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蚯蚓

 夏の蒸し暑い午前中だった。

 私は職場へ出勤する為、そこそこ強めの日差しの下、日陰を探しながら足速に歩いていた。何気なく視線を下ろすと、足元に蠢くものが目に入る。反射的に右足を避けると、そこにはうねうねと結構な速さで動くミミズがいた。生きたミミズだった。

 ミミズのことは、好きでもないけど嫌いというほどでもない。でも出来ることなら、極力触りたくはない。私にとってのミミズはそういう存在ではあったが、地上を這うミミズを見ると、「こいつはもうすぐ死んでしまうのか」と私はどうにも切なくなる。

 誰から聞かされたのかはすっかり忘れてしまったが、幼少期に「どうしてミミズは地上で干からびて死んでいるのか」を教えてもらったことがある。
 ミミズは基本、土の中で生活している。しかし雨が降ると、土の中は水浸しになりミミズは溺れてしまう。それから逃げるために地上に出てくるのだが、雨が上がり、土が乾いた頃にさあ戻ろうとしても、土は固まってしまいもう中に戻ることは出来ず、そのまま干からびて死んでしまうのだという。
 切なすぎる。だから私はまだ生きていようが、地上を這う奴らをみると、その未来をどうしても憂いてしまうのだ。というか、奴らの運命はあまりにもどうしようもなさ過ぎる。
 人間が「ピチピチチャプチャップらんらんらん」と歌っていられるような程度の雨が、奴らにとっては未曾有の大災害。溺れて死ぬか、干からびて死ぬかという逃げようのない極端な選択肢を突きつけられているのだ。

 なんて呆気ないのだ、命。でも元来、命は呆気ないものなのかもしれない。いや、たぶんそうなのだ。
 自然界の命たちは、雨で死に、陽の光で死に、飢えて死に、食われて死ぬ。そこに理由はない。死ぬことに理由は必要ない。同時に、生きることにも意味を見出したりしていない。人間だけだろう。生きることと死ぬことに意味を見出そうとするのは。

 でも仕方のないことなんだとも思う。何せ、人間には進化してしまったが為に、発達した「思考」が備わってしまっている。思考は厄介だ。そこからは感情が生まれてしまう。感情はもっと厄介だ。喜び、悲しみ、怒り、恐怖。字で見てわかるとおり厄介だ。
 だから人はその厄介さを振り切るために、意味に逃げ込む。自分の思考や感情が生まれてしまった、その意味や理由を見つけることで、自らを尊く見積もろうという算段なのだ。

 だから人間くらいだ。こんなに命を尊く見積もりすぎているのは。案外大したこと無いはずなのにな。


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