愛は断絶、絶望の入り口

愛は断絶。恋も友情も私が語るとなんだかただ相手を都合よく消費している、その過程に見栄えのいい名前をつけただけである気がして気持ち悪い。

不誠実を重ねてしまった私が、過去の記憶がとても気持ち悪くて、私はあなたの隣にいる資格はないと思う。あなたがしあわせでいてくれたらそれでよかったはずなのに、私は欲を出して隣にいたいとか思ってしまって、思うだけならよかったけれど実際に消費してしまったりして、もう気持ち悪いよ私は私が許せないよ。その罪悪感とかいろんな感情で自分のこと殺せちゃうよ。

そんなこと言っていたって人はみんな迷惑をかけ合って生きていくんだよとか、そんなの綺麗に生きてる人の綺麗事じゃん、自分に関わったというその一点においてのみ相手が汚れていると感じた時のあの虚しさとか申し訳なさとか諦めとかいろんなものがわたしの中にあるから仕方ないじゃん。誰に何を言われたわけでもない今ですらそんなことを考える。

絶望の入り口だ、また絶望が始まる音が聞こえる感じがして、もうどうにでもなれと思う。私はどうせ死ねなくて、どうせしあわせになれなくて、ずっと苦しいまんまで、そういう呪いだよ、当分背負っていかないといけない呪い、私が私を生きていくうえで逃れられないもの。

生きていくって決めた。他人に誠実でいたいと思ったし、大切な人たちを愛していくと誓った。私の感情は愛であるはずで、そう信じていた。でも愛じゃないみたい、私は誰のことも多分大切にできていなくて、ただわたしの都合のいいように消費しているだけ。それでいいじゃんなんて言いたくない。

もう疲れた、私はもう他人と関わることに疲れた。今の私じゃ何も愛せない。大切にできない。

苦しい、めちゃくちゃにわがままなことを言うと今とてもとても苦しくて誰かに助けてほしくてたまらなくて、でももう何も言えないよ。私は私の絶望を特定の誰かに共有することが怖い。私の絶望なんて関係ないところでしあわせでいてほしいのに、少しでもおだやかな場所で笑っていてほしいはずなのに。

頼ることは負担をかけることで、私はそれをしたくない。めちゃくちゃ簡単なまとめ方で、そしてわりと的確だと思う。私が苦しみながらもそれを隠してしあわせを、平穏を演じ切ることが愛だと思う。それは誰にも否定させない。私の演技は愛だよ、愛したいという祈りだよ。

でもわたしは弱くて、演じ切ることも絶望を1人で抱えたままでいることもできない。少しでも誰かに絶望を、荷物を持ってもらいたくて絶望をこうやって言葉にして誰かに読んでもらったり、podcastで苦しさをひたすら吐き出したりしている。他人への愛じゃない、でもわたしへの愛だと思う。苦しさを抱えた今、他人への愛と自分への愛はどこか相反する部分みたいなところがある。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?