努力の話
どうも、のののです。
書きたいことが見つかったので、書いていこうと思います。着地点は見えているので、いけるはず。よろしくどうぞ。
はじめに
はい。タイトルでわかると思いますが、今回は努力の話です。
努力は何にでもついてきますよね。幼いころから続けてきた勉強もそうだし、例えばギターを弾こうと思っても練習をしなけらればならない。
何か新しいことを始めるときや、向上を目指す際は欠かせないものです。
努力
自分はこれまで努力をしたことがないと、自分ながら思っています。
これまで生きてきて、努力の必要が無かったのか、そこから逃げてきたのか、あるいは,,,。
努力の必要が無かった、というのは非常に恵まれた話でしょう。
容姿の優れない人は、体型や服装に気を使ったり、メイクをしたりしますが、もともと優れている人はしたことないはずです。容姿に限った話ではありません。不真面目なのに成績がいい人、声がきれいな人、髪質など、様々な点で優劣をつけることが出来ます。
結論から言うと、努力の必要がなかったのは、自分が置かれた状況で平均値を超えていただけの話だと思います。先ほど、私は努力が必要とされる場面を2つ書きました。この部分は、後者の「向上を目指す」ことに当たります。劣等感を抱いたり、現状に不満がある人がとる行動は、「解決を求める」か「放置」だと思います。そもそも私は、現状に不満を持たなかったのです。私の成績はそれなりにいいほうでした。まぁそれも中学校まででしたが。高校に入ってからは、そういかない。勉強しない人が良い成績をとれるほうが間違っています。周りはテスト勉強をするのに、私はしないんですから、当然です。私はここで、努力をするべきだったのです。しかし、しなかったのです。理由は先ほど書いた通りです。劣等感はおろか、不満すら持たなかった。最初こそ驚きはしたものの、ある種の納得じみたものを感じていました。努力しようと試みましたができませんでした。
ここで私は、初めて気づきました。自分は努力の仕方を知らないのだと。やり方を知らないものをやろうとしても、できるはずがありません。
あるいは、「知らなかった」わけです。
天才
天才っていますよね。今パッと浮かんだのは、棋士の藤井さんですね。ある程度年齢が上の方が活躍することが、普通の世界で自分より年下が戦っているのを見ると、そう思わざるをえません。
よく天才と努力は相反するものとして扱われがちですが、実際はそうではないことに気づきました。俗にいう天才に才能は不要かと聞かれたら、Noですが。天才も少なからず努力はしていると思います。少なかったら、才能にひれ伏すしかありませんが。天才にも努力は必要なのです。ちょっとした例を書きましょう。
私は、スマッシュブラザーズというゲームが好きでよくやっており、競技、eスポーツとしても追っているのですが、そうするとプロゲーマーと自分の違いが浮き彫りになるわけです。私は淡々と目的もなく、楽しくプレイするだけですが、プロは違います。もちろん楽しさはあるでしょうが、プレイする際の意識配分や知識量に大きな差があると感じます。ここが努力の部分だと思います。特に知識はなにか読んだり、自分で発見しなければ身につきません。システム面や技の特性、キャラクターの違いなど、必要な知識は多くあります。ただプレイするだけで身につく、気づくものもありますが、そんなものは氷山の一角にすぎません。深く知るには努力し、勉強しなければなりません。当たり前といえば当たり前ですが、それができるかできないかで、実力に差が出ています。
私のようななにもしていない人間からすれば、スポーツのトッププレイヤーは全員天才に見えます。しかし彼らは、何時間も努力している。その事実は揺るがないでしょう。
1つの結論
ここまで書いてみて、私は1つの結論を出しました。
「努力を、努力と思わないことが最も正しい」
どーんと置いてみました。順を追って書きますね。
天才について考えているときに思い出したことが1つ。
私の友人に、自他共に認める語彙の貧相な男がいます。彼は事あるごとに、言葉の意味や漢字の読みなど、私に尋ねてきます。知っていることには私も答えられますので、かみ砕いて教えた記憶があります。彼はいつもお礼の言葉と共に半ば冷やかしのように言いました。「天才だな!」と。今思えば、これは努力の話につながるのです。
彼は、活字嫌いの気がありました。私はよく本を読みました。彼からすれば、本を読む行為はエネルギーを使い、つらいもののように映り、敬遠されていました。
彼から見れば、読書は「努力」の一環で、私から見れば、「娯楽」でしかなかったのです。
私はここに努力の髄があると思うのです。ほかにも例をあげましょう。
日本人の我々からすれば、日本語を話すことは何ら難しくありません。努力した覚えなど微塵もない。しかし外国人からしてみれば、日本語を学び話すことは、難しく努力しなければならないものなのではないでしょうか。
つまり、努力は娯楽や別の何かの、側面にしか過ぎないと思います。
先ほどプロゲーマーの話を少ししました。彼らは本当に楽しそうにゲームをしています。なぜプロゲーマーになったのか話しているのを聞いても、大半は、ゲームをしていたらこうなったと話します。彼らは娯楽としてゲームを楽しみ、勝つために努力(に見えるもの)をしただけだったのです。
というわけで、努力と思わないことが最も正しい。に至るわけです。
おわりに
こんな感じでしょうか。書きたいことは書けた気がします。が、どこかしら分かりにくい、読みにくい部分あると思います。
そこは私の努力不足ということで。
いままで、環境に不満を持ったことがない自分が、大学嫌いになっています。あまりよくないことだと思っていましたが、そう考えると案外悪い傾向でもないのかもしれないですね。
努力はあるものの、1つの側面であると書きましたが、そうでない場合もあると思います。娯楽として楽しんで、努力していたものが楽しめない瞬間だってあるでしょう。勉強が嫌になるときもあると思います。
解決策は知りません。楽しんで努力していけたらいいですね。
ここまで読んでいただきありがとうございました。 また次回。
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