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ミシェル・ド・セルトーの「戦術」としての「まちつかい」という概念

 本を読んでいて「これはまさに私が考えていたことだ!」みたいな膝を打つ感覚は、どういうわけかとても気持ちよくて、まるで作家が自分を代弁してくれたような一体感というか、ここで悩んでいたのは私だけじゃないんだな感みたいなものを感じるものですよね。そういう読書体験が得られることはとても幸福なように思えます。

 さて、最近読んだ本で、僕がその感覚を強く得られたのが、コチラの本でして。

 本書はタイトルどおり、カルチュラル・スタディーズの入門として、関連する書籍の一通りの解説をしているものなのですが、その中のミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』が胸熱で。セルトーの言わんとするところを最も象徴するのがこの一文。

「歩く行為の都市システムにたいする関係は、発話行為が言語や言い終えられた発話にたいする関係にひとしい」

 アツいっすね。どうアツいかっていうと、こうです。

 例えば僕の専門とするまちづくりって、「まちの人なら誰でも使える公共財を供給する営み」と説明できると僕は思っているのですが、じゃあそこで公共財を供給できる主体ってなんだっていったら、典型的には国家や行政などの公権力の主体なわけです。例えば道路や橋、福祉サービスなどの公共財を、これらの公権力は供給し、我々はそれを使って生活をするという構図が有るわけです。あるいは、国家や自治体に限らずとも、一定の資源を独占する地域組織やNPO団体といったものも、その派生としてありえるでしょう。

 しかし、そういう公共財を供給するためのプロセスに、我々は権力で持って否応なく動員されることがあるわけです。その上、そうして公権力が供給する財は、僕らが欲しいものからズレることさえあるわけです。こういう背景から、まちづくりっていう言葉に「なんかうさんくせえな」「無理やりやりたくないことに自己犠牲的にかかわらされそう」という嫌悪感や拒絶感を持つ人は肌感覚としては少なくないです。

 ところが、セルトーは、支配的な権力に対し、従順に従う「振りをする」人たちの振る舞いに注目をするわけです。例えばまちに道路が作られるとします。道路がどう作られるかは、自分の手の届かないところでなされてしまうかもしれない。しかし、それを使う人々には「どう使うか」という裁量が残されるわけです。例えば車で走ることもできれば、落書きするキャンバスとして使うことだってできるかもしれない。そこには、つくる側が意図しなかった使い方ができる余地がある。しかもこっそりと。

 まちづくりというとき、その「つくる」という語の含む、「意図して作り上げる」というニュアンスからか、財の供給側の都合ばかりに意識が向きがちです。しかし同然ながら、まちづくりは、作った財を「使って」初めて意味を成すわけで、その「使う側」への眼差しを意識させてくれるんですよね。言い換えれば、「まちづくり」ではなく「まち”つかい”」の方の有様を意識させてくれる、とでもいうか。

 セルトーは、「戦略」と「戦術」という2つの語を使い分けます。戦略とは以下のような意味だそうです。

「ある意思と権力の主体が、周囲から独立してはじめて可能になる力関係の計算、操作のこと」

 つまり、自分の意思で思う通りに動かせる固有の空間を独占している主体でなければ、戦略は描けないというわけです。まさに、国家や自治体のような主体のイメージです。

 それに対し、戦術とはこうです。

「自分の固有の空間を持っていない状態で、しかし計算された行動によって何とかそこで生きたり、障害を切り抜けたりすること」

 したがって、戦術とは、権力で空間を独占することができない、弱い主体が、他人の空間の中でサバイバルするために行使するものです。

「規制の力と表象が織りなす網の目をかいくぐりながら抵抗することで、他者の権力による監視や儀礼、慣行の強制から一時的に逸脱すること」

 セルトーは、例えば植民地支配を受けたインディオたちが、白人の権力による支配の中でそれでもなお独自性を保って生きていくさまにこれを見出しますが、もっと身近なところでいえば、学生が講義中に講師の目を盗んで内職をしたりスマホを触って、したいことをするというようなものです。このような戦術には、フランス語の「かつら」を意味する「ペルーク」という名が就いているそうです。

 このペルーク、我々はさしたる意図もなく、日々自然にやっていることでしょう。

「このような他者のゲーム空間で自分の位置を確保しようとする戦術とそれによる抵抗は、体制の支配や管理を拒否し破壊することばかりではなく、むしろそれらに見かけ上は従順に絡め取られることじたいがすでに抵抗となりうることもある。日常生活のなかで人々は些細なペルーク/機略を通して、自分より上位にある秩序、自分を操作の対象とする体制といつの間にか渡り合い、交渉を繰り返している。日常生活における政治とは、投票やデモのような方法だけでなく、そのようにはからずも行われる抵抗としても生きられているのである」

 アツい名文ですよね。そういえば、2010年台のはじめくらい、ソーシャル界隈がわいわいしていたとき、「社会を変える」というような強いメッセージを前に出して活動する人々がまちづくり周辺でも目立った時期がありました。「社会を変える」という勇ましい言葉に、大いに勇気づけられた人々もいたでしょう。

 しかし一方で、その「変える」というメッセージを前面に打ち出せば、当然ながら既存の権力からの抵抗も強かったはずで、果たしてそれを前に掲げることが望む未来につながったのかどうか、というと、どうだったか。願いを前に掲げることが「図らずも願いを遠ざける場合」があることがまちづくり界隈にはしばしばあって、そのことについて考えた時期もあったなあと思いだしたりします。

 ソーシャル界隈の議論も、成熟してきた感も出てきたことですし、このあたりの振り返りは、アカデミシャンの間で批評的にこれから考察されていくことになるのでしょうが、ここで示したいのは、それとは異なる抵抗、変革の形だよなあ、と思うわけです。したたかに、じわじわとやっていく感じ。

 作られてしまう「まち」に対し、目立って敵対するのではなく、そのまちを自分好みに「つかう」巧みさ、みたいなことへの視野は、まちづくり界隈では案外欠落しがちなんじゃないか。とりわけ、まちづくりに関して発信する層っていうのは、このまちを「つくる」側にいることが多くて、つまりは「戦略」を立てられる強者の側にいることが必然的に多くなってしまうものだとも思いますし。じゃあそうして否応なく作られてしまった「まち」を、どう「つかう」か。そこにこれまで眼指されてこなかったゾーンがあるっていうことは、どういうことかっていうと、実は案外、地域まちづくりにおいて語られる様々な「問題」とされることって、「つくる」側が気づいていないだけで、「つかう」側は「つくる」側の見えないところで、とっくに解決していたりするかもしれない、ってことです。その可能性があると。その可能性を考えると、アツいんですよね。

 そういうまちを「つくる」側ではなく、「つくられたまちをどう自分なりに使いこなすか」ということを考える側の営みに僕の胸は今アツい気がする、という気付きがありましたよというお話でした。

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