言葉にできないことを許したい

話せないことが増えた。話そうと思えば話せることは、少し増えた。話したいことは、少し減った。
そんな私の最近について、少しだけ話そうと思う。
話せないことを話せないままで、それでもできるだけ正直に語りたい。

私はたぶん、あなたが思っているよりもずっと元気で、面白いことには全力で笑い、理不尽には全力で文句を垂れ流し、家ではアイスを兄弟と分け合ったり取り合ったりしながら、わりに楽しくやっている。

ここでは話さないと決めているが、私の持つある特性が原因で、かなり困ったことが起きている。そしてそれは一時的なものではなく、あと5,6年は続きそうなものだ。それは努力でどうにかなるものではない。そして、私の特性については、おそらく一生背負っていかないといけないものだ。
その特性の存在に気づいたのは半年ほど前。そして、そのことを改めて突きつけられ、思い知らされた最近だった。

その特性と生きていくことは、私には耐えがたい苦しみのように思われる。待ち構えているであろう、様々な困難を思うと気が遠くなる。とてもとても苦しい。これからどうなるのか。これからどうなってしまうのか。そういう、未来への不安が私の頭から離れてくれない。私は私らしく生きたいだけなのに、どうしてこんなにも障壁があるのだろう。そんなことを毎日思っている。

その特性については、今少し改善を試みるようなことをしている(詳しくは書けない)。その中で、私は何をしたいのだろうか、ということが分からずに私は行き詰まっている。

私は何をしたいのだろうか。私は何をしたくて、生き続けているのだろうか。去年あれほど生きたいと願ったはずで、だから今ここにいるはずで、でも自分がなんで生きたいのか、それが分からない。

私は言葉が書きたい。これから生きて生きて、いろんな自分になって、そのときの私で、そのときの私を書きたい。いろんな私を書きたい。美しい言葉を書きたい、美しい言葉で、私という存在を手放しで肯定したい。

たぶん、私のやりたいことは言葉を書くことだ。でも、どんな形で、どんな言葉が書きたいのか、どう生きていきたいのかは分からない。どんなふうに言葉を書いていきたいのか、それをこれからゆっくり探したい。
そしてそれらについては、たぶん自分だけで考え続けても見つからない。私の知りたいことは、きっと本や映画を見ることで見つかる。本や映画が直接的に教えてくれるかもしれないし、本や映画をとおして自分の中の何かに気づくような作業かもしれない。それは分からない。とにかく、私は本を読まないといけない。映画を見ないといけない。

言葉にできないことを許すこと。言葉にできない何かを怖がらずに認めること。私が苦手なことだ。分からないことへの苦しさを和らげるために、私は言葉との向き合い方を少し変えた方がいい。
今までの言葉との向き合い方を否定するわけではない。これまでたくさん言葉に救われてきた。今ももちろん、たくさん救われている。言葉にすることで、何度も言葉で輪郭をなぞることで、分かったことがたくさんある。救われた感情が数えられないほどにある。

言葉ですべてを表現できるだなんて思っていない。いくら言葉を重ねても何も書くことができないことは、文章を書いている人間のはしくれとして、少しは分かっているつもりだ。言葉じゃ何も語れない。それでも何かを語りたい。そういう言葉の書き方を、ずっと大切にしてきたはずだった。
でも、たぶん私は傲慢で、自分の感情についてはある程度は言葉で語り得ると思っている。そんなわけがないのに。私は私については、言語化できない何かを許したくない気持ちがある。分からないことが怖いから、ひたすら言葉を書く。それでも分からなくて、ただひたすら恐怖を育てるはめになる。

言語化のできなさを許したいな。
私は私にも分かり得ない人間なのだということを、ちゃんと理解してあげたい。1日前とまったく言っていることが違うことなんてよくあることで、数年前なんて別人のような気もする。私らしさなんてすぐにどこかに行ってしまうような曖昧さでしかなく、それでも私は、今の私が私であることを認めている。

今の私が生きているという事実だけで私なのだ。過去との連続性は、今の私に必ずしも必要なものではない。よく分からないけど今はこんな感じで、私は生きていて、私だ。言葉では何も語れないからと、言葉にすることを諦めてしまうのも違うけれど、言葉にしなくてもいいと思えたら、それはきっと素敵なことだ。物事の受け入れ方への幅を広げることは、私の心の平穏にきっと役に立つ。見える景色ももっと鮮やかになる。そんな気がする。

なぜ、私は私をこんなにも分かろうとしてしまうのか。曖昧さを、言葉にできないなにかを許すことができないのか。
それは分からないというか、そういうものだとしか言いようがない。私が、ひたすらに言葉に縋って生きてきた当然の結果だろうとも思う。私は私の生きてきた史実を愛したい。だから、その結果としての今も、否定はあまりしたくない。分かろうとして見えてきたこと、そのおかげで救われたこと、たくさん覚えているから言葉を書くことはやめない。変えるんじゃなくて、選択肢を増やすことをしたい。

そのためにも本や映画が必要なのではないかな。あえて言葉にされなかった何かに心打たれることは、本や映画ではしばしばある。そういう体験をすることで、いい感情の動かし方をもっと知っていけたらいい。様々な人間のあり方を、少しだけ知ることができた気になれるといい。

何をしたいかを具体的に探すこと。そしてそれはおそらく、言葉に関することだろうということ。美しい言葉で私を書きたいと私が思っていること。探すうえで、おそらく本や映画が有効であるだろうということ。
言葉にできないことを許すこと。言葉にしないままで認めるという選択肢を自分の中につくること。

やるべきことがとりあえず定まったので、本を読みます。映画を見ます。やりたいことは、これから探します。

ゆっくりのんびり、生きていきます。
それでは。

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