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「否定がいや」というよりも「強い言葉がいや」なんじゃないか説

 しばしば僕らはコミュニケーションにおいて、否定的な言葉を避けるべきだ、という規範を持っているらしい。例えば上司が部下を、親が子供を指導するときにどうしたらいいか、みたいなことを取り上げた記事を見ていると、否定的な言い方は避けましょうというようなアドバイスが大抵の場合採用されている。というか、頭ごなしに否定すべきだ、なんてことはまず書いていない。このことから、否定を避けるべきだという規範があることが推察される。

 そりゃまあ、僕だって頭ごなしな否定はされたくはない。しかし、時には「それはないわ」という話だってあるだろうと思う。例えば極端な話、殺人や犯罪も否定しません、というのか、みたいなことになる。そういうことも「なあなあ」で肯定するのか、っていうと、まあ実際にはそうなっていないわけで。結局は程度の問題であって、どこかで「ありなし」の線を引くことにはなる。

 だからこれ、「否定がだめ」ってことと理解しないほうがいいんだろうなと思っていて。否定ではなく、否定に伴うなにかが忌避されているんじゃないか。

 で、改めて考えてみると思うのは、避けられているのは「否定」というよりは、「強い言葉」なんじゃないかと。

 言葉の強さっていうのは、色んな要素で決まるんだろうけど、例えば「断定度合い」がそうで。というのは、「否定的な意見はいらない」っていう場合、この「いらない」という断定の部分に、「強さ」が伴ってしまう。

 で、これは「いらない」という否定語だから伴うわけではない。逆に「必要だ」でも変わらなくて。断定に強さが伴っちゃってる。

 思うに、断定する言葉っていうのは、強い意志の現れで、それは対話の拒絶を示唆しているんだね。要するに「異論は認めない」っていうニュアンスが伴われちゃう。これが聞き手にとってプレッシャーになるわけだ。

 なので、対人援助の技術として、「言葉の強さを弱める工夫」というのがありえて。言葉が優しい人って、内容だけ聞くとそんなに違わないけど、この強さを丸める、弱める方法が達者な気がする。例えば言い方だったり、表情だったりといった身体言語を交えることで丸めるのだね。

 逆に言うと、文字情報だけで強さを丸めるには、それ相応の工夫が必要で。優しさを感じさせる文章を書く難しさがそこにあるように思える。例えばSNSなどでは、あえて方言で書くとか、独特の語尾を使うなどの工夫で、言葉の強さを丸めようとする工夫が見られる。

 村上春樹が「上等な文章を読むといい」というようなことを言っていて、ここでいう「上等さ」ってなんだろうなと。高いお酒や高いお菓子は、味が尖っていなかったりする。結構濃い味だったりするのに、喉や舌に変に残ったりしないというかね。多分、上等な文章っていうのもそういう、強さを丸めるなにかがあるんだろうなって思うのよね。

 最近は、そういう丸い言葉を使いたいなあと思っている。

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