ディグニティセラピー

第0章 涼太からの依頼
2022年9月15日、私のところに、涼太から「手紙」の執筆依頼が来た。

私が、ネット上で請け負っているサービスは、通常の「手紙」ではない。
命に係わる病気になった人など、
いのちの終わりを意識している方を主な対象としている。

ディグニティセラピーというもので、
ご自分で手紙を書く事すら難しくなった人にインタビューを行い、
ともに人生を振り返り、家族や友人などへの想いをお聞きする。
文字に起こして、再構成し、手紙という形にしてお渡しするのが、私のサービスだ。

ところが、
涼太は命に係わる病気にかかっているわけでもないし、
自分で手紙を書く事が難しいわけではない。

彼は、私が提供している「手紙」を理解したうえで依頼したいのだという。

彼の依頼は、私が請け負う典型的な「手紙」ではなかった。
涼太の要望にどこまでこたえられるのかは未知数だったが、
私はそれを引き受けることとした。

涼太は今、自分が人生の転機にいることを感じている。

第1章 涼太の軌跡
  そこにたどり着くまでの涼太の軌跡を追う。
第2章 涼太からのメッセージ
  転換期を迎えた彼からの「みんな」へのメッセージをまとめた。
第3章 「あの子」への想い
  彼の今までの人生に大きな影響を与えてきた「あの子」への想いを語ってもらった。
第4章 これから
  これはまだ存在しない章。涼太がこれから歩んでゆく未来。

第1章 涼太の軌跡
1)徳島での高校まで
今回のインタビューで涼太は、高校までについて多くを語っていない。この後の話に出てくるが、大学進学のために大阪に出てからとでは、人からの印象がずいぶん違っていたらしい。

2)大阪での一人暮らし~ナンバーガールやロック、そして、「あの子」との出逢い~
あなたが人生で一番生き生きしていたのは、いつのことか?と問うと…

涼太「20歳から23,4歳ぐらいまでが、生き生き…あんま生き生きとかいうのがピンと来てないんですけど、明るく生きていたような気がします。大学生の時は一人暮らしをしていて。先輩とかとフラフラして、ライブしたり、好きなように音楽したり、ライブに観に行ったり。学生というよりか、音楽やロック漬けの生活。こう、ほんとに絵に描いたようなダメ学生というか、よくある青春群像映画みたいな。自分の中では今でもですけど、「日本で一番ロックな大学生活を送っていた」と自負したいんです。大学生としては最低だったし、色んな人にも迷惑かけたり怒られたり、でも何か特別なことをしたわけでもなくて。
 華やかな大学生活とは無縁だったけど、それが尚更余計に「自分たちはあんなチャラチャラした大学生とは違う」悶々としてる中で「これがロックだ、自問自答だ」って、何も解かってない癖に、その時はその時で真剣だったんです」

「朝起きて、学校も行かず、バイトに行ったり。大学行って、授業は適当に受けて、あとは部室やスタジオに行ったり、だから留年してしまって。授業料はお金の事なんで家族に悪かったなと思います。
 それでも毎日、先輩や後輩の決まったメンツで飯食べに行って。たぶん全員がそれぞれ言わないだけで悩んでいたり葛藤があったはずなんです。でもいくら一緒にいるからといっても、お互いに全部は言えないから妙な親近感みたい兄弟感みたいなものがお互いにあったりしたのかも」

「多分、20歳ぐらいの時には、もうちょっと心を病んでいたんだと思います。なんか眠れないみたいな日々が続いて、眠れないなりにまた朝になったらバイト行ったり、大学行ったり、部室に行ってずっと過ごしたり。難波に一人で遊びに行ったり。でも、悩んでるんです。「どうしよう」「どうしたらいいんだよ」って。
 だから楽しい大学生活ではないんです。不安や辛いとか、そういう中にあるのがロックの何かだと僕は思っているので。だから音楽と違って、単語として「ロックって?」って聞かれたら、音楽の話をしてるのか、人生とか生き様、僕の考え方の話をしてんのか一瞬考えちゃうんです」

 だから「音楽やってて楽しかったでしょう?」「ロックって何?音が大きいの?売れてるの?ハードロック?」とか言われると何て言うか苛々しかしないし、あまり話したくない。それくらい偏った視野や、精神的に余裕がない日々を送っていたんです。間違ってるとは言われたくないけど、普通から見たら少し間違ってしまったんだと思う時はあります。悲しくなるから考えないように必死でします」

「あとこれは大事なことで、いつも誤解されないように念を押すんですけど。僕は自分で音楽をしていたとかロックバンドをしていたとか言いたくないし言えないんです。演奏ができる訳でもないし、人生を賭けてバンド活動をしているバンドマンとも全く違うんです。ただの音楽ファンで、熱狂的なロックな信者だったんです。偶像崇拝で片思いみたいなもんです」

「ツラいこと=生き生きしてるって言いましたが、実際はただの大学生で、学生の癖に不真面目で、甘ったれた生活をして、自堕落に浸っていたんだと思う時もあります。それでもその時は自分なりに真剣だったんです。言い訳にしかなりませんけど」

涼太「それにもう20歳ぐらいの時から、自分の中で『どういう人生を歩もうかな』っていうのをぼんやりとき考え出したんです。音楽を始めて、ロックを始めて。子どもながらに考えたんですけど答えが出なかったんですよ。で、だんだん、だんだん、いろんな理由があるんですけど、病んでいって、ちょっと傷ついたり、いろいろしていく中で、一日中不安で胸がいっぱいになって病院に通い始めました。そんな中で出逢った女の子がいて、『この応援してくれる、この子に会いたい』って、『この子と一緒になることが幸せだ』って思い込みみたいな部分はあるんでしょうけど。自分の中で思い込んじゃったんです。インターネットだけどメッセージくれて、仲良くなって、体調心配してくれて。毎日連絡をするようなって。会ったこともないんですけど、大学3年生とか4年生の1年半ぐらい仲良く交流してました」


「特に大学生活の最後っていうのは、みんなバラバラになって卒業したり、留年したり個々が自由に動くんで。だんだん一人ぼっちの時間が増えて。僕、一人の時間っていうのが、苦手なんですね。寂しがりなんです。友達とずっといるっていうよりかは、一人で誰かに会いに行って転々として、12時になったら部屋に帰って寝る。それが極力、安心する生活だったんですね。とはいえ、一人で夜になると寂しくてもう心が折れて、単純に体が痛くて眠れないとか。そういうのがあるところに、その子がいてくれたんです」

3)就職活動しないままの内定、そして、地元・徳島への帰省
涼太「普通の学生さんは、多分、学生が終わったら就職したり、(今後について)先生や親と相談するじゃないですか。でも、そこで4年生になったからといって、就職したり、資格試験をとるような行動にも出ない。素直に社会に適応できないのが、フリーターだったり、バンドとか何かの活動に走る人の特徴だと思っていたんです。僕もそうでした。だから就職活動もしてなかったです。就職活動はしてないんですけど、就職の内定は取って。地元で子どもの頃の僕を知っている人が『大人になったんだったら。おいでよ』って言ってくれたんです。
 大学を卒業して、本当は東京に行きたかったんです。出版の仕事がしたかった。何回か東京には行ってたんですけど、いろんな人から僕の大学ではどこも入れないって聞いていて。どっかにアルバイトとかで入ってスタートならと『よし、卒業したら東京に出て行こう』と思ってたんです。
 ですが、体調も悪かったし、家族とか親のことが気になってしまって。当然ですけど、家族は僕にいい仕事につかせたいんです。僕も心が揺れて、地結局地元に帰ってきたんです。その時点でも自分の人生から逃げていたんだと思います。
 地元は徳島なんですけど、『地元には帰らない』って決めていたんで18歳から地元の人とずっと会ってませんでした。18歳までの僕っていうのは結構ニコニコしてて、人当たりが柔らかくて優しそう、いいイメージが、、強かったんだと思うんです。でも、大阪行っちゃって、ガラッと人が変わったんです。中身は変わってないけど、昔の友達とは(大人になるにつれて)話も合わなくなってくるって本当だったんだなって思いました」

「大阪に出て行く前も勉強は苦手だし成績は悪いし、宿題も忘れものも酷くて。いつも怒られることばっかりでした。でも不良とか非行に走る事は無かったと思っています。その気の良さそうな男の子が大阪から帰ってきたら、『ロックが、ロックが』とか、『アンチテーゼが』みたいな。『アンチテーゼ』ってすごい言ってて。とげとげしい生活、噛みつくみたいな生活をしていると、(地元にいた時との)ギャップがどんどん生まれてきて。
 いざ実際じゃあ面接に行って仕事始めようってなって、『あっ。結構、変わったんだね』って言われるぐらい変わったんです。その5年間で」
 
4)帰省後の家族との同居と解離性記憶障害
涼太「地元に帰ってきて、実家の母親と暮らすのが、どうしてもしんどくて。どうしても合わないんですね。耐えきれないというか、ストレスが深くかかってしまって、1年間ぐらい記憶がちょっと飛ぶ、なくなっちゃったんですね。記憶解離性記憶障害っていうのになったらしくて」

インタビュアー「お母さんと一緒に過ごすことがストレスでしたか」

涼太「それだけが原因では無いです。今だから解かる、今だから言えることばかりですけど。気質とか性格とか。地元にいると息苦しくて、それは地元とか大阪とか東京にいたからって楽になるものではなかったです。でもそれって甘えてるって言われるだろうし、こういう精神疾患とか最近発達障害とか結構話題になってますけど、僕の場合は自分の居場所が欲しかったんですね。これも今だからこうして言葉に出来ることかもしれませんけど、安心できる自分の居場所がないんです。1日中ずっと緊張というか、自分の中で何か、それは考える事も含めて、仕事も家の事も、逆に今考えても仕方がない事みたいな、考えないほうが良いことも含めてずっと引きずっているんです」

「20代なんてお酒も呑みますし、タバコも吸ったり、夜更かしたり。普通の人だったら『んっ?』て、こう理解されないようなこともしたり、犯罪とかはないんです。けど、ちょっと行き過ぎた、ということはよくあるんです。実際、在学中とかもやっぱり、生傷が絶えない生活でした。もう当時は卒業前から壊れかけていたんです。ここだから初めて人に言います。自傷行為っていうのはリストカットだけじゃないんです。よく分からない人がリストカット=精神が病んでるとか言ったり、冗談みたいにリストカットを話題にする人がいますけど、自分を傷付けるって自分の未来を壊すって事なんです。自滅も自殺もリストじゃないけど、人生の切れ目(カット)です。切れ目って言い方が変ですけど」

インタビュアー「実家に戻った、その頃が辛かったですか」

涼太「常に辛かったんだと思うんですけど。僕の在学中に、母親が血液の癌みたいな難病にかかって…白血病じゃないんですけど…今もかかっているんですけど、難病になって。その時、『今夜、死にます』『もう今夜がちょっと』っていう日があったんです。けど、僕も子どもだったんで、冷静な判断とかもできなくて、帰らなかったんです。『帰ってきなさい』ってことだったんですけど、母親も個性が強烈な人なんで『また、嘘かな』って。無事に乗り越えたんですけど、結構最近まで母親が(そのことを)恨んでる時期もあって、言われることもありました。それぐらい、生理的にもう合わないぐらいの域なんですね、僕ら親子は」

5)「あの子」との途絶えた連絡
涼太「そういうことがあって、記憶がなくなってしまって、内定切られて…記憶がなくなって1年ぐらいで復活はするんですけど、ぼやぁと。体ももう壊した状態で、なんとなく社会復帰した時には、もうその女の子はいなくなってて『だいぶ傷つけてしまたんだな』っていうのを僕ん中で考えたんですね。『眠れない』とか。『辛い』とか『悲しい』、『寂しい』っていうのをずっと言い続けてて。もう、朦朧としている時もあるはずなんです。夜中とかだと。で、それで相手を傷つけたっていうのは自分の中ですごい深く残ってて。『だから、いなくなったのかな』って、で、それがすごいショックでした。
 最初ひとりで音楽を始めてみたけど、全然できなくて、でもやってることで、誰かに聞いてもらいたいっていうのはなくて。その子に向かってやってるだけだったんです。note(※涼太が1年ほど前から日記を挙げているウェブサイト)にもよく書いてますけど。『幸せになりたいから』っていうことで生きていただけで。それも言葉だけ見たら綺麗な言葉ですけど、事実は何も中身も答えも無い言葉ですよね。
 ただ、こうひたすら『その子に会うためだけの人生を歩もう』『どうやったらあの子に会えるのかな』ということを考えたら、『彼女に伝わるような活動をするしなきゃいけないな』とか『社会人にならなきゃいけないな』とか、『お金稼がなきゃいけないな』とか。そこでこう前に出たんです。一歩、学生から社会人に」

6)東京へ~「あの子」が見てくれるために~
涼太「いわゆる、普通の子が学生から社会人になる時に、普通に行くステップがあるはずなんですけど、僕はそういう形でステップ踏んだんです。『あの子に会いたいから、どうすればいいか』っていうだけで全部、自分を決めていて。あとは「ナンバーガールなら何て言うんだろう」とか、ナンバーガールの曲名にあるんですけど「透明少女」ならどうするんだろう、なんて言うんだろうって。自分の中の世界は「ナンバーガールと僕」「あの子と僕とナンバーガールの世界観」でずっと回っていたんです。普通は解かってもらえないだろうし、それこそ「だから何?」って言われる話ですけど、僕の中はそうやって「どうすれば彼女に逢えるんだろう」って、そんな事ばかり一日中ずっと考えてる日々で。
 『サラリーマンになったら、その子に会いに行けないから、サラリーマンにはならない』とか。今も現にそうなんです。それで明確な理由や根拠はないんですけど、その後、東京で一人暮らしを始めたんです。東日本大震災の後くらいに、あてもなく」

インタビュアー「その時にはもう彼女とは連絡が取れない状態だったんですか」

涼太「23,4歳の時、意識が戻った時には、もうその子はいなかったです。ぱたっと記憶がなくなるまでは、『なんか、距離を取られてるな。連絡がつかなくなるな』は覚えてるんですけど、そのあとの記憶がぐしゃぐしゃになってしまったので、自分でもこう整理がつかないまま『どうしよう』って考えて、わけもわからず、歩いていたんですね。
 東京に行って、それが25歳で。向こうで2年とか2年半ぐらいいたんですけど。結局その、別にしたい仕事も結局…実際なくて。有名になりたいわけでもないんで。ただのフリーターになってしまって。宙ぶらりんになってしまって。
 その子のことをずっと毎日考えながら、なんとかしなきゃと音楽やってみたり、なんか創作始めてみたり。やれることは全部やって伝えよう。その子と出会ったのが当時流行っていたmixiだったので『mixiに公開して、あげ続けたら絶対見てくれるだろう』ってそこに賭けたんですね。僕を応援してくれる人も、そういう僕を面白…面白がるっていう言い方は失礼だけど、面白いというか…学生の時もそうなんですけど。ものすごく刺々しいとか、危なっかしいとか、眠れないとか不安だとか、こう叫んでる姿を、みんなこう持ち上げるんですよ。『あーあれはロックやってるね』みたいな。それをみんながそれぞれ内心どう思って観ていたかはわかりませんよ。腹の中は解からないけど、どこまでいっても他人事なんで。でも、僕の身体を心配してくれたり、共感してくれたら声をかけてくれたり、それって僕は嬉しい反面、「お前と一緒にするな」と思う反面もあるんです。でも、なにより人と話をして少しでも話が嚙み合っていたり、意思疎通が出来てると、それは心からありがとうって思います。辛いですけどね。どこまでいっても僕は幸せになれてないし、その夢も何も叶ってない。報われてもいないから、それが現実ですから。だからそれを続けて、刹那的な感じですね。『傷ついてもいいからやろう』とか、『もうどうなってもいいからとりあえず、ここで成果を出そう』とか。成果と言っても、どこに答えというか、彼女への道があるかすら見えていない時期なんで、不安だけど、じゃあ頑張ろうって動いた時に考えも暗中模索なんです。あんまりそれ以上は今はまだ言いたくないですけどね、胸が痛いから。悲しくなるだけなんで、考えないようにしています」

「実際、東京の生活も、ああゆう都会なんで、危なっかしい人もいっぱいいる中で、その子に会いたいだけで、うまくなんとか乗り切ってきたんです。結構怖い思いもいっぱいしました。向こうで、全然友だちも、1人も知り合いも作らなかったです。ほんとに孤独な中で、また、2年半間過ごしました。本当に意味がないとは言わないけど、ただただ東京にまで行って、貴重なお金を使って時間も使って、色んな人に力を貸してもらったのに…」

「東京で何をしてきたのかって、得たものって聞かれると、まともな答えが出せない。何もスキルも身に着けられなかったなって。普通の一般社会で評価されるような事は出来なかったって。自分が間違っていたと思います」

7)28歳 再び徳島へ
涼太「当時よくいた新宿で、活躍されてるアーティストの人に言われたんです。「(自分が)フリーターだと生活力とか、その言葉の責任感というか、重みみたいなものがやっぱり弱くなるから。社会人として地に足がついてないと説得力がない」って。
 たしかに『お金がなかったら会えないし、好きにもなってもらえないよな』って自分でも解っていた事を思い出して。いつの間にか東京に来てから完全に孤立して、孤独に落ち込んでしまっていたので、「じゃあ、実家に帰ります」って言って28歳で徳島の方に帰ってきたんです」

8)再び、「あの子」との連絡
涼太「あの子とは、30歳で縁が戻ってるんです。29…30歳になって『ああ、ほんと終わったな』と思った時に、ちょうどその子から、メールの返信があったのかな。
 それまでは、もう届かない(返事はこない)その子宛てのメッセージを、ただただ(送信はするけど)空中にほおり投げているような感じで。メールを送っても返事がないんだから、一方的というか空回りですよね」

「でもそれが連絡がついて、メールも電話も時々出来て。それからは本人に手紙とメール、あと贈り物をずっとし続けたんです。プレゼント攻撃とかではないですよ。貢ぐ君ではないので。一緒に楽しみたかったんです。こっちから送った食べ物や贈り物をその子も楽しんでもらえたら、それって共感というか、経験を共有してるみたいな感覚になっていたんです。思い出の共有を願っていたんです」

「それに対して、遅いペースではあるけど返事は返ってきてたんで『あ、僕の気持ちは伝わってるんだな』と思っていました。日記も見てるし、動画とか1日の録音とか、日記とかも撮って、僕の人となりを分かってほしかったです。
 僕がやってることは『僕ってどういう人なのか、それがその子に伝わって、その子が解かってくれたとして、それで好きになってくれればいいな』っていうだけなんです。それで動いてるって。これで振られたら仕方がないとは思うんですけど、届くことがまず第1条件だったんで。
 
「でも、30歳になって、ずっと手紙とか連絡してても『来てもいいよ』って相手から言われることは全然なくて『体調が悪い』としか言わないんです。僕もあんまり深く聞けなくて、いかんせん、レスポンスも悪い子なんで。何か月に1回のレスポンスなんで。難しくて『結局どこまで行くんだろう』っていう感じで、去年まで来たんです」

9)映画で登場した駅へ~「あの子」の住む街~
涼太「ふっとある映画(シン・エヴァンゲリオン劇場版)を見ることがあったんです。元々好きだった作品のリメイクの最終回みたいなもので。僕は世代的には少し違うんですけど、小学生の頃に子供ながらに夢中になって大好きな作品だったんです。当時の最終回も劇場版も見に行きましたけど、それ以降は自分から映画館にあんまり行ったことがなくて、それで初めて自分で券買って映画を観にいって。だから自分の中で衝撃があって。だからすごいはまって。6月ぐらいに見始めて、そっから最終日まで、もう毎日ほぼほぼ観に行ってました。仕事して、それを観て、家に帰ってきて。
 その映画はアニメだったんですけど、最後の方で、実写が交じるんですね。ふっと『ここ、どこなんだろう?』って思ったら、それが山口県宇部新川駅でした。実はその子はそこの近所に住んでたんです。もうこれは多分、行かなきゃいけないんだろうなあって。あと1ヶ月で7月で。僕、7月4日が誕生日なんですけど。倒れたのも記憶障害になった診断も7月3日だった。なんとなくモヤモヤしてて、『あ、ここでもう会いに行かなきゃ、もう次きっかけないかもしれない』って。7月に徳島を飛び出して、山口県まで会いに行ったんです。『会えない』って言うだろうと分かってたんで、手紙を送って、手紙より先に山口県に僕が行きました。で、待ち続けるっていうのを5日間ぐらいして。結局、メールで『会えません』ってきて。理由は『体調が悪いから』って言うんです」

注:「あの子」はパニック障害かなにかで引きこもり、13年間、一歩も家を出たことがなくて、人と会うと過呼吸が始まるぐらいのレベルらしいと涼太は聞いている

涼太「家も知ってたんで『もういいや。家まで行って、お父さんや家族と喋りたい』と思ったんです。家族と話がしたいって。『僕のことをどう思ってたんだ?』僕が送ってる手紙とか本とか(は)本人にしか届かないのはわかるんですけど、送ってる食べ物、徳島の物とかいっぱい毎月送り、結構なこと送り続けて、これを家族も食べてるはずなんです。お母さんもありがとうって。1回写真でもらったことあるんですね。『どう見とんだろう?』って。『おたくの娘さんと僕とのこの関係分かっとるんかな?』と思って。喋りたくて、家まで行こうと思ったけど…家まで行ったら危ないと思って。家の電話にかけちゃったんです、家の近くで。そしたら、偶然その子が出ちゃって。もうそこで『会えない』って押し問答になってしまって。正直に言うと殺してやろうと思って。ここまで来たら、人から見たらそれってただの痴話げんかみたいなのと一緒に見えると思いますけど、まあ、僕はそんな簡単な話や安い気持ちでここまで来てないと信じて生きてきたんで、『もういいわ』と思って。だから『もうここでいいわ、殺してしまおう』って。
ただ、でも、そうなった時に『あ、ここまで(犯罪歴)無傷で来たからやめよう』と、車を全力で走らせてその子の家から離れて、その駅まで引き返したんです。大音量で音楽をかけて泣き叫んでましたよ。しかもドラックやら凄い改造してる車に煽られて、見知らぬ土地で。こっちは発狂してました。このまま絡まれて殺してくれとも思うくらい、どうなってもいいから殺してくれと思ってました。今もそれは変わらないのかもしれないですけど。でもあんまりそれを言い過ぎるとまた誤解されたり、他人は「あいつは病んでる」とか好き勝手適当なことを言いますからね。もう黙っていられないけど、もう自分が一人で引き裂かれ続ける毎日です。だけどそれは今でも」

10)失意
涼太「でも、そっから徳島に帰ってきて『何のために俺は生きとったんだろう』っていうのが初めてこう無意識というか、こう自然体で、それが頭に浮かんでて、辛いとかいう以前の問題で、その時、過食で太ってたのもあるんですけど、30キロくらい体重が落ちました。ご飯食べても、何してても楽しくないなと思って。別にいつでもできるんだと思って。おいしいものも、いつでも食べれるし、楽しいことも別にやろうと思えば上限がないし。と思って何もしなくなったら、急に弱ってしまって、自然と。10月2日に死のうと思って。初めてですけど、自殺企図をして。大丈夫なんですけどね。一応、ほぼ無傷で。後遺症も特にはなんもないです」

11)そして、過渡期へ
涼太「よかったなと思って。そっからこう、どうやって生きていこう。とりあえず『今年の春まで頑張ってみよう』全力で頑張ってみたらどうせ俺はもう力尽きるわなとかいうぐらい全力で生きようと思ったんです。それまでは家にいると落ち着かなかった人が、外に出るのやめたんです。人と会うのをやめたんです。中学校ん時から家に帰らない生活だったんで中学生以来です。生活を変えたら、なんとなく周りの、見えてくるものも変わってきてしまって。僕の生きづらさみたいな、こういう気質があるよ、とか、親、家族との関係っていうのも。僕が、大人になっていく過程を踏み始めたんです。

第2章 涼太からのメッセージ
1)「これが僕のロックだった」
インタビュアー「大切な人達に言っておく必要があると思いながらもまだ言えてなかったこと、あるいは、できればもう一度言っておきたいことがありますか?」

涼太「『ロックに生きたし、ロックに生きて、一人の女の子を13年好きだったっていう人生だった。これが僕のロックだった』っていうことだけですね」

涼太「音楽を始めて、偶然その中で聴いた『ナンバーガール』というバンドにものすごい影響力を受けたんです。解散してたバンドなんですけど、それを聴いたときに自分の中で変わったというか。これ、自分の世界と合致したなっていう、生まれ変わった瞬間があるんです。生まれ変わる…新しい世界が…視界が変わったような瞬間があるんです。
 さらにそこに『ロックに生きよう。ロックってなんだろう』っていうところから、なんとなく生まれちゃって、これが19とか20歳なんですけど。そこから、今、36歳になったんですけど。ここまで16年くらいはこの『ロックに行きたい。幸せになりたい』っていうのと、でも幸せというのはゴールで、『ナンバーガールに会いたい』『その女の子に会いたい』っていうこの2つしか見てない、僕の人生。この2つしかなかって。なかなかこう理解されなかったりするけど、この2つしかないまま、16年走っちゃったって。で、そのなかで、みんながこうびっくりするような話っていうのはいっぱいあるけど、やっぱりこう『この2つで生きたんだよ』って、1番伝えたいです、常に」

2)「大切な人たちに向けての希望や夢」~もう忘れてくれていいよ~
涼太「僕がもしいなくなったら、僕のことは忘れないでほしいってずっと思ってたんです。
人によったら、僕の事を「のんちゃん」とか「あめちゃん」とかあだ名で言うんです。のりすけとか。(自殺企図をした)今回も、飛び降りた、『あいつ、なんかあったらしい』ってなって、それを知った人、先輩とか後輩とか同期にも、いろんな意見がありましたけど声をかけてもらえて本当に救われました。一人の後輩は『のりすけさんロックでした。ロックスターでしたよ』って言ってくれたんで、もう頑張って生きます。自分でも『(僕は)ロックの申し子だから』って面白おかしく自称してましたけど、本気でそう思って振り切ったんで。音楽が出来るとか音楽の話ではないのでロックというのは」


「僕の大好きな親友は音楽とは関係ない仕事で、僕とは趣味も合わないけど人としてカッコいいと思うから「ロックな奴だな」って言います。褒め言葉です。だから生き様の話です。だからそう信じる、追い込む力が異常に強いんです。だから、そういう風に生きたよっていう思いを忘れて欲しくなかったんです」

「でも、最近は『もう忘れてくれていいよ』って思う時もあるんですよ。希望として、いちいちそんなにつついても、面白い話は山のように出てくるけど、書けないし。多分、理解できないでだろうし。つついたら多分、良くない埃も出てくるから。僕も、悪口は言わないし、これ以上攻撃はしない。もうそっと忘れといてくれって。家族にはそんな言えないですけど。希望は夢は特にないですね、もう死んじゃってるんで。死んだらもういいかな、あとは」

3)「人生から学んだこと」
涼太「人生から学んだことは自由に生きた方がいいです。
 好きに生きて、自由に生きて、気にしない。もう絶対の答えはないんで。ずっと言ってるんですけど、人生いろいろあるじゃないですか。群像劇だと思っていて、多様性というか…多様性って今流行ってますけど、多面性の問題なんで。味方、見え方の問題だと思います」

「僕みたいに生きづらいって、言ってる人たちも多いと思います。僕のところにメッセージくれる人は…会ったこともないけど、…みんなこう『辛い、辛い』言ってたりするんです。
 生きづらい人がいるんだったら、『そんなに世の中、悪いもんじゃない。最近は「生き辛い」と検索するだけで、僕も今になってビックリするような生き方とか、考え方の方法とか色々情報があって。それを読めば今の僕でも気持ちが少しだけ楽になる時があるんです。そういうのも知って、少しで今から、現状から変われたらいいなって自分で思っています。そんな上手くいかないんですけどね。
 でも、もっと人間ってみんなやる事やってるし、きっと自分のお父さんやお母さんも犯罪みたいなことやってたり、浮気やってたり、遊んでいたり、火遊びしてたり、気持ち悪い事やってたり、無様な醜態晒してたりもするんです。父親だろうが母親だろうが人間ですから、所詮は人間だって。言い方が悪いですけど、動物やサルと同じで本能や下心や打算でやる事やってます。あとは理性や責任感とかで自制するか、そこまでやる度胸があるかみたいになりますけど、誰だってやることはやってると思いました」

「カッコ悪い事やってたり、人には見せられない事、ましてや家族には絶対に言えないような失態や過去があるはずなんで。だから親の意見や顔色や言葉を信じすぎたらいけないと思います。僕は今でも影響を悪い意味で受けてます。まだ僕は洗脳されていると自分で思っていますし、そこから変わる方法や道が考え方があるのは解かっているけど、体がいう事を聞かない」


「それに、世の中の事や他人の事なんか解からないから、みんな事情やタイミングもあるし。だから、僕みたいに気にしなくてもいいよって。でも僕は「繊細さん」ではないんです。誤解されたくないんですけど、ちょっと違います。HSS型って言葉が当てはまります。エンパスもありますけど、僕の事を「優しい人ね」「繊細さんなのね」っていう人がいますけど、そんな優しい繊細な人は過激な発言や行動に強く出ませんからね」

「僕は確かに優しいとは自分でも思いますけど、不器用に、下手に優しすぎた気がします。自分の人生が幸せになるか、報われるなら、これも判断が怖いところですけど、自分を守る為なら一線を越えても良いと本心で今でも思ってしまう自分がいます。そういう極端な人間です。好き嫌いがはっきりし過ぎてる感じです」

「結局、何が悪いとか原因でっていうのは事実としてあると思うんですけど、そこを突き詰めて問い詰めても何も生まれないのは解かってます。
でも自分で言うのもカッコ悪い、無様ですけど、まだ毎日不安で「悲しい、悲しい」って言ってます」

「でも、例え嫌われても死なないし。恨みを買わなければ、よほどの犯罪とか人を傷つけて事件にならない限りは、全然っ生活していけるっていう。
だから僕が、お金(金銭トラブル)とか、犯罪とか、何か大きな問題があって死んだって赤の他人に適当に、勝手に言われるのは一番嫌です。本当に心外です。現に僕も飛び降りましたけど、あのときの感覚って忘れないです。だから何か辛い事や不安に負けて死にたくなっても、「(簡単には)絶対死ねないなあ」って。今は周りにあまり連絡もしてないですけど、いつか返事しようと思ったら『そんなに簡単には死ねんのよ』『心配しかけてごめん、もう大丈夫だから』と伝えておきたいです」

「それと『みんながそれぞれ思ってる以上に真実って答えは解からないし、蓋開けてみないとわかんないから、答えは。それに答えか事実みたいな事が解かったところで、双方の正義がぶつかってるだけなんで。もう気にしないのが1番で、好きなように楽しくして世界は広いんで、生きてみたらいいと思います』っていうのが、もうほんとの答えです。
 これは将来に向けて自分にも役に立ちますし、親が言ってることは絶対じゃないっていうのは、僕と同じような位置で止まっている人に言いたいです。教訓です。(半永久的な場として)僕のnoteやホームページも、生きづらい、不安とか眠れないって人が、そういうことを言える場所になるんちゃうかなって思います。こういうやつもいたよ。(亡くなったわけではなく)現に生きてる状態でありたいです。今後、僕は生きていくんで、何かには形として残したいなって。配布したり、見えるところに置いてもいいです。悲しい人が『悲しい。どうしたらいい』って検索した時に、ひっかかってくればいいです。それに対しての返事はしないけど、(なぜなら)もうそこに全て書いてあるので。とりあえず、親や周りが言ってることも正解ではないし、なんとかなることはないけど、そこまで気負って気難しく考えても。考えなくてもいいよ。僕みたいに考えてもいいけど、考え込み過ぎたら大変なことになるよって」

涼太「(人生から学んだこととして)僕の何が悪かったのかのかを最後に書けるんだとしたら、自業自得ってやつなんですけど、『幸せになりたい、幸せになる為に生きてるんだ』って自分では言うんですが、この幸せっていうのを分かってなかった。分別というか理解はできないままスタートしてしまった。だから幸せっていうゴールを見誤ったというより間違った。
 ちゃんとゴールへの道筋を、地に足をつけて見れていなかったのかも。それも、かも、ですけど。『幸せって何?』って言われた時に、『その子と一緒になる』とか。『ナンバーガールに会うこと』ということは言えるんですけど、ちょっと夢物語チック。幼い夢で。何よりも1人の子に固執しすぎて、ほんとに『愛って何?』って状態までいってしまうのも、余計なものを色々と見すぎたなと思ってます」

涼太「幸せになりたかっただけなんです」

4)「家族への思い、社会への思い」
涼太「人生で果たしてきた役割っていうのは家族の中ではないんですよね。僕はじいちゃんの介護、ばあちゃんの介護で、3年位前に初めてお金の管理とか、家のことをし始めて。じいちゃんが亡くなったときも、全部お葬式とかそういう色んなことをし始めました。お金の事も初めて考えて知らなかった事ばっかりだったんで、自分で手続きとか制度を調べたり、仕事もしながらしてみて、どれだけ我が家の家計が大変だとか、保険の事とかもかなり調べました。最初保険について調べた時は自分が死んだらどうなるんだろうって気持ちがあったんですけど。だからこの年齢でやっとですけど家の中の事については初めて頑張りました。でも社会と言って、社会の中での役割っていうほどの事はまだできてないんです。それを今回セラピーを受けて考えた時に気づかされました。」

涼太「地域社会での役割なんてのはまだ何もできてなくて。仕事で任意後見人をしていて生前整理とか、終活の手伝いとかをする仕事をしています。
それも結局は、(好きなあの子に)いい人に思われたくて選んだだけです。でも生活も仕事も成功してるとか、安定してるとかでもないです。本当にこんなはずじゃなかったと毎日思う事があります。仕事って悪意無くお金のやり取りですから、自分で仕事貰う為に苦しんで、そこから仕事がもらえたとしても極端な例だと請求を踏み倒されたり、それで気がついたんですけど、人間ってどこまで行っても人間なんだなあって。欲のままっていうか、いくつになっても勝手な生き物なんだなあって思います」

「そんな事も今でも続いているから、俺は、まだ何も成し遂げてないんだなって事が分かりました。ああ、こんなはずじゃなかったって、あまりにもちょっと」

第3章 「あの子」への想い
1)今までの「あの子」への想い
涼太「人生で重要なことを成し遂げたことはないですが、人生で1番誇らしく思ってるのは『無茶苦茶の人生ながらも走り切ったこと』です。結果的に今、生きてますし、前科とか前歴もつきませんでしたし。お金の自己破産とかもないですし。ほんとに普通じゃないことはめちゃくちゃしたんですけど、極力無傷で帰ってこれたのが誇らしいって思ってます。普通じゃ経験や出逢えないような人と一緒に時間過ごせたり、それこそ映画みたいな想い出はあるんです」

「頭の中で勝手に贖罪の人生っていうのを自分に課せていて。その22歳23歳の頃の事が勝手に僕の教訓というか癖みたいになっていて。何もしてないけど「贖罪」って思う部分があって。変な話ですよね。あと『あの子』のためには(犯罪者などに)なっちゃいけない。とか。
 少しでも東京にいると周りにはそういう話がいっぱいあるんですよね。ちょっとこうよくない話とか、男女のトラブルとか山のほどあり、そういうのを見てきたんで『自分はこうなっちゃいけない』って、常に思ってたんです、
 だから、テレビとか新聞とかニュースとかで、事件とかストーカーとかありますよね。いっぱい周りでもあるんですけど、それを見ると、僕はこの犯人側のこいつらと一緒の立場だから、紙一重こいつらと一緒なんだなって、自分で思うようにしてるんです。してたんです。
 1度傷つけたことがあるんで、その子をね。片思いだし、これがこじれていったら…。僕はその子に会わないって決めてたんです。僕がその子に『会いたい』と言い続けて、『いいよ』って言ってくれるまでは行けないから『来ていいよ』って言われるのを待ち続けたんです。それもちゃんと手紙には書いて、送り続けているんです」

2)今現在の「あの子」への想い
涼太「『あの子』に関しては、 手紙が送れるんだったら…と言っても、この設定がもう難しいです。ほんとにそんなことができるのが1番いいんですけど。
 正直に言うと、やっぱりどっかで何かこう、辛いことがあったり、死にたくなる時って絶対みんなあると思うんですよ。ちょっと僕っておかしなところがあって、ふっとこう、魔が差して、ぱっと、あると思うんですけどね。これは言うべきことではないし、誤解されたくないけど、「あの子に殺された」って何かもしあって絶望した時、そう書くと思うんです。「こいつに殺された」っていうのを多分謳ってしまう。

インタビュアー「それはご自分で、もし自死されることがあったとしても、その引き金になったのはあの子なんだっていう意味ですか?」

涼太「自業自得で、僕の間違いもあったけど、最終的には(あの子が)引き金を引いたという事実があるっていうのは常に持ってきたいんです。ただ、次の出会い、新しい世界がまだ見えてないからだと思うんですけど…何年か経っても、なんかあった時にも、多分これを理由にちゃうんだろうな。なぜなら、この話が綺麗に着地しなかったんで。
 この子とこの人間関係だけにおいては、そんななし崩しのように、あったことがなかったことにされてしまうように、胸に秘められたくないんです、あの子にも。あの子も、私(自分)の中だけでずっと抱えてて。それじゃ何もできないんだから。『君にはちょっと、ちょっと君では、役不足だから』っていうのがあって、話が全然綺麗に収まってないので」

インタビュアー「話が着地してないっていうのが涼太さんにとって大きいことですか?」

涼太「大きいですね。だから、これどうしたらいいのかなと思ってます。僕のnoteには、6月の『エヴァンゲリオン』の映画を見始めた日から、毎日の日記を書いているんです。自殺する時も、むちゃくちゃな文章ながらも必死に書いていて、『なんとか着地させたい』っていうのをアピールして伝えようと、自分一人で悪戦苦闘をしてるんです。
 この1年間。大きな緊急病院に連れて行かれて、無傷ですとはいえ多少の切り傷やうち傷はあるし、眼球に傷がついて急に乱視になったり、だからこうして身体だけ元気そうなのは丈夫に生まれたことに感謝だなっていつも思ってます」

インタビュアー「涼太さんにとっての『着地』というのは、今の時点でどんなことをイメージしてるんですか」

涼太「『1度会って話はしたかった。会いたかった』っていうのがでかいと思う。
 (以前は)会っても夢から覚めない可能性が高いと思ってました。16年間のその子への想いや生きてきた僕の人生がまるっきり彼女への想いに乗ってしまうので、ちょっとひどい女の子が出てきても、美化されて見えてしまうと思うんです。(でも)今はもう、こうなってしまってるから、今の僕は、あんまり相手を美化しない状態にいます。でも正直、ここまで来たら会いたいけど、このまま会わなくてもって考える自分がいるのも、本当に正直に言えば僕の中にそれもあります。でもそれは死んじゃうんだから会わなくてもいいや、と思えれるようになれれば良いなって意味ですよ。
 だから、もしあの時にちゃんと会って話が出来ていたら理想的でしたけど、それはもう不可能な話なんで。だから今でも考えるのは『実際どんなもんだっただろうかな?』っていうのと。『家族の皆さん何か言うことありませんか?』『何か言うことありませんか?』って言いたくなるぐらいの気持ちがあるんです。『こんな事があったんですけど。お母さん、知らないと思いますけど。こういう経緯があるんですけど…』
 相手を全力で非難して攻め立てたいというだけの気持ちではないんです。その22、3歳の時、1番最初に傷つけたのが引き金になって、もうその子に対して傷つけないようにしていて。それがあるから、30歳になってからも無理やり会いにいかないし、自然と日常生活でも大切な相手に対しては傷つけるというか、迫るような、圧がある言葉は極力使わないようにしたり」

インタビュアー「一度、傷つけてしまったという負い目というか遠慮があって、かなり気をつかっていたんですか」

涼太「うん。まあ、それも伝わらなかったな。向こうからしたら『別にそんな悪い人だと思ってない』とは言うんですけど。そういう信念を持って行動してたんです。そういうことも踏まえて、それだけ大切にしてたと言えば、大切にしてました。
 それがこういう形でこういう話になって。挙句、1年が経つんですけど、返信なしの状態で。理由はいっぱい並べれるんですよね。ちょっとパニックが、とか体調がとか。お金がないっていうことも言うんです。働いたことがない。なので、親御さんへの負い目があってなにもできない。『家で閉じこもっているんだったら…』って、僕、最後、携帯電話を送ったんです。携帯電話と機種変の料金を「機種変代ぐらい、自分で払えないんだったら」って言って。それで送ったまま。それに対しては『私は閉口して(口を閉ざして)しまっています』ていう返事が来ただけなんです。『あなたも辛いのだろうなと思いました』『私もどうしたらいいのかわからないので、閉口してます』というメールが来たままで、さらに半年以上過ぎたんです。
 だから『ああ。このままドラップアウトで、ふわぁっと流れていくんだろうな』って。でも、それが多分、基本、世の中のみんな誰しもがやってることなんで。
 (その後、涼太は飛び降りて命を落としかけており)そんなに命って、重くもなければ軽くもないんで、ふっと消えることもあるんで。僕もその、許す許さないっていうのはあるんですけど、分かってもらえたらいいかなと思うんですけど、彼女に」

インタビュアー「何を1番わかってほしいですか。」

涼太「とりあえず『1年かけて変わったよ』っていうこと伝わればいいなと思います。もうなんか、あの彼女に対しては『何を言ってもわからん子なんだろうな』と思っていて、彼女にわかってもらいたいけど、わかる能力がない人間なんだろうなって。だから、親御さんとかに(せめて分かってほしい)…親御さん宛、片山みゆきさん宛、まあ一括して片山家宛なのかわかんないですけど。ずっとこの1年は、片山家の皆様宛てで、あのnoteも書いてます。

インタビュアー「分かってもらえない人なんだろうなっていう気持ちがありながらも、やっぱり分かってほしいっていう気持ちはあるしっていうこう、そこの難しさとか…」

涼太「無碍にされたような。これが(僕が相手に対して)黙っているままだったら伝わらないのも理解できるんです。黙っていたら伝わらないんで。けど、手紙を書いて、ずっと言い続けてた事が『なぜ分からなかったんだろう?』とか。これ以上は言ったら、説教というか、詰めちゃうので、言えません。言わなかったんですけど。(とはいっても)親御さんとかも気にならなかったのかな。『これ、ほんまにいいんか?』ってあるじゃないですか?そこそこ高価なものが届く。どんなものだって、安いモノや、そこらでただで手に入るようなものではなかったから、別にプレゼントを送って貢いでるみたいには思われたくないです。絶対思われたくないけど、現にそこでしかつながることが無かった。今どき手紙って、それも返事もいつ帰ってくるか分からない相手としてるって。もう変でしょ。自分でもどこか間違っているって気がついていたとは思います。けど信じるしか僕は無かった。僕が馬鹿だったんです。そういうことも踏まえて、向こうの言い分と、向こうの中で起きてる事実が知りたいです。こっちからは見えないんで。僕から見てる視点と、ここだけは噛み合わせたかったなぁ」

インタビュアー「お父さんやお母さんからの、客観的というか、どう思っていたのかとか、ご意見だけでももらえたらな、という気持ちですかね」

涼太「そうですね。じゃ、実際に(会いに行って)目の前で死なれたらどうするつもりだったんだろう。実際やりかねんかったわけで。でも、僕も社会人として生活していく中で自然と分かってきた事があって。
 
「もしかしたら、その両親も話が分かるというか、そういう常識がない人かもしれない。親父さんの職業を知っているんで知的障碍者ではないと思っていたんですけど、そもそも知的とか知性みたいなものって職業や学歴だけで判断できないなって」

「何も考えずに食べて、頂き物のお礼とかそういう次元の話も通用しない相手の場合もあるんです。これが現実の人間社会だなって。精神的な障害がある人もいれば知的な知能が劣る人もいて、色んな人がいて、僕も変ですけど、僕から見ても理解できない常識やルールで生きている人もいると思うんです。きっと相手の人たちもそういう一つかもって。そういう常識とか、いざとなった時に出る人間性って、言い方が悪いですけど遺伝するんです。地域性とか遺伝とか言ってしまうと誹謗中傷や差別になるんでしょうけど、それって事実ですから。僕らがこうして生活していても、「あれ?この人、変だな」とか良くも悪くもいると思います。その中に片山家を入れておかないと僕はいつか悪意に駆られてしまうかなと。それも今だから言える学びです」

第4章 これから
 これはまだ存在しない章。つまり、涼太のこれからの未来。

涼太「大人になっていく過程を踏み始めたのですが、そうすると、今度はなんかこう強くなっているのが今度、辛いというか。目的もない。生き甲斐っていうと、そんな誰もが生き甲斐なんて持って働いてないって言われるんですけど、僕は生き甲斐を持ちやすい性格、気質なんです。共依存したいって訳じゃないですよ。でも、自分がそういう事も含めて色々解かってきて強くなっていくのに自分がついていけないって苦しんでる」

インタビュアー「強くなっているのが辛いんですか?」

涼太「死にたいとか言ってる訳ではないんですけど、なんか変わっていくのが辛いなって思う時が良くあります。でもそれも誰にも知られずにというか、解られずに、理解されずに変わっていくのも辛いし。やっぱり一度あんな事があって、僕もさすがに(飛び降りた当時は)正気ではなかったんです。でも、去年の事じゃなくても勝手な憶測で『あいつは変わってる』とか、『病んでる」とか、勝手なことを言う奴はいるから、とりあえず『僕、変わったよ、死にかけたけど。もうそこは通り越しているから』っていうのを伝えたい。他人が僕に話してくるようなことはもうとっくに経験して通り過ぎてるからって。この1年を伝えたい。普通の人がしなくてもいい事を遠回りして経験していまったけど。今はそれを考えると苦しいですね。」

涼太「生きる、生きる気ではいますよ。でもいつか僕は死ぬんだろうなと思うし、死んだときはどうするんだろうなっていうのは、ずっと考えてしまいます。幸せになれなかったら死ぬと自分の中では信じ込んでしまっていたから、何の為に生きてるのって聞かれたら「幸せになる為に生きてるんだ」って即答していました。でも、言葉としては間違ってはいないんですけど「幸せ」って何?って事です。だから自分が少し間違っているとか、間違ってるとは言いたくないけど少し的外れな方向に行っていたんです。
 極端な考え方ですけど「幸せになる」か「死ぬか」、「幸せになれる、あの子と一緒になれる」か「die」って。僕がずっと持ってる選択肢が極端な二つしかなかったんです。生きるか死ぬか。簡単に言えばそんな感じでここまで来て、結局その色んな全部のしわ寄せがきて、行き詰ってしまったって事かもしれません」

「だからどこかで忘れるというか、忘れる事は僕は出来ないんで、許すとか受け入れるというか、「はい、そうですか」と言って簡単に割り切れるような年月や歴史は重ねてないと思ってしまっていて。だから、これは僕の一方的なワガママと言われるのだろうけど、僕にとっては人生賭けた20代から30代にかけての物語というか自分の歴史なんです。他人から見たら「何だったの?」「何それ」だろうし、僕の中でも全部が無かったみたいに、嘘みたいになって空白の期間みたいになっているのが苦しくて。僕だけの力でここまで生きてきたわけじゃないから、多くの人の支援や色んな人が力を貸してくれたりしてここまで来たのに。結果がこの有様か、って。「無様だな」ってこの1年、自分に向かっての口癖みたいになってるんだと思います」

「僕の16年間はロックに生きるにはどうすれば、ロックとは?ロックな生き様って何だろう。そうやって、これは音楽の話をしているんじゃないんです。生き様の話なんだって。そう僕は思い込んで叫んでいたんです。要は生き様の話、問題なんだって。こういうのがもう自然と癖のようになっていて、「幸せになりたい」「ナンバーガールに会うんだ」「あの子に会うまでは、あの子と一緒になるんだ」って。その為の過程の口ぐせだったんです。でも今は絶望はもう無くなりましたけど虚無感とか孤独と無力さを感じているまだ最中です」


「でも、今までの記録が消せないんです。未練かもしれないし依存していたからかもしれなくて。だから執着してるのは今では分かります。
今は平気です。でも、これが終わって、数時間もしないうちに不安や孤独が襲ってきて、心が色々ともう解かりたくないくらい苛むんです。だから『一日でも早く、一年でも早く死にたい、死ななきゃ』って思っていくんだと思います」

「毎日、気が向いたらだけじゃなくて、どこに行く時も日常生活も、見知らぬ土地に行く用事があったら、とにかく携帯で録画したり、道中を独り言で録音したり、ほんとずっとしていたんです。彼女にそれを伝えたくて、空気感とか。家にずっと閉じ篭っているなら外の世界を見せてあげたいって。その一心も強くあります。だから、そんな芸当が出来たんです。
 それも異常かもしれないけど、僕からしたらあの子に伝える為の唯一の方法だったんですね。相手は気付いていないんで、笑えないですよね」

「でも、でもこれも人生です。とはなかなか言えないですよ。なんで僕がこうなって、こうなってしまったんだというか、何でこうならなきゃいけなかったんだって後悔はあります。それが自業自得ですけど、後悔して、その時に過去に戻れたとしても、きっと同じ過ちや間違いをすると思います」

「そうやって生きてきて、本当に感謝よりも、謝りたい相手も多いです。「今までありがとう」って。これからも、って続きますけどね。」


「でも、本当に何度もいいますけど、誤解されたくないんで、僕は死ぬことを美化させているようですけど、正当化もしませんし、美化もさせたい訳ではありません。自分の人生だから、何て言えば最適か分かりませんけど、今すぐは死ぬわけにはいかないと思っています。
死ぬのって本当に考えられないくらい怖いんです。想像の遥か斜め一線上、その瞬間は異常になってしまっているだと思います。今、僕が死のうと考えて想像しても、なにより死ぬのが怖くて、怖すぎて想像もしたくないというよりできない。でも基本的に僕は否定も肯定もしたくない人間なので、僕は自分の命を懸けて人生を賭けてしまっても、これからの人生ですよ。これからの未来、世界に、もういいやってなる時は悲しいけど必ずあると思います」

「僕のキャラクターって、そもそも憧れに自分を重ね合わせるような面もあったと思うんですけど、その子に合わせた、その子に逢う為に「どうしたら彼女に逢えるんだろう」「その時にお気に入りになってもらわないと」って出来上がった話し言葉だったり、生まれた人格みたいなものなんです」

「本当に僕の人生は、それに尽きる、尽きてしまった人生の時間でした。
だから生きていって、『自分の居場所』『自分を受け止めてくれる安心できる存在』やっぱり、お互い様で思い合える気持ちが大切なんで。そこにたどり着けるように僕も生きているから、そういう人がいたら、今は「(眠れなかったら)連絡してよ」とは言いませんけど、同じ世界にいるから繋がりたいとも強く思っています。僕も出来るだけ足元と身の丈に合った、ちゃんと地に足着いた平穏無事な日々や生活に夢や憧れてみます。」

「だから、生きてるからと言って、『いつまでも生きてると思うなよ』って僕は真剣にいつも思って言っている事(言葉)で、生きてる間に逢いに来てね、と。生きてる時に連絡して来いよって。生きてる間に会おうぜって。
僕がいざ会いたいと思ったら会いに行く性格なので。
だから会わない人(僕と会ってない人)は僕の友達でも仲間でもないです」


以上が、今回のインタビューだ。
 転換期を迎えた涼太が、何を思い、どのようなステージへ進んでいくのか。
 今後も、涼太との対話の中で追っていく。


・・・・・・・・・・・・・・

私は去年、始めて自殺企図をしました。死にたいと思っていても口にしたり言葉に頻繁にするタイプではありません。精神的に酷い時期もあります。抗不安薬を飲んだり、心療内科にかかっていた過去はありますが、それは十年以上前の事でそれ以降は自分で自制やコントロールしていたつもりでした。それが去年ふとした事があり、「もういいや、ここで終わりにしよう」と思いました。それでも生にしがみついて今は仕事もしています。

結局のところ答えは出ていませんし、死にたい、死にかけた事実を隠して生きるのはツライので、これからも付き合っていきたい大切な人にだけは話をしています。

「生きろ」と強く言ってくれれば楽になったりする人もいると思います。「生きていれば良い事あるよ」とか無神経で楽観的な発言は私は心よく思いません。

やっぱり要は、【相手が孤独を感じないようにしてあげることも大切】だと思います。

・・・・・・・・・・・・




ここから先はインタビュアーの方が変わります。

テーマは「ディグニティセラピー」ではなく、「エンディングノート」でもなく、「生きた証」として。
僕の事を前情報として知ってくれていて、機の知れた気の許せる相手との会話や、雑談を記録するような機会を作りたいと思っています。

人生は長いようであっという間というのも、現代社会ではもうすでに解明されてる人間のそのそれなんだよ。
会える内に逢っておこう。でも、でもな、もう生きていたくないから新しい出会いも何かも 「もう、もういいよ。」って思ってるのが、今の一番の強い本心です。

だから本当にすべて消してしまうのか、どうなるのかは今の僕では分かりませんが、神のみぞ知る、なんて言葉も言いたくありません。

僕らは人生、それぞれ色々あって、今ここ。
群像劇の中を、それでも僕らは生きていく。


これを他愛もない日常会話で、僕らの命を繋いで、いつか君に逢いたい。

・・・・・・・

2022年12月26日

今でも色褪せない。もう僕の人生と共に今でも聴き続けている。

ナンバーガール
チョモランマトマト
ルミナスオレンジ
ミドリ
相対性理論
アンディモリ
七尾旅人
呂布カルマ

同じように16年間で僕と今もずっとつながってくれた仲間

たかし
つよし
やっくん
しょう
あすか

恩人であり、僕の運命を変えてくれた人

なめおさん

兄貴たち

ひかげさん
だんくん
じょーじ
しげるさん

しらさかさん
もんいちさん

たつやさん
えみさん
やまもとさん
あきのさん

ひろし
たかみつ

可愛い弟たち

しーさー
きーまん
からつ

たかぎさん
たまい君

かみお君 北大路さん

とおる
ともや
あつし
かずや
ゆうき

たいが

大阪 難波 アメリカ村
 
まいちゃん

コニーさん

心から感謝
きょうじ君
あらいさん
ゆかりさん
地元の優しくしてくれたお兄さんたち
バー アフロ 瓢箪山


僕の運命は物語だ

かおる
もえか
めぐみ

色々ありがと。片山みゆきはここに入れない。

女の子は、嘘つくくらいの方が良い、なんて僕は言わないし思わない。
嘘つき噓つきかけた三日月だ。

定期的に連絡をくれない人や連絡が取れなかった人は悪い、知らね。

僕はずっと死ぬまで求め続ける人生なのかもしれない

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ごめん!悪いな! あとは今ちょっと忘れた!
だからな、またな!ばいばい!幸せになりたいな!

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