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「こいつの言っていること、なんかモヤる」という場合、それは意図的に「誤謬」を使われているからかもしれないって話。

 こう、生きていると、「こいつの言っていること、なんかモヤる」ってことあるっすよね。そのモヤり、もしかしたら「誤謬」ってやつかもしれないです。

論理学における誤謬(ごびゅう、英: logical fallacy)は、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。つまり、間違っていること。
個々の論証における誤謬を認識することは難しい。というのも、修辞技法的パターンによって表明間の論理的つながりが分かりにくくなっていることが多いためである。誤謬は、対話者の感情や知性や心理的弱さにつけこむ。論理的誤謬をよく知ることで、そのような状況に陥る可能性が減るのである。誤謬は相手に影響を与えたり信念を変えさせたりすることを目的としてコミュニケーションの技法として利用されることが多い(詭弁)。
トーン・ポリシング (英語: tone policing) とは、発生論の誤謬に基づいて人身攻撃を行ったり議論を拒否したりする行為である。発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われる

 例えば「大学のことを批判するなら、お前も大学に入ってから言え」と「成功者のことを悪く言うなら、お前も成功してから言え」みたいなのがそうですね。トーン・ポリシングが、批判の内容からトーン、つまり、喋りのトーンに論点をすり替えるものであるとすると、大学に入っているかどうかや、仕事で成功しているかどうかといったポジションに論点をすり替えるのは、ポジション・ポリシングとでもいえるだろうと。

 で、このやり口の危うさって、言葉狩りとして機能するってことなんですね。先程の大学に入ったかどうかや、仕事で成功したことがあるかどうかはさておき、例えば、「総理大臣のやっていることを悪く言うなら、お前も総理大臣になってから言え」みたいなことって、言えちゃうんですよね。言えちゃうんですけど、これを言っちゃうと、ほとんど人は何も言えなくなる。なぜなら、ほとんどの人は総理大臣をやったことないし、これからもやらないからです。その結果、総理大臣の仕事の是非について広くたくさんの意見を集めることができなくなる。黙らされちゃうんですね。これも、総理大臣というポジションに批判の論点をすり替えるポリシングですね。

 あるいは、「男のことを批判するなら、お前も男になってから言え」みたいなのもそうですね。無理難題なんですよ。

 その無理難題を許すと、総理大臣や成功者を誰も批判できない。その結果、総理大臣も成功者も、自分がちょっとおかしな方に行っている事に気づけない、ってことが起こって、みんなにとってよくないわけです。

 で、人はこういう誤謬、詭弁を使って論点をすり替え、批判から身を守ろうとします。しかし、一瞬、わかんないんですよね。一見筋が通って見えるから、話がすり替わっている事に気づかない。でも、話はすり替わっている。あれ?あれれ?と、頭が混乱する。だからモヤるんすね。

 でですね、なまじ頭がいい人ほど、ここに気づいてしまうんですね。で、今度は誤謬や詭弁を使っていることを返す刀で批判したりしがちなんですけど。しかし、ここで「それは詭弁だ!言葉狩りだ!」と言ったところでケンカにしかならなくて。でも、この人が本当に言いたいのは、「他人のことをよく知りもしないで安易に批判をしないでほしい」ということなんですよね。そこわかって話をしないと。

 他にもこんなのがありまして。

質問に真正面から答えず、論点をずらして逃げるという論法[1]。「朝ご飯は食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるように[2]、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法である。
2018年の『現代用語の基礎知識』選 2018ユーキャン新語・流行語大賞のトップ10にも選出された[2]。上西は安倍政権の答弁について「明らかなウソは言わないけど、本当のことも言わない。それでいて、ちゃんと答弁しているかのように錯覚させてしまう。国会の質疑がそんな"騙した者勝ち"のようになっている」と指摘している

 面白いですよねえ。これも、ちょっと賢くなった子供が使いがちで。

 こういうのもあるっすね。

相手の主張する議論を貶めるために、相手がその主張に沿った振る舞いをしていないと断言するような論法。日本語では、偽善の抗弁[2]、そっちこそどうなんだ論法などと表現されることもある

 遅刻してきた人を「お前!遅刻するなよ!」って注意してきた上司が、いつも遅刻してくる人だったら「お前が言うな!」ってなるっすね。これですね。でも、本来、遅刻は良くないことなのだとすると、その批判自体は間違っていないのに、その批判が言えなくなる。さっきのポジション・ポリシングと並べていうなら、過去の業に話をすり替える「カルマ・ポリシング」ですかね。前も書いた「パイプ問題」ですね。

 この「お前だって論法」で思い出すのは、有名なこれですね。

イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いた者は全員、自分が罪を犯したことがあると知っているので、誰も女に石を投げることができず引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。

 これも一種の「お前だって論法」だと思うんですね。ここで、投石者は、「いやいや、それは”お前だって論法”でしょ。女の罪自体を問いましょうよ」と言うことも出来たはずなんですね。じゃあ、ここで他の人が黙ったのはなぜか、誤謬に気づかなかったのか。そうではないですね。

 キリストは、「罪を犯したら石を投げていいっていうけど、お前らの中で罪を犯したことないやつなんていんの?いないでしょ?お前もなんか罪犯しているでしょ?じゃあ、お前にも石を投げていいの?よくないでしょ?たとえどんな理由であろうと、人に石を投げていいってことなくない?そもそも、お前の従っているルールって、大昔に作られたモーセの律法であって、そのルール自体、おかしくない?」とやり返したわけですね。

 つまり、論点をすり替えたのではなく、無意識化されたルール自体に対し、それ、おかしくない?と指摘したわけです。で、そこにみんな「あ」と気づいたんです。だから、みんな石を投げられなかったんですよ。

 ただ、そういう風にちゃんと書いちゃうと、かっこよくないわけですよ。だからここでイエスは、なんやったら軽く無関心なくらいに「ただ身をかがめて、指で地面に何か書いておられ」ているわけですよ、にもかかわらず、短いフレーズでズバッと本質的なことをやり返すからいいんですよ。新約聖書って、イエスが一体どんなイノベーションを起こしたのかってことを強調する本なので。

 まあ、実際には、このときも「ん?俺今何言われたんだ?」とモヤった人もたくさんいたんじゃないかと思いますけどね。なので、会話の中でモヤるときって、誤謬が使われている場合があるし、誤謬が使われるときって、そんな手を使ってでも訴えたい事がある場合なんじゃないですかねって話でした。特にオチはないです。

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