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社会的余剰を最大化することを目指す公共経済学 − 寺井公子・肥前洋一『私たちと公共経済』有斐閣ストゥディア、2015

 本書は特殊な数式を使わず、直感的にわかりやすく公共経済学の要諦を説明してくれる入門書だ。

 公共経済学とは、一般に政府がどのような役割を果たすべきか、経済学的に考える学問とされる(P4)。しかし、ここでいう政府とは、いわゆる国家や自治体といった、ちょっと我々の日常から遠い世界の話に限ったことでなく、人間集団の運営における公共的なセクター全般に当てはまる。例えばボランタリーなグループの事務局だとか、町内会、飲み会の幹事さんなんかでも当てはまるだろう。

 人間は、当然ながらなんらかの「望ましい」状態を目指して集まる。そして、世の中には様々な「望ましさ」があるはずだ。しかし経済学における「望ましさ」はシンプルで、「社会的余剰が最大化されていること」とされる。ここでいう「余剰」とは、「便益から費用を引いた差」のことで、この「便益のメンバー全員分の総和」が「社会的余剰」だ。で、この「社会的余剰が最大化されている」状態を「その社会が効率的だ」と表現するのだ(P29)。

 本書では社会的余剰について、モデル分析による説明が紹介されている(PP26-35)。例えば、三人の消費者(a,b,c)と三つの企業(A,B,C)からなる市場があるとしよう。ここでは企業は一回しかモノを作らず、消費者は一回しか取引しないものとする。それぞれには「買いたい価格の上限」と「売りたい価格の下限」が決まっている。消費者が買いたい価格の上限は、a:35円、b:25円、c:15円。企業が売りたい価格の下限は、A:10円、B:20円、C:30円とする。このような条件で社会的余剰を最大化するには、生まれる余剰の大きな取引から順に行っていくのが良いことがわかっている(P31)。

 すると、企業Aは消費者aと、Bはbと、Cはcと取引することになる。この場合、cとCは取引を行うことはできない。というのも、むりしてcとCが取引をすると、便益がマイナスになって双方損だからだ。すると、以下のような計算が成り立つ。

(35−10)+(25−20)= 25+5 = 30

 今回の取引では、30の社会的余剰が生まれた、というわけだ。

 しかし、この場合、優しい人ほど湧き上がる心情がある。それは「取引できないcさんが可哀想である」という同情だ。なるほど、確かにcさんはハミっているわけで、それを可愛そうだよね、という指摘もごもっともと思う。cさんだって取引したいかもしれないよね。

 じゃあ、cさんも取引に参加し、全員が取引できるよう、どうにか組み合わせを変更してみようじゃないか。cさんが買うことが出来るのはAの商品だけ、bさんが買うことが出来るのはAかBに商品だけである。それゆえ、全員が取引できることを目指すと、aがCを買い、bがBを買い、cがAを買う組み合わせを取ることになる。

 この場合、社会的余剰はどのようになるだろう?やってみよう。

(15−10)+(25−20)+(35−30)= 5+5+5 = 15

 なんということだろう、社会的余剰が半減してしまったではないか!

 つまり、この市場は非効率だっていうことになる。社会的余剰が少なくなってしまうくらいなら、無理にcさんを取引に参加させず、余剰をCさんに分配したらいいんじゃね?というアイデアが浮かんでくる。 つまり、政府に由る再配分の基本原理だ。

 また、このabc ✕ ABCによる集団では、確かにcさんは取引にあぶれてしまったかもしれないが、広い世界には、ほかにもd,e,f,g,h,i,j…と、無数のメンバーが居ることだろう。cさんも、無理して狭い世界で取引しようとしないで、社会的余剰が最大化する組み合わせを求めて、別の市場に移動したっていいわけだ。

 他にも、こんな話も面白かった。例えば騒音問題(PP71-73)。地域社会で、お隣同士のAさんBさんがいるとして、Bさんがうるさいとする。この場合、AさんはBさんがうるさいことで10000円分の損失を被り、Bさんはうるさくすることで5000円分の便益を得るとしてみよう。この場合の社会的余剰は、以下の式が成り立つ。

5000−10000 = -5000

 全体でマイナスが出ている。なので、こういう騒音でモメるような状況はないほうが良いということになる。

 さて、ここでBさんが音を出さないように我慢すると、Bさんの便益はゼロになる。だが、Aさんの損失もゼロになるので、社会的余剰はゼロとなる。よかったよかった。

 しかし、ここでBさんに「音を出す権利」があるとしたらどうだろう?その場合、AさんがBさんから「音を出す権利」を買い取るという選択が生じる。Bさんは5000円以上で売りたいし、Aさんは1万円以下なら買いたい。たとえば7000円で手が打たれたとしよう。Aさんは10000円の損失が7000円で済んだわけだから3000円得、Bさんは5000円分を諦めるが、7000円手に入れたわけだから、2000円得になる。おやおや、どっちも得できたじゃないか。

 逆に、Aさんに「静かでいられる権利」があるとしたらどうだろう。今度はAさんのほうが強気だ。BさんはAさんから「音を出す権利」を買い取らねばならない。Aさんは1万円上でないと売らないだろうし、Bさんは5000円以下でないと買えない。このように、どっちに権利を認めても、最終的には社会的余剰が最大の状態で決着できる。

 とはいえ、お隣さんと音を出す権利の売買をするっていうのは、当たり前だが、超めんどくさい。気まずさも伴うし、静かであることや音を出すことを数値化し、価格交渉するのも、想像すればわかるように、超めんどくさい。この取引に伴うめんどくささを「取引費用」という(P73)。取引の結果得られる便益を、取引に伴う費用が上回る場合、その取引は「行わないでいる」方が社会的余剰が最大化する。しかし、それは誰かが損するのであれば、いわゆる「我慢を強いる」「泣き寝入り」という状態になって、ええことない。なので、いちいち交渉しないで済むように、「人には静かで居る権利があるよ」とみんなで予め定めておくわけだ。

 じゃあ、「権利」は、どこで定まっていて、誰が守らせているの?といえば、法と国家だ、という話になる。一般に権力というと、国家などの「公権力」を意味することが多いし、権利というと「上位権力に庇護された下位権力」と説明することができるだろう。たとえば、突然人に殴りかかると、警察が呼ばれて御用になる。そうすることで、「身体が安全である権利」が守られている。人々の権利は国家の公権力に守られている、という構図だ。

 だから国家なり自治体なり、自治会の役員なり飲み会の幹事なり、広い意味での公権力の担い手が、どんな法を作るのがいいのか、どんな政策を実施するのがいいのか、というのは、この人々の取引によって生み出される社会的余剰が最大限効率化されるかどうかで判断されることになるよねというはなし。

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