために家で自主練したし、オーディションが長引けば長引くほど演劇部で培ったものを合唱団に費やす時だと知恵と経験をフル動員させたことは今でも覚えています。
そしてベルホルトとしてステージに上がった時の景色やいただいた拍手は今でも鮮明に覚えているし、家族や友だちだけでなく知らない方からも「あなたのロバは素敵だった」の言葉に、自分のやりたいことが誰かを感動させられたのはとても嬉しかったです。母校の小学校から「ぜひ子どもたちの前で『ブレーメンの音楽隊』をやってほしい」と言われた時は本当に驚きました。
ジャックの時と違ってベルホルトの時はしっかりと努力が実ったと誇りをもつことができました。

『ブレーメンの音楽隊』よりロバのベルホルト
いい笑顔なのは犬のハンスが仲間になってくれたから



今思えば人生の転換点だった、有志の高校生劇団

高校1年生から2年生に進級する間の春休み、『ブレーメンの音楽隊』のベルホルトのオーディションを受ける少し前のこと。地区大会でいつも同じになる他校の先輩から演劇部宛てに、
「僕は本気でやる気のある人と演劇がしたい!」と一回きりの有志の高校生劇団の発足と公演参加についてお声掛けいただきました。初めて"劇団として"公演をおこなうことになりました。
「いつもは地区大会でたたかっている高校生たちが協力して舞台をつくる。しかもやる気のある人たちだけで。」
わたしにとってそれは本当に魅力的で、部としても個人としてもたくさん学ばせてもらおうと部員何名かと参加させていただきました。参加者は皆役者で照明というか裏方として参加したのは自分だけでした。ただ演劇をおこなう上でこれまでにない恵まれた環境でした。色々と理由はあるのですが、なにより切磋琢磨する環境がここにはあって本当に人に恵まれました。
わたしは発足人の先輩が書く伏線回収劇の笑って泣ける脚本がだいすきでしたし、高校生だからこそ熱量がすごくてたくさん刺激をいただく稽古場でした。

ただ事態が急変したのは本番1ヶ月前。
急遽役者が1人出演できなくなって代役を立てることになったのです。発足人の先輩が申し訳なさそうに連絡をくださりました。
「もし代役を頼まれてくれたら中村さんのやりたかった照明をやらせてあげられなくて申し訳ないのだが、もしよければ代役を頼めないか。
中村さんが断ったら音響として参加している人に代役を頼むので遠慮なく断ってくれて構わない」
概ねこんな文章だったと思います。
ただこの音響の方、人数不足のために手伝ってくださっていた発足人のご家族の方で演劇部ではない方でした。
「ここで演劇部じゃない方に代役を頼んだら、演劇部としてわたしは何をやっているんだろう・何をやらせてしまっているのだろう」
その考えにわたしは二つ返事ぐらいで代役を引き受けました。

舞台に立って役者を名乗り出した今、同じように本番1ヶ月前に代役を頼まれて二つ返事でやりますと言えるかというと悩んでしまいます。それくらい本番1ヶ月前での代役は荷が重いものでした。
持ち役の進捗の悪さと、完成に近づきつつある他役との差。
「舞台はみなでつくるもの」「舞台は総合芸術」であるが故の、
「わたし1人が皆の足を引っ張っているのではないか」という申し訳なさ。
裏方から急遽役者になった焦りはひどかったし、内部は本番1ヶ月前の代役と分かっていても観ている人にとってそんな事情は関係ないことも余計に焦りを加速させて。
稽古場ではついていくのに必死だったし、
稽古場外では帰り道に部員にセリフの早回しを手伝ってもらったり暇さえあれば台本を読んだり。
日々精一杯でしたがいつまでも自信は得られず、本番でさえ会場に向かう車の中で不安のあまり泣いていました。
しかも本番は2回公演だったのですが、昼公演でセリフを飛ばして頭が真っ白になりました。これは結構トラウマとして舞台に立つことへの恐怖心を煽りました。夜公演は最後のセリフで袖にはけてからやっと終わった安心感とほかの役者さんも達成感で感極まっていて、みんなで裏で泣いていました。
個人の不安は尽きなかったけど、全体としていい舞台がつくれたことは間違いありませんでした。

本番後のアンケート回し読みと劇団解散式でわたしの心は救われました。
自分の役をほめていただけたこと、
この劇団にとって必要な存在になれたこと、
劇団っていいな・舞台演劇っていいなと知ったこと、
そして役者の経験を通して自分が成長できたこと、
だからこそ役者っていいなあと感じたこと。
あれだけの思いをしたからこそ、役者に憧れと尊敬を持って役者になりたいと裏方から役者へ転向を図りました。

『心ココにあり』より永守(看護師)役
本当は劇団AZという名前があったはず


表現者か役者になるか天秤にかけた、進路選択
物心つく前から表現の世界にいて、物心ついてからも表現の世界にいることがすきだったわたしは高校3年生の進路選択でとても悩みました。
色んな経験を経たからこそ進みたいと思う道がたくさんあったからです。裏方として進むことを考えた時期もありましたが、結局役者としてお芝居の道に進むことを決めました。
岐阜ののどかな田舎にはお芝居を満足にできる環境はなく大学進学を機に上京して、大学と並行してお芝居も両立してやっていこうと決めました。

高校3年生の5月末、大学受験のために合唱団を退団。そして演劇部も引退しました。
将来のために必死で勉強して学費半免で大学に通ったことも、両親に納得してもらうために岐阜県の財団法人が運営する格安の学生会館(寮)を見つけ出しお芝居の養成所の資料を用いて将来設計について話し合う場を設けていただいたことも、あの時に地道に必要なことを積み重ねたのは自分でもよくあそこまで頑張ってきたなぁと思います。


役者のルーツ、表現者のわたし
合唱団では"ステージに上がる"
演劇では"舞台に立つ"と表していましたが、
きっとどちらも"表現者として出演すること"を指していて、"同じ意味の言葉を違う言葉で表していたのかな"と思います。ここでは同義として話を進めますが、自分が思うに、
合唱団そのものや歌や踊りはわたしの中の表現者としてのルーツ、
合唱ミュージカルや高校での舞台演劇は役者としてのルーツではないかなと感じています。
「センスはないけど努力をする」
「与えられた役割をコツコツ果たす」
それがとても中村野々花という表現者の人生だと思いました。


表現者から始まった役者としてのわたしのお話は次の記事へ。そして中村野々花として綴る最後の記事にします☺︎


根っからの表現者 中村野々花

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