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学校の授業って、本題よりも、先生が雑談で語った「人生訓」を妙に覚えてるよな、という話。

 今日はエモい話です。

エクストラな教育で身につけるものがある

 大学で学生に、「これまで自分が受けてきた教育が今の自分にどう影響したか振り返る」っていうワークショップをやりまして。するとけっこういわゆる道徳的な教育ってちゃんと受けてきているし、その教えを内面化しているんだなあとわかるんすね。よく「イマドキの若いもんは」みたいな言い方されますけど、いやはや、しっかりしたもんすよ。

 で、その中で面白かったのが、学生たちはそういう道徳的な指導というか、人として生きる上で大事な考え方みたいなことを、いわゆる「授業」では学んでいないんですね。部活で先輩や監督からとか、学園祭の実行委員会でとか、生徒会の活動で顧問の先生から、とかなんです。その意味では学校教育の本体ではないというか、エクストラな部分ですごく大事なことを教わっていて。

 で、学生さんの一人が言っていたことで印象的だったのが「私は偶然生徒会をやっていて、困ったことがあって、顧問の先生に自発的にアドバイスしてもらいに行ったから聞けたけど、それは教育として仕組み化されているわけではないので、みんながそういう機会を得られたわけではない」っていう話で。

 確かに、身近な大人である先生が、生徒より先に生まれた(だから「先生」)という「年の功」という、一種の「人生訓」を、年下の生徒に教えるって、ホントはすげー大事なんですけど、エクストラ化している気はします、自分の経験を思い出しても。

正規の授業の「隙き」としての雑談タイム

 そもそも学校の本分ってやっぱり「教室」で行われる授業だし、そこで達成すべきカリキュラムが定まっている以上、それを全うするのがまずは必須なんでしょうけど、これも学生さんの何人かが言っていたことで「授業中に授業と関係ない雑談ですごい大事なことを教えてくれる先生が印象に残っている」っていうんですね。だから部活とか生徒会みたいなエクストラをやらない以上、正規の授業で学生に「伝授」する「隙き」としての、そういう雑談タイムって、けっこう大事だし、学生って覚えているんだなあと。

 先生の雑談って、僕もよく覚えていて。すごい古いところだと、中学の時の理科の先生が、ちょうど結婚したタイミングで、結婚とはね、みたいな雑談をしてて、なんか妙に覚えてるっすね。大事な話を聞いたぞ、というような印象が残っています。

 「どっちが本体」ってことはないんでしょうし、その意味では正規の授業と雑談って、相互に方便の役割を果たしているというか、雑談を成り立たせるためには正規の授業が必要だし、正規の授業がなければ雑談も成り立たないという相補的な関係にあるんだなあと。

 まあ、そこで「後々まで記憶される」人生訓を語れる先生ってのももしかするとまれなのかもしれないし、雑談がマストになった途端、つまんない話になっちゃう人っていうのもいると思うんで、仕組み化って難しいよなと思うんですけど、でもまあ、人一人生きていれば、語りが面白いかどうかはさておき、それなりに深まった人生訓ができあがるんじゃないか。

私は「世界」をどう見ているか〜無意識化された世界観を客体化する

 しかし、人生訓って、「その人の無意識化された世界観」みたいなことだと思うんすよね。それを客体化して語るっていうのは、ひと手間なんですよ。

 人って、それぞれ「世界とはこういう理で動いているに違いない」っていう信念に基づいて生きていると思うんすよね。いわゆる「世界観」というやつで。これはまさに「世界の認識の仕方」なので、自分にとっての大前提みたいなものです。自分にとって大前提となっていることって、いちいち言葉にして説明しないんですね。あまりに自明なので。いわゆる「当たり前でしょ」ってやつです。

 でも当然ながら、ある人にとっての当然が別の人にとっても当然であるなんてことは自明ではないわけで。「言わないとわからない」し、言わないまま己の当然を相手に押し付けて摩擦を起こしたりするわけです。

 だから本当は無意識化された世界観を客体化して人生訓とする、つまり「私は今世界をどのように見ているのか」という記述って、学生に語るということではなく、より良く生きていく上で結構大事なんじゃないか。

 一方で、「当たり前の世界観」って、客体化して言語化されません。繰り返しますが「当たり前」だからで。当たり前のことはあえて言葉にしないんすね。

 じゃあ僕にとって当たり前の、当然の世界観ってなんだろう?あなたにとってはどうですか?そんな話を僕は聞きたかったりします。

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