言えなかった言葉を言えないまま

少しだけ弱音を吐かせてください。これが私の感情全てではないよ。前を向くと決めている。でも、後ろ向きな気持ちがなくなるわけではないから。

最近、どうしても他人と話すことが上手くできなくて家に閉じこもっている。今の私にとって何がだめで、何がいいのかもう分からない。アルバイトも、行ってしまえば案外できる。誰かとご飯を食べに行けば、楽しい。でも、何かが違う気がする。私は今、全てから逃げたいのだ。

私は私を生きることに、もう疲れてしまった。嫌いになったわけではない。私は私の生きてきたこれまでを愛している。私は私を愛している。どうかしあわせに生きていて、と私以外の私が愛しているひとへの感情にも似た愛で、私は私のしあわせを祈っている。

もう、疲れた。生きたい。しあわせになりたい。美しいものをたくさん見たい、触れたい、聴きたい、感じたい。美しい言葉を書きたい。誰かを全力で愛したい。愛する誰かとおだやかに時間を過ごしたい。
やりたいことがたくさんある。大切にしたいものがたくさんある。これからもたいせつなものに、出会いたいと思っている。

でも今じゃない。今は、何も壊さないままにただ私の中で、時間を止めたい。私がどれほど願っても、私も周りの人たちも歳をとる。季節は過ぎ去って新しい季節になっていくし、私を取り巻く環境も変わっていく。それでも、私は立ち止まりたい。

それが可能な環境にあることは、とても恵まれていることだ。留年してもいいと言ってくれる親がいること。それを可能にする親のある程度の理解や寛容さや優しさ、経済力。実家にいることで、家事をしなくても生活がある程度まわっていくこと。休んでもいいよと言ってくれる周りの友人や先輩。
ゼミの先生には、親が許してくれていることや実家にいることを話したら、「プレッシャーにはしなくていいししないでほしいけど、あなたは相当恵まれている」と言われた。そうだよな、とぼんやり思った。とても、恵まれている。愛されている。そのことすら今は少しつらい。つらいと思う自分に嫌気がさす。申し訳ない。苦しい。いろんな言葉が思い浮かぶ。どれも違う気がする。

私よりつらい人がこの世にはたくさんいる。でも、人それぞれの地獄があるし、絶望は比べるものではない。自分はつらい。苦しい。それだけでいい。自分の苦しさを苦しさとして、認めていい。
ずっと、そのことを自分にだけ言えずにいる。

助けてほしい。

ずっと、この言葉だけが言えずにいる。
だって、みんな困ってしまう。私は19歳で、もうそれなりのことは自分でできてしまうし、ある程度のことは自分で片付けるべき年齢だ。感情を他人に押し付けるようなことをしていい歳はとっくの昔に終わってしまった。せいぜい制服に守られている間くらいだ。あの時期を、泣きながら過ごしてしまった私に、差し伸べられた手を上手くとれなかった私に、もう無条件の救いの手はやってこない。そういうものだ。仕方のないこと。学校に行かないことを受け入れてもらって、なんとか卒業させてもらっただけで感謝するべきで、満足するべきで、それ以上を他人に求めるのは暴力だった。それはその頃から分かっていた。苦しさを言葉にできるようになったときにはもう、助けてほしいと他人に言える歳ではなくなってしまっていた。

ただ、抱きしめてほしかった。大丈夫だよと言って、隣にいてほしかった。

私は考えることができる。言葉が書ける。自分の感情も状況も、冷静に見つめることができる私がいつもどこかにいる。それをある程度、他人に伝えることができる。他人と話すときは、それなりに感情を殺すことができる。できないなりに、何をしないといけないかを考えて、自分でどうにかすることができる。どれだけ限界でも、他人に迷惑をかけてはいけないという気持ちで無理矢理自分を動かすことができる。

不幸だと思う。できなければ、誰かが介入しなければどうにもならない状況になっていれば、違ったのかもしれないと思う。助けてほしかった。あのとき、心を壊しながら「するべきこと」をするときに、助けてほしいを言えずにいたときに、壊れてしまったものが、今も私を苦しめている。

いつからか、自分の絶望を語るとき、笑うことしかできなくなった。相手は全然笑っていなくて、私だけがヘラヘラしていて、恥ずかしくなる。でも、これが私だ、とも思う。私なのだ。こうしないと生きていけなかった。これ以外生き方が分からなかった。まっすぐに助けを求められるほど、自分に価値があるとは思えなかった。仕方がなかった。

去年、助けてもらったのだと思う。でも、上手く受け取れなかった。申し訳ないな、と思う。愛してもらったのに。そんなことばかりだ。

いつ間違えたのだろうか。わたしはどうすればよかったのだろうか。考えても仕方のないことばかり、考えてしまう。

外出するとき、イヤホンが手放せなくなった。外の音を遮断しないと、どうしようもないことが増えた。イヤホンを忘れた日は、たまに動けなくなる。ぜんぶが、私の目の前をただ過ぎ去っていく。怖い、助けて。そう思って、でも私がどうにかするしかないことも分かっている。そういうときは、立ち止まって、そっと目を閉じる。ゆっくり息を吐いて、吐ききったらそっと息を吸う。ゆっくり、時間をかけて、また息を吐く。繰り返しているうちに、だんだんと落ち着いてくる。目を開ける。怖い、と思う。でも、とりあえず動く。歩きながら、涙が出る。もう一度立ち止まってしまったら、泣き崩れてしまう。そういうとき、決まって高校の時のことを思い出す。歩道橋の階段を登ることができなくて、うずくまって泣いたこと。あの記憶がほんとうなのか、私はもう思い出せない。夢で見たのかもしれない。私の絶望を象徴するものとして、私がつくった物語なのかもしれない。分からなくていい。
私はあの日、歩道橋でうずくまって泣いた。もしくは、それに似た何かがあった。そういうことだ。「ほんとう」に、それほどの価値はない。

あの日、泣き崩れて動けなくなっていたら。あの日、助けてと言うことができていたら。そういう過去をたくさん通り過ぎて、今私はここにいる。
助けてを言えた日もあったのかもしれない。でも、あまり覚えていない。それよりうんとたくさんの、言えなかった記憶が私を苦しめているから。

少し高さのあるところで、飛び降りたくなること。刃物を見ると、腕に当ててしまいたくなること。薬をついつい、多めに飲んでしまいそうになること。SOSの出し方が上手く分からないから、そういうSOSに惹かれる。飛び降りたら、腕を切ったら、薬を飲んだら、助けてもらえるのかな、なんて思ってしまう。よくないことだとわかっている。だから、その欲を押しとどめて、私は今に踏みとどまっている。今に固執することが正しいとも思わないけれど。

他人に迷惑をかけてはいけないから、助けてほしいを言えないまま、今日も生きる。

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